巡礼坂・吉見観音・ポンポン山
2009年4月13日
東松山駅(東武東上線)・・・下沼公園(女沼)・福聚寺・・・東松山市ウオーキングセンター・・・市の川橋(市野川)・・・岩室観音・松山城跡・巌窟ホテル高荘館跡・・・吉見百穴・・・大沼・・・天神沼・・・横見用水路・・・(吉見中学校)・・・息障院(源範頼館跡)・・・横見神社・・・巡礼坂・黒岩配水場・・・吉見観音(岩殿山安楽寺)・・・八丁湖・・・黒岩横穴墓群・・・高負彦根神社・ポンポン山・・・県道171号(今泉東松山線)・・・八坂神社・北向地蔵・・・龍性院・・・(吉見百穴)・・・市の川橋・・・東松山駅
古代からの史跡と豊かな自然が残る比企丘陵の吉見町の坂道散歩です。日本スリ-デ-マーチの時は賑わう東松山駅に久しぶりに降ると駅庁舎は新しくなっていた。下沼公園を通る遊歩道を抜け、市の川橋を渡ると吉見町に入る。正面の小高い丘が松山城跡で市野川が堀の役割を果たしていたようだ。その崖下に岩に挟まれた岩室観音堂、その隣りには奇妙な「巌窟ホテル高荘館」、道路を挟んで吉見百穴と見るべきものが多く時間がかかる。吉見百穴の下部の横穴墓は地下軍需工場に転用のため破壊され無惨で痛々しい。まさに空虚だ。
大沼、天神沼から広い道を北東に向い、横見用水路沿いに進むと吉見中学校の北に息障院がある。落ち着いた佇まいの、品のいい感じの寺でゆったりした気分になる。このあたりは御所という字名で源範頼の館があった所という。北の横見神社前から西へ向うと巡礼坂(上の写真)の上りとなる。この道は坂東三十三所の巡礼道だったが今は廃道に近い感じだ。昔は坂上の黒岩配水場の所を真っ直ぐに突っ切って進み11番札所の吉見観音へ通じていたのだろう。
吉見観音脇を上って下ると八丁湖公園へ出る。静かな湖畔沿いを半周して黒岩横穴墓群から公園を抜けてポンポン山へ向う。山といっても高負彦根神社の裏の小高い岩場で、東の荒川方向に田園風景が広がっている。ここを今日の終点として、八丁湖公園の北側から、吉見観音の西側を下り県道171号に出て西方向に行き、北向地蔵から南に入り、龍性院から吉見百穴に出て朝来た道を東松山駅に向った。
【ルート地図】
*参考:『吉見町の観光・文化財』
写真をクリックすると拡大します。
正面は中の島の弁天堂
松山小唄「・・・恋の上沼下沼あたり くるり日傘の紅が散る・・・」 2つの沼を結ぶ夢小路を通り、上沼(男沼)の松山神社と、下沼の弁天様を参拝すれば2人の恋も成就するとか。
松山城跡(正面の丘)、岩室観音堂(中央左)
岩室観音(比企西国三十三所の第三番札所)
弘法大師が観音像を刻み、ここの岩窟に納めたという。京都の清水寺観音堂と同じ、懸造りの建築様式。
四国八十八札所の本尊を模した石仏。これを拝めば88箇所を巡拝したのと同じ功徳があるとされているが、そんな安直なことは大師は認めないだろう。
堂の後ろから松山城跡に上る道だが、今は通行止めになっている。(大沼へ向う城跡沿いの坂の坂上あたりから入れる。) 平成20年(昨年)すでに国指定であった菅谷館跡(嵐山町)に、杉山城跡(嵐山町)、小倉城跡(ときがわ町・嵐山町・小川町)が加わり、比企城館跡群として国指定史跡となる。
高橋峰吉翁が手堀で築いた人工名所。ホテルとして営業していたのではなく、「巌窟掘ってる」から。詳しくは『吉見見聞録』で 。
ずっと横穴墓の一部と思っていた。以前はこの前に巌窟売店もあったそうだ。
吉見百穴(ひゃくあな) 【ルート地図】の①
古墳時代後期から終末期(6C末~7C末)の横穴墓群。現在確認できる横穴は219基。安閑天皇の時に設置された横渟屯倉(よこぬみやけ)に伴い、移住してきた渡来系の壬生吉志(みぶきし)氏などがもたらした墓制と推測されている。ヒカリゴケが自生している横穴墓もある。
ここに遺体を置いた。
数十基の横穴墓が破壊された。先祖の墓を壊したりするから戦争に負けるのも当然。まあ、そうでなくても負けていただろうが。これじゃ先祖の霊も浮かぶ瀬もなしだ。
大沼への道で
百穴湖とも呼ばれ、冬はバードウォッチングが楽しめるそうだ。
沼辺に天神さんのお堂か祠でもあるのか(あったのか)、見当たらず。
息障(そくしょう)院 【ルート地図】の②
源頼朝の異母弟の範頼(のりより)の館があった所と伝え、大字「御所」という地名になったという。息障院はかつては安楽寺(吉見観音)と敷地続きで一体化していた。寛永年間(1624~44)に当地へ移った。
「息障」は平将門調伏の護摩を修した功により下賜されたというが、どういう意味なのか?
茅葺きの屋根が美しい。
延喜式内社で旧八ヶ村の鎮守
吉見は古代は横渟(よこぬ)といい、それが横見になり、吉見となった。明治29年に横見郡が比企郡に編入された。
左に小堂、右に供養塔、地蔵などが並ぶ。坂東三十三所第11番の吉見観音への巡礼道の坂。
ここに道があるのを知らないと入りにくい。
吉見観音仁王門
坂東三十三所札所第11番
比企地方には、「比企西国三十三所」・「入比(にっぴ)三十三所」(入間郡と比企郡)がある。
正面奥が本堂
寛政3年(1791)の建立
伝説:「昔、一頭の虎が田畑を荒らし村人を困らせたせていた。 ある夜、村人が総出で虎狩りをして、足を槍で突いたが虎の力は強く逃げられてしまった。村人が血の跡をたどってみると、お堂まで続いていて、欄間の虎の後足にたくさんの血がついていた。」
源範頼が建立したが戦国期に北条氏との戦いで焼失し、寛永年間に再建した。
聖徳太子を祀る。仏教を広めて寺院を建立し、土木事業を促進したということで、大工や物づくりをする人たちの信仰を集めた。
水田耕作用に造られた52000㎡の溜め池
大きな声でさかんにさえずっているが、鳴き方はあまりうまくない。鶯ではないのだろうか?
黒岩横穴墓群(古墳時代後期~終末期)
吉見百穴より多く、推定500基以上あるという。近くには延喜式内社が3社(横見神社・高負彦根神社・伊波比神社)もあり、古代にはこの地域が政治的に重要な役割を果たしていたことを物語る。
ここも延喜式内社。後ろが「ポンポン山」で、名前が面白いせいか、近くに「ポンポン山歯科医院」なんてのもある。
柊は二代目
ここの巨岩が高負彦根神社の神体だったのだろうか。足を踏んでも普通の音しかしないよ。
山といっても小高い岩の丘。
台石は観音霊場巡りの道標にもなっている。
宝暦7年?の庚申塔
岩室観音はこの寺の境外仏堂
| 固定リンク
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 日光街道(越谷宿→粕壁宿)(2009.11.17)
- 将門散歩(坂東市)(2019.02.11)
- 我孫子・柏散歩②(2019.02.09)
- 水戸街道(我孫子宿→取手宿→藤代宿)(2010.08.11)
- 我孫子・柏散歩①(2019.02.06)
コメント