秩父の坂(秩父巡礼道)-3
2008年6月25日
西武秩父駅(西武秩父線)・・・御旅所・団子坂・・・聖人横町・十三番慈眼寺・・・新寺横町・惣円寺・・・元巡礼宿(長谷部家)・道路元標(秩父往還)・・・今宮神社・・・十四番今宮坊・・・爪龍寺・・・街かどギャラリー・・・秩父神社参道・・・(秩父鉄道)・・・十五番少林寺・・・薗田家住宅(秩父神社宮司家)・・・秩父神社・・・加藤近代美術館・・・十六番西光寺・・・秩父市立病院・・・十七番定林寺・・・国道299号・(秩父鉄道)・・・国道140号・十八番神門(ごうど)寺・・・(秩父鉄道)・・・国道299号・視目(みるめ)坂・視目神社・・・(秩父第一中学)・・・巡礼道(秩父往還)・・・坂東(ばんどう)坂・・・十九番龍石寺・・・宗福寺・・・斉戸橋(腰田堀)・・・(秩父鉄道)・・・国道140号・広見寺・・・大野原駅(秩父鉄道)
今にも雨が落ちてきそうな曇天の下、秩父札所十三番慈眼寺から十九番龍石寺の坂道散歩です。降られても今日は秩父の市街地で平坦な所なので気が楽だ。歩いて巡っている人もけっこう多い。団子坂は秩父夜祭の屋台と笠鉾を力を合わせて引上げるには大変だろうが、歩くには傾斜もゆるく短い坂で面白味はない。
聖人横町の十三番慈眼寺から新寺横町に入り、秩父七福神の惣円寺から秩父往還を越えると今宮神社で、白装束の人が数人、一生懸命に神社の宣伝に努めていた。すぐ先が十四番今宮坊で今はこじんまりした境内だ。秩父神社の参道から秩父鉄道の踏切を渡ると十五番少林寺だ。秩父神社に寄ってから西へ十六番西光寺へ向う。この寺には札を打った札堂が残っている。以前、両神山で滑落事故をおこし世話になった市立病院の前を通ってユニークな銅鐘のある十七番定林寺へ。
十八番神門へは国道299号へ出て北へ、相生町の五叉路の所から細い巡礼路に入る。秩父鉄道を徒歩専用の踏切で渡り、国道140号に出ると目の前が十八番神門寺で、ちょうど狭い境内からバスで回っている人たちが大勢出て来たところでグッドタイミング。巡礼道を五叉路まで戻って、国道299号を北に進むと視目坂の下りとなる。途中に猿田彦大神の小祠、視目神社があり車の通行もさほどでもなく、やっと坂らしい坂に出会えた。
視目坂下交差点から国道と離れ、第一中学の間の道を東に行き、細い坂を上ると十八番から来る秩父往還の巡礼道にぶつかる、北へ歩くと左に坂東坂がカーブして下っている。坂下から岩盤の上に立つ十九番龍石寺は近い。三途婆(さんずば)堂の脱衣婆(だつえば)の下には子どもの人形が置いてあった。脱衣婆はこわそうな顔をしているが子育て婆さんでもある。
二十番への巡礼道を確認して大野原駅に向う。途中、十九番納経所の宗福寺には、子育て婆さんやユニークな蛙地蔵などが並んでいる。駅の手前で秩父鉄道と国道140号を渡ると広い敷地の広見寺で、一直線に並ぶ惣(総)門、三門、本堂が見事だ。
*参考:『秩父三十四観音霊場』(秩父札所連合会)
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
団子坂(坂上から) 十三番慈眼寺の」東側から南東に上る。 【ルート地図】の7
12月3日の秩父夜祭で屋台4基、笠鉾2基がこの坂を引上げられる。坂上の観覧席は有料かつ抽選。
団子坂、御旅所などがある。
「急斜面」とあるが、緩斜面だ。
短く傾斜のゆるい小さな坂。坂上正面の空き地が屋台と笠鉾の御旅所。
聖人とは、明治時代の大宮郷長で、社会慈善事業に尽くした井上如常のこと。
薬医門様式の山門
左の木は「メグスリの木」。目の病いに効能があるという。
「めめ」の絵馬がたくさん奉納されている。7月8日の縁日は「あめ薬師」と呼ばれ、飴を売る屋台が並び大勢の人で賑わう。この日は雨が降ることが多く、飴と雨を掛けたのだともいう。
回転式の六角灯篭型の経蔵。右回りに3回転させると、一切経1630巻、全巻読んだと同じ功徳を得るとされる。
そば屋か
惣円寺 《地図》
左が秩父七福神の弁財天堂
新寺横町と秩父往還の交差点の所。《地図》
秩父往還は、秩父大宮から荒川渓谷沿いに秩父盆地を横断し、甲州に入り雁坂峠を越えて甲府に至る街道。
平成5年まで児童公園として開放されていた。平成4年から神社活動を再開。神域、神社を本来の姿に復す活動を始めている。
八大龍王を合祀した修験の開祖役小角を祀る。
龍神木、駒つなぎの大ケヤキ
龍神木と名づけられたのは平成になってから。
徳川家康が馬をつないだともいう。
武甲山の伏流水が湧き出ている秩父最古の泉。毎年4月4日の水分(みくまり)祭ではこのお水を秩父神社に授与する。
平成15年に湧き出た、マイナスイオンに満ちた秩父の名水という。
江戸時代は京都聖護院の直末の修験道場として七つの堂を持って栄え、今宮坊が観音堂と今宮神社の別当を兼ねていた。明治の神仏分離令で観音堂と今宮神社は分離された。
右は庚申尊の小堂
街かどギャラリー 《地図》
明治11年の秩父大火で焼け、木造の外側を白色の漆喰塗りの耐火構造の土蔵造りで再建された。
元は「母巣山蔵福寺」で、「五葉山少林禅寺」と合わせて「母巣山少林寺」となった。
薗田家表門(秩父神社宮司) 《地図》
天保年間(1830~44)建築のケヤキの四脚門。国有形登録文化財。
毎年12月3日の秩父夜祭は、京都の祇園祭、飛騨高山祭とともに日本三大曳山祭の一つ。
左甚五郎の作と伝える。
本堂の中2階に、三方が壁の隠し部屋があり、賭場や男女の陸場になっていたという。江戸町人衆の巡礼者たちは、札も打つが、博打も打ち、遊興を重ねて巡っていたのだろう。
巡礼者が持ってきた木製の納札を釘で打ちつけた。札所を巡拝することを、「札を打つ」と言ったのはここからきている。
一巡すれば四国遍路を果たしたと同じ功徳を得るというが・・・・。
林家の持ち寺として開創され、別名を「林寺」という。観音堂は吹放しの念仏回廊。
左下の小祠内は、地蔵(中)・巳待供養塔(右)・念仏供養塔(左)
宝暦8年(1758)の銘。
西国、坂東、秩父百観音の本尊と御詠歌が刻まれている。
右から、地蔵菩薩、如意輪産泰神、弘法大師、延命地蔵菩薩、巳待供養塔。
十八番への巡礼道 《地図》
国道299号の相生町交差点の五叉路からすぐ入る細い道。
踏切はない。
正面軒下の寺号の扁額は、元治元年(1864)の森玄黄斎によるもの。
視目(みるめ)坂(坂下方向) 滝の上町の視目坂下交差点から南東から南に上る国道299号。【ルート地図】の9
坂の途中に視目神社がある。目の神なのか?
*「夜泣き、虫封じ」の神様として古来より厚い信仰を集めているそうだ。(高野様からのコメント(下記))
正面右に石段を上ると視目神社。木がこんもりしている所。
視目神社 《地図》(卍のマークだが神社だ。)
扁額には「視目大権現」とある。
坂東(ばんどう)坂(坂上から) 大畑町7から南西方向に下る。【ルート地図】の10
坂東札所勧請にちなむ坂名。
砂岩の磐上に立つ。
脱衣婆の下に子どもの人形が置かれている。
三途の川の渡し賃の六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆。剥ぎ取った衣類は、懸衣翁という老爺が衣領樹に掛ける。衣領樹に掛けた亡者の衣の重さにはその者の生前の業が表れ、その重さによって死後の処遇を決めるとされる。脱衣婆は閻魔大王の妻であるという説もある。俗に正塚(しょうづか)の婆ともいう。また、子どもの病気を治してくれる「子育て婆さん」でもある。
宗福寺《地図》
十九番の納経所
子育て婆さん堂
広見寺惣門 【ルート地図】の11
奥が三門
明和年間(1764~74)に斜面に洞窟を掘って造られた経塚。
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コメント
「猿田彦大神の小祠」と「視目神社」は全く別個なものです。
「視目坂を下る途中に猿田彦大神の小祠があり、さらに下ると視目神社がある」という意味で書いたのですが、私の文章の未熟さで誤解を与えてしまったようです。
投稿: 高野様へ(坂道散歩) | 2015年10月12日 (月) 14:02
秩父の坂を丁寧に紹介された記事に敬意を表します。
ただひとつ、気になった部分についてコメントします。
視目神社のご祭神を猿田彦命とされた根拠はなんでしょうか?
視目様は、元禄時代にはすでに祀られていますが、祭神は地元ではいろいろ調べても不明(またそれがいいのですが)です。
お社には、視目様とともに稲荷さま、秋葉さまをお祀りしています。「夜泣き、
虫封じ」の神様として古来より厚い信仰を集めています。
猿田彦の確証を是非お示しください。
(視目大権現崇敬奉賛会大総代)
投稿: 高野 俊彦 | 2015年10月12日 (月) 07:35
私も昨日(6/28)十番札所から十九番札所まで歩いてきました。デジカメで撮影してきましたが、まだ載せていません。これからゆっくりやろうかと思っています。今朝見たらもう載せているのですから早いですね。脱帽してしまいます。しかし、このブログを見ると、私の方は相当見逃してしまっているなと悔やんでいます。
次回は、二十番札所から三十番札所まで行く予定ですが、お天気次第です。
投稿: neoya | 2008年6月29日 (日) 06:01