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2008年6月25日 (水)

秩父の坂(秩父巡礼道)-3

2008年6月25日

  西武秩父駅(西武秩父線)・・・御旅所・団子坂・・・聖人横町・十三番慈眼寺・・・新寺横町・惣円寺・・・元巡礼宿(長谷部家)・道路元標(秩父往還)・・・今宮神社・・・十四番今宮坊・・・爪龍寺・・・街かどギャラリー・・・秩父神社参道・・・(秩父鉄道)・・・十五番少林寺・・・薗田家住宅(秩父神社宮司家)・・・秩父神社・・・加藤近代美術館・・・十六番西光寺・・・秩父市立病院・・・十七番定林寺・・・国道299号・(秩父鉄道)・・・国道140号・十八番神門(ごうど)寺・・・(秩父鉄道)・・・国道299号・視目(みるめ)坂・視目神社・・・(秩父第一中学)・・・巡礼道(秩父往還)・・・坂東(ばんどう)坂・・・十九番龍石寺・・・宗福寺・・・斉戸橋(腰田堀)・・・(秩父鉄道)・・・国道140号・広見寺・・・大野原駅(秩父鉄道)

 今にも雨が落ちてきそうな曇天の下、秩父札所十三番慈眼寺から十九番龍石寺の坂道散歩です。降られても今日は秩父の市街地で平坦な所なので気が楽だ。歩いて巡っている人もけっこう多い。団子坂は秩父夜祭の屋台と笠鉾を力を合わせて引上げるには大変だろうが、歩くには傾斜もゆるく短い坂で面白味はない。

 聖人横町の十三番慈眼寺から新寺横町に入り、秩父七福神の惣円寺から秩父往還を越えると今宮神社で、白装束の人が数人、一生懸命に神社の宣伝に努めていた。すぐ先が十四番今宮坊で今はこじんまりした境内だ。秩父神社の参道から秩父鉄道の踏切を渡ると十五番少林寺だ。秩父神社に寄ってから西へ十六番西光寺へ向う。この寺には札を打った札堂が残っている。以前、両神山で滑落事故をおこし世話になった市立病院の前を通ってユニークな銅鐘のある十七番定林寺へ。

 十八番神門へは国道299号へ出て北へ、相生町の五叉路の所から細い巡礼路に入る。秩父鉄道を徒歩専用の踏切で渡り、国道140号に出ると目の前が十八番神門寺で、ちょうど狭い境内からバスで回っている人たちが大勢出て来たところでグッドタイミング。巡礼道を五叉路まで戻って、国道299号を北に進むと視目坂の下りとなる。途中に猿田彦大神の小祠、視目神社があり車の通行もさほどでもなく、やっと坂らしい坂に出会えた。

 視目坂下交差点から国道と離れ、第一中学の間の道を東に行き、細い坂を上ると十八番から来る秩父往還の巡礼道にぶつかる、北へ歩くと左に坂東坂がカーブして下っている。坂下から岩盤の上に立つ十九番龍石寺は近い。三途婆(さんずば)堂の脱衣婆(だつえば)の下には子どもの人形が置いてあった。脱衣婆はこわそうな顔をしているが子育て婆さんでもある。

 二十番への巡礼道を確認して大野原駅に向う。途中、十九番納経所の宗福寺には、子育て婆さんやユニークな蛙地蔵などが並んでいる。駅の手前で秩父鉄道と国道140号を渡ると広い敷地の広見寺で、一直線に並ぶ惣(総)門、三門、本堂が見事だ。

  【ルート地図

 写真をクリックすると拡大します。

Img_9365 団子坂(坂上から) 十三番慈眼寺の」東側から南東に上る。 【ルート地図】の①

12月3日の秩父夜祭で屋台4基、笠鉾2基がこの坂を引上げられる。坂上の観覧席は有料かつ抽選。

Img_9363 案内板

団子坂、御旅所などがある。

Img_9369 団子坂

「急斜面」とあるが、緩斜面だ。

Img_9372 坂下の秩父鉄道の踏切から

短く傾斜のゆるい小さな坂。坂上正面の空き地が屋台と笠鉾の御旅所。

Img_9374 聖人横町石柱、子育地蔵堂などが立つ十三番慈眼寺の山門脇。

聖人とは、明治時代の大宮郷長で、社会慈善事業に尽くした井上如常のこと。

Img_9386 十三番慈眼寺

薬医門様式の山門

Img_9378 説明板

Img_9384 本堂

左の木は「メグスリの木」。目の病いに効能があるという。

Img_9383説明文

Img_9382 瑠璃堂(左)・一切経輪蔵(右)

Img_9380 薬師瑠璃光如来は目の神様

「めめ」の絵馬がたくさん奉納されている。7月8日の縁日は「あめ薬師」と呼ばれ、飴を売る屋台が並び大勢の人で賑わう。この日は雨が降ることが多く、飴と雨を掛けたのだともいう。

Img_9385 一切経輪蔵の経庫

回転式の六角灯篭型の経蔵。右回りに3回転させると、一切経1630巻、全巻読んだと同じ功徳を得るとされる。

Img_9392 新寺横町

Img_9399 旧家

そば屋か

Img_9394 惣円寺 《地図

左が秩父七福神の弁財天堂

Img_9395 説明板

Img_9404 元巡礼宿(長谷部家)

新寺横町と秩父往還の交差点の所。《地図

秩父往還は、秩父大宮から荒川渓谷沿いに秩父盆地を横断し、甲州に入り雁坂峠を越えて甲府に至る街道。

Img_9402秩父町道路元標(巡礼宿の向い側の東電の脇)

Img_9400 説明板

Img_9405 今宮神社(大宮山八大龍王宮)

平成5年まで児童公園として開放されていた。平成4年から神社活動を再開。神域、神社を本来の姿に復す活動を始めている。

Img_9419_2 役行者(えんのぎょうじゃ)堂(役尊神祠)

八大龍王を合祀した修験の開祖役小角を祀る。

Img_9409 今宮神社略記

Img_9428 大ケヤキ

龍神木、駒つなぎの大ケヤキ

龍神木と名づけられたのは平成になってから。

Img_9417 「龍神木」の説明板

Img_9425 「駒つなぎのケヤキ」説明板

徳川家康が馬をつないだともいう。

Img_9410 龍神池

武甲山の伏流水が湧き出ている秩父最古の泉。毎年4月4日の水分(みくまり)祭ではこのお水を秩父神社に授与する。

Img_9421 清龍の滝

平成15年に湧き出た、マイナスイオンに満ちた秩父の名水という。

Img_9431 十四番今宮坊 【ルート地図】の②

江戸時代は京都聖護院の直末の修験道場として七つの堂を持って栄え、今宮坊が観音堂と今宮神社の別当を兼ねていた。明治の神仏分離令で観音堂と今宮神社は分離された。

Img_9432 説明板

Img_9434 爪龍寺

右は庚申尊の小堂

Img_9437 街かどギャラリー 《地図

Img_9442十五番少林寺

明治11年の秩父大火で焼け、木造の外側を白色の漆喰塗りの耐火構造の土蔵造りで再建された。

元は「母巣山蔵福寺」で、「五葉山少林禅寺」と合わせて「母巣山少林寺」となった。

Img_9443 説明板

Img_9440 秩父神社参道

Img_9449 薗田家表門(秩父神社宮司) 《地図

天保年間(1830~44)建築のケヤキの四脚門。国有形登録文化財。

Img_9451 秩父神社

毎年12月3日の秩父夜祭は、京都の祇園祭、飛騨高山祭とともに日本三大曳山祭の一つ。

Img_9453 説明板

Img_9452 拝殿

Img_9456 子育ての虎(拝殿正面左)

左甚五郎の作と伝える。

Img_9454 説明板

Img_9461 旧家

Img_9472 十六番西光寺

本堂の中2階に、三方が壁の隠し部屋があり、賭場や男女の陸場になっていたという。江戸町人衆の巡礼者たちは、札も打つが、博打も打ち、遊興を重ねて巡っていたのだろう。

Img_9470 札堂

巡礼者が持ってきた木製の納札を釘で打ちつけた。札所を巡拝することを、「札を打つ」と言ったのはここからきている。

Img_9469 柱に残る札を打った釘穴

Img_9471 四国八十八ヶ所霊場の本尊を模した木像が並ぶ回廊堂

一巡すれば四国遍路を果たしたと同じ功徳を得るというが・・・・。

Img_9482 十七番定林寺

林家の持ち寺として開創され、別名を「林寺」という。観音堂は吹放しの念仏回廊。

左下の小祠内は、地蔵(中)・巳待供養塔(右)・念仏供養塔(左)

Img_9488 説明板

Img_9487_2銅鐘

宝暦8年(1758)の銘。

西国、坂東、秩父百観音の本尊と御詠歌が刻まれている。

Img_9486 説明板

Img_9489 相生町公会堂前

右から、地蔵菩薩、如意輪産泰神、弘法大師、延命地蔵菩薩、巳待供養塔。

Img_9510 十八番への巡礼道入口

Img_9508 十八番への巡礼道 《地図

国道299号の相生町交差点の五叉路からすぐ入る細い道。

Img_9504 秩父鉄道を渡る。

踏切はない。

Img_9497 十八番神門(ごうど)寺

正面軒下の寺号の扁額は、元治元年(1864)の森玄黄斎によるもの。

Img_9495 不動堂(神門寺内)

Img_9496不動明王

Img_9513 視目(みるめ)坂(坂下方向) 滝の上町の視目坂下交差点から南東から南に上る国道299号。【ルート地図】の③

坂の途中に視目神社がある。目の神なのか?
「夜泣き、虫封じ」の神様として古来より厚い信仰を集めているそうだ。(高野様からのコメント(下記))

Img_9518 坂下方向

正面右に石段を上ると視目神社。木がこんもりしている所。

Img_9520 視目神社 《地図》(卍のマークだが神社だ。)

扁額には「視目大権現」とある。

Img_9536 第一中学の間を上って秩父往還の巡礼道へ

Img_9541 ここで左に坂東坂を下る。

Img_9542 坂東(ばんどう)坂(坂上から) 大畑町7から南西方向に下る。【ルート地図】の④

坂東札所勧請にちなむ坂名。

Img_9548 坂上方向

Img_9551 十九番龍石寺

砂岩の磐上に立つ。

Img_9552 説明板

Img_9558 三途婆(さんずば)堂

脱衣婆の下に子どもの人形が置かれている。

Img_9560 脱衣婆

三途の川の渡し賃の六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆。剥ぎ取った衣類は、懸衣翁という老爺が衣領樹に掛ける。衣領樹に掛けた亡者の衣の重さにはその者の生前の業が表れ、その重さによって死後の処遇を決めるとされる。脱衣婆は閻魔大王の妻であるという説もある。俗に正塚(しょうづか)の婆ともいう。また、子どもの病気を治してくれる「子育て婆さん」でもある。

Img_9579 宗福寺《地図

十九番の納経所

Img_9581 カエル地蔵?

Img_9582 河童地蔵?もいる。

Img_9577

子育て婆さん堂

Img_9578子育て婆さん=脱衣婆

Img_9604 広見寺惣門 【ルート地図】の⑤

奥が三門

Img_9603 説明板

Img_9599 三門

Img_9602 説明碑

Img_9597 本堂

Img_9590 石経蔵

明和年間(1764~74)に斜面に洞窟を掘って造られた経塚。

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2008年6月18日 (水)

秩父の坂(秩父巡礼道)-2

2008年6月18日

横瀬駅(西武秩父線)・・・横瀬小学校・・・下横瀬橋(横瀬川)・・・五番語歌堂・・・町民グラウンド・・・横瀬川・・・ヨコッピキ(道)・・・苅米橋(曽沢川)・・・旧札所六番荻野堂跡・・・萩原商店・・・巡礼宿柏屋跡・・・かどや商店・・・六番卜雲(ぼくうん)寺・・・母慕地蔵(大忠院)・・・かどや商店・・・七番法長寺・・・天狗坂・・・国道299号・・・八幡宮・・・国道299号・・・武光橋(横瀬川)・・・柳生橋(生川(うぶかわ))・・・根古屋橋(国道299号)・・・けんむし坂・・・富田商店・・・(西武秩父線)・・・根古屋城跡あたり・・・里宮橋(城谷沢)・・・御嶽神社里宮・城谷沢の井(秩父絹発祥地)・・・八番西善寺・・・里宮橋・・・川久保橋(生川)・・・産業道路・・・小鳥橋・延命地蔵尊・・・(西武池袋線)・・・九番明智寺・・・大日如来堂・・・国道299号・・・薬師堂(横瀬小学校内)・・・申(さる)橋跡・申坂・・・姿の子育地蔵堂・横瀬中学校・・・大堀川・・・県道11号・・・十番大慈寺・・・ふるさと歩道・・・稲荷神社・・・十一番常楽寺・・・秩父成田山・吉田歯科医院・・・十二番野坂寺・・・野坂町公会堂・十二番観音堂旧跡・・・五方の辻(国道14.0号)・・・西武秩父駅(西武秩父線)

 前回の続きで秩父札所六番卜雲寺から十二番野坂寺までの坂道散歩です。横瀬駅から五番語歌堂に戻ってから六番を目指す。南方向に歩くのでだんだん武甲山が近づいてきて傷ついた姿がはっきり見えてくる。町民グラウンドから南に横瀬川に出て崖沿いのヨコッピキに入る。車道に合流し、下って上ると平沼建設の裏あたりが六番荻野堂の跡地とされる所だ。六番卜雲寺の境内ではのテント張りのご接待所があった。お茶ときゅうりをいただく。なんだが四国の札所巡りをしている気分だ。大忠院の前に母慕地蔵へ寄り道して、カドヤ商店まで戻り七番法長寺へ向う。

 八番西善寺へは法長寺の境内から急な石段を下ると天狗坂の途中に出る。天狗坂を下って国道299号へ出て、武光橋を渡り、左に入り柳生橋で生川を渡り、根古屋橋をくぐると左から六番から八番への近道と合わせて、けんむし坂の上りとなる。この坂も根古屋城にかかわる伝説のある坂だ。(後述) 坂上から西武秩父線をくぐり左に上り、根古屋城跡に寄ろうとしたが案内板もなく、どの道も途中で民家や畑で途切れてしまうようで近づけない。仕方なく遠くからの写真であきらめる。御嶽神社里宮前には秩父絹の発祥地の城谷沢の井戸が大小2つ残っている。水も涸れていないようだ。井戸の前に立つ地蔵の前から細い道を上って左に行くとすぐに八番西善寺で、山門をくぐるとこの寺の看板の大きなコミネモミジが出迎えてくれる。「ドドーン」と大きな音が響いた。雷でも地震でもない。武甲山での石灰岩採掘のための発破の音だ。時間を決めて発破作業が行われているだ、知らないとちょっと驚くかも。きっと山が一つなくなるまで掘り続けるのだろう。

 八番西善寺の脇から畑の中の道を通り、車道へ下り里宮橋を左折して城谷沢沿いに下り、川久保橋で生川を渡って上り、延命地蔵堂の小鳥橋手前から西武秩父線沿いに下って行く。後ろを振向くと仲良く並んだ二子山がよく見える。坂下あたりで西武秩父線のガードをくぐり、北方向に行けば九番明智寺だ。こじんまりした境内から北に坂を下ると国道299号にぶつかる。朝に通った横瀬小学校の校庭に薬師堂が今も立っている。小学校のない頃の巡礼道は薬師堂の前から申橋へ下り、申坂を上っていた。坂下に庚申塔ではなく馬頭観音の立つ申坂を上って行くと横瀬中学校に突当たり、学校前に「姿の子育地蔵堂」が立っている。左に曲がり途中から民家と畑の中の道を斜めに進み、小さな流れの大堀川を越えると県道11号で、すぐ右の交差点から十番大慈寺への道が分かれている。

 十番大慈寺の境内脇から細い道を上るとふるさと歩道に出る。南西方向に進むこの道の右下は秩父セメントの工場で作業音がうるさいが、左(南東方向)は時々開けて市街地と山並みが眺望がいい。稲荷神社の境内に入り、両側にぎっしり幟の立つ曲がりくねった石段を下ると十一番常楽寺に出る。丘陵を挟んで十番と反対側の位置だ。境内では何か行事でもあるのか、何人もが忙しそうに立ち働いてゆっくり参拝できる雰囲気ではないので早々に立ち去る。

 秩父市役所に向う道に入り、吉田歯科の所から「十二番みち」の道標に従い左に入り、巳待塔や地蔵が並ぶ辻を過ぎ、西武秩父線のガードをくぐれば十二番野坂寺は近い。巳待塔まで戻り左折し少し行くと右側が野坂公会堂で、斜め向かいの駐車場が十二番の観音堂の旧地だという。五方の辻で国道140号を渡り、斜めに入ると西武秩父駅だ。駅のできる前の巡礼道はこのまま駅付近を横切り、十三番慈眼寺へ通じていた。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_9077 五番から六番卜雲寺へ

町民グラウンドと田端商店の間を進んで横瀬川に突当たって左折する。

Img_9083 ヨコッピキ(道) 《地図

川東地区と苅米地区を結ぶ古くからの道。右下は横瀬川

Img_9088 車道へ出て苅米橋(曽沢川)へ下って、上る。

Img_9097 旧六番荻野堂跡から武甲山(平沼建設の裏) 《地図》 

宝暦10年(1760)に火災で焼失し、現在地の卜雲寺に移転した。

Img_9108 「柏屋」と呼ばれた巡礼宿だった大野家。

Img_9117 卜雲寺前の供養塔と道標

元禄15年(1702)の建立。裏面に「みぎ七ばん」と記す。

Img_9123 ねがい地蔵(卜雲寺の参道途中)

元文2年(1737)建立。

もとは苅米にあったが、火災の後に旧六番荻野堂とここに移って来た。参道を引上げる時に地蔵は動かなくなってしまった。その時、若い娘が赤い腰巻をまくって、おいでおいでをすると、引き手に力が湧きあっという間に引上げられたという。『秩父の伝説』より。地蔵さんも弁天さまにはかなわないということか。

Img_9124 説明板

Img_9130 六番卜雲寺(荻野堂) 【ルート地図】の①

行基に捕らえられた武甲山の山姥の歯が3本、寺宝として保存しているという。本尊と一緒に開帳していたかも。

Img_9132説明板

Img_9131 接待所もある。

今日は他にも湯茶の接待をしている札所があった。

Img_9127 境内から武甲山

Img_9135 母慕地蔵(大忠院前) 《地図

近くに機(はた)屋が二軒あった頃、この地蔵さんは夜な夜な遊びに出て、女工さんのいる機屋の前に立っていた。元の場所に戻すと次ぎの晩はもう一軒の機屋の門前に立った。この地蔵さんが動き出すと機がよく売れて機屋は喜んだという。『秩父の伝説』より。女工さんのいる機屋へ遊びに行ったのはどっちの地蔵なのか。母親ではあるまい。子の地蔵だとすると随分ませた地蔵さんだ。それとも二人仲良く遊びに行ったのだろうか?

Img_9134 地蔵の脇の石碑

Img_9141 七番法長寺山門 《地図

Img_9143 説明板

Img_9142 本堂

札所随一の大きな伽藍。平賀源内の設計ともいう。

Img_9144 本堂は牛伏堂とも呼ばれる。

平将門に敗れた末野の城主花園左衛門の家来がこの地で死んで牛に生まれ変わってしまった。横瀬の里を訪ねてきた妻女の夢枕に立ち牛になって苦しんでいるという。妻女は夫のために尼となり観音さまに仕え、後生を弔ったという。『秩父の伝説』より

Img_9147 石段を下ると天狗坂の途中に出る。

Img_9138 天狗坂(坂下方向) 法長寺の南側を西に国道299号へ下る。【ルート地図】の②

天狗坂の由来分からず。

Img_9152_2 武光橋から横瀬川 《地図

左はセメント工場

Img_9157 根古屋橋の下をくぐると六番から八番への近道と合流して「けんむし坂」の上りとなる。

Img_9165 けんむし坂(坂下方向) 横瀬町の根古屋橋(国道299号)の下から南方向に上る。【ルート地図】の③ 右側に馬頭観音と地蔵の小祠。

天正18年(1590)、根古屋城の城代、渡辺監物のもとへ、主城の鉢形城落城を知らせる使者がこの坂にさしかかった。柳生台地へ上るこの坂で大きな毛虫に出くわした。使者は馬上から一鞭でこの毛虫を打ち払った。これを見ていた土地の者が毛虫を棒でかついで目方を量ってみると、三貫目(約10kg)もあったという。その後、土地の人はこの坂を「けんむし坂」、毛虫を量った棒を捨てた所を「棒ケ沢」と呼ぶようになった。城代の渡辺監物は普段は柳生のこの坂の上に住んでいて、「けんもつ屋敷」と呼ばれていた。ケンムシはケンモツの変化したもののだともいう。『秩父の伝説』より

Img_9163 馬頭観音と地蔵

Img_9177 坂上近く

正面は武甲山

Img_9187 根古屋城跡の方へ上る坂 《地図

左奥の小高い所。城主は北条氏、秩父氏、朝見氏など諸説ある。各地にある根古屋は「寝小屋」からきているという。名古屋も元は寝小屋か。

Img_9189 正面奥の稲荷神社(鳥居が見える)から上る通路が大手道らしい。虎口の先に雁木坂という名の坂もあったようだ。

Img_9195 武甲山御嶽神社の里宮

Img_9204 城谷沢の井

秩父絹発祥地。根古屋城主浅見伊賀守が、農民に絹布の製織を奨励し、絹糸を染めるのに水質のよいこの井戸の水を使ったという。丈夫で堅牢で根古屋絹と呼ばれていた。後ろに小さな井戸もある。地蔵さんの台座に右八番とある。

Img_9198 今も水をたたえている。

Img_9203 地蔵の前を小橋を渡り上って左に上れば八番。

Img_9210 八番西善寺山門 《地図

Img_9219 コミネモミジ

天正年間(1573~1590)に植えられた老大木。高さ10m、枝張り東西20m、南北18m。新緑、紅葉の頃は納経者以外は写真撮影は有料(200円)。ケチなことをいうと老大木に笑われるぞ。

Img_9216

Img_9211 本堂

本尊は阿弥陀三尊で、「ぼけ封じ」、「安楽往生」の寺。

Img_9214 発破の音が轟く境内から武甲山

Img_9226 本堂脇から畑の間の道を下って右へ。

Img_9206 道標

八番の坂下。

Img_9236 川久保橋(生川)を渡ってカーブして西武秩父線近くまで上った所から

Img_9243 段々の田んぼの間の巡礼道から武甲山。下に秩父石灰工業。

Img_9247 小鳥橋手前の延命地蔵尊 《地図

Img_9248_2 延命地蔵尊

Img_9251 延命地蔵から西武秩父線沿いに下る。

後方にニ子山(882m)

Img_9254 雨が降ったらどうなるのだろう?

Img_9257 西武秩父線のガードをくぐる。

Img_9260九番へは左の道。

うっかり右のセメント工場の方へ上って行きそうになった。

Img_9263 道標

どちらも「みぎ 九番(道)」で、心求、はまが願主。二人は巡礼道に数多くの道標を立てている。別の場所にあったものの一つがここに移されたのか。

Img_9264_2 説明の紙が掲げてある。

Img_9269 九番明智寺 《地図

小じんまりとした堂で、本尊は如意輪観音で安産、子育て、眼の病いに霊験あり。

本尊の姉の如意輪観音は、子の神で札所のどこへ入るかを決める時に居眠りをしてしまって、34ヶ所の札所の中には入れてもらえなかった。後に、このことを知った子の神の人たちは、気の毒に思い、小さなお堂を造って姉の如意輪観音を祀ったという。そして、そのお堂は「寝入り観音」と呼ばれるようになったという。『秩父の伝説』より 「寝入り観音」の如意輪堂は荒川村の武州日野駅の南方の矢通反(やとそうり)トンネルの南にある。

Img_9270 説明板

Img_9268

文塚(地蔵の左)

十番への道標も兼ねる。これも宝永元年(1704)に心求、はま、こきんの建立。

Img_9266 説明板

Img_9271 十一番へ国道299号へ下る。

Img_9275 大日如来堂 《地図

国道の脇道沿い

Img_9277 薬師堂

横瀬小学校内

Img_9281 申橋跡

向こう側は横瀬小学校で行き止まり。下には兎沢が流れている。

Img_9284 申(さる)坂(坂上方向) 横瀬小学校の西側から北西に上る。【ルート地図】の④

左に道標「みぎ 十番 ひだり 大宮」(元禄15年(1702))、馬頭観音(文化14年(1817))

庚申塔の申かと思ったが、馬頭観音だった。近くに猿田彦を祀る社か祠でもあったのだろうか。

Img_9285 坂上方向

Img_9287 坂下方向

Img_9295 姿の子育地蔵堂(横瀬中学校の前) 《地図

中には子育地蔵と廻国順礼供養塔、外の堂脇には「ひだり 十番 右 九番」の道標。

Img_9297 子育地蔵

文政11年(1828)建立

Img_9298 廻国順礼供養塔(地蔵の後ろ)

宝暦4年(1754)建立

Img_9305 民家の間を抜けて大堀川の方へ向う巡礼道 《地図

Img_9310 県道11号に出て左に入る。

Img_9315 十番大慈寺 《地図

まん丸顔の延命地蔵。撫で仏の「おびんづるさま」もニコニコ顔で本堂前に座っている。

Img_9316 庚申供養塔道標(石段左下)

「ひだり 三ばん」寛延元年(1748)

Img_9319 ふるさと歩道へ上って行く。

Img_9329 ふるさと歩道 《地図》 

Img_9331 右下は秩父セメントの工場

Img_9333 左側

正面奥は二子山だろう。

Img_9336 畑の間の明るい所もある。

Img_9339 稲荷神社 

説明板には「坂氷金刀比羅宮」とある。

Img_9343 説明板

Img_9340 幟の間を曲がりながら下って行く。

Img_9345 十一番常楽寺 《地図

明治11年の秩父大火で焼けて、明治30年に観音堂が再建された。

『秩父回覧記』に、永禄12年(1569)に武田勢が観音堂に火をつけた。「武田焼」といわれ、秩父の霊場の多くが打撃を受けた。これは寺伝より早く、草庵がこの地にあったことを示す。

Img_9346 石段下から

Img_9349 十二番野坂寺へ

左の吉田歯科の下に道標 《地図

Img_9350 地蔵、巳待塔(地蔵の左)などが立つ辻。 《地図

巳待塔は文化15年(1818)の建立で、台座は道標になっている。巳待とは、日待ちの一つで、己巳(つちのとみ)の日の前日から寝ないで精進潔斎して太陽を拝む行事。巳待の本尊は弁財天とされている。

Img_9353十二番野坂寺山門 【ルート地図】の⑤

寛保年間(1741~44)の建立で明治末の火災でも焼けずに残った。

Img_9358 説明板

Img_9354 山門両脇の十王たち

冥土にいて死者を裁く閻魔王(中央)などの十王。

Img_9357 本堂

Img_9360 野坂町公会堂(右)

公会堂といっても普通の家だった。

Img_9361 十二番観音堂の旧地(公会堂前の駐車場) 《地図

Img_9362 五方の辻から西武秩父駅へ 《地図

巡礼道は駅付近を横切って十三番慈眼寺へと続いていた。

 

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2008年6月14日 (土)

秩父の坂(秩父巡礼道)-1

2008年6月14日

Img_8838 和銅黒谷駅(秩父鉄道)・・・国道140号・・・聖神社・・・和銅遺跡・和銅露天掘り跡・・・祝山橋(和銅沢川)・・・内田家・・・下小川橋(横瀬川)・・・西行戻しの坂(黒草坂)(上の写真)・・・原谷橋(横瀬川)・・・彩甲斐街道(国道140号)・・・山神宮・・・瑞岩寺・・・泉福寺・・・札所一番四萬部(しまぶ)寺・旅籠一番「えびす屋」・・・八坂神社・・・清水橋(定峰川)・・・如意輪堂・・・二番真福寺・・・岩棚のキンモクセイ・・・沢の口橋(大棚川)・・・弁天橋・・・光明寺・・・山田橋(横瀬川)・・・三番常泉寺・・・秩父ふるさと歩道橋(横瀬川)・・・四番金昌寺・・・織姫神社・・・長興寺・・・五番語歌(ごか)堂・・・語歌橋(横瀬川)・県道11号・・・坂氷交差点(国道299号)・・・(秩父市役所)・・・西武秩父駅(西武秩父線)

 奈良は2年後の平城遷都1300年記念祭の「せんとくん」と「まんとくん」のマスコットキャラ争いで盛り上がっていた。(一部だけかも 下に写真あり) ここ秩父は和銅元年(708)に銅が採掘されて今年が1300年だ。秩父鉄道の黒谷駅も4月から和銅黒谷駅と改称され、秩父札所の34ケ寺では、7月18日まで本尊が開帳されている。近くに寄り道しながら秩父札所を順番通り巡る坂道散歩です。巡礼道には江戸時代から現在までに立てられた石の道標、新しい木柱の道標や道案内掲示板などが整備されている。一番から三十四番まで番付通り歩かない方が距離が短く合理的だが、別に急ぐ旅でもないし今回は番付順に歩くつもりだ。

 和銅遺跡は思ったより高い位置にあった。露天掘りの跡から下って和銅沢川の祝山橋から市街地へ出て、札所一番との分岐から秩父往還を下小川橋の方へ向う。橋を渡ると右へ旧道の西行戻しの坂が上っている。西行が戻ったのはこの坂が急だからでも、狐狸妖怪の類いが出たからでもない(後述)。 坂上で新道に合流し、南に行き原谷橋で横瀬川を越えて、だいぶ遠回りして瑞岩寺前の巡礼道に出た。泉福寺前で江戸からの巡礼道とぶつかると札所一番四萬部寺は近い。土曜日だし本尊も開帳しているので参詣者が多いかと思ったがどこの札所もそうでもない。それも車で札所を回っている人たちがほとんどで歩いている人は皆無に近い。

 一番から二番真福寺の間は如意輪堂の分岐を過ぎ、馬頭観音のあたりから高篠山(665m)の方への長い上りとなる。山道ではなく舗装されている道なのでけっこう前後から車が来る。20分位上り右に入ると二番真福寺だ。標高は300mほどらしい。二番から光明寺、三番常泉寺へのつづら折りの急坂の下りの途中から林間の巡礼古道に入る。新道に出る手前に岩棚のキンモクセイとかつて巡礼宿だった旧家がある。二番と三番の納経所の向嶽山光明寺の門前から真向かいに武甲山を見て下り、右に曲がって真っ直ぐ行くと県道を横切り山田橋に出る。ここからの横瀬川の眺めがいい。昔の巡礼道は川岸に下って川を渡ったらしい。山田橋を渡り、南に行くと第三番常泉寺だ。あじさい寺というが花はあまり咲いていなかった。まだ早いのだろうか。

 秩父ふるさと歩道橋で横瀬川を越えて、真っ直ぐ行くと仁王門の大ワラジ、参道に並ぶ石仏たちと子育観音像の四番金昌寺で、さすがここは訪れる人も多い。子育観音もいいが、酒呑み地蔵の方が親しみがわく。四番から南方向に行くと平坦地にぽつんと仁王門、観音堂が立つ五番語歌堂で、おかし味のある仁王像が立ち、縁起には聖徳太子も登場する。今日の予定はここまでで、語歌橋バス停から西武秩父駅までバスに乗ろうと思ったが1時間以上も待つので歩くことにした。途中、コンビニで買った缶ビールを飲みながら、大きく山肌を削られた武甲山の痛々しい姿を眺め、酒呑み地蔵風にのんびりと駅まで向かった。暑い中をかなり歩いたので疲れてきた。西武池袋線は特急レッドアローに乗って帰ることにする。特急といっても新幹線の特急料金に比べればただみたいなものだが。

  参考:『和同開珎』(Web Guiede秩父)
                『秩父三十四観音霊場』(秩父札所連合会)

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Img_8769 和銅黒谷駅

和銅奉献1300年を記念し、2008年4月1日に駅名を黒谷駅から改称し、駅舎もレトロ風にリニューアルした。

Img_8765 ホーム上の和同開珎(わどうかいちん)のモニュメント。

Img_8764 説明板

Img_8777 案内図

Img_8772 国道140号から聖神社、和銅遺跡へ

Img_8780 聖神社 《地図

和銅採掘の祝典のために祝山に建てられた宮をここに移し聖神社と称した。

『秩父の伝説』によると、平将門の愛妾の桔梗の前が、平忠文の回し者であることが発覚し、尼御前と名を変えてこの地に落ち延びて境内の岩窟に隠れていた。しかし城峰山にこもっていた将門の兵士に見つかって竹槍で打ちとられたという。岩窟(跡)も説明板にもそれらしき記載はない。ここではなく瑞岩寺近くの聖神社のことなのか? ここの伝説では桔梗の前は将門を裏切った敵方だが、取手市には、桔梗の前は将門の敗死を聞いて沼に入水し、そこが「桔梗田」として管理されている

Img_8776 説明板

Img_8786 聖神社から上って左へ和銅露天掘り跡

Img_8788 二十二夜塔

月を信仰の対象にした、月待ち行事の際の供養塔。二十三夜塔は多いが、二十二夜塔は珍しいのでは。

Img_8792 和銅露天堀り跡のモニュメント 《地図

Img_8793 説明板

Img_8804 露天掘り跡

Img_8790 説明板

飛ぶ鳥よりも早く毎日都へ和銅を送り届けたという、『羊太夫の伝説

群馬県吉井町の多胡碑の『羊太夫の伝承

Img_8812 和銅沢川の祝山橋へ下る。

Img_8816 祝山橋

Img_8820 内田家 《地図

17世紀初期の建築。2階は養蚕部屋

Img_8821 説明板

Img_8826 札所道標(二又の所・元禄8年(1695の銘)) 《地図

左は熊谷方面から札所一番へ向う巡礼道で国道140号と合流し、一番四萬部寺方向、右は国道を渡り、下小川橋から西行戻しの坂を上り、秩父の中心街へ通ずる秩父往還。

Img_8829 国道を渡って下小川橋の方へ(正面は武甲山)

Img_8834秩父往還の新道。

西行戻しの坂は正面の木の茂みの手前で右に曲がって上り、坂上で新道と合流する。

Img_8835 西行戻しの坂(坂上方向) 下小川橋(横瀬川)の南から北西から南に上る。 《地図

西行が旅の途中で、下小川橋のそばの農家でお茶を無心し、茶を飲みながら娘の織る絹織物を見て、「その絹機(きぬばた)は売るか」と尋ねた。娘は、「うるかとは 川の瀬に住む 鮎のはらわた」と答えた。西行は娘のとっさの返し歌に驚き、礼を言って坂を上って行くと籠を背に鎌を手にした少女が下ってきた。西行がどこへ行くのかと問うと、少女は「冬ほきて 夏枯れ草を 刈に行く」(これから夏に刈る麦を刈に行く)と答えて通り過ぎて行った。西行はこの歌の意味が分からず、秩父では娘まで歌の道にすぐれている。行く先々で歌問答の難問が出るやも知れぬ。大宮郷(秩父神社のある秩父の中心街)に行くにはまだ早いと、坂を上らずに引き返したという。それから後、この黒草坂を「西行戻しの坂」ともいうようになった。秩父神社の妙見さまが、西行の歌の道の慢心を戒めるために娘に化身して、西行を歌で負かして、大宮郷に入れず途中で引き返させたのだという。『秩父の伝説』より

荒川日野地区の白久(しろく)にも同じような話がある。:「西行が白久の円通寺近くの草の上で昼寝をしていると、麦刈り鎌も持った農民が通りかかった。農民は真っ黒に日焼けした西行の顔を見て、「白久にも黒い坊主が寝ているな」とつぶやいた。これを聞いた西行は起き上がり、「白久という字も墨で書く」とやり返した。すると農民は「俺はこれから冬ほきて 夏枯れ草を 刈に行く」と問いかけた。農民は意味の分からない西行を後にして、鼻高々に去って行った。(西行法師と農民と)『秩父の伝説より』

*奥州街道の白河宿には、「宗祇戻し(の橋)」があり、「白河での連歌興行に向う途中の宗祇が、ここで綿を背負った娘に出会った。娘に「その綿は売るか」と尋ねると、娘は、「阿武隈の 川瀬にすめる 鮎にこそ うるかといへる わたはありけれ」と答えた。この歌の巧みさ、風流さに宗祇は自信をなくして、都に戻ってしまったという。」
『奥の細道』で松尾芭蕉に随行した、曽良の日記には、これとは別の逸話が記されているが、あまり面白くない。「白河市(福島県)の坂」に記載。

Img_8836 馬頭尊

Img_8839 坂上方向

Img_8845 坂上の地蔵、庚申供養塔(右端)など

Img_8842 八坂神社の跡か(地蔵の道路向かい)

Img_8857 山神宮 《地図

小さな社

Img_8862 瑞岩寺 《地図

Img_8863 説明板

Img_8861 後ろの岩山一面に咲くつつじは市の天然記念物。中腹に不動堂があり上まで上れるようだ。

Img_8886 泉福寺前 《地図

江戸からの巡礼道は川越通りがもっともよく使われた。川越、小川から粥新田峠を越え、この寺の前を通り、熊谷通りからの巡礼道と合流し、札所一番に入った。左下に道標(下の写真)が立つ。

Img_8885 道標

「右ハ 小川 まつ山 よ里い 左ハ 小平 めうぎ」

Img_8881_2 六十六部塔

巡礼が立てたものだろう。

Img_8880 巡礼宿の「旅籠一番えびす屋」(四萬部寺門前)

Img_8879第一番四萬部寺 《地図

長享2年(1488)の札所番付では二十四番だった。江戸時代に入り、江戸から秩父に入る2本の主要道の秩父往還の川越通りと熊谷通りの出会う地点の当寺が番付の改変で一番寺になった。

Img_8875 説明板

Img_8878 本堂(正面)・施餓鬼堂(右)

Img_8874_2 本堂

行基の作と伝える本尊の聖観世音菩薩像は開帳しているが本堂内は撮影禁止。

Img_8877_2 施餓鬼堂

毎年8月24日の大施餓鬼会は関東三大施餓鬼の一つ。古くは30俵の米を炊き、信者はもとより多くの乞食たちにも施したという。関東三大施餓鬼は、この寺と浦和の玉蔵院、杉戸町の永福寺のようだが、菖蒲町の長龍寺を入れる説のある。関東といっても全部埼玉県だが。

Img_8876 説明板

Img_8890一番から二番への分岐で道標が立つ。(新旧の石の道標)

二番へは右に清水橋へ下る。

Img_8896 道標

元禄15年の銘で、「右 大たな道 左 志加う道」

「大たな道」は二番大棚山真福寺、「志加う道」は定峰峠を越え、慈光寺(坂東札所九番)へ向う道。

Img_8902 如意輪堂

下に「右 三ばん 左 二番」の道標

Img_8906 如意輪観音

地元では「によりさま」と呼び、お産の神様として信仰されている。

Img_8914 二番真福寺への上りとなる。

Img_8916 馬頭観音

このあたりから傾斜がきつくなる。

Img_8919 つづら折りに高篠山へ上って行く。

Img_8922 石碑

安永9年?の銘

Img_8928 真福寺参道の石仏たち

Img_8924 第二番真福寺本堂 《地図

納経所は光明寺

Img_8925 説明板

Img_8927 観音堂

Img_8926 縁起絵

Img_8931 真福寺の前から

けっこう高さがある。

Img_8935 光明寺、三番常泉寺の方へ下って行く。

Img_8937 巡礼古道へ入る。

Img_8939 林間の巡礼古道を下る。

Img_8943 岩棚のキンモクセイ

樹齢500年以上

Img_8942 説明板

Img_8941 巡礼宿だった町田家

Img_8954 車道と合流して大棚川沿いのゆるやかに下りとなる。

Img_8961 光明寺 《地図

第二番、三番の納経所。

Img_8962 説明板

Img_8965 光明寺門前から武甲山

光明寺の山号は「向嶽山」

Img_8973 下って右に曲がり少し行くと、「右 三番道 左 四番道」の道標。直進して山田橋へ。

Img_8982 山田橋(横瀬川) 《地図

旧巡礼道は左側の細い道を下って川を渡った。

Img_8987 途中に怪しげな家があり通りにくいが。

Img_8986 このあたりで対岸に渡ったようだ。

Img_8988 山田橋から横瀬川

正面に「ホテル美やま

Img_8992 三番常泉寺へ

右に道標と地蔵

Img_8994第三番常泉寺 《地図

正面が本堂、左端が観音堂

Img_8998 説明板

Img_9001 観音堂

Img_8995 子持ち石

妊娠中の婦人のように見え、この石を抱くと子宝に恵まれるとか。

Img_9002 「あじさい寺」というから期待したが、まだ早いのか?

Img_9014 民話「お止め橋」

ふるさと歩道橋の手前

Img_9015 秩父ふるさと歩道橋 《地図》(道と橋の標示はない)

以前はこの歩道橋はなく、巡礼道は川岸に下り、小さな橋を渡って、右岸を上ったようだ。

Img_9018 観音堂?

手前に上部が欠けた「四番道」の道標が立つ。

Img_9019 堂内

Img_9021 県道を越え四番金昌寺へ

Img_9027 第四番金昌寺 《地図

仁王門と大草鞋

Img_9028 石仏が並ぶ

江戸時代には3800体もあったという。明治の廃仏毀釈で破棄され、現在は1300体余という。

Img_9030 説明板

Img_9031 観音堂

Img_9032 子育て観音

江戸時代の作、乳を飲ませる母親の慈母観音像。艶っぽく異国風でこの石仏の下絵を描いたのは浮世絵師の喜多川歌麿だとか、、蓮台にカエルが彫られていることから「ミカエル」と称し、隠れ切支丹が礼拝した「マリア観音」だとする人もいる。

Img_9033 酒呑み地蔵

酒樽の上に座り、頭に大盃を載せご機嫌だ。

Img_9041 織姫神社 《地図

金昌寺から五番語歌堂への途中。

Img_9042 五番語歌堂への道から武甲山

Img_9044 地蔵さん

Img_9047 長興寺 《地図

五番語歌堂の納経所

Img_9048 五番語歌堂 《地図

周囲を木や垣根、塀などに覆われてなく平坦地にポツン仁王門と本堂が立っている。

Img_9049

語歌堂

寺名の由来となった歌道の奥義を論じ合った僧は聖徳太子の化身だったとか。時代がちょっと違うのでは。 「西行戻しの坂」で一旦戻った西行が歌道の修行を積んで再度、秩父を訪れたとする方が少しはましな縁起話になるのでは。

Img_9053 説明板

Img_9050 仁王さん

メタ腹で田舎のオッサン風の顔がいい。

Img_9052 観音堂

慈覚大師の作と伝える本尊の准胝(じゅんてい)観音は仏母ともいわれる密教の女性尊で、百観音霊場中(西国、坂東、秩父)、西国五番と十一番にあるだけ。別名を子返し観音。

Img_9057武甲山(1304m)

語歌橋を越え、国道299号の坂氷交差点へ出る途中。

「秩父が嶽」と呼ばれていたこの山の岩室に、日本武尊が東征の折、自らの甲を奉納したので武甲山と呼ぶようになったという伝説の山も、セメントの原料の石灰岩を採掘のため削られ裸の山肌が痛々しい。

*****番 外******************

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「せんとくん」

平城遷都1300年祭の公式キャラクター

Photo_3

「まんとくん」

市民団体が公募で選んだキャラクター

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2008年6月 4日 (水)

奈良市の坂-2

2008年6月4日

JR奈良駅・・・三条通り・・・采女神社・猿沢の池・辷(すべり)坂・・・奈良公園・・・雲井坂・緑池・轟(とどろき)橋碑・一里塚碑・東大寺西門跡碑・・・・祇園社・・・東大寺転害門・・・佐保川(新石橋)・・・奈良坂・浄福寺・北山十八間戸・夕日地蔵・般若寺・・・奈良豆比古(ナラヅヒコ)神社・西福寺・・・黒髪橋・・黒髪稲荷神社・大黒芝・佐保山西陵七ツ石・・・奈良ドリームランド跡・・・興福院・・・下長慶橋(佐保川)・・・油坂下・・・JR奈良駅

 『大和物語』に登場する采女を祀った采女神社前から辷(すべり)坂を上り、春日神社の一の鳥居前から北に進むとなだらかな下りとなる。これが南都八景「雲井坂の雨」の雲井坂だが、今は車が渋滞してつながるただの国道で、雨が降っても情緒ある景色など望むべくもない。坂沿いの緑池も枯れそうで、雲井坂碑、轟橋碑、一里塚碑、東大寺西門の礎石なども気づかれることもなくぽつんと佇んでいる感じだ。これはこれで坂道散歩人としては文句はないのだが。

 東大寺転害門の先で佐保川を越えると奈良坂の上りが始まる。途中、会津八一が歌を詠んだ夕日観音が立つ。奈良坂は般若寺坂ともいい宮本武蔵の「般若坂の決斗」もこの坂だ。般若寺あたりからは平らになり奈良豆比古神社の先で新道に合流して木津の幣羅坂の方へ下って行く。

 奈良豆比古神社から西へ歴史の道へ入る。ちょうど峠の上を行く静かな道だ。黒髪橋を越えると黒髪稲荷神社で、その先に「大黒芝・佐保山西陵七ツ石」と書かれた看板が立っていて、薄暗い道端に石造物が並んでいる。ちょっと奇妙で不思議な空間だ。(後述) さらに西へ行くと奈良ドリームランドの広大な敷地跡にぶつかる。閑静な住宅街の間のきれいな坂を南下して、昨日と同様、興福院の前で歴史の道から離れ奈良駅に向った。

  【ルート地図

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Img_8639 辷(すべり)坂(坂上方向) 猿沢池と興福寺の間を西に上る三条通り 【ルート地図】の①

猿がすべったわけでもあるまい。

Img_8055采女神社 《地図

春日大社の境内末社。『大和物語』に、平城天皇に仕えた采女が、帝の寵愛が衰えたのを嘆いて猿沢池に身を投げた話がある。伝説では文武天皇の時といい、柿本人麻呂が歌を詠み、『枕草子』にも「猿沢の池は、采女の身投げたるをきこしめして、行幸などありけんこそ、いみじうめでたけれ。「ねくたれ髪を」と人丸がよみけん程などを思ふに、いふもおろかなり。」とある。『大和物語』には、山城(背)の椿坂の物語もある。(「山背古道-1」に記載)

奈良市と姉妹都市の福島県郡山市の『采女伝説』は、聖武天皇の時代の話となっていて、采女は入水すると見せかけて安積(あさか)の里(郡山市)に逃げ帰ったという。ここの伝説より内容も豊かで面白い。

Img_8056 采女の碑

Img_8054 猿沢池

興福寺の放生池。西北角に采女神社、東畔に采女が入水する時、着物を掛けたと伝える「衣掛柳」がある。

Img_8058 采女まつりの碑

Img_8126 衣掛柳の何代目か?

そばに衣掛茶屋もある。

2009年2月12日撮影)

Img_8125 采女と衣掛柳の伝説碑

(2009年2月12日撮影)

Img_8642 坂下方向

左奥が采女神社

Img_8643 坂上方向

興福寺五重塔(左上)

Img_8656雲井坂(坂上方向) 県庁東側の登大路町交差点から北に下る国道369号。【ルート地図】の②

上ツ道の延長上で平城京の東京極大路で、古来、交通の要所だった。南都八景(①南円堂の藤 ②猿沢池の月 ③春日野の鹿 ④三笠山の雪 ⑤東大寺の鐘 ⑥佐保川の蛍 ⑦雲井坂の雨 ⑧轟橋の行人(旅人))の一つ。

今では想像もつかないが、昔は木々に覆われ雨の中のこの坂には絵に画いたような風情があったのだろう。

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Img_8044

南都八景「東大寺の鐘」

Img_8048南都八景「春日野の鹿」

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Img_8652 雲井坂(阪)標

Img_8654 緑池と轟橋碑(雲井坂の坂沿い) 《地図

池は干上がって水はほとんどない。轟橋は石橋で渡ると音が響き渡ったのでこう呼ばれたとか。

Img_8657 坂下方向

下って佐保川を越えると奈良坂の上りとなる。

Img_8664_2 一里塚碑(緑池のそば)

どこを起点にしているかは不明らしい。

Img_8668東大寺西大門跡(一里塚の北側)

礎石が残る。東大寺の正門とも呼ばれ、一名を国分門ともいった。

Img_8663 東大寺旧境内説明板(西大門跡碑のそば)

Img_8671 祇園社

Img_8672 東大寺転害門 《地図

天平時代の東大寺創建当時の姿を残す唯一の遺構。三間一戸八脚門という形式。佐保路の東端にあるため佐保路門、西北大門ともいう。手向山八幡宮の転害会の際、お旅所としたところからこう呼ばれるようになったともいう。

Img_8673奈良坂(坂上方向) 国道369号の新石橋(佐保川)から北に上る。 【ルート地図】の③

上ツ道から平城京の東京極大路が北に延長して山城国木津へ出る京街道で、西の歌姫越(旧奈良坂越)とともに京都に通ずる主要街道だった。坂上近くに般若寺があり、「般若寺坂」とも。吉川英治の『宮本武蔵』に「般若坂の決斗」の舞台はこの坂。

Img_8674 坂上方向

Img_8682 北山十八間戸

鎌倉時代の寛元元年(1243)に西大寺の忍性によって般若寺の北東につくられたハンセン氏病などの重病者を保護した救済、福祉施設。永禄10年(1567)戦火で焼け、寛文年間(1661~72)にここに再建された。東西約37メートル、南北約36メートルあり、内部は18室に区切られている。一室はおよそ2畳ほど(1室のみ4畳ほど)で収容者に衣食住を供した。その数は延べ1万8千人と言われる。救済、福祉施設とは聞こえがいいが、差別、迫害された難病者を隔離して、閉じ込めたところだったのだろう。

Img_8685 夕日地蔵 《地図

永正6年(1509年)4月の銘がある。合津八一の歌がある。「ならざかの いしのほとけの おとがひに こさめながるる はるはきにけり」

西向きだが今は建物が並び夕日は拝めないのでは。

Img_8687 坂上方向

左は浄福寺

Img_8691般若寺楼門(国宝) 《地図

奥に見える十三重石塔は重文。

Img_8708 奈良豆比古(ナラヅヒコ)神社 【ルート地図】の④

祭神は平城津彦(ナラヅヒコ)神、施基親王(光仁天皇の父の田原太子=志貴皇子)、春日王(施貴親王の子)。平城津彦神はこの地の産土神、志貴皇子は万葉歌人として名高く、

「石(いわ)ばしる 垂水(たるみ)の上の さ蕨(わらび)の 萌えいづる春になりにけるかも」

「采女の袖ふきかえす明日香風 都を遠み いたづらに吹く」 (飛鳥から藤原京に遷都した時の歌)

Img_8709 社殿

奈良坂の峠上にあり、歌姫越えの添御縣坐神社同様、手向の神だったのだろう。10月8日夜に行われる翁舞は町内の翁講中により奉納されるもので、平成12年に国の重要無形民俗文化財に指定された。

Img_8712 樟(クスノキ)

樹齢千年以上で県の天然記念物。

Img_8706 樟(クスノキ)説明板

説明板の始めに「光仁天皇の父の田原太子が病気療養で一社中に隠居せられる・・・」とあるが、病気で隠居したのは春日王(光仁天皇の兄弟、田原太子の子)で、ハンセン氏病でお面をつけていたという。春日王の子の浄人皇子が病気平癒を祈願して舞ったのが、今に伝わる「翁舞」だろう。

Img_8694 奈良坂新道

般若寺の東側を通って奈良阪バス停の所で合流する。

Img_8703 新旧合流地点 《地図

右の旧道のすぐ先に右側に奈良豆比古神社がある。

Img_8704合流して下って行く。

この先、幣羅坂を下って木津川を越える。

Img_8721 歴史の道

ちょうど峠の上を西に行く平坦な道。

Img_8722 黒髪橋 《地図

黒髪山の由来は、兄の狭穂彦の叛乱に加わった垂仁天皇の皇后の狭穂姫は兄の陣営で皇子を産んだ。皇子を天皇に渡たそうとして、捕まらないように長い黒髪を切ってこの山に埋めたからという。

「ぬば玉の 黒髪山の山草に 小雨ふりしき  しくしく 思ほゆ」 詠み人しらず(柿本人麻呂の作ともいう。) 「しくしく 思ほゆ」は艶かしく、未練と恨みを含んだ女性の表現のように思うのだが。

Img_8725 黒髪稲荷神社 《地図

奈良豆比古神社の末社で宇賀神社ともいう。

道の正面奥の右側に下の写真の看板が立つ。

Img_8734 史跡 大黒芝 佐保山西陵七ツ石 聖武天皇生母藤原宮子后宮墓陵石 【ルート地図】の⑤

「大黒芝」といえば平城宮大極殿の発見のきっかけとなった言葉だ。大極殿の基壇の跡あたりが「大黒の芝」と呼ばれていた。

七ツ石というが右に並ぶのは地蔵を含めて5つだ。黒髪神社の石造物を入れるのか?

Img_8728 看板の右に並ぶ石造物

Img_8731 地蔵のようだ

Img_8733 何の石の塊り?

宮子の陵墓と関係があるのか。

Img_8732 豊国大明神

豊国神社にまつられている豊臣秀吉のことだが?

右に小さく「豊川大明神」・左に「玉井大明神」とある。豊川大明神は厄除けの神らしい。玉井大明神は分からない。

Img_8730 石母

藤原宮子のことか? 宮子は藤原不比等のむすめ。文武天皇の夫人。首(おびと)皇子(後の聖武天皇)を産むが心的病いで、以後36年間息子には会えなかった。天平勝宝6年(754)に死去して、佐保山陵で火葬にされた。そこが佐保山西陵の「大黒の芝」と呼ぶ火葬所で山陵だったが、ドリームランドの建設で破壊され、ここにその痕跡をとどめているだけらしい。それにしても文武天皇の后、聖武天皇の母の墓にしてはみすぼらし過ぎる。

がらくた置場 大和眉間寺多宝塔』によれば、吉田東伍の『増補 大日本地名辞書』に、「佐保山西陵  文武皇后藤原宮子姫(不比等女)の御陵なり、延喜式に列す。聖武陵の西北 大黒芝と称する地蓋其火葬所にして又山陵ならん。〔陵墓一隅抄〕今稲荷山とも呼び、七疋狐又犬石と呼ぶ、隼人像石四個陵上に置かる、雍良峰陵の条を参考すべし。」とある。 稲荷山は黒髪稲荷神社のある黒髪山、七疋狐は「七ツ石」で黒髪稲荷に関係があるのだろう。その後の「隼人像石・・・・・・」はどれをさすのだろうか? (「ぼん様」から詳細なコメントを頂きました。(下のコメント欄参照)

Img_8729 黒住大明神

調べても分からない神さんだ。

Img_8742 奈良ドリームランド跡 《地図

1961年7月開園~2006年8月31日閉園、時計台の時計は止まったまま、「夢の国」の駅には汽車は来ない。後ろに見えるのはジェットコースターか? 静かすぎて不気味だ。潰れたのは藤原宮子の墓を壊した祟り、怨念ではなかろうが。

Img_8743 ドリームランド跡から下る坂 《地図

Img_8751 静かな住宅街の間の坂

途中の家の人に坂の名はあるか尋ねたが、聞いたことがないという返事だった。

Img_8753 鴻の池

正面に鴻乃池道場、左に中央体育館、後ろは若草山方向。

Img_8760この坂を下っていけば佐保川の下長慶橋に出る。歴史の道は途中、右に曲がり興福院前を通る。

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2008年6月 3日 (火)

奈良市の坂-1

2008年6月3日

JR奈良駅・・・三条通り・・・高橋(佐保川)・・・県立図書情報館・・・(歴史の道)・・・下堂橋(秋篠川)・・・皆天満宮・・・(薬師寺)・・・(唐招提寺)・・・宝来山古墳(垂仁天皇陵)・・・三条通り(国道308号)・・・垂仁天皇陵陪塚・・・西蓮寺①・・・菅原神社・・・八坂神社・本教寺・・・西大寺・・・(近鉄奈良線)・・・二条町・・・(称徳(孝謙)天皇陵)・・・日葉酢媛陵・成務天皇陵・・・瓢箪山古墳・・・塩塚古墳・・・マラ塚・・・添御縣坐神社・歌姫越え(歌姫街道)・・・(猫塚)・・・(平城天皇陵)・・・葛木神社・・・西蓮寺②・・・水上池・・・磐之媛命陵・・・コナベ古墳(小奈辺陵墓参考地)・・・ウワナベ古墳(宇和奈辺陵墓参考地)・・・(JR奈良線)・・・不退寺・・・狭岡神社・狭穂姫伝承地・・・瑞景寺・・・長慶寺・・・興福院・・・下長慶橋(佐保川)・・・太田稲荷大明神・・・油坂・西方寺・蓮長寺・教行寺・・・念仏寺・・・漢国(かんごう)神社・・・開化天皇陵・・・三条通り・・・JR奈良駅

 早くも昨日梅雨入りして今日も朝から雨だ。予定を変更し午前中は大安寺近くの県立図書情報館で過ごし、小雨の中を右回りで「歴史の道」沿いに歩く。日光・月光菩薩像たちが東京国立博物館へ出張中の薬師寺から低い崩れかかった土塀の残る道を唐招提寺へ向い、近鉄の線路を渡り北へ行くと満々と水をたたえた大きな濠の中に常世の国を探し求めた垂仁天皇陵の宝来山古墳が浮かぶ。小雨に煙るその姿はまさに常世の国、宝来山といった風情だ。

 真ん中に地蔵堂がある二条町交差点から北に行くと、佐紀盾列(たてなみ・たたなみ)古墳群の天皇陵、皇后陵の並ぶ一帯に入る。広い濠に囲まれた道は静かで散策にはもってこいだ。瓢箪山古墳のから暗い小道を抜け、マラ塚らしき所を過ぎると添御縣坐神社で、大和と山城を結ぶ下ツ道の延長の歌姫越えの古道が通っている。この道は都が平安京に移り、奈良市街が東大寺、興福寺の門前町として発達するに従って、上ツ道(国道169号)の延長の奈良坂越えの方へ交通路が移って行った。今はただの車道で通行量も多く、添御縣坐神社までは起伏はゆるく、神社から北に下っていて奈良坂のような峠の感じはしない。

 南に戻り雑木林に覆われ近づきにくい猫塚を眺め、葛木神社から水上池に出た。ここも大きな周濠に囲まれて磐之媛陵、小奈辺・宇和奈辺の陵墓参考地が並んでいる。JR奈良線を跨線橋で越え、在原業平の不退寺、狭穂姫の伝承地の狭岡神社から興福院まで行き、歴史の道から離れ、南に下長慶橋で佐保川を越え、ゆるやかに上って下ると油坂の坂下あたりに突き当たった。油問屋、油商人が住んでいて町名も油阪町のこの坂も、坂沿いに寺や旧家も残るものの今は車の多いだだっ広いだけの通りで何の面白味もない。だが坂道散歩としては一つでも名のある坂を歩けたことを良しとすべきか。

 一昨日捻挫した右手首に医者でギブスのような物を付けられ、途中まで小雨の降る中、傘はさしにくく、写真も撮りにくかったが、平坦で何度か歩いているコースとはいえかなり歩いた。風呂に入って、一杯やって今日はよく眠れるだろう。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_8487皆天満宮(薬師寺の隣り)

Img_8491 薬師寺東塔(右)

撮り方が悪いせいか傾いて見える。

「ゆく秋の 大和の国の薬師寺の 塔の上なる ひとひらの雲」 佐佐木信綱

Img_8490 太郎稲荷(薬師寺の前)

Img_8497 薬師寺から唐招提寺への道

Img_8502 垂仁(すいにん)天皇陵(宝来山古墳・全長227mの前方後円墳) 

第11代天皇、皇后の狭穂姫は兄の狭穂彦の叛乱に加担して焼死。後の皇后の日葉酢媛が死去した時は殉死に替えて土偶を葬った(埴輪の起源説話)。田道間守(たじまもり)に命じて常世の国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせた。手前の小島が田道間守の墓とされている。佐紀盾列古墳群の南端に位置する古墳。

Img_8503 垂仁天皇陵陪塚 《地図

垂仁天皇と関連のある人物の古墳。陪塚といってもかなり大きい。

Img_8507 菅原神社

菅原氏は天皇陵造営や埴輪の製作をした土師(はじ)氏から改姓した。秋篠氏も同様。菅原道真はこの地で生まれたともいう。京都で生まれた説もあり定かでない。

Img_8508 八坂神社

Img_8509 西大寺

天平神護元年(765)に称徳天皇(孝謙天皇のが東大寺に対抗して建立。

手前が東塔跡の基壇。当初は八角七重の大塔(手前の敷石が八角の基壇計画の所)を建てる予定だった。

Img_8511 説明板

Img_8514 石落神社

西大寺の鎮守社。見世棚造の社殿。

Img_8515 説明板

Img_8516 地蔵堂

二条町交差点の所 《地図

Img_8522 称徳(孝謙天皇)天皇陵

聖武天皇と光明子のむすめ。この時代には藤原仲麻呂(恵美押勝)、吉備真備、道鏡、和気清麻呂らが活躍する。 西大寺の創建者。

Img_8519 日葉酢媛(ひばすひめ)陵

垂仁天皇の後の皇后、丹波道主(たにわのみちぬし)王のむすめ。

Img_8521 成務天皇陵

第13代天皇だが記紀には事蹟、伝承の記述が少ない。

Img_8526 瓢箪山古墳(前方部から後円部方向) 《地図

佐紀盾列古墳群の一つで、4世紀末~5世紀初頭の全長96mの前方後円墳。

Img_8525 説明板

Img_8553 瓢箪山古墳からマラ塚、l添御縣坐神社へ向う暗い小道。

Img_8552 マラ塚らしい 《地図

地図からはここだが、案内板もなく、近くの畑で作業している人もいるが名前が名前だし、確かめなかった。

Img_8539 添御縣坐(そうのみあがたにいます)神社(歌姫神社)

古代の下ツ道の北端の大和と山城の国境の歌姫越えに鎮座し、旅人の安全を守る手向けの神として崇敬されてきた。奈良坂越えにもちょうどここから真東の坂上に奈良豆比古神社が鎮座している。

Img_8538 説明板

Img_8540 「このたびは 幣(ぬさ)も取あへず手向山 紅葉の錦 神のまにまに」 菅原道真

この歌の手向山は東大寺の東の手向山八幡宮のことかと思っていた。

Img_8542 「佐保すぎて 寧楽(なら)の手向けに 置く幣は 妹を目離(めか)れず 相見しめとぞ」 長屋王(『たのしい万葉集』)

Img_8541 社殿

Img_8544 歌姫越え(歌姫街道)(坂下方向) 《地図

越えるといっても峠のようではなく、添御縣坐神社まではほとんど傾斜はなく、神社前から北へ下って行く。「歌姫」とは古事記にも歌が載る仁徳天皇の皇后、磐之媛(葛城襲津彦のむすめ)にちなむ名とも。たしかに磐之媛陵も近い。

つぎねふや 山代川を 宮のぼり わがのぼれば あをによし 奈良を過ぎ をだて 大和を過ぎ わが見がほし国は 葛城高宮 吾家(わぎへ)のあたり 『古事記』 (葛城高宮(高丘宮跡)は葛城古道の道筋にある。)

Img_8559 塩塚古墳

5世紀前半の全長105mの佐紀楯列古墳群では中規模の前方後円墳。

Img_8558 説明板

Img_8561 平城天皇陵(正面) 《地図

全長250mの前方後円墳

Img_8563 葛木神社

仁徳天皇が皇后の古代の豪族、葛城氏の出自の磐之媛を偲んで建立したのか。

Img_8564 由来書

Img_8567 水上池から

Img_8568 磐之媛命陵

葛城襲津彦のむすめで、仁徳天皇の皇后。嫉妬深く(情熱家?)で、『日本書紀』によれば仁徳天皇が八田若郎女を寵愛したため家出して、没するまで戻らなかった。上述の歌はその時の歌。

Img_8575 コナベ古墳(小奈辺陵墓参考地)

Img_8586 ウワナベ古墳(宇和奈辺陵墓参考地)

Img_8587 JR奈良線の跨線橋

Img_8589不退寺 《地図

承和14年(847)在原業平が建立。

Img_8591 説明板

Img_8595 狭岡神社参道石段

石段脇に狭穂姫の伝承の鏡池などが残る。

Img_8603 祭神の天神八座

あまりなじみがない神だ。

Img_8600 狭穂姫伝承地の碑

「佐保」の地名は狭穂彦、狭穂姫からきているのだろう。

Img_8599 説明板

Img_8602 鏡池

枯れていたのを平成17年に保水工事をした。

Img_8601 説明板

Img_8596 狭岡(さおか)神社

霊亀2年(715)に藤原不比等が邸宅「佐保殿」の丘に天神八座を祀ったことに始まるという。

Img_8606 しあわせ地蔵(奈良高校の東側)

Img_8610 長慶寺門前の狛犬?

可哀そうに茂みに後ろに隠れて正面からは見えない。

Img_8608 ちょっと雰囲気が違う境内だ。

Img_8609 「迷信陋習打破之道場」とある。

Img_8611 興福(こんぶ)院 《地図

浄土宗知恩院派の尼寺。

下長慶橋から佐保川 《図》                                 Img_8613

 

 万葉集に詠まれた佐保川

   佐保川の清き河原に鳴く千鳥
     かわづと二つわすれかねつも   作者 不詳

   千鳥鳴く佐保の川門清き瀬を

         馬うち渡しいづか通はむ   大伴 家持

   佐保川の小石踏み渡りぬばたまの

       黒馬の来る夜は年にもあらぬか   坂上 郎女

   千鳥鳴く佐保の川瀬のさざれ波 

       やむときもなし我の恋ふらくは    坂上 郎女

Img_8617 太田大明神

Img_8622 油坂(坂上方向) 油阪交差点から東に上る。左は西方寺の塀。 《地図

中世には符坂といったが、長禄2年(1458)には「油坂座衆」と記録がある。興福寺寺務の支配下にあり、符坂油座があって油商人がおり、座衆は興福寺大乗院寄人、春日若宮神人となり、東大寺油問職も持っていた。『奈良県の地名』から

Img_8628 坂下方向

Img_8635 念仏寺 《地図

由緒書によれば徳川家康にゆかりのある寺。

Img_8634 由緒書

Img_8002 漢国(かんごう)神社 《地図

祭神は園(その)神として大物主命、韓(から)神として大己貴命・少彦名命を祀るという。かつては春日率川坂岡社と称していたが、韓神の韓が漢に、園神の園が国となり、「漢国神社」という社名になったと伝える。金達寿は『古代朝鮮と日本文化』の中で、「園神とは、「ソの神」、すなわち新羅の神であり、韓神とは百済神のことです。」と書いている。大物主命=大己貴命で大国主命のこと。少彦名命は大物主命と協力して国づくりをした神だ。関連がよく分からない。後から園神の所に大物主命を、韓神の所へ大己貴命・少彦名命を当て込んだだけなのか?

Img_8005説明板

Img_8003 源九郎稲荷神社(漢国神社境内)

Img_8001 開化天皇陵

欠史八代最後の第九代天皇。子は第十代崇神天皇。孫に謀反を起こした狭穂彦、狭穂姫(垂仁天皇の皇后)の兄弟。

Img_7998 ?神社 《地図

阿倍仲麻呂(右の絵)ゆかりの神社なのか?

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2008年6月 1日 (日)

城陽市(京都府)の坂

2008年6月1日

大久保駅(近鉄京都線)・・・奈良街道(県道69号)・・・芭蕉塚古墳・・・久津川車塚古墳・・・平川廃寺跡・・・(JR奈良線)・・・丸塚古墳・・・大谷川・・・古墳公園(①・②・③・④・⑤)・・・芝ケ原13号墳・・・正道官衙遺跡・・・久世の鷺坂・芝ケ原遺跡・久世神社・・・水度(みと)坂・水度神社・・・(JR奈良線)・・・水度神社参道入口・玉池・夜叉ばあさんのムクノキ・・・城陽駅(JR奈良線)

 万葉集に歌われた久世の鷺坂、山背古道の水度坂、古墳の街、京都と奈良の中間の五里五里の里、城陽市の坂道散歩です。芭蕉塚古墳、久津川車塚古墳は竹薮と雑木林に覆われ墳丘がはっきりしない。丸塚古墳は入れないようで、古墳公園はどれも閑静な新らしい住宅街の間の高台にあるが、今は整備、手入れがされていないようで置き去りにされている感じだ。芝ケ原13号に上る石段下には鍵が掛けられて上れない。これでは古墳の街とは呼べない。

 東京文京区の鷺坂の本家、元祖が久世の鷺坂だ。もっと車の通行の多いただの車道かと思っていたが、万葉の時代とは程遠いだろうが意外に静かな坂でほっとした。やっぱり本家の坂というところか。鷺坂の坂下から南に行き、直線の長く、ゆるやかな水度坂を上る。この坂は山背古道で水度神社の境内から鴻の巣山へ上って続いている。なぜか随分、遠回りする道筋になっていたようだ。水度神社に寄り、水度坂を引き返しJRの線路を越えた所が参道の入口で一の鳥居が立つ。すぐそばにこの地の伝説にちなむ「夜叉ばあさんのムクノキ」がある。古墳公園で転んでひねった右手首が放っておいたら夜になってうずいて、腫れてきた。これも夜叉ばあさんの祟りか?

  【ルート地図

  文京区の鷺坂は「文京区の坂-6」に記載。

  参考:『城陽市』(城陽市観光協会)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_8269_2芭蕉塚古墳(前方部の南東側から 右に後円部が続く) 【ルート地図】の①

5世紀後半の全長110mの前方後円墳。2005年の調査で東西の対称位置に造り出しがあったことが確認された。

Img_8266_2 説明板

Img_8272 久津川車塚古墳の外濠跡(西側) 《地図

2005年に外濠から中世(14世紀)の瓦器片が出土。古墳が造られてから約900年もの間、外濠がむき出しのまま残っていたらしい。

Img_8275説明板

Img_8282 前方部の南西から

5世紀前半の全長約180mの南山城最大の前方後円墳。

Img_8292 JR奈良線で右側が縦断されている。

Img_8290 平川廃寺跡(金堂跡(右の石標の所)から塔方向) 《地図

奈良時代中頃(8世紀半ば)創建。伽藍配置は東に金堂、西に塔の法隆寺式。寺域は東西175m、南北115m。塔は国分寺に匹敵する規模だった。平安時代の初めに修理、その後火災で消滅。

Img_8286 説明板

Img_8298 丸塚古墳 《地図

久津川車塚古墳より早い5世紀初頭?の全長104mの帆立貝式前方後円墳

Img_8312 古墳公園の間の通り

閑静な新興住宅街だ。

Img_8313 上大谷古墳群説明板

4~7世紀築造の20基の古墳群(うち前方後方墳2基)。この中の9基を古墳公園に保存。

古墳公園の位置(左上が①・右上が②・中が③その下が④・下が⑤)(番号は便宜上、勝手につけたもの)

Img_8306 消された(消した?)ままの説明板

古墳公園①の8号墳。全長33mの前方後方墳だが墳丘ははっきりしない。

Img_8320 17号墳の石室(古墳公園②内)

移築、復元したもの。6世紀後半の13mの円墳の横穴石室。

Img_8319 説明板

Img_8311 古墳公園②

Img_8350 尼崎6号円墳?(古墳公園⑤)

Img_8355 芝ケ原13号墳 《地図

芝ケ原古墳群の東端の丘陵上。直径24mの円墳。5世紀後半頃の築造か。

Img_8356 説明板

説明板の左隣りに古墳へ上る石段があるが、鍵が掛けてあり入れない。墳頂から回りの住宅が見えすぎるからだろうか?

Img_8358 正道官衙遺跡 【ルート地図】の②

Img_8360 正道官衙遺跡説明板 

5世紀の小古墳、6~7世紀の集落遺構、7世紀以降の山城国久世郡の郡衙(郡の役所)の複合遺跡。

Img_8361 配置図(郡衙を復元)

左が南門、右の大きな建物が庁屋、その後ろに副屋、正倉が並ぶ。

Img_8376 南門

役所の正門で、両側に溝が掘られ、築地塀が立っていた。

Img_8373 庁屋方向

役所の中心の建物。

Img_8384 久世の鷺坂(坂上から) 久世神社の東側に沿って北東に上る。 【ルート地図】の③

日曜のせいか予想外に車の往来も少なく静かな雰囲気の残る坂だ。以前は久世神社の西の旧奈良街道(現奈良街道(県道69号)の東側の芭蕉塚古墳と久津川車塚古墳の間の道)を鷺坂としていたという。

 鷺坂の由来は、①各地の残る日本武尊(ヤマトタケル)の「白鳥伝説」の一つで、タケルが死後、白鳥と化してこの地にとどまったから。(久世神社の祭神は日本武尊) ②この地は、栗隈山の支峰が、木津川の湿原に向かって突出する先端にあたるところの坂であることから、むしろ崎坂、先坂と記すべきところを、鷺坂の字を当てたことから白鳥伝説が附会された は白鳥がなぜ鷺になったのか? 色が白いことくらいしか似ていないのでは。まあ、「鷺を烏と言う」よりはましか。②は地形的なもので、各地にある「ウトウ(善知鳥)坂」と同じだ。

Img_8396 坂上方向

山背古道の水度坂を下ってこの坂を上り、宇治川を宇治の渡しで越え宇治、近江に通じていた古道の道筋。

Img_8386 芝ケ原遺跡説明板

芝ケ原丘陵の古墳時代後半から飛鳥時代の集落跡。遺跡の範囲には芝ケ原古墳郡や久世廃寺(久世神社境内)がある。

Img_8387 遺跡分布図

「現在地」の下の道が鷺坂

Img_8391 坂下近く

右が久世神社

Img_8395 久世鷺坂旧跡碑(左)・万葉歌碑(中)・説明碑(右)

Img_8394 久世鷺坂旧跡碑

Img_8393 万葉歌碑

「山城の久世の鷺坂 神代より 春ははりつつ 秋は散りけり」   柿本人麿歌集  

万葉集 巻第九-一七〇七

Img_8392 説明碑

Img_8369 鷺坂(山)、久世を詠んだ万葉歌碑(正道官衙遺跡に設置してある。)

右の2首に鷺坂山、左の3首に久世が出てくる。右から3首目が「久世の鷺坂」の歌。

Img_8415 久世神社

本殿は保存修理中で今年の11月末竣工予定。

Img_8401 久世廃寺跡・久世神社本殿説明板

Img_8417 右が鷺坂

Img_8420 水度(みと)坂(坂上方向) 【ルート地図】の④  水度神社から西方向にゆるやかに直線的に下る坂。

Img_8424 坂上方向

Img_8442水度神社

Img_8444 説明板

Img_8458 本殿(後方)

一間社流造で文永5年(1488)建築。国の重要文化財

Img_8455 山背古道

境内から鴻の巣山(117m)へ上って行く。

Img_8471 夜叉ばあさんのムクノキ 【ルート地図】の⑤

京都新聞『ふるさと昔語り』の「夜叉婆さん伝説

道路の反対側が玉池。

Img_8474 説明板

Img_8476顔のようにも見える。

Img_8470 水度神社の参道はこの一の鳥居(夜叉ばあさんのムクノキのそば)から始まり、JRの線路を越え直線的に神社まで上って行く長い緩やかな水度坂だ。

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