四国遍路道(愛媛県-7)
2008年11月26日
国民宿舎古岩屋荘・・・八丁坂下・・・県道12号・・・住吉神社・・・遍路道・・・御堂峠(715m)・・・44番大宝寺(560m)・・・総門橋(久万川)・・・和霊宮・・・国道33号・・・仰西渠(こうさいきょ)・・・高殿神社・・・三坂・三坂峠(710m)・・・三坂遍路道・鍋割坂・・・坂本屋・・・網掛大師堂・網掛石(番外霊場)・・・中之坂・・・出口橋(御坂川)・・・県道194号・・・46番浄瑠璃寺・・・47八坂寺・・・文殊院(番外別格二十霊場の第九番札所)・・・久谷川・・・札始大師堂(番外霊場)・・・県道40号・・・重信川(久谷大橋)・・・(松山自動車道)・・・杖(じょう)の渕(番外霊場・48番奥の院)・・・48番西林寺・・・遍路橋(小野川)・・・(伊予鉄道)・(県道40号)・・49番浄土寺・・・日尾八幡神社・・・50番繁多寺・・・桑原八幡神社・三島神社・・・県道40号・・・石手川・・・県道187号・・・(51番石手寺前)・・・松山ワシントンプラザホテル
38番金剛福寺から7ケ寺を巡るのに10日間かかった。今日は1日で松山駅近くまでの6ケ寺を巡る。距離もけっこうある。健脚遍路Kさんは今日は途中の駅(といっても49番浄土寺そばの伊予鉄道の久米駅まで行かなければ駅はないようだが。)から伊予大洲に車を取りに戻るといい、出発はゆっくりだ。こちらは朝食後、7時半頃に出発した。古岩屋荘は500mくらいの高さにあり朝は冷えて、遍路道は朝もやに覆われている。
八丁坂の坂下から昨日の逆に進み、住吉神社の脇から峠御堂トンネルの方へ上り、トンネルの手前で峠への遍路道に入る。正面左方向から木々の間を朝日が差し込み何となく神々しい雰囲気の中を上る。(上の写真) 御堂峠から下ってまだ朝もやの消えていない、人もまばらで静かな44番大宝寺の境内に入る。大宝寺の門前町の久万高原町は海抜500m近く、土佐街道の宿場町、材木の集散地でもある。久万は熊野の「くま」と同じく奥深い所、隈、辺土の幽界の意だという。なるほど大宝寺は杉木立が林立する薄暗く、古色蒼然たる雰囲気がある。
境内から参道、山門へと逆にたどり、門前の通りを行くと国道33号に合流する。住吉神社からの46番浄瑠璃寺への遍路道が国道と合流する所の仰西渠の案内板を読んでいたら遍路道を女人野宿遍路がやって来た。話ながらゆっくり歩いているとKさんが追いついて来た。ここからは三坂峠(710m)までの長い国道上りが続く。まだ先が長いのでこちらはペースを上げて進むことにする。
三坂峠の頂上あたりで北方向に遍路道に入り下って行く。途中、鍋割坂と坂名のついた急な所もあるが、のどかで、静かやな里山歩きという感じの道で気持ちがいい。網掛石を通り、中之坂を下り出口橋で御坂川を渡って1kmくらいで47番浄瑠璃寺で、そのすぐ先が48番八坂寺だ。文殊院、札始大師堂は四国遍路の元祖ともいわれる衛門三郎ゆかりの地。松山自動車道をくぐると48番奥の院の杖ノ渕がある。公園としてきれいに整備されていて市民の憩いの庭園という風で、番外霊場といった雰囲気はない。
48番西林寺から遍路橋(小野川)を渡り、伊予鉄道を越えると正面が49番浄土寺で、だいぶ疲れてきて隣の日尾八幡神社の石段が足にこたえた。遍路道に入り小高い50番繁多寺へ急ぐ。80mほどの高さしかないがリュックの重さが倍増したように感じてきた。夕日が傾いた境内で一休みする。今日は遍路宿ではなくビジネスホテル泊まりだから急ぐ必要はないが、もう5時近くで51番石手寺は無理だ。暗くなると道も分かりづらくなる。地図を念入りに確認し、溜池前を下って県道40号に出て北へ、石手川を渡り、石手寺前を通り、道後公園沿いを進み、伊予鉄道の路面電車を見ながら勝山町の交差点に出てほっと一安心。もう真っ暗という中をホテルにたどり着いた。
今日は41km、昨日は36km、おとといは33kmと起伏のある道を重いリュックを背負って歩いたせいか風呂から上がると足がガタガタで力が入らない感じだ。夕食は久しぶりの外食だ。遍路宿の食事には少しあきがきて、油っこい、こってりしたものを食べたかったので近くの中華屋に行って、?千円も飲み食いした。やっぱり遍路宿は安い。
【ルート地図】(475→496)
写真をクリックすると拡大します。
朝霧で霞んでいる。
住吉神社の近く、15軒もの遍路宿があったという。
【ル-ト地図】の47644番大宝寺 【ルート地図】の477
何でこんな写真になったのか?
昭和9年に石田そよさんというお婆さんが、「掘出せ、掘出せ」という観音様のお告げによって土中から掘出された観音像を安置するという。
仰西渠(こうさいきょ)
安山岩の岩山を掘りぬき造った用水路。中央の流れとその向こうの穴(トンネル)のことだろう。
三坂峠へ上る国道33号
【ル-ト地図】の480右へ三坂遍路道へ入り松山市へ下る。
急坂で遍路が滑って転び、背負っていた鍋を割ったというが、それほど急ではない。
このみちは国道ができるまでは松山と高知を結ぶ重要な街道だった。
「仰西翁偉績」とある。仰西渠を造った仰西は、この道も開発したのか。
【ル-ト地図】の482明治末から大正初期に建てられた旧遍路宿。
天保13年とある。
車も人も通らない気持ちのいい道。
【ル-ト地図】の483確かに網のような目がついている。ここを通る遍路は石の割れ目に納め札を挟み込んだり、賽銭をあげる慣わしがあった。
【ル-ト地図】の484出口橋の方へ下る県道207号。中之坂バス停がある。
46番浄瑠璃寺 【ルート地図】の486
本堂
九横とは、薬師如来が救う九つの災難で、一、不治の病の患る。二、暴力非行に会う。三、淫酒に耽れる。四、火熱傷をおう。五、水難にあう。六、獣蛇に咬まれる。七、崖から転落する。八、毒呪に中る。九、渇き飢える。こと。
47番八坂寺
修験者の道場として栄えた名残り。
正面のこんもりしている所は諏訪神社
【ル-ト地図】の489大師を邪険に扱ったため、8人の子どもが死に、四国遍路懺悔の旅に出た、衛門三郎の菩提寺。屋敷跡ともいわれている。
少しくらい粗略な扱いを受けたからといって、何の罪もない子ども8人を仏罰とはいえ死なせてしまうとは大師とは恐ろしい人物だ。そんな大師を慕い、追っかけとなって旅に出た衛門三郎も単純な可哀そうな男だ。
【ル-ト地図】の490大師を追った衛門三郎は、ここ小村の大師堂を尋ね大師自刻の大師像に懺悔して大師の帰来を待ったが現れず、札に国所姓名を書き堂に貼って納めた。それ故に、ここを衛門三郎札始所という。
大師がここに杖を突くと清水がほとばしり出て渕となったという。
48番西林寺仁王門
左手前に正岡子規の句碑
山頭火もここで「水音のたえづしてみ仏あり」と詠んだ。
49番浄土寺仁王門
空也上人立像(重文)がある。
天平勝宝4年(752)宇佐八幡から勧請して孝謙天皇の勅願所として建立された。
50番繁多寺 【ルート地図】の495
時宗の一遍上人が修学した寺。荒廃、衰退していたのを源頼義が再興した。
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