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2008年6月18日 (水)

秩父の坂(秩父巡礼道)-2

2008年6月18日

横瀬駅(西武秩父線)・・・横瀬小学校・・・下横瀬橋(横瀬川)・・・五番語歌堂・・・町民グラウンド・・・横瀬川・・・ヨコッピキ(道)・・・苅米橋(曽沢川)・・・旧札所六番荻野堂跡・・・萩原商店・・・巡礼宿柏屋跡・・・かどや商店・・・六番卜雲(ぼくうん)寺・・・母慕地蔵(大忠院)・・・かどや商店・・・七番法長寺・・・天狗坂・・・国道299号・・・八幡宮・・・国道299号・・・武光橋(横瀬川)・・・柳生橋(生川(うぶかわ))・・・根古屋橋(国道299号)・・・けんむし坂・・・富田商店・・・(西武秩父線)・・・根古屋城跡あたり・・・里宮橋(城谷沢)・・・御嶽神社里宮・城谷沢の井(秩父絹発祥地)・・・八番西善寺・・・里宮橋・・・川久保橋(生川)・・・産業道路・・・小鳥橋・延命地蔵尊・・・(西武池袋線)・・・九番明智寺・・・大日如来堂・・・国道299号・・・薬師堂(横瀬小学校内)・・・申(さる)橋跡・申坂・・・姿の子育地蔵堂・横瀬中学校・・・大堀川・・・県道11号・・・十番大慈寺・・・ふるさと歩道・・・稲荷神社・・・十一番常楽寺・・・秩父成田山・吉田歯科医院・・・十二番野坂寺・・・野坂町公会堂・十二番観音堂旧跡・・・五方の辻(国道14.0号)・・・西武秩父駅(西武秩父線)

 前回の続きで秩父札所六番卜雲寺から十二番野坂寺までの坂道散歩です。横瀬駅から五番語歌堂に戻ってから六番を目指す。南方向に歩くのでだんだん武甲山が近づいてきて傷ついた姿がはっきり見えてくる。町民グラウンドから南に横瀬川に出て崖沿いのヨコッピキに入る。車道に合流し、下って上ると平沼建設の裏あたりが六番荻野堂の跡地とされる所だ。六番卜雲寺の境内ではのテント張りのご接待所があった。お茶ときゅうりをいただく。なんだが四国の札所巡りをしている気分だ。大忠院の前に母慕地蔵へ寄り道して、カドヤ商店まで戻り七番法長寺へ向う。

 八番西善寺へは法長寺の境内から急な石段を下ると天狗坂の途中に出る。天狗坂を下って国道299号へ出て、武光橋を渡り、左に入り柳生橋で生川を渡り、根古屋橋をくぐると左から六番から八番への近道と合わせて、けんむし坂の上りとなる。この坂も根古屋城にかかわる伝説のある坂だ。(後述) 坂上から西武秩父線をくぐり左に上り、根古屋城跡に寄ろうとしたが案内板もなく、どの道も途中で民家や畑で途切れてしまうようで近づけない。仕方なく遠くからの写真であきらめる。御嶽神社里宮前には秩父絹の発祥地の城谷沢の井戸が大小2つ残っている。水も涸れていないようだ。井戸の前に立つ地蔵の前から細い道を上って左に行くとすぐに八番西善寺で、山門をくぐるとこの寺の看板の大きなコミネモミジが出迎えてくれる。「ドドーン」と大きな音が響いた。雷でも地震でもない。武甲山での石灰岩採掘のための発破の音だ。時間を決めて発破作業が行われているだ、知らないとちょっと驚くかも。きっと山が一つなくなるまで掘り続けるのだろう。

 八番西善寺の脇から畑の中の道を通り、車道へ下り里宮橋を左折して城谷沢沿いに下り、川久保橋で生川を渡って上り、延命地蔵堂の小鳥橋手前から西武秩父線沿いに下って行く。後ろを振向くと仲良く並んだ二子山がよく見える。坂下あたりで西武秩父線のガードをくぐり、北方向に行けば九番明智寺だ。こじんまりした境内から北に坂を下ると国道299号にぶつかる。朝に通った横瀬小学校の校庭に薬師堂が今も立っている。小学校のない頃の巡礼道は薬師堂の前から申橋へ下り、申坂を上っていた。坂下に庚申塔ではなく馬頭観音の立つ申坂を上って行くと横瀬中学校に突当たり、学校前に「姿の子育地蔵堂」が立っている。左に曲がり途中から民家と畑の中の道を斜めに進み、小さな流れの大堀川を越えると県道11号で、すぐ右の交差点から十番大慈寺への道が分かれている。

 十番大慈寺の境内脇から細い道を上るとふるさと歩道に出る。南西方向に進むこの道の右下は秩父セメントの工場で作業音がうるさいが、左(南東方向)は時々開けて市街地と山並みが眺望がいい。稲荷神社の境内に入り、両側にぎっしり幟の立つ曲がりくねった石段を下ると十一番常楽寺に出る。丘陵を挟んで十番と反対側の位置だ。境内では何か行事でもあるのか、何人もが忙しそうに立ち働いてゆっくり参拝できる雰囲気ではないので早々に立ち去る。

 秩父市役所に向う道に入り、吉田歯科の所から「十二番みち」の道標に従い左に入り、巳待塔や地蔵が並ぶ辻を過ぎ、西武秩父線のガードをくぐれば十二番野坂寺は近い。巳待塔まで戻り左折し少し行くと右側が野坂公会堂で、斜め向かいの駐車場が十二番の観音堂の旧地だという。五方の辻で国道140号を渡り、斜めに入ると西武秩父駅だ。駅のできる前の巡礼道はこのまま駅付近を横切り、十三番慈眼寺へ通じていた。

  参考:『秩父三十四観音霊場』(秩父札所連合会)

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_9077 五番から六番卜雲寺へ

町民グラウンドと田端商店の間を進んで横瀬川に突当たって左折する。

 

Img_9083 ヨコッピキ(道) 《地図

川東地区と苅米地区を結ぶ古くからの道。右下は横瀬川

 

Img_9088 車道へ出て苅米橋(曽沢川)へ下って、上る。

 

Img_9097 旧六番荻野堂跡から武甲山(平沼建設の裏) 《地図》 

宝暦10年(1760)に火災で焼失し、現在地の卜雲寺に移転した。

 

Img_9108 「柏屋」と呼ばれた巡礼宿だった大野家。

 

Img_9117 卜雲寺前の供養塔と道標

元禄15年(1702)の建立。裏面に「みぎ七ばん」と記す。

 

Img_9123 ねがい地蔵(卜雲寺の参道途中)

元文2年(1737)建立。

もとは苅米にあったが、火災の後に旧六番荻野堂とここに移って来た。参道を引上げる時に地蔵は動かなくなってしまった。その時、若い娘が赤い腰巻をまくって、おいでおいでをすると、引き手に力が湧きあっという間に引上げられたという。『秩父の伝説』より。地蔵さんも弁天さまにはかなわないということか。

 

Img_9124 説明板

 

Img_9130 六番卜雲寺(荻野堂) 【ルート地図】の2

行基に捕らえられた武甲山の山姥の歯が3本、寺宝として保存しているという。本尊と一緒に開帳していたかも。

 

Img_9132説明板

 

Img_9131 接待所もある。

今日は他にも湯茶の接待をしている札所があった。

 

Img_9127 境内から武甲山

 

Img_9135 母慕地蔵(大忠院前) 《地図

近くに機(はた)屋が二軒あった頃、この地蔵さんは夜な夜な遊びに出て、女工さんのいる機屋の前に立っていた。元の場所に戻すと次ぎの晩はもう一軒の機屋の門前に立った。この地蔵さんが動き出すと機がよく売れて機屋は喜んだという。『秩父の伝説』より。女工さんのいる機屋へ遊びに行ったのはどっちの地蔵なのか。母親ではあるまい。子の地蔵だとすると随分ませた地蔵さんだ。それとも二人仲良く遊びに行ったのだろうか?

 

Img_9134 地蔵の脇の石碑

 

Img_9141 七番法長寺山門 《地図

 

Img_9143 説明板

 

Img_9142 本堂

札所随一の大きな伽藍。平賀源内の設計ともいう。

 

Img_9144 本堂は牛伏堂とも呼ばれる。

平将門に敗れた末野の城主花園左衛門の家来がこの地で死んで牛に生まれ変わってしまった。横瀬の里を訪ねてきた妻女の夢枕に立ち牛になって苦しんでいるという。妻女は夫のために尼となり観音さまに仕え、後生を弔ったという。『秩父の伝説』より

 

Img_9147 石段を下ると天狗坂の途中に出る。

 

Img_9138 天狗坂(坂下方向) 法長寺の南側を西に国道299号へ下る。【ルート地図】の3

天狗坂の由来分からず。

 

Img_9152_2 武光橋から横瀬川 《地図

左はセメント工場

 

Img_9157 根古屋橋の下をくぐると六番から八番への近道と合流して「けんむし坂」の上りとなる。

 

Img_9165 けんむし坂(坂下方向) 横瀬町の根古屋橋(国道299号)の下から南方向に上る。【ルート地図】の4 右側に馬頭観音と地蔵の小祠。

天正18年(1590)、根古屋城の城代、渡辺監物のもとへ、主城の鉢形城落城を知らせる使者がこの坂にさしかかった。柳生台地へ上るこの坂で大きな毛虫に出くわした。使者は馬上から一鞭でこの毛虫を打ち払った。これを見ていた土地の者が毛虫を棒でかついで目方を量ってみると、三貫目(約10kg)もあったという。その後、土地の人はこの坂を「けんむし坂」、毛虫を量った棒を捨てた所を「棒ケ沢」と呼ぶようになった。城代の渡辺監物は普段は柳生のこの坂の上に住んでいて、「けんもつ屋敷」と呼ばれていた。ケンムシはケンモツの変化したもののだともいう。『秩父の伝説』より

 

Img_9163 馬頭観音と地蔵

 

Img_9177 坂上近く

正面は武甲山

 

Img_9187 根古屋城跡の方へ上る坂 《地図

左奥の小高い所。城主は北条氏、秩父氏、朝見氏など諸説ある。各地にある根古屋は「寝小屋」からきているという。名古屋も元は寝小屋か。

 

Img_9189 正面奥の稲荷神社(鳥居が見える)から上る通路が大手道らしい。虎口の先に雁木坂という名の坂もあったようだ。

 

Img_9195 武甲山御嶽神社の里宮

 

Img_9204 城谷沢の井

秩父絹発祥地。根古屋城主浅見伊賀守が、農民に絹布の製織を奨励し、絹糸を染めるのに水質のよいこの井戸の水を使ったという。丈夫で堅牢で根古屋絹と呼ばれていた。後ろに小さな井戸もある。地蔵さんの台座に右八番とある。

 

Img_9198 今も水をたたえている。

 

Img_9203 地蔵の前を小橋を渡り上って左に上れば八番。

 

Img_9210 八番西善寺山門 《地図

 

Img_9219 コミネモミジ

天正年間(1573~1590)に植えられた老大木。高さ10m、枝張り東西20m、南北18m。新緑、紅葉の頃は納経者以外は写真撮影は有料(200円)。ケチなことをいうと老大木に笑われるぞ。

 

Img_9216

 

Img_9211 本堂

本尊は阿弥陀三尊で、「ぼけ封じ」、「安楽往生」の寺。

 

Img_9214 発破の音が轟く境内から武甲山

 

Img_9226 本堂脇から畑の間の道を下って右へ。

 

Img_9206 道標

八番の坂下。

 

Img_9236 川久保橋(生川)を渡ってカーブして西武秩父線近くまで上った所から

 

Img_9243 段々の田んぼの間の巡礼道から武甲山。下に秩父石灰工業。

 

Img_9247 小鳥橋手前の延命地蔵尊 《地図

 

Img_9248_2 延命地蔵尊

 

Img_9251 延命地蔵から西武秩父線沿いに下る。

後方にニ子山(882m)

 

Img_9254 雨が降ったらどうなるのだろう?

 

Img_9257 西武秩父線のガードをくぐる。

 

Img_9260九番へは左の道。

うっかり右のセメント工場の方へ上って行きそうになった。

 

Img_9263 道標

どちらも「みぎ 九番(道)」で、心求、はまが願主。二人は巡礼道に数多くの道標を立てている。別の場所にあったものの一つがここに移されたのか。

 

Img_9264_2 説明の紙が掲げてある。

 

Img_9269 九番明智寺 《地図

小じんまりとした堂で、本尊は如意輪観音で安産、子育て、眼の病いに霊験あり。

本尊の姉の如意輪観音は、子の神で札所のどこへ入るかを決める時に居眠りをしてしまって、34ヶ所の札所の中には入れてもらえなかった。後に、このことを知った子の神の人たちは、気の毒に思い、小さなお堂を造って姉の如意輪観音を祀ったという。そして、そのお堂は「寝入り観音」と呼ばれるようになったという。『秩父の伝説』より 「寝入り観音」の如意輪堂は荒川村の武州日野駅の南方の矢通反(やとそうり)トンネルの南にある。

 

Img_9270 説明板

 

Img_9268

文塚(地蔵の左)

十番への道標も兼ねる。これも宝永元年(1704)に心求、はま、こきんの建立。

 

Img_9266 説明板

 

Img_9271 十一番へ国道299号へ下る。

 

Img_9275 大日如来堂 《地図

国道の脇道沿い

 

Img_9277 薬師堂

横瀬小学校内

 

Img_9281 申橋跡

向こう側は横瀬小学校で行き止まり。下には兎沢が流れている。

 

Img_9284 申(さる)坂(坂上方向) 横瀬小学校の西側から北西に上る。【ルート地図】の5

左に道標「みぎ 十番 ひだり 大宮」(元禄15年(1702))、馬頭観音(文化14年(1817))

庚申塔の申かと思ったが、馬頭観音だった。近くに猿田彦を祀る社か祠でもあったのだろうか。

 

Img_9285 坂上方向

 

Img_9287 坂下方向

 

Img_9295 姿の子育地蔵堂(横瀬中学校の前) 《地図

中には子育地蔵と廻国順礼供養塔、外の堂脇には「ひだり 十番 右 九番」の道標。

 

Img_9297 子育地蔵

文政11年(1828)建立

 

Img_9298 廻国順礼供養塔(地蔵の後ろ)

宝暦4年(1754)建立

 

Img_9305 民家の間を抜けて大堀川の方へ向う巡礼道 《地図

 

Img_9310 県道11号に出て左に入る。

 

Img_9315 十番大慈寺 《地図

まん丸顔の延命地蔵。撫で仏の「おびんづるさま」もニコニコ顔で本堂前に座っている。

 

Img_9316 庚申供養塔道標(石段左下)

「ひだり 三ばん」寛延元年(1748)

 

Img_9319 ふるさと歩道へ上って行く。

 

Img_9329 ふるさと歩道 《地図》 

 

Img_9331 右下は秩父セメントの工場

 

Img_9333 左側

正面奥は二子山だろう。

 

Img_9336 畑の間の明るい所もある。

 

Img_9339 稲荷神社 

説明板には「坂氷金刀比羅宮」とある。

 

Img_9343 説明板

 

Img_9340 幟の間を曲がりながら下って行く。

 

Img_9345 十一番常楽寺 《地図

明治11年の秩父大火で焼けて、明治30年に観音堂が再建された。

『秩父回覧記』に、永禄12年(1569)に武田勢が観音堂に火をつけた。「武田焼」といわれ、秩父の霊場の多くが打撃を受けた。これは寺伝より早く、草庵がこの地にあったことを示す。

 

Img_9346 石段下から

 

Img_9349 十二番野坂寺へ

左の吉田歯科の下に道標 《地図

 

Img_9350 地蔵、巳待塔(地蔵の左)などが立つ辻。 《地図

巳待塔は文化15年(1818)の建立で、台座は道標になっている。巳待とは、日待ちの一つで、己巳(つちのとみ)の日の前日から寝ないで精進潔斎して太陽を拝む行事。巳待の本尊は弁財天とされている。

Img_9353十二番野坂寺山門 【ルート地図】の6

寛保年間(1741~44)の建立で明治末の火災でも焼けずに残った。

 

Img_9358 説明板

 

Img_9354 山門両脇の十王たち

冥土にいて死者を裁く閻魔王(中央)などの十王。

 

Img_9357 本堂

 

Img_9360 野坂町公会堂(右)

公会堂といっても普通の家だった。

 

Img_9361 十二番観音堂の旧地(公会堂前の駐車場) 《地図

 

Img_9362 五方の辻から西武秩父駅へ 《地図

巡礼道は駅付近を横切って十三番慈眼寺へと続いていた。

 

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