尼崎市(兵庫県)の坂
2009年1月15日
阪神元町駅→武庫川駅・・・素盞嗚(スサノオ)神社・・・雉が坂伝承地(尼崎市)・・武庫川橋・・・岡太(おかた)神社(西宮市)・・・武庫川駅(阪神電鉄)→梅田駅・大阪駅→新大阪駅
神戸からの帰りに、尼崎市の雉が坂に寄ってみた。本能寺の変を知った秀吉が急遽、備中から引き返した時の伝承の残るところだ。武庫川の上の武庫川駅は西側の西宮市と、東側の尼崎市の両方に出入口がある。尼崎市側に降り、北に行くと素盞嗚神社ではどんど焼をやっていた。そのすぐ先が雉が坂伝承地だ。坂といっても今は武庫川堤に上る石段で、ここに伝わる話が残るだけではあるが。武庫川橋を渡って西宮市に入るとゆるやかに下って行く。この道は旧国道で、道沿いに岡太神社ある。ここでもどんど焼の最中だった。境内には狛猪、恵美須宮、白山大神、岡太社の石標などの見所も多かった。予定より短時間で回れてしまったが、これで今回の坂道散歩の終わりとした。
【地図】
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江戸時代までは牛頭天王社といい、西新田と呼ばれていたこのあたりの氏神社。
今日は小正月の1月15日で、「どんど焼き」が行われている。「どんどん焼」、「さいと焼」、「左義長」ほか地方によって呼び名も様々ある。
「本能寺の変」を知った羽柴秀吉が明智光秀を討つべく中国街道を引き返し、小松の岡太神社あたりまで来ると、このあたりの農夫が対岸に明智勢が潜んでいると注進した。見るとまだ夜明け前なのに、川向こうの藪からあわただしく雉が飛び立った。異常を悟った秀吉勢は進路を西国街道に変え、背後から明智勢を攻め主君、織田信長の仇を討った。後に太閤となった秀吉はその時の農夫を探したが再会することはできなかった。秀吉はこの地での雉の捕獲を禁じ、土地の人々に田と池とを与えたという。中国街道が武庫川にさしかかるところを地元では雉が坂、かつての坂下の池を礼田池(いやでん)と呼んでいる。
ここが礼田池跡か
明治の中頃まで幾度も氾濫し、「あばれ川」、「人喰い川」と恐れられていたという。今は川幅が広い穏やかな流れだ。
秀吉の軍勢はこのあたりで、川向こう(今の雉が坂あたり)で雉が飛び立つのを見て、明智方の伏兵がいると察知したのだろう。
岡太(おかた)神社(おかしの宮)
寛平5年(893)に広田の人、岡司(おかし)氏がこの地を開く。狛猪の静止(しし)像の参道。社殿の前には狛犬像もある(と思う。)
猪は恵美須大神のお使いで、水害を防止(静止(しし))と猪(しし)をかけたものという。
本来ならここに猪(静止)像があるはずだが、狛犬だ。
当地では歯の神様という。
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