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2009年2月23日 (月)

柳生街道

2009年2月12日

Img_8237_2 JR奈良駅・・・三条通り・・・猿沢池・・・隔夜(かくや)寺(空也上人旧跡)・・・滝坂の道・白乳(しらち)神社・・・寝仏・・・夕日観音・・・三体地蔵・・・朝日観音・・・首切地蔵・・・新池(地獄谷公園)・・・地獄谷石窟仏・・・峠の茶屋・・・八柱神社・・・円成(えんじょう)寺・・・夜支布(やぎゅう)山口神社・・・大柳生水木古墳・・・奈良市青少年活動センター・・・南明(なんみょう)寺・・・おふじの井戸・・・かえりばさ峠(阪原峠)・・・疱瘡(ほうそう)地蔵・中村六地蔵・寝仏地蔵・・・天乃岩立神社・一刀石・・柳生石舟斎塁城跡・芳徳寺・・・正木坂道場・・・柳生茶屋・・・正木坂・陣屋跡・八坂神社・・・家老屋敷・・・柳生橋(今川)・・・数珠口坂・剣塚・古城山(314m)・・・柳生下橋(打滝川)・・・阿対(あたや)の石仏・・・笠置寺・・・笠置橋(白砂川)・・・笠置駅(JR関西本線)→加茂駅(JR奈良線)→奈良駅

 春日山と高円(たかまど)山の谷あいの渓流沿いの滝坂の道を上り、円成寺、夜支布山口神社から、かえりばさ峠を越え柳生の里へ下り、南朝ゆかりの古城山へ上り、阿対の石仏から笠置寺へ上り笠置駅まで下る、けっこう起伏があり距離もある歩きがいのある坂道散歩です。

 7時前に出発し、飛鳥中学校の先で滝坂の道に入る。昼でも暗い木々に覆われた石畳の道を緩やかに上って行く。首切地蔵の立つ分岐から地獄谷石窟仏の方へ入る。石窟仏から細い山道を上り下りを繰り返しながら車道へ出ると峠の茶屋でほっとするが早すぎてまだ開店前。田畑の間の広くのどかな道から、林の中の小道に入り円成寺へ。前に来た時はちょうど紅葉の盛りの休日で境内は観光客、ハイカーなどでごった返していたが、今日はきれいな庭園も閑散としていて、一休みには打ってつけの所だ。

 円成寺のバス停のそばから柳生街道は県道から細い道に入り下って行く。棚田の広がる気持ちのいい道(上の写真)をのんびりと下って行ったら行き止まりになり、道が分からなくなる。農作業をしている人も見当たらず道も聞けない。仕方なく来た道を引き返すと、道標が倒れているのを見つけた。ここから脇道に入るのだった。この間、約30分のロスタイム、のんびりと歩き過ぎたせいか、前回歩いた復習をして来なかった罰か。何とか夜支布山口神社へ出て一安心。すぐ先の畔道の中の柳生水木古墳はせっかく保存、整備されたものの、その後は放ったらかしといった状態で、案内板、説明板もない。古墳に興味ない人はこれが何なのか分からず通り過ぎてしまうだろう。通り過ぎてくれればいいが、古墳と知らずに、いたずらや壊されでもしたら貴重な文化財が泣くというものだ。

 大柳生の古い民家が並ぶ小高い道を行き、再び山道に入り下って集落に入り南明寺からおふじの井戸へ向う。道標が個人の小さな菜庭の中に低く立っていて直進しそうになったら、菜庭の手入れをしていたおじさんが柳生街道はここで曲がるのだと声を掛けてくれて大助かり。確か前回もここを直進してかなり先まで行ってしまったのを思い出した。何度も同じ間違いを繰り返す、懲りない性分丸出しだ。おふじの井戸から前方のかえりばさ峠に向う。こんな急な上りだったとは、ここも前回のことを忘れている。

 かえりばさ峠から下って、疱瘡地蔵の先の寝仏の所から柳生の里に入った。まず、天乃岩立神社へ上る。途中の茶畑が見事だ。薄暗い中に巨岩がゴロゴロの天乃岩立神社は人影もなく、ひっそり、ひんやり。一刀石は相変わらずの切られ傷?をさらしている。芳徳寺から正木道場、柳生茶屋へ下りて小休止。柳生の里も観光客は平日はほとんど来ないようで、過疎化も進んでいるという。

 正木坂、家老屋敷から南朝ゆかりの古城山へ向う。前回はパスした所だ。柳生バス停前の上り口の鉄の階段を写真に撮っていたらバス停から、「そっちの方にはバス停はないわよ。」とおばさんの声。そんなことは百も承知。「古城山へ上って笠置まで歩くんだよ。奈良から歩いて来たんだから。」 おばさんも「へぇー」とびっくり、感心?、呆れた?ような様子で見送ってくれた。こっちもカッコをつけて、数珠口坂の直登、急登に取り掛かる。古城山は標高314m、こんなペースで行くとすぐにダウンすると思っていたら、間もなく剣塚のある平坦な所に出てほっとした。ここはもう山頂近くだ。柳生の里そのものが高い所(200m位?)にあるのだろう。

 柳生下橋へ下って一安心したせいか道を間違えた。打滝川の土手沿いを進み、途中で河川工事をしている人に道を確認したが、笠置方面と言わなかったのがまずかった。やぐり橋を過ぎ、どんどん歩いて行くうちに太陽が南方向にあることにやっと気づきガックリ。だいぶ疲れてきたのでこの先が思いやられた。ここも30分近くのロスタイムだ。柳生下橋へ戻り阿対の石仏に寄り、かさぎ橋を渡って右側に人工的な殺風景なゴルフ場を見ながら単調な車道を上る。車道が途切れて、未舗装の道になるとここは笠置山の笠置寺の境内だ。

 笠置寺から東海自然歩道を下って笠置町に入り、笠置駅に着いたのが4時近く。1時間ほど道に迷ったわりには意外と早かった。それでも起伏の多い道で歩きでがありけっこうな疲れだ。電車の中でのんびり居眠りでもしながら奈良まで戻ろうと思っていたら関西本線は笠置から加茂までお年寄りたちで混んでいて座れず。一輌編成だから仕方なしか。

   【ル-ト地図

  *参考:『柳生街道(滝坂の道)コ-ス』・『柳生街道(剣豪の里)コ-ス』・『柳生・笠置周遊コ-ス』(近鉄「てくてくまっぷ」

  写真をクリックすると拡大します。

Img_8124 猿沢池から興福寺五重塔 【ル-ト地図】の1

 

Img_8127 隔夜寺 《地図

長谷寺参りに隔夜、往来していた修行僧のために空也上人が建てた宿坊を「隔夜堂」と呼んでいた。後に、空也上人から影響を受け、踊念仏を広めた一遍上人もここに泊まったといい、軒瓦に「一遍」と刻まれている。

 

Img_8134 白乳(しらち)神社 【ル-ト地図】の2

春日大社の摂社で、(婦人)の腰から上の病に、赤乳神社は腰から下の病にご利益あり。

 

Img_8135 説明板

 

Img_8136 親ろく地蔵

どういう由来があるのか、調べても分からず。

 

Img_8137 地蔵さん

六体あるようで、「親地蔵」なのだろうか?

 

Img_8141緩やかに住宅街を上る滝坂の道 【ル-ト地図】の4

 

Img_8154谷あいの道に入り、薄暗い石畳の道を上る。

 

Dsc05009 寝仏 【ル-ト地図】の5

近くの四方仏の一つが転がり落ちたといわれる。室町時代前期の作という大日如来像が刻まれている。左を頭にして横たわっている。(2004年11月23日撮影) 

 

Img_8167 日が射し込まない暗い道

雨が降ると道に渓流から水が溢れ、崖から流れ落ちた水が滝のように道を流れるので滝坂の道というようになった。

 

Dsc05013夕日観音 【ル-ト地図】の6

夕日を受けると神々しさが増すという、弥勒信仰が盛んだった鎌倉時代のものという。 (2004年11月23日撮影)

 

Dsc05018 朝日観音 【ル-ト地図】の7

小川向いの崖上の磨崖仏。中央が弥勒菩薩、左右が地蔵菩薩。鎌倉中期の文永2年(1265)の銘があるという。(2004年11月23日撮影)

 

Img_8168 説明板

 

Dsc05017 中央の弥勒菩薩は鼻が低く顔が凹んだ、愛嬌ある顔だ。

 

Dsc05016 大きな耳の右の地蔵さん

 

Img_8178首切地蔵(左)が立つ地獄谷石仏群への分岐 【ル-ト地図】の8

 

Img_8176 説明板

 

Img_8175 首切地蔵

首の所の切り傷は荒木又右衛門の試し斬りの跡とか。

 

Img_8180 新池 【ル-ト地図】の9

 

Img_8184 滝坂の道説明板

 

Img_8186地獄谷石窟仏 【ル-ト地図】の10

聖(ひじり)が住んでいたとの伝承もあり、聖人窟ともいわれる。

 

Img_8188 説明板

 

Img_8191 石窟仏

奈良時代後期の4体の石仏

 

Img_8194 木橋を渡って

 

Img_8195 路肩が悪い所もある。

 

Img_8201 峠の茶屋(石切峠近く) 【ル-ト地図】の11

武芸者が飲み食いのカタに置いていった鉄砲、槍が掛けられている。まだ早すぎて開店前

 

Img_8203 八柱神社

 

Img_8204 のどかで静かな道を行く。

 

Img_8213 林の中の道に入り円成寺へ

 

Img_8227 円成寺(庭園から楼門) 《地図

草創は平安時代に京都の円成寺を移したものともいう。山号は忍辱山(にんにくせん)という、臭そうな名だが、「忍辱」とは、仏教の菩薩行六波羅密の布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若の一つで、いかなる身心の苦悩をも堪え忍ぶという仏道修行上の大切な徳目であるという。

 

Dsc05020 紅葉の頃の庭園

(2004年11月23日撮影)

 

Img_8229 右へ急坂を下る

 

Img_8236棚田の間を下る。

 

Img_8241 ここで左にこの道(正面方向)に入る。

倒れている道標を見逃したばかりに直進してしまい道が分からなくなり30分近くのロスタイム。

 

Img_8244 山道に入る

 

Img_8249 小石仏

 

Img_8250 夜支布山口神社へ

 

Img_8252 夜支布(やぎゅう)山口神社 《地図

 

Img_8251 説明板

 

Img_8254 柳生へ

 

Img_8256大柳生水木古墳石室 【ル-ト地図】の12

6C後半の直径15mの円墳で,周囲に外護列石(石垣)を伴う珍しいもの。天井石は失われている。案内板も説明板もなく、保存状態も悪い。保存整備した後、そのまま放ったらかしといった感じだ。

 

Img_8257 玄室

 

Img_8259 玄室から夜支布神社方向

 

Img_8260 大柳生の集落に入って小高い所の道を進む。

 

Img_8264 再び山道へ

 

Img_8266 下りとなる。

 

Img_8269南明寺 《地図

 

Img_8270 説明板

 

Img_8273 立派な屋敷と蔵

 

Img_8274 すぐ先で右に曲がっておふじの井戸から、かえりばさ峠へ(正面方向)

 

Img_8276 おふじの井戸 【ル-ト地図】の13

この井戸で洗濯をしていた器量が良く、才気がある娘を柳生宗矩(むねのり)が見初めて妻(側室)に迎えたというお話。

 

Img_8275 説明板

 

Img_8279 かえりばさ峠へ

昔、花嫁が東の柳生から西の大柳生へ嫁入りする時、ここで故郷の名残を惜しみ振り返ったので、地元では阪原(さかはら)峠のことを「かえりばさ」峠と呼んでいる。

 

Img_8282 薄暗い林の中を上る。

 

Img_8284_2 峠から下って柳生の里へ 【ル-ト地図】の14

 

Img_8291 疱瘡地蔵・柳生徳政碑 《地図

元応元年(1319)の銘。

 

Img_8286 説明板

 

Img_8290 疱瘡地蔵(中央)の右下の枠内に正長徳政一揆(1428年)の負債取消しの文が刻まれている。

 

Img_8289柳生徳政碑文

徳政を勝ち取った一揆の連中が地蔵さんに感謝して彫り刻んだのだろうか。

 

Img_8292 中村六地蔵 【ル-ト地図】の15

小さな地蔵が六体

 

Img_8296 寝仏地蔵

元は立っていたのが倒れたのだろう。このあたりにあることを知らなければ見逃してしまう。

 

Img_8299 茶畑

色が違うのは何故なのか?

 

Img_8301 天乃岩立神社 《地図

 

Img_8306 由緒

 

Img_8303 神体の大岩

天の岩戸から飛んで来たという。

 

Img_8316 前伏盤、前立盤、後立盤の三つに割れている神体の大岩。

 

Img_8309 一刀石

柳生石舟斎が天狗と思って切ったらこの岩だったとか。このあたりは巨岩が多く、背後の小高い所からここに落ちて割れたのだろう。

 

Img_8310 説明板

 

Dsc05022 背後の丘上にも大岩がゴロゴロ

 

Img_8322 芳徳寺

柳生家の菩提寺

 

Img_8319 山門から

 

Img_8318 石舟斎塁城址碑

芳徳寺の前

 

Img_8323 正木坂道場

旧正木坂道場は柳生十兵衛により開かれた柳生新影流の道場で、今の奈良市営駐車場のあたりにあったらしい。

今の道場は興福寺の門跡寺院 一乗院の建物が移築され、元京都所司代の玄関を移したという。全国指導者講習会や剣道家の修練が行われているそうだ。

 

Img_8327 正木坂(坂上方向) 八坂神社と柳生陣屋跡の間を南東に上る坂。《地図

 

Img_8337 坂上方向

右が八坂神社・左が陣屋跡

 

Img_8340 坂下方向

 

Img_8339 坂上方向

 

Img_8329 八坂神社 【ル-ト地図】の17

 

Img_8328 説明板

 

Img_8335 柳生陣屋跡 【ル-ト地図】の16

寛永19年(1642)柳生宗矩が1374坪の陣屋を建てた。延享4年(1747)に火災により全焼し、明治の廃藩で消失。現在は桜を中心とした花の公園として整備

 

Img_8342家老小山田家の分家の屋敷

 

Img_8346 柳生藩家老屋敷の石垣

 

Img_8343 説明板

 

Img_8344 家老屋敷長屋門 【ル-ト地図】の18

江戸時代末期の柳生一万石の家老、小山田主鈴の旧邸。ここで山岡荘八がNHKドラマ「春の坂道」を執筆した。

 

Img_8345 古城山

南北朝時代に南朝方の砦があった。

 

Dsc05023 落雷で枯れた初代の十兵衛杉 《地図

寛永3年(1626)、柳生十兵衛が隠密として諸国探索の旅に出る時に植えたという。

(2004年11月23日撮影)

 

Img_8350 鉄の階段を上って古城山へ

ここは数珠口坂の坂下だった所か。

 

Img_8352 数珠口坂(坂上方向) 柳生バス停から北方向に古城山へ上る坂。《地図

元弘の乱(1331年)の時、柳生永珍がこの山に立て籠もり、後醍醐天皇の潜行していた笠置山を南から守っていた。南朝方の糧道であった柳生方面を守るため、この坂で13名の兵が戦死したという。「数珠口」の由来は何なのか?

 

Img_8364 古城山の説明板

数珠口坂が出てくる。珠数口坂と書いているが間違いだろう。

 

Img_8351 坂下方向

 

Img_8353 坂上方向

 

Img_8355 説明板

 

Img_8357 剣塚 【ル-ト地図】の19

このあたりは平坦で堀跡が残る。

 

Img_8358 下って行く

 

Img_8360 やせ尾根を行く

 

Img_8371 阿対(あたや)の石仏 【ル-ト地図】の20

阿弥陀如来像は流行病よけ、地蔵(左)は豆腐を供えると子どもが授かるという。子が授かった時は千個の数珠を作ってお礼参りをする。室町時代の作という。

 

Img_8367 説明板

 

Img_8372 お礼の数珠が前に供えられている。豆腐の空きポリ容器も捨てられていた。「ゴミを持ち帰らない人に子は授けられないよ。」と地蔵さんが言っていた。この数珠は、「数珠口」坂と関連があるのだろうか?

 

Img_8374 近辺地図

 

Img_8385 笠置寺 【ル-ト地図】の21

奈良時代は弥勒信仰、平安時代は山岳修験道、南北朝時代は南朝の拠点となった寺。

 

Img_8386 東海自然歩道を下る。

 

Img_8392 笠置の町並

 

Img_8397 笠置駅前 《地図

栗栖天満宮(正面奥)、正面の人形の武者と坊主頭は元弘の乱の時、笠置山の南朝方の三河国の住人、足助次郎重範と、奈良般若寺の本性房という律僧で、攻めてきた北朝方の兵を討ち退けている所。

 

Img_8398 天満宮由緒

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コメント

 ナナミン様、貴重な情報をありがとうございます。捕まった兵士たち(古城山の戦での北朝方の兵士か?)が「数珠つなぎ」で連行されて行った。なるほど、あり得る話ですね。

投稿: 数珠口坂(坂道散歩) | 2011年10月 5日 (水) 08:01

柳生街道について

ところで「数珠口」のいわれを見つけることができたのでしょうか?

罪人(捕まった兵士?)が数珠つなぎになってこの坂をひき連れられて行ったという話も聞いたことがあります。

とても知りたいです。

投稿: ナナミン | 2011年10月 5日 (水) 05:02

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