四国遍路道(香川県-8)
2009年3月15日
ホテルニューセンチュリー坂出・・・板江橋・・・雲井橋(綾川)・七本杉跡・・・高屋橋(神谷川?)・・・松浦寺(遍照院・番外霊場)・・・塩釜神社・信楽寺・・・血の宮(高家神社)・観音寺・・・偉摩大師・・・旧参道入口・西行の道・・・煙の宮(青海神社)・・・西行の道・・・稚護が滝・旧参道・・・崇徳天皇白峯陵・81番白峯(しろみね)寺・・・下乗石・・・閼伽井・・・十九丁・・・足尾大明神・・・中山休憩所・・・みかん園・・・82番根香(ねごろ)寺・・・桑崎池・・・新池・・・奥の堂池(勝賀廃寺跡)・・・平賀神社・・・香西寺(別格二十霊場第19番)・・・御旅地蔵・・・大内堂・・・薬師寺・・・鬼無駅(JR予讃線)→高松駅・高松築港駅(琴電)→長尾駅・・・民宿ながお路
昨年の8月に雷雨の荒天で見送った81番と82番を歩く。崇徳上皇の血の宮、煙の宮に寄りたいので松浦寺経由のコースを行く。雲井橋、高屋橋を渡って東へ直進すると番外霊場の松浦寺にぶつかる。墓参りの人は多いが寺は荒れているようで、山門の屋根瓦は崩れたままで仁王さんもいない。厄除寺の元祖ともいうが、自分の寺の厄は除けられなかったようで、厄払いでもしたらどうか。
高屋町あたりは古代は網の浦という海浜で、製塩が行われていたという。塩釜神社の前に万葉集の歌碑がある。隣りの廃寺のような信楽寺から血の宮(高家神社)に向う。崇徳上皇のお棺から血が流れ落ちたという台石が残っていて、怨念渦巻くというほどでもないが、ちょっと暗い感じの神社だ。隣りの観音寺に寄り、大きくカーブする車道を白峯寺へ向う。瀬戸内海の眺めのいい道で車もそんなに通らない。かなり上ると車道から分かれる白峯陵、白峯寺への旧参道に出る。この道は西行の道として整備されていて、西行と崇徳上皇の歌碑が両側に立つ新しい石段を下ると煙の宮(青海神社)に出る。折角上ってきたのに平地近くまで下るはめになってしまった。再び西行の道を上り返し、急な旧参道の石段をさらに上り崇徳天皇白峯陵から白峯寺境内へ入る。日曜日で車、バスでの参拝客が多く、境内のスピーカーから縁起やらご詠歌?が流れ、なんだか落ち着いた気分になれない寺だ。崇徳上皇の怨念など漂う雰囲気などはなく、怨霊もこれではすぐに退散だろう。
82番根香寺への遍路道へ入るとすぐに下乗石が立っている。車で参拝する人たちに見せたいものだ。もっとも車はここは通れないから見るのは無理だが。雨水が流れるぬかるんだ、けっこう気疲れする道を進む。80番国分寺から上ってくる遍路道との分岐の三叉路の十九丁を過ぎ車道へ出て、足尾大明神、食堂みち草の前を通り、みかん園の前から遍路道に入り、怪獣映画の悪役のような牛鬼像が立ち、香川の名の由来ともなったという根香寺へ着いた。
根香寺からは晴れていて瀬戸内海の眺め(上の写真)のよさそうな香西寺経由の道をとる。遍路道を下って車道に出るまではすんなり下ったが、その後は道標がなく電柱に貼ってある小さな丸いシールの矢印を頼りにあちこち随分曲がりながら歩かされた。なんだか遠回りをさせられているような気分にもなった。これも疲れてきているからだろうか。なんとか香西寺にたどり着き、県道177号を南下して鬼無駅へ出た。これで87番長尾寺まで歩いた遍路道とつながったことになる。昨日の雲辺寺からの下りの雪道で滑りそうになってふんばった時に、右足の脛の筋肉を傷めたようだ。高松駅から琴電の高松築港駅へ歩いている時に、かなり痛くなって歩きづらい。明日はいよいよ88番大窪寺だ。天気も良さそうなので女体山越えで行きたいが大丈夫だろうか。ちょっと心配になってきた。
今夜の宿は87番長尾寺前の民宿ながお路だ。泊り客は富山県の区切り打ちのご老体遍路と夫婦の車遍路と私。明日は結願寺のこともあり話もはずみ、前祝い?でかなり飲んでしまった。近くの薬局で買った鎮痛消炎剤を足にベタベタ貼ってぐっすり眠り込んだ。
*参考:『崇徳上皇』(坂出市)
【ルート地図】(658→672)
写真をクリックすると拡大します。
元禄の頃、岡浜築造にあたって、その堤防となった寄洲(鳥洲)に潮止社が祀られたのが初めという。文政年間に当地に社殿を建立した中新開の守護神。
雲井橋を渡った所。
大師が自像を刻み、大岩の上で42歳の厄除祈願の秘法を修したという。
屋根の瓦は崩れ、鐘は残っているが仁王さんはいない。
大師がこの大岩の上で厄除の秘法を修した。
古代に製塩の行われていた網の浦の守護神か。
舒明天皇が御幸でこの地に立ち寄った時に、同行した軍王(コニキシノオオキミ)の詠んだ歌。(万葉集巻一)
凄まじい怨念を抱いて自害して果てた崇徳上皇の棺を白峰に運ぶ途中、雷雨に遭いこの神社で棺を休めたところ、棺から血が流れた落ちたことから血の宮と呼ばれるようになった。また、「朱(あけ)の宮」ともいう。
読みづらいが、「血の宮」と呼ばれるようになった伝承が書かれている。
石囲いの中に、棺から崇徳天皇の血がしたたったという、お棺を置いた台石が。
赤く血に染まったようにも見える。何にでもお賽銭をあげるのが日本人か?
新四国曼荼羅霊場第14番札所
左へ西行の道を下る。
まだ新しい石段で、西行と崇徳上皇の88の歌碑が立つ。
西行は崇徳上皇鎮魂のためこの地を訪れた。上皇は怨霊となって配下の天狗の相模坊を従えて現れる。いまだ燃え盛る怒り、怨みと、呪いの言葉をはく上皇に、西行は「よしや君 昔の玉の床(とこ)とても かからんのちは何にかはせん」(生きている時は天皇だからといって死んでしまえばそれが何だと言うのか)と語りかけると上皇の怨霊は静かに去っていった。「雨月物語(白峰)」より。そんな簡単に成仏してしまうとは怨霊大魔王の名が泣くよ。
崇徳上皇の玉体を白峯山で荼毘に付した時、この地に紫煙が降りて一時、この地にとどまり文字になり、その後都の方へたなびいて消え去った。そしてこの地に一霊の玉が残った。そこで,福家安明宮殿を造営して上皇の霊を奉斎したといわれている。
ここ崖の上で崇徳上皇を荼毘に付したという。
白峯・黒・赤・黄・青峰、五色の由来は道教の五行に基づくという。白峯寺には役の行者を祀る行者堂があり、五色台は古くから神仏の霊場として山岳修験者によって開かれていたようだ。
崇徳天皇の鼓岡御殿をここに移し、頓証菩提を弔ったところから頓証寺と追号された。
応永21年(1414)、後小松天皇から頓證寺の勅額を賜ったのにちなみ頓証寺殿と呼ばれ、勅額を揚げた山門を勅額門と呼ぶようになった。現在の建物は頓証寺、勅額門とも延宝年間(1673~1681)松平頼重の再建という。
左手前は伝承の玉章(たまずさ)の木の二代目
これは後世の模刻で実物は宝物殿にある。
「鳴けば聞く 聞けば都の恋しきに この里過ぎよ 山ほととぎす」 都を偲んだ崇徳上皇の歌。ほほとぎすはこの木の葉を口ばしに巻いて声を忍ばせて鳴いたという。その落葉を「ほととぎすの落とし文」という。
源頼朝の寄進ともいうが、鎌倉時代後期の作。
81番白峯寺
相模坊と称する天狗が鎮守で、金毘羅の金光坊、八栗寺の中将坊とともに讃岐の三天狗で、日本八大天狗の一つ。怨霊崇徳上皇は相模坊を守護神、配下にしていたという。
もとは相模の大山の大行者だったそうだ。
源頼朝が崇徳上皇の菩提を弔うため建立したと伝えるが、東塔(左)鎌倉中期、西塔(右)は鎌倉末期のもの。
右の下乗石(摩尼輪塔)は元応3年(1321)、左は天保7年(1836)の建立。
下乗とは、ここから先は聖地なので、一切の乗り物を禁ずるというということ。
「十九丁打ちもどり」の道標
通称「足ばさん」と呼ばれ、足の病気を治す神様として有名で、毎年元旦と、8月4日に近い日曜日に祭りが行われ大勢の人で賑わうという。一礼しただけで通り過ぎてしまった。ちゃんとお参りしていれば足痛(右の脛)は治ったかも。
82番青峰山根香寺山門 【ルート地図】の668
寺名は本尊千手観音を刻んだ霊木の根が永く香気を放ったためといい、その香が川に流れたので香川県と名づけられたとか。
この寺も修験者の手で早くから開かれた山岳寺院。左は牛頭観音
回廊式で全国の遍路が奉納した万体観音が並ぶ。
山王権現の化身の白猿がこの木に棲み、智証大師の開山を助けたという。
昔、この地で人々を苦しめていた牛鬼という怪獣を弓の名人、山田蔵人高清が当山の千手観音に祈願し、見事射止めた。高清が奉納した牛鬼の角が根香寺に残っている。(テレビで見たことがあるが何かの動物の骨だろう。) 山田蔵人高清は秀吉の家来だったという。長宗我部は嫌われているのだろう。
承久の乱(1221)で幕府方について手柄をあげた香西氏の勝賀山(384m)の城跡
江戸時代以前に築造されたらしい。
ここにもとの香西寺があったのだろう。
勝賀山に逗留した行基が開創した勝賀寺(勝賀廃寺のことか?)が始まりで、弘法大師が再建し現地に移した。鎌倉時代にこの地の豪族香西資村が幕命をうけ堂塔を再建し香西寺と名づけた。「ボケ封じ観音」として親しまれている。
香西氏が周防の大内義興を祀った堂
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