名古屋市の坂-2
2009年1月13日
栄町駅・・・含笑寺・・・千早公園・・・鶴舞公園・・・八幡山古墳・・・八幡神社・・・古井の坂・・・菊坂・二つ池公園・・・日泰(にったい)寺・・・(覚王山駅)・・・月見坂・・・県道30号・・・国道153号(飯田街道)・・・隼人池・・・興正寺・・・八事八つの坂(①参道坂・・・②大学坂・・・③山手坂・・・④雲雀(ひばり)坂・・・⑤天道坂・五社宮・高照寺・・・⑥音聞坂・・・善光寺・・・音聞山仏地院・・・八事神社・・・塩竈神社・・・⑦塩釜坂・・・八事交差点・・・⑧石屋坂・浄久寺・・・塩釜口駅(地下鉄鶴舞線)→平針駅・・・梅森坂・牧野ケ池緑地・・・梅森坂バス停→星ケ丘駅(地下鉄東山線)→栄駅
含笑寺の門前まで来たら風に乗ってかなりの雪が舞い始めた。含笑ではなく思わず苦笑してしまった。傘をさし、フードを被り、手袋をして雪と風の中を南に向かう。千早公園はうっすら白くなっていたが、鶴舞公園まで来ると雪も上がって陽が射しはじめてきた。歩いて1時間もかからないのに含笑寺は東区、千早公園は中区、鶴舞公園は昭和区だ。今日はこの後、千種区、天白区、日進市との境の名東区まで行くことになる。名古屋市の区は横浜市の区などと比べても1区の面積はかなり小さい。
鶴舞公園に隣接する八幡山古墳を一周して北へ向うとすぐ千種区に入り、高速をくぐり八幡神社から飯田街道(国道153号)の古井の坂に出る。直線的な車道で古井戸があったような昔の面影はない。古井の坂交差点から北西に入り、千種通りを越え東に進むと椙山女学園南の交差点に出る。女学園の西側に沿って末盛通り(県道60号)までカーブして上るのが菊坂だ。菊とどんなゆかりがあるのか(あったのか)は分からず。
菊坂上から県道60号を渡って日泰寺へ寄る。山門をくぐると広い境内の正面に本堂、右に五重塔が建っていてゆとりのある空間がいい。参道を戻り茶店でみたらし団子を食べ、店のおばちゃん二人とお喋りしてしばしの休憩。再び県道60号を渡り月見坂を下る。今は住宅街の間の平凡な坂だが、坂上に月見坂町、坂沿いに観月町の名が残るようにかつては月見の名所だったようだ。
月見坂下から県道30号に出て南西に進み、国道153号を左折する。みたらし団子2本では腹はもたない。隼人池の手前の吉野家で牛丼だ。このあたりは学校が多いのだろう学生の姿が目立つ。隼人池から興正寺前を通り八事交差点の方へ上るのが「八事八つの坂」のひとつの参道坂だ。このあたりは「茶屋ケ坂」と同じで「八事」がつく地名、建物が多い。八事山興正寺は今日が縁日で参道から境内へ露店がぎっしり並んでいて、さすがに学生の姿はなく、おばちゃん連中が圧倒的に多いのは巣鴨の地蔵通り商店街と同じだ。
興正寺境内を一巡りして、残りの八事八つの坂に取りかかる。八事の商店街が地域振興のためにつけた坂名だが、残念ながら坂自体は面白味、風情には欠ける。むしろ天道坂、音聞坂周辺の坂、塩竈神社前の坂などが坂らしく歩きがいがあった。八つの坂の最後に石材店の並ぶ石屋坂を上り下りし、塩釜口に出た頃はかなり予定時間より遅れてしまっていた。ここから梅森坂までは5km以上はあるだろう。塩釜口駅から地下鉄で平針駅まで行くことにした。梅森坂は予想はしていたが、それ以上の期待はずれの坂でせっかくここまで来た甲斐がなかったとちょっと残念な気分になった。それも夕闇が迫り、かなり歩いて疲れてきたせいなのだろう。きっと後になればあの時行っていてよかったと思うようになるだろうよ。
【地図】
写真をクリックすると拡大します。
含笑寺(東区東桜2-15)
織田信秀(信長の父)が、母の「含笑院殿茂獄涼繁大禅定尼」を弔うために清洲に建立した寺で、清洲越の際にここに移された。寺名にふさわしく「含笑長屋 落語を聴く会」が催されている。門前の寺標(写真右)は寄席文字で書かれている。
急に雪が降り出した。それもかなりの降りだ。
落語会用の小道具などが入っているのか。
うっすら雪化粧している。
雪は止んでしまった。名古屋で最初に整備された公園で、当初は「つるま公園」だった。
東海地方最大の円墳で直径82m、高さ10m、5世紀中頃の築造。整形されて元の墳形ではない。
古井の坂(坂下方向) 千種区千種1丁目と2丁目の間を南東に上る国道153号(飯田街道(岡崎街道))。坂上近くに古井の坂交差点。
高牟神社に由来となった古井戸がある。『高針街道』に記載。吹上という地名も残り、坂近くに「ヴァンクール吹上」・「メゾン吹上」などのマンションがある。坂沿いは古井之坂通り商店街。
菊坂(坂上方向) 千種区菊坂町と丘上町の間を南東に椙山女学園の方へ下る。右は椙山女学園
坂名の由来は? 菊と関連するのだろうが。
坂上は県道60号の覚王山交差点近く。
覚王山日泰寺山門・本堂(奥)
明治33年シャム国王から寄贈された仏舎利(釈迦の遺骨)を奉安するために明治37年に日本で唯一の超宗派の寺として覚王山日暹寺して創建。「覚王」とは釈迦の別名。昭和24年にシャム国からタイ王国の改名に合わせて日本とタイ王国を表す日泰寺となる。
月見坂(坂下方向) 千種区観月町2丁目の田代小学校の北側から北西に覚王山交差点の方へ上る。
観月町、月見坂町の名の通り月見の名所だったのだろう。田代小学校の筋向いには坂本屋という茶店もあったという。
正面右奥が田代小学校
田代小学校の前には茶店ではなく洒落れた建物が。レストランだったか?
桜の名所のこの池は、もとは犬山城主の成瀬隼人正によってつくられた農業用灌漑池で、池の水は檀渓通り付近に樋を架け、山崎川を空中で横断して藤成新田に引かれていた。
①参道坂(坂上方向) 《地図》
八事山興正寺の前を南東に八事交差点に上る国道153号。
今日は縁日で露店が並び賑わっている。衣料品の店が多いようだ。5日と13日が縁日。
八事山興正寺境内図
文化5年(1808)建立の現存する五重塔では県内最古。
本尊は日本三大虚空蔵菩薩の一つとか。
参道坂の坂上近く、大学坂への分岐の所。下は地下鉄八事駅
②大学坂(坂上方向) 参道坂から山手坂へ上って抜ける坂。《地図》
坂の北側に中京大学がある。短く傾斜もゆるい。八つの坂にするために加えられた坂だろう。
八事交差点から北東に上る山手通り。坂沿いに中京大学、南山大学、名古屋大学と続く。《地図》
④雲雀坂(坂上方向) 《地図》
八事交差点から西方向へ雲雀ケ岡へ上る。始めだけ傾斜があり、坂の感じはしない。
もとは天道宮と称した。寛保元年(1741)に天道山高照寺自貞尼により当地に遷座した。日・月・星・神明・天王の五社を祀るため五社宮と称す。
⑤天道坂(坂下方向) 天道山高照寺の前を南西に下る。八事天道と弥生が岡の間の坂。
史跡散策路「天道・塩釜と坂道コース」の4
⑥音聞坂(坂下方向) 八事石坂、音聞山と弥生が岡の間を南東方向に下る県道220号。《地図》
音聞山名勝地(現在の御幸山)による坂名
八事音聞山バス停から
この坂は昔、「やんたの為」が狐に化かされたという「きよの坂」か?
*「きよの坂」は、音聞坂のことと「なな」さんからコメント(下記)をいただきました。『天白の民話と昔話』の「きよの坂」にも、「島田地蔵寺へ抜ける近道だったので「地蔵みち」とも言われて・・・・」とあります。『天白歴史探訪マップ』(天白ガイドボランティア歴遊会作成)に位置が載っています。
坂名の由来は何でしょうか? 「きよ」とは狐が化けた若い娘が名乗った名前だったのでしょうか?(2014年6月8日追記)
坂下は音聞坂
歌碑(右) 「君がよを 千世もとよばふ松風の おとのたえせぬ音聞の山」 正二位 源清綱 大正天皇の即位式で詠まれた歌。源清綱は画家黒田清輝の養父(伯父)の黒田清綱のことで、明治天皇と大正天皇のお歌所の一人だった。音聞山一帯ははきれいな松林で風情豊かな景勝地だったという。
「八事八つの坂」の塩釜坂からはだいぶ離れているが、この坂の方が塩釜坂と呼ぶにふさわしい見事な急坂で坂上近くからの眺めもいい。左側に塩竈神社。
塩竈神社(天白区御幸山1328)
東北鎮護・陸奥国一ノ宮の宮城県塩竈市の旧国幣中社「鹽竈神社」より弘化年間(1844~48)に愛知郡天白村豪農の山田善兵衛が分霊を賜り奉祀したのが始まりという。
南東方向が開けていい眺めだ。
⑧塩釜坂(坂下の愛知銀行八事支店(左)の所) 八事交差点から南東方向に塩竈神社方向に上る。国道153号の一本南側の道。《地図》
八事旧道といわれ、起伏のある街道の両側は桜が多く、かつては人通りの途絶えることがないほどの賑わいであったという。塩竈神社までは上り下りを繰り返しかなり距離がある。
⑨石屋坂(坂上方向) 八事交差点から東へ上って下る国道153号(飯田街道)
坂の北側に八事霊園があり、坂沿いに墓石の石材屋が並んでいる。石屋に「人生最終住宅建設所」とある。
山門は清洲越当時のものという。
梅森坂(坂下方向) 名東区梅森坂1丁目と牧野ケ池緑地の間を南に上るゆるやかな坂。《地図》
梅の木の森が坂上の天神社にあったためという。
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コメント
1979年 愛知教育振興会から発行された
「あいちのむかしばなし6 おろちの ふえ」の中に、
「カラコロざか」の題名で「きよの坂」の伝承が載っています。
その書籍には「お話の舞台」として、発行当時、
現場を訪問取材した記事が掲載されており、
それによると、名称由来について
「むかし、坂のなかほどに、「きよ」という名の女の人が一人で住んでいたことかららしい。」と書かれています。
投稿: | 2020年5月19日 (火) 15:14
お手数をおかけして申し訳ありません。
私も「天白歴史探訪マップ」の「天道・塩釜口コース」に「きよの坂」が載っているのを見つけ、「天白区役所まちづくり推進室」からマップを作成した「天白ガイドボランティア歴遊会」さんに「きよの坂」の由来を聞いてもらいました。
歴遊会さんは「天白村誌」をもとに資料を作成し、そこに民話「きよの坂」も載っていますが、その由来については書かれてなく分からないとのことでした。
ちょっと残念ですが、お手上げの状態です。
今後ともよろしくお願いします。
坂道散歩
投稿: なな様へ | 2014年6月16日 (月) 09:24
あくまで推測ですが、私は「きよの坂」の「きよ」が、狐が化けた娘の名前だとは思えません。
坂道に名前がつけられるほどの「名物狐」だったなら、やはり例の昔話にそのことが反映されているか、または現代までしぶとく地名に残るような気がするのです。
五社宮の境内は前に面した道路から石段を上った、かなり高い位置にありますよね。また、「⑥音聞坂」の写真の左手方向に由緒ある古い邸宅が県道に面しているのですが、そこも道路から2~3m高いのです。思うに、これがここら一帯の昔の地面の高さで、きよの坂の落差も今よりもっと急だったのではと想像します。
余談ですが、「音聞山」という風光明媚な名称ばかりが有名ですが、祖父母が越してきた当時、音聞山と御幸山の間の道は「首吊り谷」と言われてたそうですよ。
投稿: なな | 2014年6月12日 (木) 22:01
こんばんは。図書館で郷土資料を調べてきました。岡田弘著「天白区の昔話と伝説をたずねて」という私家版がありました。
「きよの坂」の話は載っていましたが、残念ながらその本にも名称の由来は書かれておらず…。この著者は「(天白区が昭和区から分離独立する)昭和50年以前に(当区内の)昔話や伝説を訪ね歩いた」そうです。
また、我が家は約60年前に祖父母がここへ引っ越してきた、この辺りでは古い住人になるのですが、祖父母から「きよの坂」の名称や昔話は聞いていませんし、先述のように、子どもの頃に私が母に本を見せて尋ねたときも、母も同じく知らないようでした。
投稿: なな | 2014年6月12日 (木) 21:35
ありがとうございます。記事を追加、修正しました。
「きよ」とは狐が化けた娘の名前でしょうか?坂名の由来が分かれば教えてください。
坂道散歩
投稿: なな様へ | 2014年6月 8日 (日) 05:14
こんにちは。名古屋市天白区の民話「きよの坂」の情報を探していて、ネット検索でこちらにたどり着きました。
私は音聞山バス停の近くに住んでいます。30年くらい前、子どもの頃に、愛知県の昔話を集めた本を読み、そこに「きよの坂」の話がありました。ふと思い出して、今はネットがあるので試しに検索してみたところ、天白区役所のHPにその話が載っており、内容も思い出せました。
さて「きよの坂」は「音聞坂」のことだと思います。こども時代に読んだ本には昭和30年代頃の現場の写真が小さく載っていて、母に尋ねたところ、音聞坂だと言いましたので。
八事交差点に明治時代に建てられた「地蔵道」という石碑があり、そこから音聞坂(きよの坂)を通って島田地蔵寺に抜ける道=県道220号線が「地蔵道」です。昔からある道です。それに対して、善光寺入口の坂道とその南側の急な坂道は、おそらく宅地化が開始して以降に造られたものでしょう。
投稿: なな | 2014年6月 7日 (土) 16:45