北山の辺の道
2009年2月10日
JR奈良駅・・・三条通り・辷(すべり)坂下・猿沢池・・・飛鳥小橋(尾花谷川)・大乗院跡・・・志賀直哉旧居・・・不空院・・・新薬師寺・鏡神社・・・高砂橋(能登川)・・・西勝寺・宅春日神社・・・白毫(びゃくごう)寺・・・県道80号・・・岩井川・・・八坂神社・・・藤原観音堂・・・白山比咩(しらやまひめ)神社・・・嶋田神社(崇道天王社)・・・崇道天皇八嶋陵・前池・・・円照寺・・・大師堂・・・竜王池・・・五つ塚古墳群・・・日本酒発祥の地・正暦(しょうりゃく)寺・・・泣き笑い地蔵・・・ハナキレ地蔵・・・柳茶屋バス停・・・弘仁寺・・・古墳公園(和爾小倉谷古墳群)・・・白川ダム・・・(名阪国道)・・・大将軍鏡池・・・石上配水池・・・ウワナリ古墳・・・豊日神社・・・布留の高橋(布留川)・・・石上(いそのかみ)神宮・出雲健雄神社・・・西山古墳・塚穴山古墳・・・三興寺・・・白山神社・・・天理駅(JR桜井線)→奈良駅
朝から雨空の下を北山の辺の道を歩く。白毫寺から県道80号を渡り、ビニールハウスの並ぶ畑の中を行く。晴れていれば気分のいい道だが空はどんより、時折、雨粒が落ちてきて気分がちと重い。怨霊が漂う雰囲気など全くない明るい崇道天皇陵前の前池沿いを進むと山道風になり、円照寺への長い参道の途中に出る。円照寺の山門をくぐり、しばしひっそりと静謐、ここだけ時間が止まったような風情の漂う空間を楽しむ。
山の辺の道から離れ、竜王池から正暦寺へ緩やかに上って行く。この道は人も車も通らない長く寂しい道(上の写真)で、前回訪れた時はこの道でいいのか何度も心配になった。正暦寺近くの車道に出た時には今日もほっとした。本堂まで上り車道を柳茶屋バス停へ下り出すとついに本降りの雨となった。道沿いの泣き笑い地蔵、ハナキレ地蔵に見送られ、時計台の立つ柳茶屋バス停の所で左折し弘仁寺へ向う。薄暗い奥の院から少し上って弘仁寺の門前へ出る。天理高校のグランド沿いに上って下ると古墳公園でここ小休止。すぐ寒くなってきて出発する。
白川ダム沿いを進み名阪国道をくぐり、なぜか水のない大将軍鏡池を見ながら石上配水池の間の細い道を入る。林間から畑の中の小道を抜け車道に出て進むと、正面に天理教の施設が並び始める。施設の間を東に上り小高い所の道に入る。布留の高橋を渡ると石上神宮は近い。古代大和朝廷の武器庫だった石上神宮の楼門をくぐった途端に雨脚が急に強くなった。人影もなく雨が降って暗さを増した境内は、鶏の鳴き声が響くだけで、ひっそりとして神々しく厳粛な気分になる。
今日はここが終点で、明日はここから山の辺の道を南下する。東天紅と一緒に休憩所でしばし雨宿りして、ずらりと並ぶ天理教の大きな建物の間を通り、天理高校の南の西山古墳を周って北側の塚穴山古墳に入った。この古墳は前回は入り口が分からずあきらめた古墳だ。墳丘は削平されているが、巨大な横穴室石室は見事で、雨の中を雑草を掻き分け来た甲斐があった。雨の中を予定のコースを予定より早めに歩けてまあ満足した気分で天理市役所前から天理駅に向った。
【ル-ト地図】
*参考:「てくてくまっぷ-近鉄」
写真をクリックすると拡大します。
三条通りの猿沢池の手前。鹿が餌を探している。お尻がこんなに白っぽいとは。
鷺だろうか岩に止まって微動だにしない。
鏡神社 《地図》
大同元年(806)に隣りの新薬師寺の鎮守として勧請されたと伝う。
今は住宅裏の何の風情のない流れだが、万葉集にも歌われた川。
「能登川の 水底さえに照るまでに 御笠の山は咲きにけるかも」 (作者不詳)
御笠山に咲いているのは桜か。能登川は春日山を源として、岩井川と合流して西に流れ、佐保川へ流れ込んでいる川。 万葉集にはこの1首だけに登場する。
山号を白毫山という浄土真宗の寺
宅春日神社 《地図》
奈良時代に、河内の枚岡から春日の神、天児屋根命が御蓋山へ遷る時、この地でしばし休んだという伝承がある。
白毫とは仏の眉間にあるという白い巻き毛で、仏像では玉を入れてこれを表す。眉間白毫相として仏の三十二相の一つに数えられる。
境内からの西方向の奈良盆地、生駒山方向の眺めがいいが、まだ早すぎて入れず。
正面左は奈良春日病院
曇っていて眺めはいまいち。
嶋田神社(崇道天皇社) 【ル-ト地図】の2
崇道天皇(早良親王)を祀る寺社は各地にある。
光仁天皇の皇子、桓武天皇の異母弟。藤原種継暗殺事件に連座して廃され、淡路国へ流される途中で憤死した。死後、祟りを恐れられて崇道天皇と追称された。菅原道真、崇徳上皇と並ぶ御霊信仰の元締め的存在。
円照寺 【ル-ト地図】の3
中宮寺、法華寺と並ぶ大和三門跡の一つ。「山村御殿」と呼ばれ、華道山村御流の家元。三島由紀夫の小説『豊饒の海』の「月修寺」のモデルとなった寺という。
萱葺きの屋根は、八嶋御所から移築された本堂、円通殿で本尊の木造如意輪観音像が安置されている。掃き清めらた庭、ひそやかで、静かで、落ち着いた雰囲気の漂う尼寺だ。拝観はできない。
ここはミニ西国三十三所霊場で、各霊場の御詠歌を刻んだ石柱や、地蔵さんが並んでいる。
竜王池 《地図》
竜神を祀る池か、中の島に鳥居が立っているらしい。
道路沿いに古墳時代後期(6C後半~7C)の小さな円墳、方墳が五つ並ぶ。墳丘は崩れてはっきりしない。
ほとんど山道に近い寂しい道。
僧侶が醸造する「僧坊酒」を造っていた。下は菩提山川の流れ。
正暦寺本堂へ 【ル-ト地図】の4
右は正暦寺福寿院(重文)
一条天皇の発願で正暦2年(991)に創建。
左が笑い、右が泣き地蔵か
鎌倉時代の丸彫りの石の地蔵。1962年の第2室戸台風で地蔵堂と共に倒れ折損した。「鼻切れ」になったのはその時なのか、もっと以前から鼻が欠けていて、こう呼ばれていたのではないのか?
茶屋跡はない。時計台は地元の青年団が建てたという。
弘法大師が彫ったという不動明王と、掘ったという閼伽井戸。井戸の水は眼病に霊験あらたかという。
「高樋の虚空蔵さん」、十三詣りで親しまれている真言宗の寺。
古墳公園 《地図》
白川ダム建設のため古墳時代後期の7基の和爾小倉谷古墳群をここに移築した。保存、整備後の手入れ状態が悪く、荒れている様子だった。
一辺14mの方墳、石室は全長8.5m、7C前半の築造。天井石は失われている。
大将軍鏡池 《地図》
干上がってしまったのか? 大将軍とは誰なのか?
ウワナリ古墳の前方部?(果樹園の中) 【ル-ト地図】の6
県下4番目の全長17mの両袖式横穴式石室があるそうだ。
このあたりはすべて天理教の施設という感じだ。
「石の上(いそのかみ) 布留を過ぎて 薦(こも)枕 高橋過ぎ 物多(ものさは)に 大宅(おほやけ)過ぎ 春日(はるひ) 春日を過ぎ 妻隠(つまごも)る 小佐保を過ぎ 玉笥(たまけ)には 飯さへ盛り 玉もひに 水さへ盛り 泣き沾(そほ)ち行くも 影媛あわれ」『日本書紀-武烈即位前紀』
物部麁火(あらかび)大連の娘の影媛の婚約者平群(へぐり)の鮪(しび)」を、影媛を横恋慕をした太子(後の武烈天皇)が大伴金村の援軍を得て乃楽山(ならやま)で殺害する。悲しんだ影媛が布留から乃楽山まで鮪を偲び、弔うために泣きながら歩いて行った時の情景を歌ったもの。古代の山の辺の道の道筋や、この時代の物部、大伴、平群などの大和の諸豪族の拮抗した勢力争い、天皇家との関わりなどが推測できる歌だ。ただし、歌の高橋は地名で布留の北方、今の天理市櫟本町あたりを指すようだ。
文保2年(1318)の建立。もとは鐘楼門だった。
背後に瑞垣で囲まれた禁足地に本殿、神庫(ほくら)が立つ。古代には建物はなく禁足地のみで、それを拝していた。
参道の鳥居前に柿本人麻呂の、「をとめらが 袖布留山の瑞垣の 久しき時ゆ 思ひきわれは」歌碑が立つ。
放し飼いの鶏たち(東天紅は天然記念物)は元気がいい。
ワタカ(別名を馬魚)(天然記念物)の姿が見える。後醍醐天皇が吉野に逃れるとき、馬がいな鳴いて敵に見つかるのを怖れて首を切り落とした。それが魚になったとか。実際はコイ科で水草をよく食べるので、馬魚という名がある。
もとは内山永久寺の鎮守だった四所明神のもの。廃仏毀釈でここに移築された。大和と出雲の結びつきを示すものだろう。
西山古墳 《地図》
古墳時代前期(4C末)の全長183mで前方後方墳では最大級の規模。竪穴式石室と考えられている。大連物部氏の奥津城か。
右が後方部
7C初の直径60mの円墳
盛り土は削平されている。
全長16.5m、天井石は失われている。
石が敷かれ一段高くなっている。
両袖式横穴石室
左は天理市役所
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コメント
9月14日に歩いてきました。天候に恵まれ快適なあるきとなりました。正暦寺の山道はきつくてバテバテとなりました。正暦寺は改装中だったのが残念でした。いい街道です。
投稿: 狸上人 | 2017年9月16日 (土) 20:02