四国遍路道(愛媛県-10)
2009年3月9日
民宿四国・・・県道347号・・・粟井坂・粟井坂大師堂・粟の井・・・蓮福寺大師堂・・・粟井川・・・常楽院・・・河野川・・・西ノ下大師堂・・・西福寺・・・三穂社・・・養護院(杖大師・番外霊場)・・・(JR予讃線)・・・夜がらす地蔵堂・・・大師橋(立岩川)・・・鎌大師(番外霊場)・鴻の坂・・・地蔵堂・・・(JR予讃線)・・・国道196号・・・原地蔵堂・・・原大師堂・・・小竹地蔵堂・・・(今治市)・・・(砥鹿トンネル)・三穂社・砥鹿(とが)神社・・・船が浦・竜神宮・遍路接待所「ぶじカエル」・・・遍照院(厄除け大師・番外霊場)・・・菊間川・・・青木地蔵堂(番外霊場)・・・貴布禰神社・・・円福寺・・・五郎兵衛大師・・・大井八幡神社・・・旧庄屋井手家・・・大池・・・54番延命寺・・・(瀬戸内しまなみ海道)・・・大谷霊園・・・県道38号・・・姫坂・姫坂神社・・・別宮大山祇(おおやまづみ)神社(元55番札所・番外霊場)・55番南光坊・・・今治ステーションホテル
曇り空の下を海沿いの県道347号を北に向う。予讃線が粟井坂トンネルを抜けるあたりに粟井坂大師堂と粟井坂の旧道の一部、県道を挟んで粟の井が残っている。粟井坂は未舗装の昔ながらの細い道で車の通行は無理。今はあまり通られていないようで忘れ去られていく坂なのだろう。旧北条市の伊予北条駅近くの養護院に寄り、少し戻って予讃線を渡り、聖カタリナ短大そばの小さな夜がらす地蔵堂から遍路道に出て、大師橋で立岩川を渡る。緩やかに上って行くと鎌大師堂だ。思ったより明るい感じの境内で一休みする。
鎌大師から鴻の坂を上って新道に合流し、振り返ると松山市街(上の写真)が、上りきって下りとなると浅海から今治市方向の景色がいい。浅海駅近くの原地蔵堂、大師堂に寄り、海岸沿いを行くと今治市に入る。松ケ崎を過ぎ菊間の町に入ると国道沿いに瓦工場が並んでいて、菊間陶芸愛好会のお接待処「ぶじカエル」もある。すぐ先の厄除け寺の遍照院は参拝人も多く、テント張りの売店も出ている。そこでお菓子のお接待を受ける。太陽石油の工場群を左に見て緩やかに上って行くと青木地蔵堂で、ここでも篭の中にお接待のみかんが置いてある。一ついただき一休みする。今日は日影に座っていると寒いくらいだ。
星の浦海浜公園を過ぎ、予讃線を渡り、大西駅近くの旧家の井出家、鴨頭病院から国道196号に出る。ここのコンビニの前に座り込んでまた小休止だ。大池を右に見て2kmほど進み、左に曲がると54番延命寺は近い。53番円明寺からここまでは34kmぐらいだ。今日は55番南光坊を打ち、今治駅そばまでの行程だ。ちょっと疲れてきた。延命寺境内からの遍路道は瀬戸内しまなみ海道をくぐり、大谷霊園の中を抜けて行く。霊園の中で道を間違えたようで、県道38号に下りてしまい少し遠回りをして姫坂神社に着いた。城郭建築?のようなマンションを見ながら予讃線をくぐり、元の札所別宮大山祇神社から55番南光坊へ入った。
古来から日本は神仏混交で、大師も国中の神を敬い、遍路も神仏両詣りの習わしだった。今の遍路は隣りに元の札所の神社があっても見向きもせず、素通りしてしまうようだ。これが初詣となるといそいそと神社へ参詣するのだから現金なものだ。そう言う自分は神も仏への信仰心も薄い(全くないに近い)のだからこんなことを言う資格などないのだろうが。5時近くの南光坊境内は誰もいない。団体のお遍路が大勢なのもいやだが、誰もいないのもちょっと寂しい感じだ。いつの間にか降り出し雨と疲れで寒くなってきた。高野山今治別院に寄り、県道157号に出て、今夜の宿の今治ステーションホテルに向う。禁煙ルームが満室で煙草の匂いのしみ込んだ部屋だったのには少々参った。そんなに混んでいそうもないようで本当に満室だったのだろうか。駅の近辺には飲食店が少なく、ホテルで聞いた○○食堂へ夕食に行った。この食堂はちょっと変わった感じだったが書くのは控えておこう。
【ルート地図】(523→544)
写真をクリックすると拡大します。
JR予讃線光洋台駅近く
【ル-ト地図】の523子規・漱石の句碑も立つ。
「涼しさや 馬も海向く 淡井坂」
子規・漱石句碑
「志保ひ潟(しほひがた) 隣の国へ つづきけり」 子規
ここは、昔は風早郡と和気郡の境、近くは松山市と旧北条市の境だった。
「釣鐘の うなる許(ばかり)の 野分かな」 漱石
カーブしながら上り、JR予讃線を越えて国道196号方向へ下って行く。
坂名の由来は大師堂の向かい側の「粟の井」から。
コンクリート製の物置?のような施設がある。
県道347号を挟んで粟井坂大師堂の向かい側
井戸の右が歌碑で、左が句碑だったか?
本尊が大日如来の真言宗醍醐派の寺。
「道の辺に 阿波のへんろの 墓あわれ」の高浜虚子の句碑が立っているというが見逃した。ここは阿波ではないのだが。虚子は幼年期をこの地で過ごしたという。
【ル-ト地図】の525遍路大師の夢想、縁起による杖を伝える。永禄年間(1558~1570)に修験道場として、旧北条市中西外に創建。大正9年ここに移転した。
「夜がらす」の由来は何なのか?
【ル-ト地図】の527悪疫流行に苦しむ村に、大師が鎌で刻んだ自像を与えたところ無事平癒したという。
南北朝の戦乱で敗れた赤橋重時主従の墓所という。
古墳の横穴石室のようだ。
寛政7年小林一茶は、鴻の坂を下り、この道を通り門田邸(師の茶来が住職の最明寺?)に向ったそうだ。
鴻の坂がある。
鴻の坂(坂上方向) 鎌大師前から北方向に上る坂。【ルート地図】の528
真念の「道指南」に、「かうの坂、ふもとに大師堂」と記す。
味栗集会所の前
どう見てもおしろいを塗った可愛い女の子だ。
ここも「アンパンマン電車」だ。
原はこのあたりの地名のようだ。
【ル-ト地図】の530「風早四国番外十八番」の石柱が立つ。小竹も地名か?
右は砥鹿トンネル
瓦のふるさと公園、かわら館、実習館などもある。「菊間瓦」の起源は弘安年間(1278~87)で、伊予の豪族河野氏の支配の時に製造が始まったという。温暖少雨の気候が瓦の乾燥に適し、原料の粘土や燃料の松葉にも恵まれ、輸送のための船の便が良かったことが瓦製造業を発展させたという。今は一般の家庭用には瓦の需要は減ってきて、転業する工場も多いと遍照院境内で土地の人から聞いた。
【ル-ト地図】の533弘仁6年(815)大師が厄除けのため聖観音を安置し、自作の像を遺したと伝える。「厄除け大師」と呼ばれ、節分には厄除け大祭が行われる。
菊間町の瓦と並ぶもう一つの産業だ。
【ル-ト地図】の535大師が杖で示したところを掘ると清水が湧き出、記念に青木を植えたという霊場。腰から下の病に霊験があり、「腰、しもの地蔵さん」と親しまれている。
円福寺で管理している。
奈良の長谷寺の末寺らしい。
【ル-ト地図】の537屋根上の天水瓶は大阪夏の陣で徳川方に味方した功績により置くことを認められたという。参勤交代の時には本陣になった屋敷。
ここも昔からの旧家のようだ。
54番延命寺山門
今治城の城門の一つだったもの。往時は近見山に100坊も配していたという寺。本尊は不動明王で36番青龍寺、45番岩屋寺と同じ。
戦国時代に長宗我部の兵士達に略奪されそうになった時、自ら海中へ沈んで難を逃れたという言い伝えがあるがこの鐘とは鋳造年代とは合わない。一代前の鐘の話か。また戦時中に供出命令を受けたが、何とか供出の免除を受けたといういわくつきの鐘だ。
慈悲深い庄屋と書かれているが、越智家はキリシタン狩りにも一役買った庄屋だ。いいことだけ書いて都合の悪いことは目をつぶるのは「阿方文化連盟」に限ったことではないが。
遍路道は瀬戸内しまなみ海道をくぐり、大谷霊園を抜けて今治市街地へ。
祭神は市杵島姫神。鳥居をくぐり、社殿へ上る参道の坂が姫坂だろう。途中が道路工事中で写真はこの一枚だけ。「ひめ坂に 立る梢のいろいろに 神のみそぎの 錦なるらん」の古歌がある。【ルート地図】の542
祭神は医学の神の少名彦命。「咳」の守護神だそうだ。
大三島の伊予国の一の宮、大山秖神社の別宮。明治の神仏分離まではここが55番札所だった。
55番南光坊 【ルート地図】の544
明治の神仏分離令により、隣りの元の札所の別宮大山祇神社より大通智勝如来ほかを薬師堂(戦災で消失)に遷座して札所となった。河野氏がその名に「通」の字を使用したのは、大通智勝如来にあやかったという説もある。札所88ケ寺中、坊がつくのはここだけ。
別院境内
| 固定リンク
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 坂道散歩(2021年11月~2022年6月)追加分(2022.06.20)
- 結城街道⑥(下館駅→日光街道合流地点)(2020.07.02)
- 結城街道⑤(岩瀬駅→下館駅)(2020.06.29)
- 結城街道④(稲田駅→岩瀬駅)(2020.06.23)
- 結城街道③(内原駅→稲田駅)(2020.06.19)
コメント