四国遍路道(愛媛県-4)
2008年11月23日
民宿とうべや・・・歯長(はなが)橋①・・・歯長坂・歯長峠(480m)・送迎庵見送り大師(番外霊場)・西予(せいよ)市(旧宇和町)・・・県道31号・・・歯長地蔵・・・歯長橋②・県道29号・・・道引大師(番外霊場)・・・見守大師・・・稲生橋(赤瀧川)・・・(松山自動車道)・・・白王権現(43番奥の院・番外霊場)・・・43番明石寺(めいせきじ)・・・宇和町の町並み・・・国道56号・・・信里庵・・・鳥坂(とさか)番所跡・鳥(と)坂・鳥坂峠(470m)・大洲市・・仏陀懸山札掛大師堂(番外霊場)・・・国道56号・・・(松山自動車道)・・・子持坂・子持橋・・・金山橋(嵩富川)・・・梁瀬橋・・・大洲神社・臥龍山荘・大洲の町並み・・・肱川橋(肱川)・・・旅館ときわ
民宿のとうべえさんは歯長トンネルを通ることを勧めたが、もちろん歯長峠越えの遍路道を行く。峠へは上り始めが急坂で鎖がついている所もある。上って行くと前に横浜のOL女史の姿がある。彼女もトンネルではなくこっちの道を選んだのだ。先になってゆるやかになった道をしばらく行くと送迎庵見送り大師の小祠のある歯長峠で眺望が開ける。歯長地蔵へと下りかけると下の木々の上に雲海が広がっている。標高400m少しで雲ではなく、朝霧が上昇したものだ。幻想的な光景にしばし見惚れる。
歯長地蔵で休憩し、道引大師堂から松山自動車道をくぐり、43番明石寺奥の院の白王権現に寄る。社殿はなく石の祀檀があるだけで、少し荒れている感じだ。祀檀の盤石が明石寺のいわれとなった、「あげいし」という話もある。黄葉、紅葉が見事な神社から43番明石寺へ入る。境内の元の札所だった熊野十二社権現は荒れて寂れた様子だった。宇和文化の里の案内に従って遍路道を下って宇和町に入る。歴史を感じさせるきれいな町並みで、今日は休日のこともありけっこう観光客も来ている。ぐるっと一回りして、文化の里休憩所でお茶を飲んで、町のことなどを聞いていたら随分と時間が経って昼近くになってしまった。
ここから鳥坂峠を越え、大洲までは20km以上ある。民具館と開明小学校の間を光教寺まで上り(上の写真)、足早に途中、国道は走り遍路となって鳥坂トンネル近くまで行く。道脇で遅い昼飯をとり。トンネルの手前から下って鳥坂番所跡から遍路道を上る。鳥坂峠までは思ったほどでもなく着いてしまったが、大洲市に入ってからの下りの方がカーブしながらの緩やかな道で長く感じた。小走りに下ったので途中いくつか直線的に横切る道を見逃したようだ。
札掛大師堂から道を間違えながらなんとか国道56号へ出て、大洲の方へ長い子持坂を下る。嵩富川を渡りしばらく行くと、道脇にシートを敷いて偏食青年遍路が休んでいた。今日は大洲のビジネスホテル泊まりだそうだ。こちらは大洲の町も見所が多いので話もそこそこに先を急ぐ。大洲神社の急な石段を上り、境内から大洲の古い家並みの中を通り、賦龍山荘に向う。山荘の塀に沿う坂がなかなかの風情だ。おはなはん通り、赤煉瓦館から肱川に向う道で、バイクに乗ったおばさんからお茶代にでもと150円のお接待をいただく。もう5時近く、大洲城は肱川大橋の上から眺めるだけで今日の宿のときわ旅館に向った。
この旅館は若夫婦2人でやっていて、お遍路への気遣い、心配りの行き届いた宿だ。泊り客は一人歩き遍路4人。2人組高年遍路のうちの一人と、横浜のOL女史とは顔なじみ、もう一人は札所巡りは3度目というご老体遍路。6時前から夕食は、OL女史もいける口で、飲み食いしながら賑やかに盛り上がり、気がつくと7時を回っていた。こんなに長い時間の遍路宿での夕食は初めてだった。明日は雨になるらしい。国道歩きはつらいだろう。
【ルート地図】(432→448)
*参考:『大洲市観光スポット』
写真をクリックすると拡大します。
【ル-ト地図】の432鎖もついている急坂
歯長峠の送迎庵見送り大師(番外霊場) 【ルート地図】の433
この地にあった歯長寺は昭和35年の失火で焼失。昭和42年に地元の大師講の人々によって当庵が建立され石仏が安置され、手厚く管理されている。
源氏の出自ながら平氏側についた足利又太郎忠綱は、源氏に追われこの地に逃れ庵を結んだ、歯の長さが一寸もあり、又の名が歯長又太郎という巨人伝説の残る峠。
向こうは宇和海だろう。
朝霧が上昇して出来る現象。
右は遍路の墓
【ル-ト地図】の435古くから草庵霊場として祀られているが、創建、由来は不詳。地元では願いを掛けると、色々導き助けてくれる霊験ありと尊信をあつめている。
43番明石寺の由来話の一つに、「18、19の娘が大石を両腕に抱え歩いてきたが、ここで夜が明けたので、石を置いて去ってしまった。その女は観音の化身か龍女か、その石を白王権現と崇め、祠を奉り、上げ石から明石という寺名になった。」 奥の祀檀の盤石が娘の運んできた大石という伝説がある。明石(めいせき)寺は、もとは(あげいし)寺と呼ばれていた。
43番明石寺 【ルート地図】の437
天台宗の寺。源頼朝が「現光山」を「源光山」に改めた。
神仏分離まではこれが本堂だった。
【ル-ト地図】の438奥のからくり部屋には高野長英がかくまわれていたこともある。
シーボルトの娘、楠本イネは日本最初の西洋医の女医。ここで二宮敬作から医学の指導を受けた。
開明学校(国重要文化財)
明治15年に建築された小学校舎。
始めは嘉禎2年(1236)に松葉城(岩瀬)山麓に創建された臨済宗の寺。西園寺氏の菩提寺
松葉城跡(岩瀬)
中世の南予地域の領主、西園寺氏の居城。戦国時代にここから黒瀬城に移った。
信里はここの地名
トンネル内は暗く、車の往来の激しく歩くのは怖いだろう。
戦国時代には鳥坂城があり、鳥坂合戦があった。
鳥坂峠への坂
鳥坂峠あたりか。【ル-ト地図】の442 落語『田能久』 【ル-ト地図】の443大師がここで休憩した時に、釈尊の御影札を松の木に掛けたという。
【ル-ト地図】の444嵩富川の方へ下る国道56号。
大洲の総鎮守
臥龍山荘 【ルート地図】の445
明治34年に大洲商業銀行として建築された。
肱川から大洲城
肱川の鵜飼は日本三大鵜飼(長良川・岐阜/肱川・愛媛/木曽川・愛知/三隈川・大分 )の一つ。(4つあるが)
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