嵐山町(鬼鎮神社・大平山・菅谷館跡)
2009年4月15日
武蔵嵐山駅(東武東上線)・・・鬼鎮神社・・・県道69号・・・地産団地・・・県道196号・・・志賀小学校・(東上線)・・・国道254号・・・平沢団地・・・白山神社・平沢寺・・・大平山(178m)・雷電神社・・・塩沢冠水橋(槻川)・・・嵐山渓谷・・・べったら地蔵・・・(県道73号)・・・鎌形郷土館?(嵐山町立幼稚園)・・・・八幡橋・銭形八幡神社・・・班渓寺・・班渓寺橋(都幾川)・・・八幡橋(都幾川)・・・二瀬橋(都幾川)・・・菅谷館跡・・・武蔵嵐山駅
木曽義仲、畠山重忠ら坂東武者、鎌倉武士ゆかりの比企丘陵の嵐山(らんざん)町を歩く。武蔵嵐山駅東口から鬼鎮神社へ向うが道が分からなくなる。以前に来た時も迷った。鬼にまで嫌われて、喜ぶべきか悲しむべきか。地産団地の中を通り、県道196号に出て志賀小学校沿いに上って東上線を越える。平沢団地を上って下って抜け、国道254号を渡って静かな道に入る。白山神社、平沢寺から大平山は一登りだ。
大平山頂から下って槻川の塩沢冠水橋を渡る。このあたりから上流が嵐山渓谷だ。昭和の初めにこの地を訪れたえらい博士が京都の嵐山の景観に似ていると言ったことから武蔵嵐山の名が生まれた。たいした渓谷美でもないが戦前には年間100万人もの観光客を集めたというからびっくりもんだ。
嵐山渓谷から上ってのどかな道を行くと「べったら地蔵」で、その先で県道73号を渡ると旧日赤埼玉県支部の社屋を移築した郷土館がある。ここにあった鎌形小学校は閉校(2007年)したようで町立幼稚園になっていた。子どもが減っていく中、小学校は潰れても幼稚園は存続可能なのだろうか。木曽義仲ゆかりの鎌形八幡神社、班渓寺に寄り、班渓寺橋を渡り大蔵館を目指すが道を間違えて再び八幡橋に出てしまい、大平山の眺めがいい都幾川沿いを歩く。槻川が都幾川に合流する二瀬橋を渡り、畠山重忠の菅谷館跡を散策して武蔵嵐山駅に戻った。
【地図】
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畠山重忠の菅谷館築造の際に、鬼門除けの守護神として祀られた。節分には、「福は内、鬼は内、悪魔外」と赤鬼、青鬼が豆をまく。勝負事、受験の神様として人気が高い。屋根の下に金棒を持った赤鬼、青鬼の扁額?が掛かっている。(写真正面)
手前の大きな石は旧平沢寺の礎石
上は不動堂(平沢寺?)で白山神社はさらに石段を上る。
父、太田道灌の仇、(扇谷)上杉定正を討つべくここに陣を張っていた。その時に道灌の詩友の万里集九がここを訪れて滞在した。万里が去る時に資康は送別の詩歌会をここで催したという。
白山神社裏手の長者塚から出土
古来より共同利用してきた井戸を復活保存して名水を後世に伝えたいそうだが、水は汚れたままで放置されている。こんなことなら復活しない方がましだ。
嵐山渓谷はもう少し上流の所が眺めがいいようだ。
これが「べったら地蔵」かと思ったが違っていた。宝暦8年(1758)の建立。
横から見ると平たい石なので、「平石地蔵」、「べったら地蔵」と呼ばれている。宝永6年(1709)の建立。
確かに頭も体も普通の地蔵より平たい。
19世紀末にアメリカで流行した建築様式の影響を受けたとされる明治時代の旧日赤埼玉県支部の社屋(埼玉県浦和市(現さいたま市))を移築。
延暦年間(782~805年)に坂上田村麻呂が九州の宇佐八幡宮を勧請したのが創始という。
右が義仲産湯の清水
門前に「木曽義仲公誕生之地」の碑が立つ。義仲の妻の山吹姫の墓もある。
分かりにくい文章だ。
都幾川のニ瀬橋近くから
槻川(右)が都幾川に合流する流れが早い「瀬」のところだが今はさほど急でもない。
菅谷館(すがややかた)跡の空堀と土塁
元は中世の畠山氏の居館で、戦国時代に現在に残る大規模な遺構となった。館というより城郭だ。
畠山重忠像
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