四国遍路道(香川県-4)
2008年8月27日
瓦町駅(琴電)・・・国道11号(志度街道)・・・向良神社・・下千代橋(御坊川)・・・新詰田川橋(詰田川)・・・新春日川橋(春日川)・・・新川大橋(新川)・・・大橋(相引川)・・・県道150号・・・潟元駅(琴電)・・・県道14号・・・道池(新池)・・・ 遍照院・・・屋島御加持水(番外霊場)・・・不喰梨(くわずなし・番外霊場)・・・畳石・・・84番屋島寺・獅子の霊厳・屋島城跡・血の池・・・(屋島ドライブウエイ)・・・佐藤継信の墓・・・安徳天皇社・・・菊王丸の墓・・・北向地蔵堂・・・義経弓流し・・・高橋(相引川)・・・洲崎寺(番外霊場)・・・県道146号・・・85番八栗寺・・・県道145号・・・大谷池・・・六万寺(番外霊場)・・・(六万寺駅)・・・(大町駅)・国道11号・・・(八栗新道駅)・・・(塩屋駅)・・・(房前駅)・・・(原駅)・・・平賀源内旧宅・・・地蔵寺(番外霊場)・・・常楽寺・86番志度寺・・・琴電志度駅
今日も雨だ。雷、突風も吹くというので予定を変更し、源平合戦ゆかりの屋島へ向うことにした。84番屋島寺、85番八栗寺ともけっこう高い所にあるが、未舗装の遍路道は短いのでなんとかなるだろう。高松市街を国道11号を東へ、何本目かの川を渡り、潟元駅から屋島寺への上りとなる。起伏と変化のある道はウオーキングには格好なようで、雨にもかかわらず地元の人が軽装で行き交う。
屋島寺はお遍路より、普通の観光客が多いというがこの天気で人出も少ない。かわらけ投げができる標高300m近い獅子の霊厳の展望台あたりは海からの風で寒いくらいだ。高松市街、瀬戸内海に浮かぶ鬼ケ島の女木島などの眺望を楽しんだ後、屋島城跡から血の池を通り、85番八栗寺への急坂の旧遍路道に入る。正面に八栗山(五剣山)の岩峰が見え、真下は檀ノ浦(源平屋島の合戦の「那須与一の扇の的」、「義経弓流し」などの話が伝わる所。平家が滅んだ壇ノ浦は下関の関門海峡)だ。(上の写真は屋島ドライブウエイを横切り、ガードレールの切れ目から直線的に下る遍路道。) 下ってまた八栗山を上り返すのはきついなと思いながらゆっくり下るが、急坂でおまけに雨でつるつるだ。案の定、滑ってビニール傘をついたら心棒から折れてしまった。注意深く、慎重に下っても滑るのだからたまらない。坂下あたりから源平合戦ゆかりの所が続く。「義経弓流し」の案内板の向かいのセルフうどん店で休憩し、高橋を渡り、洲崎寺から八栗寺へと上り始める。
遍路道の所々に地蔵さんが立っている。遍路は地蔵さんを拝んではいけないという話があったような。地蔵さんに掛けられた願いを全部背負って行くことになるからとかいう理由だったと思う。別にかまいやしない、けちなことは言わない。全部背負って、引きずって行こうじゃないか。なんて、偉そうに。屋島寺へのケーブルカーは休業中だが、ここのは動いている。たいした距離でもないのにけっこう乗る人がいるようだ。八栗寺はバスの団体さんや車で来る人で混んでいた。皆、完全無欠な遍路姿で一部のスキもないが、雨の中、歩いてやっとここまで来て休んでいると、この人たちは何を考えて札所を回っているのだろうかと思ってしまう。今ではこっちが遍路でなく変路なのだろう。
休憩もそこそこに86番志度寺への遍路道に入る。急な車道の下り坂だが車も通らず、雨でも寺の境内にいるより遍路道を歩いていた方がずっと気分がいい。志度寺との分岐の道標から六万寺に向う。両側の草むらからマムシでも出そうな雰囲気ではあるが、この道もなかなかいい。マムシの代わりにカタツムリが雨に濡れた道の真ん中を這っていた。六万寺は安徳天皇の行在所だった所で、何となく寂れた感じがいい。ここから六万寺駅までが今日の予定であったがまだ夕刻には間がある。国道11号を琴電沿いに東へ志度寺まで行くことにする。単調な国道歩きを続け、お遍路休憩所の辻から遍路道に入る。原駅の先の平賀源内旧宅、地蔵寺を過ぎると遍路宿が並び、突当たりが86番志度寺だ。
志度湾沿いのこの寺はもとは「死度道場」といい、藤原家と海女にまつわる伝承の「海女の墓」がある。謡曲「海士の墓」の題材にもなったこの墓の前で、墓守(もちろんボランティアで5年前くらいから清掃などをしているという。)のあばあさんと、雨とやぶ蚊に苦労しながらしばし雑談。あばあさんは蚊に食われないようだ。これも精進の差か。遍路姿も前を通るが墓には注意を払わず足も止めない。まあ、そんなもんだろう。今日は琴電志度線の始点の瓦町から屋島、八栗山と大回りして、終点の志度駅まで歩いたことになる。雨もそんなに気にならなくなったと言いたいところだが、暑くてもやっぱり晴れていたほうがいい。
【ルート地図】(683→696)
写真をクリックすると拡大します。
讃岐三白(砂糖、塩、木綿)のうち、和三盆と呼ばれる砂糖の開発者二人が祭神。今では塩に替わって讃岐うどんか。
神社前の松島の通りは讃岐五街道の一つで、玉藻城(高松城)から志度方面に通じ、浜街道、東下道と呼ばれていた。
琴電(国道11号沿い)
瓦町←(琴電屋島)→琴電志度の「ことちゃん源平号」 この電車は大町止まり。「IruCa」のICカードが便利。
屋根のように上部が平坦なので屋島というそうだ。
潟元駅近く
道池 《地図》
通称「新池」、江戸時代に築造されたため池。
享保11年(1726年)の銘があり、池の築造時に人柱の代わりに建立されたという説がある。
【ル-ト地図】の684雨でも健康ウオーキングをしている人が多い。
【ル-ト地図】の685 【ル-ト地図】の686石標の後ろの木はヤブツバキ(左)・イロハモミジ(右)で梨ではなし。73番出釈迦寺から捨身ケ嶽禅定への途中の世坂には、同じ由来の「不食芋」があった。ちょっと意地悪をされたくらいで、貴重な食料を食べられなくするなんて弘法さんも度量が狭いよ。
畳のような形の岩が重なる。中央下の割れている石は西行の歌碑で、「宿りしてここに仮寝のたたみ石 月はこよひの主なりけり」と刻まれているらしい。西行は屋島寺へ来たことがあるのだろうか?
鑑真和上の開基。
太三郎狸は、佐渡の団三郎狸、淡路の芝右衛門狸とともに日本三名狸で四国の総大将狸。水商売、夫婦円満、子宝、縁結びの神。
この狸は屋島寺の住職代わりの時は、屋島合戦の模様を鳴り物入りで演じたという。日清、日露の戦争に多くの乾分(子分)を連れて出征し、大いに働いた後、死んだとかいう話もある。
この下の断崖に獅子の頭に似た岩が突き出していて、それを獅子の霊巌と呼ぶ。大師が屋島寺本堂の建立の際、工事の途中で日が沈みかけた。この霊巌に立った大師が扇で夕日を招き返し、一日で工事を完成させたと伝える。近くに談古嶺、遊鶴亭の展望所がある。
右奥が瀬戸大橋
下の屋島湾の檀ノ浦(源平屋島の合戦の「那須与一の扇の的」、「義経弓流し」、「平家の舟隠し」の話が残る。)まで下りて五剣山の85番八栗寺まで上り返す。
平家が滅んだ壇ノ浦は下関の関門海峡。『山陽道(長府駅→下関駅)』
「夜景展望」(屋島談古嶺から檀ノ浦、八栗山方面)
ここは急坂だがもう滑らない。
佐藤継信の墓 《地図》
【ル-ト地図】の688安徳天皇の行宮があったという。
【ル-ト地図】の689遍路道は左へ行く。
高橋(相引川から)
【ル-ト地図】の691「四国遍路道指南」の著者。牟礼町からここに移された。
ケーブル乗場 《地図》
八栗寺までたいした距離ではない。もちろん乗らず。
「寅次郎の縁談」は「男はつらいよ」の46作目(1993年12月公開)マドンナは松坂慶子。八栗山のロケの際に、渥美清がこの店でよもぎ餅を食べたらしい。八栗山のシーンがあったのかは記憶にないが。
斜度21%の標識がある車道だが、車の往来は少なく、滑ることもない。
86番志度寺(左・県道145号)と六万寺(右)の分岐 《地図》
源平合戦の際、安徳天皇の仮宮とされた寺。
琴電(左)・国道11号(中)・JR高徳線(右)
お遍路休憩所 《地図》
房前駅近くの国道11号と遍路道の間。
平賀源内旧宅 遺品舘 【ルート地図】の694
右側に山頭火の句碑がある。
山頭火句碑(昭和14年10月25日に小豆島から高松に渡り、屋島から86番志度寺、87番長尾寺、88番大窪寺を巡拝した時の句)
「そのかみの おもひでの 海は濁りて」
海は屋島湾の檀ノ浦のことだろう。(壇ノ浦ではない。)
【ル-ト地図】の695八十場の水と同じく讃留霊王の悪魚退治の伝説があり、悪魚の霊の祟りを封ずるのが魚霊堂(うおのみどう)の地蔵菩薩という。
おへんろ道休憩所 《地図》
さぬき市青少年交流プラザの一画。
【ル-ト地図】の696平賀源内の墓がある。
雨の中、やぶ蚊に食われながら左奥のほうきを持ったおばあさんとしばし歓談。
両脇は経塚
近くの「房前」駅は海女と藤原不比等の子、房前の名からつけたのか。志度寺はもとは不比等が名づけた「死度道場」といった。
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