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2008年6月 4日 (水)

奈良市の坂-2

2008年6月4日

JR奈良駅・・・三条通り・・・采女神社・猿沢の池・辷(すべり)坂・・・奈良公園・・・雲井坂・緑池・轟(とどろき)橋碑・一里塚碑・東大寺西門跡碑・・・・祇園社・・・東大寺転害門・・・佐保川(新石橋)・・・奈良坂・浄福寺・北山十八間戸・夕日地蔵・般若寺・・・奈良豆比古(ナラヅヒコ)神社・西福寺・・・黒髪橋・・黒髪稲荷神社・大黒芝・佐保山西陵七ツ石・・・奈良ドリームランド跡・・・興福院・・・下長慶橋(佐保川)・・・油坂下・・・JR奈良駅

 『大和物語』に登場する采女を祀った采女神社前から辷(すべり)坂を上り、春日神社の一の鳥居前から北に進むとなだらかな下りとなる。これが南都八景「雲井坂の雨」の雲井坂だが、今は車が渋滞してつながるただの国道で、雨が降っても情緒ある景色など望むべくもない。坂沿いの緑池も枯れそうで、雲井坂碑、轟橋碑、一里塚碑、東大寺西門の礎石なども気づかれることもなくぽつんと佇んでいる感じだ。これはこれで坂道散歩人としては文句はないのだが。

 東大寺転害門の先で佐保川を越えると奈良坂の上りが始まる。途中、会津八一が歌を詠んだ夕日観音が立つ。奈良坂は般若寺坂ともいい宮本武蔵の「般若坂の決斗」もこの坂だ。般若寺あたりからは平らになり奈良豆比古神社の先で新道に合流して木津の幣羅坂の方へ下って行く。

 奈良豆比古神社から西へ歴史の道へ入る。ちょうど峠の上を行く静かな道だ。黒髪橋を越えると黒髪稲荷神社で、その先に「大黒芝・佐保山西陵七ツ石」と書かれた看板が立っていて、薄暗い道端に石造物が並んでいる。ちょっと奇妙で不思議な空間だ。(後述) さらに西へ行くと奈良ドリームランドの広大な敷地跡にぶつかる。閑静な住宅街の間のきれいな坂を南下して、昨日と同様、興福院の前で歴史の道から離れ奈良駅に向った。

  【地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_8639 辷(すべり)坂(坂上方向) 猿沢池と興福寺の間を東に上る三条通り 【ルート地図】の①

猿がすべったわけでもあるまい。

Img_8055采女神社 《地図

春日大社の境内末社。『大和物語』に、平城天皇に仕えた采女が、帝の寵愛が衰えたのを嘆いて猿沢池に身を投げた話がある。伝説では文武天皇の時といい、柿本人麻呂が歌を詠み、『枕草子』にも「猿沢の池は、采女の身投げたるをきこしめして、行幸などありけんこそ、いみじうめでたけれ。「ねくたれ髪を」と人丸がよみけん程などを思ふに、いふもおろかなり。」とある。『大和物語』には、山城(背)の椿坂の物語もある。(「山背古道-1」に記載)

奈良市と姉妹都市の福島県郡山市の『采女伝説』は、聖武天皇の時代の話となっていて、采女は入水すると見せかけて安積(あさか)の里(郡山市)に逃げ帰ったという。ここの伝説より内容も豊かで面白い。『奥州街道(笠石宿→郡山宿)

Img_8056 采女の碑

Img_8054 猿沢池

興福寺の放生池。西北角に采女神社、東畔に采女が入水する時、着物を掛けたと伝える「衣掛柳」がある。

Img_8058 采女まつりの碑

Img_8126 衣掛柳の何代目か?

そばに衣掛茶屋もある。

2009年2月12日撮影)

Img_8125 采女と衣掛柳の伝説碑

(2009年2月12日撮影)

Img_8642 坂下方向

左奥が采女神社

Img_8643 坂上方向

興福寺五重塔(左上)

Img_8656雲井坂(坂上方向) 県庁東側の登大路町交差点から北に下る国道369号。【ルート地図】の②

上ツ道の延長上で平城京の東京極大路で、古来、交通の要所だった。南都八景(①南円堂の藤 ②猿沢池の月 ③春日野の鹿 ④三笠山の雪 ⑤東大寺の鐘 ⑥佐保川の蛍 ⑦雲井坂の雨 ⑧轟橋の行人(旅人))の一つ。

今では想像もつかないが、昔は木々に覆われ雨の中のこの坂には絵に画いたような風情があったのだろう。

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Img_8044

南都八景「東大寺の鐘」

Img_8048南都八景「春日野の鹿」

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Img_8652 雲井坂(阪)標

Img_8654 緑池と轟橋碑(雲井坂の坂沿い) 《地図

池は干上がって水はほとんどない。轟橋は石橋で渡ると音が響き渡ったのでこう呼ばれたとか。

Img_8657 坂下方向

下って佐保川を越えると奈良坂の上りとなる。

Img_8664_2 一里塚碑(緑池のそば)

どこを起点にしているかは不明らしい。

Img_8668東大寺西大門跡(一里塚の北側)

礎石が残る。東大寺の正門とも呼ばれ、一名を国分門ともいった。

Img_8663 東大寺旧境内説明板(西大門跡碑のそば)

Img_8671 祇園社

Img_8672 東大寺転害門 《地図

天平時代の東大寺創建当時の姿を残す唯一の遺構。三間一戸八脚門という形式。佐保路の東端にあるため佐保路門、西北大門ともいう。手向山八幡宮の転害会の際、お旅所としたところからこう呼ばれるようになったともいう。

Img_8673奈良坂(坂上方向) 国道369号の新石橋(佐保川)から北に上る。 【ルート地図】の③

上ツ道から平城京の東京極大路が北に延長して山城国木津へ出る京街道で、西の歌姫越(旧奈良坂越)とともに京都に通ずる主要街道だった。坂上近くに般若寺があり、「般若寺坂」とも。吉川英治の『宮本武蔵』に「般若坂の決斗」の舞台はこの坂。

Img_8674 坂上方向

Img_8682 北山十八間戸

鎌倉時代の寛元元年(1243)に西大寺の忍性によって般若寺の北東につくられたハンセン氏病などの重病者を保護した救済、福祉施設。永禄10年(1567)戦火で焼け、寛文年間(1661~72)にここに再建された。東西約37メートル、南北約36メートルあり、内部は18室に区切られている。一室はおよそ2畳ほど(1室のみ4畳ほど)で収容者に衣食住を供した。その数は延べ1万8千人と言われる。救済、福祉施設とは聞こえがいいが、差別、迫害された難病者を隔離して、閉じ込めたところだったのだろう。

Img_8685 夕日地蔵 《地図

永正6年(1509年)4月の銘がある。合津八一の歌がある。「ならざかの いしのほとけの おとがひに こさめながるる はるはきにけり」

西向きだが今は建物が並び夕日は拝めないのでは。

Img_8687 坂上方向

左は浄福寺

Img_8691般若寺楼門(国宝) 《地図

奥に見える十三重石塔は重文。

Img_8708 奈良豆比古(ナラヅヒコ)神社 【ルート地図】の④

祭神は平城津彦(ナラヅヒコ)神、施基親王(光仁天皇の父の田原太子=志貴皇子)、春日王(施貴親王の子)。平城津彦神はこの地の産土神、志貴皇子は万葉歌人として名高く、

「石(いわ)ばしる 垂水(たるみ)の上の さ蕨(わらび)の 萌えいづる春になりにけるかも」

「采女の袖ふきかえす明日香風 都を遠み いたづらに吹く」 (飛鳥から藤原京に遷都した時の歌)

Img_8709 社殿

奈良坂の峠上にあり、歌姫越えの添御縣坐神社同様、手向の神だったのだろう。10月8日夜に行われる翁舞は町内の翁講中により奉納されるもので、平成12年に国の重要無形民俗文化財に指定された。

Img_8712 樟(クスノキ)

樹齢千年以上で県の天然記念物。

Img_8706 樟(クスノキ)説明板

説明板の始めに「光仁天皇の父の田原太子が病気療養で一社中に隠居せられる・・・」とあるが、病気で隠居したのは春日王(光仁天皇の兄弟、田原太子の子)で、ハンセン氏病でお面をつけていたという。春日王の子の浄人皇子が病気平癒を祈願して舞ったのが、今に伝わる「翁舞」だろう。

Img_8694 奈良坂新道

般若寺の東側を通って奈良阪バス停の所で合流する。

Img_8703 新旧合流地点 《地図

右の旧道のすぐ先に右側に奈良豆比古神社がある。

Img_8704合流して下って行く。

この先、幣羅坂を下って木津川を越える『山背古道』とつながって行く。

Img_8721 歴史の道

ちょうど峠の上を西に行く平坦な道。

Img_8722 黒髪橋 《地図

黒髪山の由来は、兄の狭穂彦の叛乱に加わった垂仁天皇の皇后の狭穂姫は兄の陣営で皇子を産んだ。皇子を天皇に渡たそうとして、捕まらないように長い黒髪を切ってこの山に埋めたからという。

「ぬば玉の 黒髪山の山草に 小雨ふりしき  しくしく 思ほゆ」 詠み人しらず(柿本人麻呂の作ともいう。) 「しくしく 思ほゆ」は艶かしく、未練と恨みを含んだ女性の表現のように思うのだが。

Img_8725 黒髪稲荷神社 《地図

奈良豆比古神社の末社で宇賀神社ともいう。

道の正面奥の右側に下の写真の看板が立つ。

Img_8734 史跡 大黒芝 佐保山西陵七ツ石 聖武天皇生母藤原宮子后宮墓陵石 【ルート地図】の⑤

「大黒芝」といえば平城宮大極殿の発見のきっかけとなった言葉だ。大極殿の基壇の跡あたりが「大黒の芝」と呼ばれていた。

七ツ石というが右に並ぶのは地蔵を含めて5つだ。黒髪神社の石造物を入れるのか?

Img_8728 看板の右に並ぶ石造物

Img_8731 地蔵のようだ

Img_8733 何の石の塊り?

宮子の陵墓と関係があるのか。

Img_8732 豊国大明神

豊国神社にまつられている豊臣秀吉のことだが?

右に小さく「豊川大明神」・左に「玉井大明神」とある。豊川大明神は厄除けの神らしい。玉井大明神は分からない。

Img_8730 石母

藤原宮子のことか? 宮子は藤原不比等のむすめ。文武天皇の夫人。首(おびと)皇子(後の聖武天皇)を産むが心的病いで、以後36年間息子には会えなかった。天平勝宝6年(754)に死去して、佐保山陵で火葬にされた。そこが佐保山西陵の「大黒の芝」と呼ぶ火葬所で山陵だったが、ドリームランドの建設で破壊され、ここにその痕跡をとどめているだけらしい。それにしても文武天皇の后、聖武天皇の母の墓にしてはみすぼらし過ぎる。

がらくた置場 大和眉間寺多宝塔』によれば、吉田東伍の『増補 大日本地名辞書』に、「佐保山西陵  文武皇后藤原宮子姫(不比等女)の御陵なり、延喜式に列す。聖武陵の西北 大黒芝と称する地蓋其火葬所にして又山陵ならん。〔陵墓一隅抄〕今稲荷山とも呼び、七疋狐又犬石と呼ぶ、隼人像石四個陵上に置かる、雍良峰陵の条を参考すべし。」とある。 稲荷山は黒髪稲荷神社のある黒髪山、七疋狐は「七ツ石」で黒髪稲荷に関係があるのだろう。その後の「隼人像石・・・・・・」はどれをさすのだろうか? (「ぼん様」から詳細なコメントを頂きました。(下のコメント欄参照)

Img_8729 黒住大明神

調べても分からない神さんだ。

Img_8742 奈良ドリームランド跡 《地図

1961年7月開園~2006年8月31日閉園、時計台の時計は止まったまま、「夢の国」の駅には汽車は来ない。後ろに見えるのはジェットコースターか? 静かすぎて不気味だ。潰れたのは藤原宮子の墓を壊した祟り、怨念ではなかろうが。

Img_8743 ドリームランド跡から下る坂 《地図

Img_8751 静かな住宅街の間の坂

途中の家の人に坂の名はあるか尋ねたが、聞いたことがないという返事だった。

Img_8753 鴻の池

正面に鴻乃池道場、左に中央体育館、後ろは若草山方向。

Img_8760この坂を下っていけば佐保川の下長慶橋に出る。歴史の道は途中、右に曲がり興福院前を通る。

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コメント

 奈良県ではなく京都府でした。申し訳ありません。
『新撰陵墓志(仮)』のHPに、
[平城天皇皇子高岳親王髪塔]
舞鶴市鹿原595番地 金剛院内 高岳親王墓(宝篋印塔)とあります。

     坂道散歩

投稿: 藤村様へ | 2014年6月 1日 (日) 06:50

高岳親王の墓が当地(奈良)にあるという記述がありますが、調べてもどこかわかりませんので教えていただければありがたいです。

投稿: 藤村清彦 | 2014年5月31日 (土) 19:05

 はじめまして。詳細で分かりやすい説明をいただきありがとうございます。
 隼人像石の疑問も解けすっきりしました。
 全国の陵墓研究のHPを拝見しました。四国八十八ヵ所札所にも縁のある、唐から天竺に渡る途中、マレーシアで亡くなったという高岳親王の墓がちゃんと当地にあるのですね。また一つ勉強になりました。
 私も坂道散歩で古墳を訪ねるのを楽しみとしていますが、陵墓比定地、参考地はなかなか難しいですね。
 今後もよろしくお願いします。
 

投稿: 坂道散歩からぼん様へ | 2009年12月12日 (土) 08:28

はじめまして、趣味趣味で陵墓研究を行っている者です。
「佐保山西陵七ツ石」は、お書き頂いたとおり、ドリームランド敷地内にあった「大こくが芝」から掘り出された石材等が現在地に移された物です。
谷森善臣『藺笠のしづく』には「ダイコクが石とて、大石あり。七つ石とも云ふ(中略)あたりを尋ぬるに、七つはなくて、五つあり。道の左に二つ、右に三つ。此のあたりをすべて大コクガヒラといふ。またダイコクガ芝ともいふ」とあり、写真の「石の塊り?」は、この大石だと思われます。
また『聖蹟図志』大和國添上郡佐保山奈保山諸陵之圖に「大皇后佐保山西陵 石四ツ以上在 大黒芝七ツ石ト云」と記載され、地面に埋まる四つの石が図示されています。
ですから「大こくが芝」は、古墳と言うより、石で四隅を区画しただけの状態だったと思いますし、ある意味みすぼらしい(ささやかな)火葬墓だったもかも知れません。
結局、治定される事の無いまま開発により破壊されましたが、そのドリームランドも閉園となってしまい、正に夢の跡といった感じがします。
なお「隼人像石」は、現在、聖武天皇皇太子那富山墓にある“隼人石”の事で、「大こくが芝」とは別(江戸時代の文献を中心にゴッチャにしてる記述が多い)です。
今後よろしくお願い致します。
ありがとうございました。

投稿: ぽん | 2009年12月11日 (金) 22:17

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