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2009年2月27日 (金)

大王町の坂(三重県志摩市)

2009年2月13日

Img_8483 近鉄奈良→大和八木(近鉄特急)→鵜方 バス→波切(なきり)・志摩市観光協会大王町案内所・・・大慈寺・・・堂の山(汗かき地蔵・薬師堂・思案地蔵)・・・伝三(でんざ)坂・・・波切漁港・・・製氷工場跡裏の坂・・・産屋(おびや)坂・・・荒瀬丘(こうじゃおか)・・・ダンダラボッチ公園・・・仙遊寺・・・波切神社・・・崎山公園・・・大王埼灯台・・・八幡さん公園・・・宝門(ほも)の浜・・・龍王閣前の石段坂・・・伝三坂・・・大慈寺前の石段坂・・・桂昌寺・・・大王小坂バス停→鵜方駅

 石畳の坂道、白亜の大王埼灯台、「絵かきの町」大王町の坂道散歩です。鵜方からのバスはご老人ばかり。ノンステップバスではなく乗降口の段差が大きいので、乗り降りがしんどくて可哀そうだ。これも都会と地方の格差の表れか。20分ほどで波切バス停に着く。そばの観光案内所で坂の位置を確認する。案内所の女性が大慈寺の「てんれい桜」(河津桜)が咲き始めているといい一緒に見に行く。確かに濃いピンク色の花が三分咲きほどで鮮やかだ。2.3日暖かい日が続くようなので一挙に開花してしまうだろう。(17日には見頃になったそうだ)

 てんれい桜をめでた後、大慈寺の波切石の石積みの塀に沿う坂から坂道散歩に取りかかる。堂の山と呼ぶ小高い一画には、薬師堂、汗かき地蔵堂、思案地蔵堂や庚申堂、馬頭観音堂など民間信仰のお堂が並んでいる。伝三(でんざ)坂、産屋(おびや)坂(上の写真)は古びた石段と石畳、波切石の石垣の坂で、ここから風景写生でもしたくなる情緒あふれる坂だ。絵かき達にも親しまれているスポットだ。似たような坂は他にもあるが名前はついていないようだ。おびや坂はこの坂のどこかに帯屋があったのかと思っていたが産屋だった。ここは漁港だし帯屋よりは産屋(うぶや)の方が似つかわしいが。でも産屋はなく子安観音の小祠と災害避難所の産屋坂休憩所がある。

 産屋坂の坂上から荒瀬(こうじゃ)丘へ寄り、ダンダラボッチ公園へ下る。各地にある巨人伝説がここにもある。波切漁港に沿って九鬼水軍ゆかりの仙遊寺から大王崎に入る。大王埼灯台は外から眺めるだけかと思っていたが中に入れた。展望台まで細い螺旋階段を上る。観光客が多い時の昇降は大変だろう。曇り空の下の眺望を楽しんだ後、波切九鬼城址の八幡さん公園へ下る。土産物屋が並ぶ通りを下り、宝門浜へ出て龍門閣前の味のある石段を上ると伝三坂の坂上に出る。再び大慈寺に出て前の石段坂を上ってみた。

 大王町を「東海の尾道」、「東洋のニース」と呼ぶ人もいるそうだが、ちょっと大げさ過ぎるというのが今日歩いた感想だ。でも坂道好きには歩きがいのある町であることは間違いない。これで今回の坂道散歩を終え、鵜方から名古屋へ出て東京へ向った。名古屋からの新幹線の自由席は満杯の状態、東京駅の新幹線乗場も金曜の夜のせいか混み合っていた。しかし、新幹線の乗客数は昨年に比べ4%も減っているという。これも不況のせいか。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_8417 志摩市観光協会大王町案内所(波切バス停そば)

「絵かきの岬」とある。

Img_8411 大慈寺に沿う坂

「てんれい桜」(河津桜)が咲いている。先代住職の秀森典嶺氏が1992年、静岡県河津町の人に枝を分けてもらい、花を咲かせることに成功した。現住職が先代の名前にちなんで名づけたという。

Img_8403 三分咲きほどか?

Img_8407 てんれい桜ライトアップ

2月28日とあるが、17日には見頃を迎えたそうだ。

Img_8412 坂上方向

右は大慈寺の波切石の石垣。波切石は玄武岩のような硬い石で、海底から押し上げられた岩が砕けた石。
このまま行くと下りとなって宝門の浜へ出る。

Img_8416 秋葉山の祠

火除け、火伏せの神

Img_8422 汗かき地蔵堂(右)・薬師堂(正面)

Img_8423 汗かき地蔵

ある時、大王島の沖で漁師の網に掛かったという。この地蔵は吉祥の時は白い汗を流し、災難の時は民衆に代わって苦しみ黒い汗を流す。ゆえに代苦地蔵ともいう。数々の霊験譚が由来書に載っている。「汗かき地蔵祭」も行われる今も土地の人々の信仰が厚い地蔵さんのようだ。

Img_8420 由来書

Img_8429 思案地蔵

由来:「波切騒動の顛末-①天保元年(1830)に大王島沖で幕府の御城米を積んだ船が難破。 ②翌日、村の漁民が船を発見し積荷の米を持ち帰る。 ③しばらくして幕府の役人が夜更けに覆面をして村に捜査に潜入した。 ④村人たちは役人たちを盗賊と思い殺した。(役人の一人を殺したとも)④幕府は庄屋以下14人を捕らえ処刑し、村人475名を罰した。 ⑤ほとぼりが冷めた頃、村の和尚がこの地蔵を彫り、犠牲者を弔った。」 なぜ、村の和尚は思案する地蔵像にしたのか? そもそもこの像は思案している姿なのか? 村人は積荷の米を猫糞(ねこばば)し、役人を役人と知っていて殺したというのが本当のところでは。

Img_8437 伝三(でんざ)坂(坂上方向)

時代は定かではありませんが、地主岡松三郎が年貢米を運ぶ坂道を小作人のために整備した坂で、坂の途中に伝三屋という家があったためその名がつきました。(観光案内パンフの説明文)

Img_8440 坂下方向

Img_8453坂上方向

Img_8452 坂下方向

Img_8451 坂下方向

左は秋葉山の祠

Img_8455 波切漁港

Img_8456 製氷工場(跡)裏の坂

手すりのついているカーブする坂。坂上を進むと産屋(おびや)坂の坂上に出る。

Img_8457 坂上方向

左に稲荷の小祠

Img_8459 坂の途中から

波切漁港、大王埼灯台方向

Img_8465産屋(おびや)坂(石段)

昔は、出産を不浄で汚れと考え、妊婦が産気づくと産屋と呼ばれる家に入れ、出産や静養をさせました。波切では子安観音を祀っていたおかげで、産屋に行かずにすみました。その子安観音を祀ってある坂を産屋(おびや)坂と呼んでいます。この坂は波切石工の技が光る石垣がすばらしく、絵の画題として、絵かきさん達にも親しまれています。(観光案内パンフの説明文) 産屋はなかったのになぜ産屋坂という名をつけたのか? 子安観音を産屋の代わりに考えているのだろうか?

Img_8469 坂上から

Img_8472 坂上方向

左が子安観音の祠だが、観音像はなかった。

Img_8488 災害一次避難場所産屋坂休憩所(坂の途中)

ここに産屋があったとは考え過ぎか。

Img_8474 坂上方向

Img_8476 坂下方向

Img_8479 坂上方向

Img_8499 荒瀬丘(こうじゃおか)から

Img_8501荒瀬丘の小祠群

Img_8504 ダンダラボッチ公園

Img_8506ダンダラ法師の物語

各地に残る巨人伝説、ホラ話の一つ。「ダイダラボッチ」という所が多いようだ。

Img_8509 仙遊寺

江戸時代に海賊大名の異称をとった、水軍波切九鬼氏の墓がある。

Img_8508 説明板

Img_8510 波切神社

Img_8512 崎山公園から

Img_8518 須場の浜・大王埼灯台

「波切のわらじ祭」:毎年9月の申(さる)の日に、ダンダラ法師の伝説により、畳一畳ほどの大わらじをかついだ若衆がこの浜から大わらじを流して海の安全を祈る。

Img_8524 大王埼灯台への石段

Img_8532 灯台の上から大王町

映画監督の小津安二郎がフランスのニースに似ている情景と言った眺めだが・・・。この程度の風景ならニースもなんてことないだろうよ。

Img_8533 下は海女さんの漁場らしい。

Img_8535 波切九鬼城址(八幡さん公園)

宝門(ほも)の浜方向、「宝門でホモと読むとはこれいかに」???

Img_8541 八幡社?

波切九鬼城のあった頃から祀られていたのだろうか。

Img_8538 八幡さん公園から大王埼灯台

Img_8528 大王埼灯台説明板

Img_8546 八幡さん公園から 海産物、真珠の土産物屋が並ぶ通りを下って宝門の浜へ。

平日のこともあり閑散としている。真珠は安いらしいが・・・。

Img_8549 宝門の浜から上って、伝三坂の坂上に通ずる龍王閣前の石段坂。

Img_8555 坂下方向

Img_8562 大慈寺前から上る石段坂

Img_8569 坂上を行けば伝三坂の坂上、龍門閣前から宝門の浜へ通じている。

前を猫が悠然と歩いている。

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2009年2月23日 (月)

柳生街道

2009年2月12日

Img_8237_2 JR奈良駅・・・三条通り・・・猿沢池・・・隔夜(かくや)寺(空也上人旧跡)・・・滝坂の道・白乳(しらち)神社・・・寝仏・・・夕日観音・・・三体地蔵・・・朝日観音・・・首切地蔵・・・新池(地獄谷公園)・・・地獄谷石窟仏・・・峠の茶屋・・・八柱神社・・・円成(えんじょう)寺・・・夜支布(やぎゅう)山口神社・・・大柳生水木古墳・・・奈良市青少年活動センター・・・南明(なんみょう)寺・・・おふじの井戸・・・かえりばさ峠(阪原峠)・・・疱瘡(ほうそう)地蔵・中村六地蔵・寝仏地蔵・・・天乃岩立神社・一刀石・・柳生石舟斎塁城跡・芳徳寺・・・正木坂道場・・・柳生茶屋・・・正木坂・陣屋跡・八坂神社・・・家老屋敷・・・柳生橋(今川)・・・数珠口坂・剣塚・古城山(314m)・・・柳生下橋(打滝川)・・・阿対(あたや)の石仏・・・笠置寺・・・笠置橋(白砂川)・・・笠置駅(JR関西本線)→加茂駅(JR奈良線)→奈良駅

 春日山と高円(たかまど)山の谷あいの渓流沿いの滝坂の道を上り、円成寺、夜支布山口神社から、かえりばさ峠を越え柳生の里へ下り、南朝ゆかりの古城山へ上り、阿対の石仏から笠置寺へ上り笠置駅まで下る、けっこう起伏があり距離もある歩きがいのある坂道散歩です。

 7時前に出発し、飛鳥中学校の先で滝坂の道に入る。昼でも暗い木々に覆われた石畳の道を緩やかに上って行く。首切地蔵の立つ分岐から地獄谷石窟仏の方へ入る。石窟仏から細い山道を上り下りを繰り返しながら車道へ出ると峠の茶屋でほっとするが早すぎてまだ開店前。田畑の間の広くのどかな道から、林の中の小道に入り円成寺へ。前に来た時はちょうど紅葉の盛りの休日で境内は観光客、ハイカーなどでごった返していたが、今日はきれいな庭園も閑散としていて、一休みには打ってつけの所だ。

 円成寺のバス停のそばから柳生街道は県道から細い道に入り下って行く。棚田の広がる気持ちのいい道(上の写真)をのんびりと下って行ったら行き止まりになり、道が分からなくなる。農作業をしている人も見当たらず道も聞けない。仕方なく来た道を引き返すと、道標が倒れているのを見つけた。ここから脇道に入るのだった。この間、約30分のロスタイム、のんびりと歩き過ぎたせいか、前回歩いた復習をして来なかった罰か。何とか夜支布山口神社へ出て一安心。すぐ先の畔道の中の柳生水木古墳はせっかく保存、整備されたものの、その後は放ったらかしといった状態で、案内板、説明板もない。古墳に興味ない人はこれが何なのか分からず通り過ぎてしまうだろう。通り過ぎてくれればいいが、古墳と知らずに、いたずらや壊されでもしたら貴重な文化財が泣くというものだ。

 大柳生の古い民家が並ぶ小高い道を行き、再び山道に入り下って集落に入り南明寺からおふじの井戸へ向う。道標が個人の小さな菜庭の中に低く立っていて直進しそうになったら、菜庭の手入れをしていたおじさんが柳生街道はここで曲がるのだと声を掛けてくれて大助かり。確か前回もここを直進してかなり先まで行ってしまったのを思い出した。何度も同じ間違いを繰り返す、懲りない性分丸出しだ。おふじの井戸から前方のかえりばさ峠に向う。こんな急な上りだったとは、ここも前回のことを忘れている。

 かえりばさ峠から下って、疱瘡地蔵の先の寝仏の所から柳生の里に入った。まず、天乃岩立神社へ上る。途中の茶畑が見事だ。薄暗い中に巨岩がゴロゴロの天乃岩立神社は人影もなく、ひっそり、ひんやり。一刀石は相変わらずの切られ傷?をさらしている。芳徳寺から正木道場、柳生茶屋へ下りて小休止。柳生の里も観光客は平日はほとんど来ないようで、過疎化も進んでいるという。

 正木坂、家老屋敷から南朝ゆかりの古城山へ向う。前回はパスした所だ。柳生バス停前の上り口の鉄の階段を写真に撮っていたらバス停から、「そっちの方にはバス停はないわよ。」とおばさんの声。そんなことは百も承知。「古城山へ上って笠置まで歩くんだよ。奈良から歩いて来たんだから。」 おばさんも「へぇー」とびっくり、感心?、呆れた?ような様子で見送ってくれた。こっちもカッコをつけて、数珠口坂の直登、急登に取り掛かる。古城山は標高314m、こんなペースで行くとすぐにダウンすると思っていたら、間もなく剣塚のある平坦な所に出てほっとした。ここはもう山頂近くだ。柳生の里そのものが高い所(200m位?)にあるのだろう。

 柳生下橋へ下って一安心したせいか道を間違えた。打滝川の土手沿いを進み、途中で河川工事をしている人に道を確認したが、笠置方面と言わなかったのがまずかった。やぐり橋を過ぎ、どんどん歩いて行くうちに太陽が南方向にあることにやっと気づきガックリ。だいぶ疲れてきたのでこの先が思いやられた。ここも30分近くのロスタイムだ。柳生下橋へ戻り阿対の石仏に寄り、かさぎ橋を渡って右側に人工的な殺風景なゴルフ場を見ながら単調な車道を上る。車道が途切れて、未舗装の道になるとここは笠置山の笠置寺の境内だ。

 笠置寺から東海自然歩道を下って笠置町に入り、笠置駅に着いたのが4時近く。1時間ほど道に迷ったわりには意外と早かった。それでも起伏の多い道で歩きでがありけっこうな疲れだ。電車の中でのんびり居眠りでもしながら奈良まで戻ろうと思っていたら関西本線は笠置から加茂までお年寄りたちで混んでいて座れず。一輌編成だから仕方なしか。

  *参考:『柳生街道(滝坂の道)コ-ス』・『柳生街道(剣豪の里)コ-ス』・『柳生・笠置周遊コ-ス』(近鉄「てくてくまっぷ」)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_8124 猿沢池から興福寺五重塔

Img_8127 隔夜寺 《地図

長谷寺参りに隔夜、往来していた修行僧のために空也上人が建てた宿坊を「隔夜堂」と呼んでいた。後に、空也上人から影響を受け、踊念仏を広めた一遍上人もここに泊まったといい、軒瓦に「一遍」と刻まれている。

Img_8134 白乳(しらち)神社

春日大社の摂社で、(婦人)の腰から上の病に、赤乳神社は腰から下の病にご利益あり。

Img_8135 説明板

Img_8136 親ろく地蔵

どういう由来があるのか、調べても分からず。

Img_8137 地蔵さん

六体あるようで、「親地蔵」なのだろうか?

Img_8141緩やかに住宅街を上る滝坂の道

Img_8154谷あいの道に入り、薄暗い石畳の道を上る。

Dsc05009 寝仏

近くの四方仏の一つが転がり落ちたといわれる。室町時代前期の作という大日如来像が刻まれている。左を頭にして横たわっている。(2004年11月23日撮影) 

Img_8167 日が射し込まない暗い道

雨が降ると道に渓流から水が溢れ、崖から流れ落ちた水が滝のように道を流れるので滝坂の道というようになった。

Dsc05013夕日観音

夕日を受けると神々しさが増すという、弥勒信仰が盛んだった鎌倉時代のものという。 (2004年11月23日撮影)

Dsc05018 朝日観音

小川向いの崖上の磨崖仏。中央が弥勒菩薩、左右が地蔵菩薩。鎌倉中期の文永2年(1265)の銘があるという。(2004年11月23日撮影)

Img_8168 説明板

Dsc05017 中央の弥勒菩薩は鼻が低く顔が凹んだ、愛嬌ある顔だ。

Dsc05016 大きな耳の右の地蔵さん

Img_8178首切地蔵(左)が立つ地獄谷石仏群への分岐

Img_8176 説明板

Img_8175 首切地蔵

首の所の切り傷は荒木又右衛門の試し斬りの跡とか。

Img_8180 新池

Img_8184 滝坂の道説明板

Img_8186地獄谷石窟仏 《地図

聖(ひじり)が住んでいたとの伝承もあり、聖人窟ともいわれる。

Img_8188 説明板

Img_8191 石窟仏

奈良時代後期の4体の石仏

Img_8194 木橋を渡って

Img_8195 路肩が悪い所もある。

Img_8201 峠の茶屋(石切峠近く)

武芸者が飲み食いのカタに置いていった鉄砲、槍が掛けられている。まだ早すぎて開店前

Img_8203 八柱神社

Img_8204 のどかで静かな道を行く。

Img_8213 林の中の道に入り円成寺へ

Img_8227 円成寺(庭園から楼門) 《地図

草創は平安時代に京都の円成寺を移したものともいう。山号は忍辱山(にんにくせん)という、臭そうな名だが、「忍辱」とは、仏教の菩薩行六波羅密の布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若の一つで、いかなる身心の苦悩をも堪え忍ぶという仏道修行上の大切な徳目であるという。

Dsc05020 紅葉の頃の庭園

(2004年11月23日撮影)

Img_8229 右へ急坂を下る

Img_8236棚田の間を下る。

Img_8241 ここで左にこの道(正面方向)に入る。

倒れている道標を見逃したばかりに直進してしまい道が分からなくなり30分近くのロスタイム。

Img_8244 山道に入る

Img_8249 小石仏

Img_8250 夜支布山口神社へ

Img_8252 夜支布(やぎゅう)山口神社 《地図

Img_8251 説明板

Img_8254 柳生へ

Img_8256大柳生水木古墳石室

6C後半の直径15mの円墳で,周囲に外護列石(石垣)を伴う珍しいもの。天井石は失われている。案内板も説明板もなく、保存状態も悪い。保存整備した後、そのまま放ったらかしといった感じだ。

Img_8257 玄室

Img_8259 玄室から夜支布神社方向

Img_8260 大柳生の集落に入って小高い所の道を進む。

Img_8264 再び山道へ

Img_8266 下りとなる。

Img_8269南明寺 《地図

Img_8270 説明板

Img_8273 立派な屋敷と蔵

Img_8274 すぐ先で右に曲がっておふじの井戸から、かえりばさ峠へ(正面方向)

Img_8276 おふじの井戸

この井戸で洗濯をしていた器量が良く、才気がある娘を柳生宗矩(むねのり)が見初めて妻(側室)に迎えたというお話。

Img_8275 説明板

Img_8279 かえりばさ峠へ

昔、花嫁が東の柳生から西の大柳生へ嫁入りする時、ここで故郷の名残を惜しみ振り返ったので、地元では阪原(さかはら)峠のことを「かえりばさ」峠と呼んでいる。

Img_8282 薄暗い林の中を上る。

Img_8284_2 峠から下って柳生の里へ

Img_8291 疱瘡地蔵・柳生徳政碑 《地図

元応元年(1319)の銘。

Img_8286 説明板

Img_8290 疱瘡地蔵(中央)の右下の枠内に正長徳政一揆(1428年)の負債取消しの文が刻まれている。

Img_8289 柳生徳政碑文

徳政を勝ち取った一揆の連中が地蔵さんに感謝して彫り刻んだのだろうか。

Img_8292 中村六地蔵

小さな地蔵が六体

Img_8296 寝仏地蔵

元は立っていたのが倒れたのだろう。このあたりにあることを知らなければ見逃してしまう。

Img_8299 茶畑

色が違うのは何故なのか?

Img_8301 天乃岩立神社 《地図

Img_8306 由緒

Img_8303 神体の大岩

天の岩戸から飛んで来たという。

Img_8316 前伏盤、前立盤、後立盤の三つに割れている神体の大岩。

Img_8309 一刀石

柳生石舟斎が天狗と思って切ったらこの岩だったとか。このあたりは巨岩が多く、背後の小高い所からここに落ちて割れたのだろう。

Img_8310 説明板

Dsc05022 背後の丘上にも大岩がゴロゴロ

Img_8322 芳徳寺

柳生家の菩提寺

Img_8319 山門から

Img_8318 石舟斎塁城址碑

芳徳寺の前

Img_8323 正木坂道場

旧正木坂道場は柳生十兵衛により開かれた柳生新影流の道場で、今の奈良市営駐車場のあたりにあったらしい。

今の道場は興福寺の門跡寺院 一乗院の建物が移築され、元京都所司代の玄関を移したという。全国指導者講習会や剣道家の修練が行われているそうだ。

Img_8327 正木坂(坂上方向) 八坂神社と柳生陣屋跡の間を南東に上る坂。《地図

Img_8337 坂上方向

右が八坂神社・左が陣屋跡

Img_8340 坂下方向

Img_8339 坂上方向

Img_8329 八坂神社

Img_8328 説明板

Img_8335 柳生陣屋跡

寛永19年(1642)柳生宗矩が1374坪の陣屋を建てた。延享4年(1747)に火災により全焼し、明治の廃藩で消失。現在は桜を中心とした花の公園として整備

Img_8342家老小山田家の分家の屋敷

Img_8346 柳生藩家老屋敷の石垣

Img_8343 説明板

Img_8344 家老屋敷長屋門

江戸時代末期の柳生一万石の家老、小山田主鈴の旧邸。ここで山岡荘八がNHKドラマ「春の坂道」を執筆した。

Img_8345 古城山

南北朝時代に南朝方の砦があった。

Dsc05023 落雷で枯れた初代の十兵衛杉 《地図

寛永3年(1626)、柳生十兵衛が隠密として諸国探索の旅に出る時に植えたという。

(2004年11月23日撮影)

Img_8350 鉄の階段を上って古城山へ

ここは数珠口坂の坂下だった所か。

Img_8352 数珠口坂(坂上方向) 柳生バス停から北方向に古城山へ上る坂。《地図

元弘の乱(1331年)の時、柳生永珍がこの山に立て籠もり、後醍醐天皇の潜行していた笠置山を南から守っていた。南朝方の糧道であった柳生方面を守るため、この坂で13名の兵が戦死したという。「数珠口」の由来は何なのか?

Img_8364 古城山の説明板

数珠口坂が出てくる。珠数口坂と書いているが間違いだろう。

Img_8351 坂下方向

Img_8353 坂上方向

Img_8355 説明板

Img_8357 剣塚

このあたりは平坦で堀跡が残る。

Img_8358 下って行く

Img_8360 やせ尾根を行く

Img_8371 阿対(あたや)の石仏《地図

阿弥陀如来像は流行病よけ、地蔵(左)は豆腐を供えると子どもが授かるという。子が授かった時は千個の数珠を作ってお礼参りをする。室町時代の作という。

Img_8367 説明板

Img_8372 お礼の数珠が前に供えられている。豆腐の空きポリ容器も捨てられていた。「ゴミを持ち帰らない人に子は授けられないよ。」と地蔵さんが言っていた。この数珠は、「数珠口」坂と関連があるのだろうか?

Img_8374 近辺地図

Img_8385 笠置寺 《地図

奈良時代は弥勒信仰、平安時代は山岳修験道、南北朝時代は南朝の拠点となった寺。

Img_8386 東海自然歩道を下る。

Img_8392 笠置の町並

Img_8397 笠置駅前 《地図

栗栖天満宮(正面奥)、正面の人形の武者と坊主頭は元弘の乱の時、笠置山の南朝方の三河国の住人、足助次郎重範と、奈良般若寺の本性房という律僧で、攻めてきた北朝方の兵を討ち退けている所。

Img_8398 天満宮由緒

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2009年2月22日 (日)

山の辺の道

2009年2月11日

Img_8043 奈良駅(JR桜井線)→天理駅・・・天理本通り・・・天理教本部・・・布留大橋(布留川)・・・恵比須神社・・・石上神宮・・・内山永久寺跡・・・夜都岐(やとぎ)神社・・・竹之内環濠集落・・・波多子塚古墳・・・萱生(かよう)環濠集落・西山塚古墳・・・五社神社・・・西殿塚古墳(手白香皇女衾田陵)・・・灯籠山古墳・六地蔵・念仏寺・・・大和神社お旅所・歯定(はじょう)神社・中山大塚古墳・・・柿本人麻呂歌碑・・・長岳寺・・・崇神天皇陵(行燈山古墳)・櫛山古墳・・・景行天皇陵3号陪塚・・・景行天皇陵(渋谷向山古墳)・・・神籠(ひもろぎ)遺跡・・・桧原神社・・・玄賓(げんぴ)庵(上の写真は前の坂)・・・岩坪池・八大龗王(りゅうおう)龗神神社・・・狭井(さい)川・・・狭井神社・・・久延彦(くえひこ)神社・・・大神(おおみわ)神社・・・三輪成願稲荷神社・・・平等寺・・・崇神天皇磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)跡・志貴御縣(みあがた)社・・・金屋の石仏・・・海柘榴市(つばいち)観音・・・仏教伝来地・大和川(馬井手橋)・・・JR桜井駅(桜井線)→奈良駅

 すっきりしない天気だが休日で山の辺の道はウォーカーが多い。石上神宮から南へ、今は何も残らない内山永久寺跡の本堂池のほとりに立つと、明治の廃仏毀釈のすさまじい破壊が空恐ろしく感じられる。西殿塚古墳は継体天皇の皇后、手白香皇女の陵とされているが、築造時期とはかなりのズレがある。崇神天皇陵の行燈山古墳、景行天皇陵の渋谷向山古墳も実際の被葬者は誰なのか? 箸墓と同じく宮内庁が管理しているので発掘調査も出来ない状態だ。

 景行天皇陵を過ぎて道を間違え、細い道に入りかなり上ってしまったが、西へ奈良盆地の方へ下って行けば山の辺の道にぶつかるので、道に迷うロスタイムも少ない。万葉歌碑が並ぶ巻向川沿いを上り、巻向川を渡り桧原神社へ向う。このあたりは晴れていれば奈良盆地、生駒山地方向の眺めがいいのだが今日はあいにくの曇り空だ。桧原神社、狭井神社、大神神社とだんだん参拝客、ハイカー、観光客が増えてくる。

 大神神社の巳の神杉は、信仰が厚い(人気がある?)ようで老若男女が熱心に手を合わせている。巳さんは昼間はお出ましにならないのだろう。大神神社の境内を抜け、平等寺から崇神天皇磯城瑞籬宮、金屋の石仏へと向うにつれ人影もまばらとなる。古代に交通の要衝、交易の市として栄えた海柘榴市あたりは古い家並みがひっそりとして、往時の面影はない。大和川を渡り、三輪山を振り返りながら桜井駅に向った。

  *参考:『山の辺の道コース』(近鉄てくてくまっぷ)

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Img_7847 天理本通り

Img_7848 天理教本部

Img_7860 内山永久寺跡の本堂池 《地図

永久年間に鳥羽院の勅願で創建。明治の廃仏毀釈で廃寺となり、広大な寺域に残るのはこの池のみ。

Img_7861 説明板

Img_7862 かつての大伽藍の様子

天正13年(1585)には56の坊、院があったという。

Img_7859 芭蕉句碑

伊賀上野に住んでいて、宗房と号していた頃の作。

Img_7858 説明板

Img_7864 畑の間を行く。

東海自然歩道となっている。

Img_7872 石畳の急坂を下る。

Img_7884 道沿いに地蔵さん

Img_7888 夜都伎神社近く

Img_7894 「山の辺の 道ははるけく  野路の上に  乙木の鳥居  朱(あけ)に立つ見ゆ」 広瀬東畝(明治から昭和の初めの日本画家)の歌碑が立つ。

鳥居の上部に朱色の跡が残っている?

Img_7892 夜都伎神社 《地図

乙木(おとぎ)の集落にある。夜都伎から転訛したのか、乙木の方が古いのか?

Img_7890 説明板

Img_7893神社前の池から

Img_7901 古い家並みの間を進む。

Img_7906 竹之内環濠集落

中世、村を外敵の侵入から防ぐため、自衛手段として周囲に濠を巡らせた集落。ここは大和では最高所(標高100m)にある環濠集落(跡)。今は灌漑用に転用されたり、埋められて一部の濠が残るだけ。

Img_7905 説明板

Img_7907 奈良盆地方向

Img_7909 波多子塚古墳

全長144mの前方後方墳。3C後半~4C初めの築造。

Img_7911 説明板

Img_7920_2 萱生(かよう)環濠集落

右は西山塚古墳の後円部

Img_7919 西山塚古墳 《地図

全長114m、大和古墳群では唯一の古墳時代後期の6C前半の築造。

被葬者を継体天皇の皇后、手白香皇女(たしらかのひめみこ)(武烈天皇の姉(妹との説もある))とする説がある。

Img_7918 説明板

Img_7925 衾田陵(西殿塚古墳)

3C後半の全長230mの前方後円墳で継体天皇の皇后、手白香皇女衾田陵として宮内庁が管理されているが、築造時期と手白香皇女の時代(6C)が合わず、崇神天皇陵とする説、邪馬台国の女王、卑弥呼を継いだ台与とする説などがある。

Img_7926 説明板

Img_7931 燈籠山古墳

4C前半の全長110mの前方後円墳

Img_7932 説明板

Img_7936 六地蔵

Img_7935 念仏寺

行基の開基で、今は廃寺の真言宗「旧中山寺」の一坊と伝えられる。

Img_7941 大和神社お旅所(大和稚宮神社)・歯定神社(j左)

大和神社の境外摂社で、中山大塚古墳(全長132mの前方後円墳、3C末頃)の前方部先端にある。4月1日の大和神社の「ちゃんちゃん祭り」の時は、神輿が渡御する。左は歯定(はじょう)神社で祭神は大己貴神、少名彦名神

Img_7944_2 由来

Img_7952 石畳の坂を下る。

Img_7955石畳を下ると柿本人麻呂の歌碑がある。

Img_7958 柿本人麻呂の歌碑

「衾道(ふすまぢ)を 引手の山に 妹を置きて  山径(やまぢ)を行けば 生けりとも無し」

衾道は手白香皇女の衾田陵(写真左端に一部が見える)あたり、引手の山は竜王山(写真奥右方)で、ここに埋葬された亡き妻(巻向の妻)を偲び、捧げた歌。

Img_7961土塀の家

Img_7964  旧家の脇

Img_7966 小石仏

Img_7968 長岳寺 《地図

空海の開基と伝わる、釜口大師の名で親しまれている。右は「根上がりの松」の根。樹齢300年の松は害虫により昭和58年に枯れた。

Img_7976大門

貞和5年(1349)建立の四脚門で、昔は、梁の付き出した部分の肘に刀傷があった。刀鍛冶が注文の刀に僧兵からケチを付けられ、門の肘木を切り落とし刀の切れ味を証明したということから、別名を「肘切り門」という。

Dsc05029 鐘楼門

日本最古の鐘門で、弘法大師当寺創建当初の唯一の建物。

Img_7975 説明板

Dsc05033 放生池(本堂の前)

Img_7980 崇神天皇陵(行燈山古墳)

全長242mの3C前半の前方後円墳

Img_7981 案内図

Img_7989 櫛山古墳

全長150mの4C後半の双方中円墳

被葬者は行燈山古墳と関係のある有力人物か。松本清張の『火の路』に登場する古墳。

Img_7986 航空写真

右が行燈山古墳、左が櫛山古墳

Img_7985 説明板

Img_8003 景行天皇陵3号陪塚

Img_8009景行天皇陵(渋谷向山古墳)

全長300mの前方後円墳

Img_8008 畑の間を行く

Img_8012 三輪山

Img_8015 神籠(ひもろぎ)遺跡

この一画の小字名は「ヒモロギ」で、神霊の降臨する依代、神籠を設け神祭りが行われた場所だとする。

Img_8014 説明板

Img_8033 桧原神社 《地図

大神(おおみわ)神社の摂社で、崇神天皇が天照大神を豊鍬入姫に託して祭らせたと伝え、「元伊勢」と称される。本殿、拝殿はなく三つ鳥居がある。

Img_8037 由緒

Img_8036 二上山方向

桧原神社の注連縄の下から真西方向。曇っていてうっすらとしか見えないが。

Img_8038 林の中を行く。

Img_8042

玄賓庵

Img_8039 説明板

Img_8052 八大龗王龗神神社

「日本最古社 八大龗王弁財天大神龗神神社」の標柱が立つ。八大龍王とは、仏教で法華経説法の座に参列した八種の龍王のこと。

Img_8059 狭井神社 《地図

大神神社の摂社で、大物主神の荒御魂を祀る。

社務所でお祓いを受け三輪山へ登ることができる。

Img_8061 畝傍山(右)、香具山(左)、大神神社の大鳥居(右端)

大美和の杜の展望台から

Img_8068 久延彦(くえひこ)神社

久延毘古命は、大国主神が国造りの際、多くの神が知らなかった少彦名命の神名を教えた神で、知恵は類なく優れ、『古事記』には「足はあるかねど天下の事を、尽(ことごと)に知れる神」、「山田の曾富騰(そほど)」と記されている神で、「山田の案山子(かかし)」のこと。
特に受験合格・入学・進学・就職等の成就を計る、知恵の神様。

Img_8070 説明板

Img_8076 大神神社(三輪明神)

大和の「一の宮」、背後の三輪山を神体とする日本最古社の一つ。酒の神様でもある。手前は「巳の神杉」

Img_8073巳(み)の神杉

江戸時代には、「雨降杉」と呼ばれ、雨乞いの時に里の人々が集まり、この杉にお詣りをした。杉の根元に、三輪の神の化身として崇敬される巳(み)さん(=蛇)が棲んでいるところから、「巳の神杉」と呼ばれるようになり、巳さんの好物とされる卵が、酒とともにお供えされている。そんなに栄養をつけて、酒ばかり飲んでいると「メタ腹巳さん」、「アル中巳さん」になってしまうよ。

参拝する人が多く、「神杉に卵を投げないで下さい」との掲示板が立つ。根元の空洞に巳さんが棲んでいるらしい。巳さんは体長2mほどの青大将で4、5匹とか、白い蛇だとか、銀色に輝く神秘的な蛇で、3度見たことがあるとかいう話もあるが、蛇の写真はどこにも載っていないようだ。写真を撮ったり、掲載したりすると蛇神の祟りがあるのかも。

Img_8077三輪成願稲荷社

Img_8082 平等寺

聖徳太子が大三輪寺として創建した寺。本堂(左)・不動堂(中央奥)・二重塔

Img_8080 説明板

Img_8087崇神天皇磯城瑞籬宮跡 《地図

古代の交通の要衝地で大和王権発展の拠点。

Img_8088志貴御縣社

Img_8090 説明板

Img_8097 金屋の石仏

Img_8093 釈迦(右)・弥勒(左)

貞観~鎌倉時代

Img_8092 説明板

Img_8096 床下にも古墳の石棺の蓋

Img_8101 海柘榴市

古代の市場、交易、交通の要衝で栄えたあたり。歌垣でも有名。

「紫草(むらさき)は 灰さすものぞ 海柘榴市の 八十(やそ)のちまたに 逢へる児や誰」 

「たらちねの 母がよぶ名を申さめど 道ゆく人を誰と知りてか」 

Img_8102 説明板

Img_8107海柘榴市観音堂 《地図

Img_8108 説明板

Img_8105 観音さん

Img_8106 観音堂の外の石仏

Img_8119 大和川(下流方向)

Img_8116 仏教伝来地説明板

Img_8123 三輪山

大和川から

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2009年2月20日 (金)

北山の辺の道

2009年2月10日

Img_7679_2  JR奈良駅・・・三条通り・辷(すべり)坂下・猿沢池・・・飛鳥小橋(尾花谷川)・大乗院跡・・・志賀直哉旧居・・・不空院・・・新薬師寺・鏡神社・・・高砂橋(能登川)・・・西勝寺・宅春日神社・・・白毫(びゃくごう)寺・・・県道80号・・・岩井川・・・八坂神社・・・藤原観音堂・・・白山比咩(しらやまひめ)神社・・・嶋田神社(崇道天王社)・・・崇道天皇八嶋陵・前池・・・円照寺・・・大師堂・・・竜王池・・・五つ塚古墳群・・・日本酒発祥の地・正暦(しょうりゃく)寺・・・泣き笑い地蔵・・・ハナキレ地蔵・・・柳茶屋バス停・・・弘仁寺・・・古墳公園(和爾小倉谷古墳群)・・・白川ダム・・・(名阪国道)・・・大将軍鏡池・・・石上配水池・・・ウワナリ古墳・・・豊日神社・・・布留の高橋(布留川)・・・石上(いそのかみ)神宮・出雲健雄神社・・・西山古墳・塚穴山古墳・・・三興寺・・・白山神社・・・天理駅(JR桜井線)→奈良駅

 朝から雨空の下を北山の辺の道を歩く。白毫寺から県道80号を渡り、ビニールハウスの並ぶ畑の中を行く。晴れていれば気分のいい道だが空はどんより、時折、雨粒が落ちてきて気分がちと重い。怨霊が漂う雰囲気など全くない明るい崇道天皇陵前の前池沿いを進むと山道風になり、円照寺への長い参道の途中に出る。円照寺の山門をくぐり、しばしひっそりと静謐、ここだけ時間が止まったような風情の漂う空間を楽しむ。

 山の辺の道から離れ、竜王池から正暦寺へ緩やかに上って行く。この道は人も車も通らない長く寂しい道(上の写真)で、前回訪れた時はこの道でいいのか何度も心配になった。正暦寺近くの車道に出た時には今日もほっとした。本堂まで上り車道を柳茶屋バス停へ下り出すとついに本降りの雨となった。道沿いの泣き笑い地蔵、ハナキレ地蔵に見送られ、時計台の立つ柳茶屋バス停の所で左折し弘仁寺へ向う。薄暗い奥の院から少し上って弘仁寺の門前へ出る。天理高校のグランド沿いに上って下ると古墳公園でここ小休止。すぐ寒くなってきて出発する。

 白川ダム沿いを進み名阪国道をくぐり、なぜか水のない大将軍鏡池を見ながら石上配水池の間の細い道を入る。林間から畑の中の小道を抜け車道に出て進むと、正面に天理教の施設が並び始める。施設の間を東に上り小高い所の道に入る。布留の高橋を渡ると石上神宮は近い。古代大和朝廷の武器庫だった石上神宮の楼門をくぐった途端に雨脚が急に強くなった。人影もなく雨が降って暗さを増した境内は、鶏の鳴き声が響くだけで、ひっそりとして神々しく厳粛な気分になる。

 今日はここが終点で、明日はここから山の辺の道を南下する。東天紅と一緒に休憩所でしばし雨宿りして、ずらりと並ぶ天理教の大きな建物の間を通り、天理高校の南の西山古墳を周って北側の塚穴山古墳に入った。この古墳は前回は入り口が分からずあきらめた古墳だ。墳丘は削平されているが、巨大な横穴室石室は見事で、雨の中を雑草を掻き分け来た甲斐があった。雨の中を予定のコースを予定より早めに歩けてまあ満足した気分で天理市役所前から天理駅に向った。

 *参考:『北・山の辺の道コース①』・『北・山の辺の道コース②』・『白毫寺・正暦寺コース』(てくてくまっぷ-近鉄)

 写真をクリックすると拡大します。

Img_7590 辷坂下(猿沢池手前の三条通り)

三条通りの猿沢池の手前。鹿が餌を探している。お尻がこんなに白っぽいとは。

Img_7592 猿沢池

鷺だろうか岩に止まって微動だにしない。

Img_7608 鏡神社 《地図

大同元年(806)に隣りの新薬師寺の鎮守として勧請されたと伝う。

Img_7607 説明板

Img_7609雨雲のかかる高円(たかまど)山方向

Img_7612 能登川(高砂橋から)

今は住宅裏の何の風情のない流れだが、万葉集にも歌われた川。

Img_7611 「能登川の 水底さえに照るまでに  御笠の山は咲きにけるかも」 (作者不詳)

御笠山に咲いているのは桜か。能登川は春日山を源として、岩井川と合流して西に流れ、佐保川へ流れ込んでいる川。 万葉集にはこの1首だけに登場する。

Img_7614 西勝寺

山号を白毫山という浄土真宗の寺

Img_7616 宅春日神社 《地図

奈良時代に、河内の枚岡から春日の神、天児屋根命が御蓋山へ遷る時、この地でしばし休んだという伝承がある。

Img_7617 由来記

Img_7620白毫(びゃくごう)寺 

白毫とは仏の眉間にあるという白い巻き毛で、仏像では玉を入れてこれを表す。眉間白毫相として仏の三十二相の一つに数えられる。

境内からの西方向の奈良盆地、生駒山方向の眺めがいいが、まだ早すぎて入れず。

Img_7623 畑の中を行く

正面左は奈良春日病院

Img_7625 所々に道標が立つ

Img_7629 八坂神社

Img_7635 新池沿いを進む

Img_7636 薄暗い竹林の間に入る。

Img_7639西の奈良盆地の市街地方向

曇っていて眺めはいまいち。

Img_7642 藤原観音堂(右奥)

Img_7643 説明板

Img_7644 白山比咩(しらやまひめ)神社

Img_7645 説明板

Img_7648 嶋田神社(崇道天皇社)

崇道天皇(早良親王)を祀る寺社は各地にある。

Img_7649

Img_7650 本殿説明板

Img_7652 崇道天皇陵へ

Img_7653 崇道天皇陵(右)・前池 《地図

光仁天皇の皇子、桓武天皇の異母弟。藤原種継暗殺事件に連座して廃され、淡路国へ流される途中で憤死した。死後、祟りを恐れられて崇道天皇と追称された。菅原道真、崇徳上皇と並ぶ御霊信仰の元締め的存在。

Img_7654崇道天皇陵

Img_7656 道祖神のような小石像(崇道天皇陵の前)

Img_7659 円照寺

中宮寺、法華寺と並ぶ大和三門跡の一つ。「山村御殿」と呼ばれ、華道山村御流の家元。三島由紀夫の小説『豊饒の海』の「月修寺」のモデルとなった寺という。

Img_7660 萱葺きの屋根は、八嶋御所から移築された本堂、円通殿で本尊の木造如意輪観音像が安置されている。掃き清めらた庭、ひそやかで、静かで、落ち着いた雰囲気の漂う尼寺だ。拝観はできない。

Img_7662 大師堂から竜王池へ

ここはミニ西国三十三所霊場で、各霊場の御詠歌を刻んだ石柱や、地蔵さんが並んでいる。

Img_7664 大師堂

Img_7666 竜王池へ下る

Img_7667 竜王池 《地図

竜神を祀る池か、中の島に鳥居が立っているらしい。

Img_7668 五つ塚古墳群

道路沿いに古墳時代後期(6C後半~7C)の小さな円墳、方墳が五つ並ぶ。墳丘は崩れてはっきりしない。

Img_7669 説明板

Img_7675 正暦寺へ上って行く。

Img_7676 小石仏

Img_7680 さらに上って行く。

ほとんど山道に近い寂しい道。

Img_7683下って正暦寺前の車道へ

Img_7686日本酒発祥の地

僧侶が醸造する「僧坊酒」を造っていた。下は菩提山川の流れ。

Img_7687 正暦寺本堂へ 《地図

右は正暦寺福寿院(重文)

Img_7689 意外と小さな本堂

一条天皇の発願で正暦2年(991)に創建。

Img_7690 説明板

Img_7693 泣き笑い地蔵

左が笑い、右が泣き地蔵か

Img_7694 柳茶屋バス停の方へ下って行く。

Img_7699 ハナキレ地蔵

鎌倉時代の丸彫りの石の地蔵。1962年の第2室戸台風で地蔵堂と共に倒れ折損した。「鼻切れ」になったのはその時なのか、もっと以前から鼻が欠けていて、こう呼ばれていたのではないのか?

Img_7695 説明板

Img_7702 柳茶屋バス停の所

茶屋跡はない。時計台は地元の青年団が建てたという。

Img_7705 弘仁寺へ

Img_7712 弘仁寺奥の院

弘法大師が彫ったという不動明王と、掘ったという閼伽井戸。井戸の水は眼病に霊験あらたかという。

Img_7707 縁起

Img_7711 不動明王

Img_7716弘仁寺 《地図

「高樋の虚空蔵さん」、十三詣りで親しまれている真言宗の寺。

Img_7732 古墳公園 《地図

白川ダム建設のため古墳時代後期の7基の和爾小倉谷古墳群をここに移築した。保存、整備後の手入れ状態が悪く、荒れている様子だった。

Img_7725 説明板

Img_7728 2号墳の横穴式石室

一辺14mの方墳、石室は全長8.5m、7C前半の築造。天井石は失われている。

Img_7740 白川ダム

Img_7736 説明板

Img_7747 大将軍鏡池 《地図

干上がってしまったのか? 大将軍とは誰なのか?

Img_7748 石上配水池

Img_7751 上って行く

Img_7752 ウワナリ古墳の前方部?(果樹園の中)

県下4番目の全長17mの両袖式横穴式石室があるそうだ。

Img_7755_2 林の間を抜ける

Img_7760 晴れていればもっと気持ちのいい道だ。

Img_7763 天理教の建物の間を上る。

このあたりはすべて天理教の施設という感じだ。

Img_7765 左に小高い道を行く。

Img_7771 豊日神社

Img_7774 布留の高橋

「石の上(いそのかみ) 布留を過ぎて 薦(こも)枕 高橋過ぎ 物多(ものさは)に 大宅(おほやけ)過ぎ 春日(はるひ) 春日を過ぎ 妻隠(つまごも)る 小佐保を過ぎ 玉笥(たまけ)には 飯さへ盛り 玉もひに 水さへ盛り 泣き沾(そほ)ち行くも 影媛あわれ」『日本書紀-武烈即位前紀』

 物部麁火(あらかび)大連の娘の影媛の婚約者平群(へぐり)の鮪(しび)」を、影媛を横恋慕をした太子(後の武烈天皇)が大伴金村の援軍を得て乃楽山(ならやま)で殺害する。悲しんだ影媛が布留から乃楽山まで鮪を偲び、弔うために泣きながら歩いて行った時の情景を歌ったもの。古代の山の辺の道の道筋や、この時代の物部、大伴、平群などの大和の諸豪族の拮抗した勢力争い、天皇家との関わりなどが推測できる歌だ。ただし、歌の高橋は地名で布留の北方、今の天理市櫟本町あたりを指すようだ。

Img_7776 布留川

Img_7782 石上(いそのかみ)神宮へ

Img_7785石上神宮回廊、楼門 《地図

Img_7788楼門(重文)

文保2年(1318)の建立。もとは鐘楼門だった。

Img_7793 拝殿(国宝)

背後に瑞垣で囲まれた禁足地に本殿、神庫(ほくら)が立つ。古代には建物はなく禁足地のみで、それを拝していた。

参道の鳥居前に柿本人麻呂の、「をとめらが 袖布留山の瑞垣の 久しき時ゆ 思ひきわれは」歌碑が立つ。

Img_7798 急に雨が強くなってきた。

Img_7803 境内の休憩所で雨宿り休憩

放し飼いの鶏たち(東天紅は天然記念物)は元気がいい。

Dsc04947 鏡池

ワタカ(別名を馬魚)(天然記念物)の姿が見える。後醍醐天皇が吉野に逃れるとき、馬がいな鳴いて敵に見つかるのを怖れて首を切り落とした。それが魚になったとか。実際はコイ科で水草をよく食べるので、馬魚という名がある。

Dsc04946 説明板

Img_7790 出雲健雄神社拝殿(国宝) (楼門の前)

もとは内山永久寺の鎮守だった四所明神のもの。廃仏毀釈でここに移築された。大和と出雲の結びつきを示すものだろう。

Img_7786 由緒

Img_7811 西山古墳 《地図

古墳時代前期(4C末)の全長183mで前方後方墳では最大級の規模。竪穴式石室と考えられている。大連物部氏の奥津城か。

Img_7812 説明板

Img_7820 周濠から

右が後方部

Img_7824 前方部から

Img_7826 塚穴山古墳(木の向こう側)

7C初の直径60mの円墳

Img_7827 横穴石室へ

盛り土は削平されている。

Img_7831 羨道から玄室

全長16.5m、天井石は失われている。

Img_7832 玄室

石が敷かれ一段高くなっている。

Img_7834 玄室から

両袖式横穴石室

Img_7845 白山神社

左は天理市役所

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2009年2月19日 (木)

尾道市の坂-2

2009年2月9日

Img_7434 尾道駅・・・東御所通り・・・住吉神社・・・薬師堂通り・・・(山陽本線)・・・荒神社・・・福善寺・・・御袖天満宮・・・大山寺・・・れんが坂・愛宕祖霊殿・・・持善院・西国寺・金剛院・・・久保八幡神社・・・正念寺・・・西郷寺・・・浄土寺・海龍寺・・・海徳寺・・・八坂神社・・・尊光寺・・・浄泉寺・・・常称寺・・・おのみち映画資料館・・・おのみち歴史博物館・・・信行寺・・・奉行所跡・・・尾道駅(山陽本線)→福山駅・・・福山城・・・福山駅(新幹線)→新大阪駅(地下鉄御堂筋線)→天王寺駅(JR大和路快速)→奈良駅

 昨日の続きの古寺巡りの坂道散歩です。尾道駅から海岸沿いを歩く。ちょうど通学時間帯で向島からの渡船から生徒たちが降りてくる。中学、高校生か、ここから学校まではかなり離れているようだ。住吉神社の先で薬師堂通りに入る。市役所の所にあった薬師堂は今は跡形もないらしい。山陽本線をくぐり、福善寺、御袖天満宮へ。映画の階段落ちシーンのロケにも使われた、急で長く幅の広い石段は誰も通ってなく独り占めで気分がいい。天満宮の隣りの大山寺境内から下って、福善寺の墓地沿いを少し上るとれんが坂(上の写真)の下りとなる。坂下で西国寺の参道の坂の途中に出る。大ワラジの山門をくぐり、西国寺山(116m)中腹の三重塔まで上る。

 久保八幡神社へ下り、正念寺境内から山門を抜け西郷寺へ。境内で関東から10年ほど前に尾道に移ってきてこの寺に縁を持ったという女性としばし話す。この地が気に入っているようでなんとなく安心した心持ちになった。山陽本線沿い坂を下ると浄土寺で広い境内には参拝客も多い。隣りの海龍寺に寄り、浄土寺脇から坂を上って海徳寺の先の見晴らしのいいあたりまで上ってみた。このまま上ると浄土寺奥之院のある浄土寺山(178m)まで行けるようだ。

 海徳寺から下って山陽本線をくぐり、哀れで粋な話の「かんざし灯籠」の立つ八坂神社から尊光寺、浄泉寺、常称寺へと進み、海岸通りのおのみち映画資料館に寄ってみた。尾道がロケ地だった映画の写真が並んでいる。「集金旅行」なんて子どもの頃に見た懐かしい映画(随分ませたガキだったのだろうか?)もここがロケ地の一つだったとは知らなかった。500円の入館料はちと高い気もしたが、すぐ近くのおのみち歴史博物館にも入れるというから元は取れると思って行ってみたがここは期待はずれ、旧尾道銀行本店だったという建物はともかく、展示品の質、量とも博物館の名をつけるのはおこがましいという代物だった。

 尾道から福山に向う。備後地方最大の都市で駅前が福山城だ。尾道城と違い、れっきとした本まもんの城だ。城内は博物館になっているが、ちょうど月曜で休館日で入れず。普通、城は美術館、博物館などと違って一般の観光客も多く訪れるので毎日、天守まで上れるようになっている所が多いのだが残念だ。櫓などが残る福山城公園をグルッと回り、芦田川の川底に埋もれていた中世民衆の町「草戸千軒町」の出土品が展示されている広島県立博物館も休館日なので、予定より早く奈良に向った。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します

Img_7373 渡船(尾道港←→向島)

朝の通学、通勤時間で2隻で尾道水道を往来している。

Img_7371 大人60円・小人30円で運航時間は「ひんぱんに運航」とある。なまじ橋を架けるよりは渡船の方が便利なように思えてきた。

Img_7379 住吉神社

Img_7381 力石

一番小さそうな石に挑戦してみようかと思ったが、腰でも痛めたらやばいので止めといた。

Img_7380 説明板

Img_7390 福善寺の門前から

Img_7388 福善寺

Img_7386 説明板

薄れ消えかけていて読みづらい。

Img_7393 御袖天満宮への路地

Img_7394 菅公腰掛岩

菅原道真が大宰府に流される途中で尾道に立ち寄り、この岩に腰を掛けて休んだという伝承だろう。

Img_7398 腰掛岩の脇からいい感じの石段を上ったら上は福善寺の境内だった。

Img_7399 御袖天満宮 【ルート地図】の①

Img_7400 広く急な石段で中央に手すりがついていないのがいい。

Img_7402 門をくぐって本殿までさらに石段は続く。

映画「転校生」の階段落ちのロケ地。

Img_7403 石段上から

Img_7404 御袖天満宮

この土地の人たちの親切で暖かい扱いのお礼に菅原道真が服の袖を切って渡したことに由来するという。

Img_7408大山寺(たいさんじ)

天神坊と呼ばれ、隣の御袖天満宮と縁の深い寺。左の鐘つき堂の前には天神さんゆかりの梅の花が咲いている。右は日限地蔵堂

Img_7405 説明板

Img_7413 れんが坂(坂下方向) 西国寺門前の道から南西に福善寺の墓地、大山寺、御袖天満宮の方へ上る坂。【ルート地図】の②

レンガ風の路面なのでこの坂名で呼ばれているのだろう。尾道市のHPの西国寺の所には「蓮花坂」と表記されているが当て字だろう。

Img_7417 坂下方向

坂下で西国寺へ上る坂に出る。

 

Img_7435 坂上方向

Img_7439 西国寺門前の坂(坂下方向)

Img_7440 坂上方向

西国寺山門へ

Img_7441 西国寺

Img_7442 説明板

Img_7450 西国寺

右上に三重塔

Img_7451 尾道水道、左端上に新尾道大橋

Img_7454 三重塔

Img_7456 説明板

Img_7446 持善院

Img_7445 説明板

Img_7463金剛院

Img_7462説明板

Img_7468 久保八幡神社

Img_7539 門と社殿の間を国道2号と山陽本線が通っている。

Img_7475 正念寺山門

Img_7474 本堂・延命地蔵堂(右)

地蔵堂の前が尾道随一という「延命水」か

Img_7471 説明板

Img_7472 延命地蔵菩薩

観音さんのようにも見えるが

Img_7483 西郷寺山門 【ルート地図】の③

Img_7480 説明板

Img_7482_2 本堂

堂内に「泣き龍天井」がある。

Img_7478 説明板

Img_7486 小説「姿三四郎」のモデルという柔道家西郷四郎の像(浄土寺の近く)

浄土寺の末寺の吉祥坊(廃寺)で病気療養していた。現在の浄土寺阿弥陀堂の本尊阿弥陀如来像は四郎の吉祥坊での念持仏だったという。

Img_7487 説明板

Img_7489浄土寺山門前へ下る坂

右はJR山陽本線、正面は新尾道大橋

Img_7515坂上方向

右が浄土寺

Img_7491 浄土寺

浄土宗の寺と思いきや真言宗だった。足利尊氏が九州平定や湊川の合戦の際、戦勝祈願をした寺。

Img_7513多宝塔(国宝)・阿弥陀堂(重文)

Img_7510 正中6年(1329)の再建

Img_7512貞和元年(1345)再建

Img_7508 説明板

Img_7497 海龍寺

Img_7499 説明板

Img_7507 裏庭の花崗岩の磐石と文楽、竹本弥太夫の墓(正面下)

Img_7501 説明板

Img_7530 海徳寺 【ルート地図】の④

時宗では尾道地方第一の古道場。

Img_7531 説明板

Img_7522 海徳寺あたりから

右が千光寺山、左奥上に尾道水道

Img_7525 尾道市街、尾道水道、向島方向

Img_7540 八坂神社 【ルート地図】の⑤

Img_7542 かんざし灯篭(文政10年(1827)の建立)

かなわぬ恋に井戸に身を投げた貧しいお茶子が、「かんざしをください」と訴える幽霊となってこの大銀杏の下に出るようになった。哀れんだ人々がこのかんざし灯籠を建て奉納し霊を慰めた。

Img_7541 由来

Img_7547 尊光寺

現代風の建物でなじめない。

Img_7549 浄泉寺

以前は広い縁側で昼寝ができ、「昼寝寺」と親しまれていたという。

Img_7551 鐘撞堂

Img_7550 由来

Img_7558 常称寺山門

ここも本堂との間を国道と山陽本線が通る。

Img_7553 本堂

Img_7560 おのみち映画資料館

Img_7561 おのみち歴史博物館(旧尾道銀行本店)

展示品は少なく内容もいまいちだ。「歴史博物館」ではなく、「資料展示室」に名称変更すべきと思うが。

Img_7567 信行寺

Img_7566 説明板

Img_7569 下を山陽本線が通過中

Img_7570福山城(新幹線・山陽本線福山駅前)

Img_7577

Img_7576 説明板

Img_7574 月見櫓

Img_7573 説明板

Img_7579 湯殿

Img_7578 説明板

Img_7581 鐘櫓

Img_7580 説明板

Img_7585 筋鉄御門

Img_7584 説明板

Img_7586 伏見櫓

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2009年2月16日 (月)

尾道市の坂-1

2009年2月8日

Img_7259_2 尾道駅・・・土堂小学校・・・二階井戸・・・持光寺・・・光明寺・・・海福寺・・・吉備津彦神社(一宮さん)・宝土寺・・・千光寺新道・・・志賀直哉旧居・・・文学記念室・・・千光寺道・・・天寧寺坂・・・天寧寺・・・艮(うしとら)神社・ロープウエイ山麓駅・・・妙宣寺・・・慈観寺・・・正授院・・・善勝寺・・・猫の細道・・・天寧寺坂・・・千光寺道・・・千光寺・石鎚山鎖修行女鎖場・・・観音坂・ポンポン岩・岩割の松・・・・千光寺公園展望台・・・尾道市立美術館・・・尾道城・・・土堂小学校・・・尾道港・・・尾道駅

 春のような陽気の中を坂と猫の街、尾道の古寺を巡る坂道散歩です。尾道駅北側の丘の目立つ建物は尾道城だが本物の城ではない。今日の最後に千光寺公園から下って寄ることにして、山陽本線を渡り土堂小学校の前から細い坂道を上り始める。横浜、横須賀、神戸、長崎の坂風景にも似通った所がある道だ。日曜のせいか千光寺新道あたりから散策している人たちが多くなる。

 千光寺道へ出て途中から天寧寺の海雲塔(三重塔)を回り込むように天寧寺坂を下る。(上の写真) 坂下の千光寺山ロープウエイ山麓駅から善勝寺まで巡り、今日はここまでで引き返す。艮(うしとら)神社脇の猫の細道を上り、天寧寺坂の途中に出て、千光寺道を上って千光寺へ。舞台造りの本堂は参拝客(観光客か?)で賑わっていた。このあたりは玉の岩、三重岩、ポンポン岩、石鎚山修行鎖場など巨岩が多い。女鎖場(男鎖場は閉鎖されている。)から小祠のある岩に上ってみる。観音坂から展望台へ上る。標高140mくらいあるようだ。尾道水道方向の眺望を楽しんだ後、市立美術館の前を通り尾道城の方へ下る。こっちの方は歩いている人は皆無だ。

 廃墟となって放置されたままの模擬城(千光寺公園の西展望台跡)は痛々しい感じだ。駅前の尾道港でしばし休憩。尾道水道を挟んで向島までは300mもないだろう。渡船や行き交う船を見ていると落ち着いた気分になり、いつまでも飽きない。今日は歩いた距離は短いものの、起伏があり見所も多いので半日近くかかった。少し暗くなりかけた頃、港を後にして宿に向った。

  【ルート地図

  *参考『古寺めぐりコース』・『おのなびマップ』(尾道観光協会)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_7099 尾道城(尾道駅近くから)

Img_7103 土堂小学校の前から右へ細い道を上る。

Img_7108 二階井戸

Img_7106 説明板

Img_7107 下にあった井戸から水を汲み上げたのだろう。坂の街の暮らしの工夫。

Img_7111 持光寺

石の山門をくぐって境内へ。「絹本著色普賢延命像」は国宝。

Img_7112_2説明板

Img_7117 光明寺への道

Img_7120 光明寺

Img_7123 説明板

Img_7133 蟠龍(ばんりゅう)の松

Img_7129 海福寺

Img_7127 説明板

Img_7128 三ツ首様

処刑された盗賊の首を祀ってたもの。首から上の病に霊験あらたか。

Img_7135 宝土寺へ

Img_7138 吉備津彦神社(一宮(いっきゅう)さん)

11月3日には奇祭「ベッチャー祭」が行われる。

Img_7137 由緒

Img_7142 宝土寺

Img_7141 説明板

Img_7145 観音堂

Img_7147 千光寺新道

Img_7153 坂上方向

Img_7154 坂下方向

Img_7157 坂下方向

正面向こうは尾道水道

Img_7152 志賀直哉旧居(おのみち文学の館)

大正元年に移り住んだ家。その後、奈良でも暮らしていて新薬師寺近くに旧宅が残る。

Img_7151 説明板

役人的な偉そうな文章でいただけない。

Img_7161 林芙美子の「放浪記」碑(文学記念室の前)

幼少時代に尾道で暮らす。終の棲家は新宿区落合(中井)で、「四の坂」沿いに林芙美子記念館として公開されている。

Img_7166 千光寺道へ

Img_7168 千光寺道の上り口

石段を少し上った所をJR山陽本線が通る。むろん昔は線路に分断されることなく、千光寺まで上っていた。

Img_7169 踏切を渡って上って行く。

Img_7172 坂下方向 【ルート地図】の①

Img_7178 坂下方向

Img_7264 天寧寺坂の坂上から

三重塔、尾道水道、新尾道大橋(右上)、そして右手前の塀の上に猫が・・・。ここは撮影スポットで、猫もそれを知っていて、ここでポーズをつくって座り、餌をくれる観光客を待っているのだろうと勝手に想像した。猫はニャンとも言わないので、真偽のほどは分からないが。

Img_7184 天寧寺坂(坂下方向) 千光寺道の途中から天寧寺の海雲塔(三重塔)に沿って、千光寺山ロープウエイ山麓駅の方へ下る坂。【ルート地図】の②

Img_7204 坂下方向

Img_7209 坂上方向

Img_7211 坂下方向

Img_7226 天寧寺山門

Img_7216 本堂

Img_7220 説明板

Img_7218 五百羅漢

Img_7227艮(うしとら)神社

旧市内で最古の寺。右は樹齢900年という大クス。

Img_7229 妙宣寺

Img_7230 説明板

Img_7233 慈観寺

Img_7235 説明板

Img_7236  正授院

Img_7237 説明板

Img_7239 時計店

時計の模型はいつも12時を指したままなのか?

Img_7241 善勝寺

ちょうどロープウエイがすれ違う。

Img_7240 説明板

Img_7243 四国八十八ヶ所御砂踏霊場(善勝寺境内)

各霊場の砂が埋めてある。

Img_7246 猫の細道 【ルート地図】の③

右は艮神社、上って行くと天寧寺坂の途中に出る。左は「招き猫美術館」?

Img_7253 坂下方向

Img_7271 千光寺

正面は三重岩(みかさねいわ)

Img_7296 説明板

Img_7277 石鎚山鎖修行の女鎖

鎖の大きい輪に足を掛けて登る。

Img_7291 石鎚山の小祠

Img_7292 新尾道大橋、尾道大橋方向

祠の岩上から

Img_7287千光寺山ロ-プウエイ

Img_7298 観音坂(坂上方向) 【ルート地図】の④

千光寺の本尊、千手観音による坂名。

Img_7302 坂下方向

Img_7304 坂上方向

Img_7308 坂上近く

右は「ポンポン岩」(鼓岩)

Img_7309 説明板

Img_7319 展望台から新尾道大橋方向

Img_7324 尾道水道、向島方向

Img_7328尾道城(中央)・市立美術館(手前右)

Img_7331 尾道城 【ルート地図】の⑤

1964年(昭和39年)に千光寺公園の西展望台としてに建てられた模擬天守。1990年代に閉鎖され、今は廃墟と化したまま放置されている。屋根上の鯱も一つだけになっている。今後、この建物をどうするかは結論が出ていないそうだ。

Img_7335 「全国の城博物館 尾道城」の入口跡

Img_7333 雑草が蔓延り、番兵もむなしく立っている。

「兵どもが夢の跡」か

Img_7343 天守台がやけに長く大きいアンバランスな造りだ。

Img_7352 下って市街へ

Img_7356 土堂小学校の脇へ下る。

Img_7368 尾道港

向島への福本渡船で、運行は随時の「ひんぱん運行」、近くに駅前渡船、尾道渡船もあり住民の橋、足代わりになっているようだ。

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