山の辺の道
2009年2月11日
奈良駅(JR桜井線)→天理駅・・・天理本通り・・・天理教本部・・・布留大橋(布留川)・・・恵比須神社・・・石上神宮・・・内山永久寺跡・・・夜都岐(やとぎ)神社・・・竹之内環濠集落・・・波多子塚古墳・・・萱生(かよう)環濠集落・西山塚古墳・・・五社神社・・・西殿塚古墳(手白香皇女衾田陵)・・・灯籠山古墳・六地蔵・念仏寺・・・大和神社お旅所・歯定(はじょう)神社・中山大塚古墳・・・柿本人麻呂歌碑・・・長岳寺・・・崇神天皇陵(行燈山古墳)・櫛山古墳・・・景行天皇陵3号陪塚・・・景行天皇陵(渋谷向山古墳)・・・神籠(ひもろぎ)遺跡・・・桧原神社・・・玄賓(げんぴ)庵(上の写真は前の坂)・・・岩坪池・八大龗王(りゅうおう)龗神神社・・・狭井(さい)川・・・狭井神社・・・久延彦(くえひこ)神社・・・大神(おおみわ)神社・・・三輪成願稲荷神社・・・平等寺・・・崇神天皇磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)跡・志貴御縣(みあがた)社・・・金屋の石仏・・・海柘榴市(つばいち)観音・・・仏教伝来地・大和川(馬井手橋)・・・JR桜井駅(桜井線)→奈良駅
すっきりしない天気だが休日で山の辺の道はウォーカーが多い。石上神宮から南へ、今は何も残らない内山永久寺跡の本堂池のほとりに立つと、明治の廃仏毀釈のすさまじい破壊が空恐ろしく感じられる。西殿塚古墳は継体天皇の皇后、手白香皇女の陵とされているが、築造時期とはかなりのズレがある。崇神天皇陵の行燈山古墳、景行天皇陵の渋谷向山古墳も実際の被葬者は誰なのか? 箸墓と同じく宮内庁が管理しているので発掘調査も出来ない状態だ。
景行天皇陵を過ぎて道を間違え、細い道に入りかなり上ってしまったが、西へ奈良盆地の方へ下って行けば山の辺の道にぶつかるので、道に迷うロスタイムも少ない。万葉歌碑が並ぶ巻向川沿いを上り、巻向川を渡り桧原神社へ向う。このあたりは晴れていれば奈良盆地、生駒山地方向の眺めがいいのだが今日はあいにくの曇り空だ。桧原神社、狭井神社、大神神社とだんだん参拝客、ハイカー、観光客が増えてくる。大神神社の巳の神杉は、信仰が厚い(人気がある?)ようで老若男女が熱心に手を合わせている。巳さんは昼間はお出ましにならないのだろう。大神神社の境内を抜け、平等寺から崇神天皇磯城瑞籬宮、金屋の石仏へと向うにつれ人影もまばらとなる。古代に交通の要衝、交易の市として栄えた海柘榴市あたりは古い家並みがひっそりとして、往時の面影はない。大和川を渡り、三輪山を振り返りながら桜井駅に向った。
【ル-ト地図】
*参考:「近鉄てくてくまっぷ」
写真をクリックすると拡大します。
内山永久寺跡の本堂池 《地図》
永久年間に鳥羽院の勅願で創建。明治の廃仏毀釈で廃寺となり、広大な寺域に残るのはこの池のみ。
天正13年(1585)には56の坊、院があったという。
伊賀上野に住んでいて、宗房と号していた頃の作。
東海自然歩道となっている。
「山の辺の 道ははるけく 野路の上に 乙木の鳥居 朱(あけ)に立つ見ゆ」 広瀬東畝(明治から昭和の初めの日本画家)の歌碑が立つ。
鳥居の上部に朱色の跡が残っている?
夜都伎神社 《地図》
乙木(おとぎ)の集落にある。夜都伎から転訛したのか、乙木の方が古いのか?
中世、村を外敵の侵入から防ぐため、自衛手段として周囲に濠を巡らせた集落。ここは大和では最高所(標高100m)にある環濠集落(跡)。今は灌漑用に転用されたり、埋められて一部の濠が残るだけ。
全長144mの前方後方墳。3C後半~4C初めの築造。
右は西山塚古墳の後円部
西山塚古墳 《地図》
全長114m、大和古墳群では唯一の古墳時代後期の6C前半の築造。
被葬者を継体天皇の皇后、手白香皇女(たしらかのひめみこ)(武烈天皇の姉(妹との説もある))とする説がある。
3C後半の全長230mの前方後円墳で継体天皇の皇后、手白香皇女衾田陵として宮内庁が管理されているが、築造時期と手白香皇女の時代(6C)が合わず、崇神天皇陵とする説、邪馬台国の女王、卑弥呼を継いだ台与とする説などがある。
4C前半の全長110mの前方後円墳
行基の開基で、今は廃寺の真言宗「旧中山寺」の一坊と伝えられる。
大和神社お旅所(大和稚宮神社)・歯定神社(左) 【ル-ト地図】の5
大和神社の境外摂社で、中山大塚古墳(全長132mの前方後円墳、3C末頃)の前方部先端にある。4月1日の大和神社の「ちゃんちゃん祭り」の時は、神輿が渡御する。左は歯定(はじょう)神社で祭神は大己貴神、少名彦名神
「衾道(ふすまぢ)を 引手の山に 妹を置きて 山径(やまぢ)を行けば 生けりとも無し」
衾道は手白香皇女の衾田陵(写真左端に一部が見える)あたり、引手の山は竜王山(写真奥右方)で、ここに埋葬された亡き妻(巻向の妻)を偲び、捧げた歌。
空海の開基と伝わる、釜口大師の名で親しまれている。右は「根上がりの松」の根。樹齢300年の松は害虫により昭和58年に枯れた。
貞和5年(1349)建立の四脚門で、昔は、梁の付き出した部分の肘に刀傷があった。刀鍛冶が注文の刀に僧兵からケチを付けられ、門の肘木を切り落とし刀の切れ味を証明したということから、別名を「肘切り門」という。
日本最古の鐘門で、弘法大師当寺創建当初の唯一の建物。
全長242mの3C前半の前方後円墳
全長150mの4C後半の双方中円墳。
被葬者は行燈山古墳と関係のある有力人物か。松本清張の『火の路』に登場する古墳。
右が行燈山古墳、左が櫛山古墳
全長300mの前方後円墳
この一画の小字名は「ヒモロギ」で、神霊の降臨する依代、神籠を設け神祭りが行われた場所だとする。
桧原神社 《地図》
大神(おおみわ)神社の摂社で、崇神天皇が天照大神を豊鍬入姫に託して祭らせたと伝え、「元伊勢」と称される。本殿、拝殿はなく三つ鳥居がある。
桧原神社の注連縄の下から真西方向。曇っていてうっすらとしか見えないが。
玄賓庵 【ル-ト地図】の9
「日本最古社 八大龗王弁財天大神龗神神社」の標柱が立つ。八大龍王とは、仏教で法華経説法の座に参列した八種の龍王のこと。
狭井神社 《地図》
大神神社の摂社で、大物主神の荒御魂を祀る。
社務所でお祓いを受け三輪山へ登ることができる。
大美和の杜の展望台から
久延毘古命は、大国主神が国造りの際、多くの神が知らなかった少彦名命の神名を教えた神で、知恵は類なく優れ、『古事記』には「足はあるかねど天下の事を、尽(ことごと)に知れる神」、「山田の曾富騰(そほど)」と記されている神で、「山田の案山子(かかし)」のこと。
特に受験合格・入学・進学・就職等の成就を計る、知恵の神様。
大神神社(三輪明神)
大和の「一の宮」、背後の三輪山を神体とする日本最古社の一つ。酒の神様でもある。手前は「巳の神杉」
江戸時代には、「雨降杉」と呼ばれ、雨乞いの時に里の人々が集まり、この杉にお詣りをした。杉の根元に、三輪の神の化身として崇敬される巳(み)さん(=蛇)が棲んでいるところから、「巳の神杉」と呼ばれるようになり、巳さんの好物とされる卵が、酒とともにお供えされている。そんなに栄養をつけて、酒ばかり飲んでいると「メタ腹巳さん」、「アル中巳さん」になってしまうよ。
参拝する人が多く、「神杉に卵を投げないで下さい」との掲示板が立つ。根元の空洞に巳さんが棲んでいるらしい。巳さんは体長2mほどの青大将で4、5匹とか、白い蛇だとか、銀色に輝く神秘的な蛇で、3度見たことがあるとかいう話もあるが、蛇の写真はどこにも載っていないようだ。写真を撮ったり、掲載したりすると蛇神の祟りがあるのかも。
平等寺 【ル-ト地図】の10
聖徳太子が大三輪寺として創建した寺。本堂(左)・不動堂(中央奥)・二重塔
崇神天皇磯城瑞籬宮跡 《地図》
古代の交通の要衝地で大和王権発展の拠点。
貞観~鎌倉時代
西(右)から上街道が合流する。
古代の市場、交易、交通の要衝で栄えたあたり。歌垣でも有名。
「紫草(むらさき)は 灰さすものぞ 海柘榴市の 八十(やそ)のちまたに 逢へる児や誰」
「たらちねの 母がよぶ名を申さめど 道ゆく人を誰と知りてか」
海柘榴市観音堂 《地図》
大和川から
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コメント
9月15日に歩いてきました。車に合わずにストレスなく歩けたいい街道でした。
投稿: 狸上人 | 2017年9月16日 (土) 19:59