四国遍路道(阿波国-4)
2009年5月11日
植村旅館・・・福原橋(鮎喰川)・・・駒坂峠・・・鮎喰川・・・(須賀橋)・・・(長瀬橋)・・・赤松峠・・・河野橋(鮎喰川)・・・県道21号・・・建治寺遍路道・・・八幡神社・・・建治寺(310m・番外霊場・13番奥の院)・鎖行場・滝行場(建治の滝)・・・県道21号・・・あずま橋(南谷川)・・・14番大日寺・一宮神社・一宮城跡・・・一の宮橋(鮎喰川)・・・瑜伽大権現・常楽園・・・14番常楽寺・・・八幡神社・・・慈眼寺(14番奥の院・番外霊場)・・・若宮神社・・・岩船地蔵尊・八祖大師・・・興禅寺・・・15番国分寺・・・16番観音寺・・・大御和神社・・・千福寺・・・(JR徳島線)・・・八坂神社・・・17番井戸寺・八幡神社・・・(JR徳島線)・・・上鮎喰橋(鮎喰川)・・・地蔵池・地蔵院(番外霊場)・・・八幡神社・女厄坂・男厄坂・峰の薬師法谷寺(番外霊場)・厄越橋・厄坂・・清水寺・・・諏訪神社・・・お松大明神・・・(三島神社)・・・東光寺・・・御睦経王大明神・・・阿波おどり会館・天神社・姫宮さん・・・徳島ワシントンプラザホテル
MT氏は歩く気になった。こちらは番外霊場の建治寺に寄るのでお先に出発する。遍路道は福原橋を渡り、駒坂峠へ上ってまた鮎喰川まで下って行く。細い木を渡しただけの板橋はやけに弾んでバランスを崩しそうで慎重に渡る。広野の河野橋で鮎喰川を渡り返して県道21号を進む。ちょうど通学時間帯で、出会う子らは「おはようございます。」と挨拶をしてくれる。朝から気持ちのいいものだ。
県道から離れて建治寺への遍路道を上る。神山森林公園への道を横切り、下草が生い茂り、少し荒れている所もある道を抜けて行く。明るい建治寺境内で一休みして、立派な宿坊の前の石段を下って鎖行場、滝行場から大日寺への遍路道に入る。鎖行場の下の崖には梯子が立て掛けてあった。後で気づいたがこれは梯子行場なのだろう。梯子が新しくてうっかりした。建治の滝あたりは暗く静かで冷気が漂い、昔の行場の雰囲気を残している。ただ滝の水量が少ないのと、ちょっと荒れているのが惜しい感じがした。
建治の滝の前から下って車道と合流し、県道21号へ出て強い陽射しの中を13番の大日寺へ向う。大日寺ではHK氏とSZ氏が納経所の前のベンチで休んでいた。しばらくするとMT氏もやって来た。建治寺回りで来たという。今のところ快調のようでこれなら徳島駅から帰らなくても済みそうだと思って、一緒に14番常楽寺へ歩き始めたがやはり足が痛むようですぐに遅れ出した。
13番大日寺から17番井戸寺までは8km足らずの間にある。地元ではこの道筋を「5ケ所まいり」といい1日で巡拝する。このあたりは気延山の裾野で古代から開け、宮谷古墳、矢野古墳、国府跡、国分寺跡、国分尼寺跡、矢野城跡などが残り、阿波史跡公園として整備され考古資料館もある。国府町、府中(こう)駅なども往時の名残だ。前回見ているので今回はパスする。流水岩の庭に建つ14番常楽寺、七堂伽藍を誇った面影はない15番国分寺、町筋の一角に押し込められ、窮屈な感じで長居はしたくない16番観音寺から徳島線を渡り、17番井戸寺へ向う。まだ5月だというのに、町中を歩いているせいもあるのかとにかく暑い。白衣も脱ぎ、半袖、短パンで歩いているのに、真夏はどんな格好で歩けばいいのか。去年は8月の終わりから歩き始めた。その暑さに比べればたいしたことはないはずだが、のど元過ぎれば何とやらで、当時のことはすっかり忘れている。
井戸寺を出た時に、HK氏、SZ氏、MT氏が連れだって入ってきた。3人とも暑さと疲れで、歩き遍路ならではの姿、顔になっている。自分もきっと同じなのだろう。JR徳島線をくぐり、国道192号に出て上鮎喰川を渡り、番外霊場の地蔵院を目指すが、近道を歩いているつもりが、どうも方向違いに歩いている気がしてきた。老人ホームそばの民家のおじさんに聞くと、あの山(眉山だろう)の方向に田んぼに沿って行けばいい、との返事。だがはっきりした道筋ではない。まあとにかく行って見ようと歩き始めたが、やっぱり分からず、いい加減疲れも増してきてあきらめかけたら、寺や神社なんかがある雰囲気というか匂いのする所へ出た。そして「地蔵池公園」?の標示も見つけた。白黒コピーの地図で地蔵院前に池があるのを見落としていた。目的地にたどり着いたのと、自分の勘が当たったのも嬉しく疲れもぶっ飛んだ?
明るい地蔵池の回りは公園になり、ベンチでお年寄りたちがくつろいでいて、池の畔に地蔵院の山門が立っている。ここは町中の札所の安楽寺なんかよりずっと和めるロケーションだ。境内も広く、穴不動古墳の立派な石室も保存されていて来た甲斐があった。ここからは地蔵越えの遍路道を通り、園瀬川沿いの八万町に抜けられる。今日は峰の薬師法谷寺に寄るので地蔵越えは次回だ。
後は峰の薬師へ寄って、徳島駅近くのビジネスホテルへ行くだけだ。夕食の時間も気にすることはない。ベンチに座り、池と水鳥を眺めしばし、ぼぉーとしていた。歩く気力も戻って、いざ出発すると池畔の土手で草を摘んでいる青年がいる。食べられる草かと思い、何の草なのか聞いてみると、飼い猫に食べさせるという。猫が自分の体をなめて飲み込んだ毛を吐き出させるのだそうだ。青年は地元の人で、学生時代に盲腸か何かの病気で1ヶ月の中断はあるものの、通しの歩き遍路をしたという。その時出会った人たちとの交流が今でも続いて財産になっているという。物的・知的・人的財産、どれか一つでもあればいい。何もない自分はどうしようもないと自嘲気味になるのも疲れのせいとしておこう。
城西高校から東に入り、峰の薬師に寄って徳島の市街地を行く。夕刻間近で学校、病院、公園、団地などで行き交う人も多く気分的にも疲れてきて、リュックの重さもこたえてきた。清水寺、諏訪神社を過ぎ、南へ曲がってホテルも近くなりやっとほっとした。ついでに阿波おどり会館裏の天神社境内の、「姫宮さん」の「絶妙なる自然石の形」の「他に例のない秘物」も拝ませてもらって、やっとホテルに着いた。今日はけっこう歩いた。夜は中華料理店で大いに飲み食いし明日からに備えた。あの3人はどうしているか、無事で今日の寝場所に着いたのだろうか。
【ルート地図】(72→99)
写真をクリックすると拡大します。
板橋は歩くとトランポリンのように弾んで不安定でちょっと怖い。
何の木だったか。
標高300mくらいか
役の行者の開基で、本尊は金剛蔵王大権現。13番奥の院の修験根本道場として発展した。
これも行の一つ。
下の崖に新しい梯子が立て掛けてある所がある。崖くずれの補修をしているのかと思って写真は撮らなかったが、梯子行場ということを後で思い出す。
岩肌を流れ落ちているのだが、水量が少なく迫力がない。ここ滝で身を清め、梯子行場、鎖行場と行をしながら山門をくぐった修験の霊場。
右は地蔵堂
13番 大栗山大日寺
【ル-ト地図】の74向かいの一宮神社の別当寺で本尊は大日如来だった。神仏分離の際に一宮神社の十一面観音を移して本尊とし、大日如来は脇仏となった。十一面観音よりも大日如来の方が格上で、寺名も大日寺なのに、なぜ十一面観音を本尊としたのか?
神仏分離以前は元の札所で、ここでお参りをして大日寺で納経した。「阿波国一宮」の石柱が立つ。大麻比古神社も「阿波国一宮」といっているがどっちだろうか。
一宮城跡入口(一宮神社の前)
一宮氏(小笠原氏)の居城で、蜂須賀家政が最初に入城したのがこの城だった。徳島城に移ってからは支城となり、後に廃城となった。
神仏混交の神社なのか。
常楽寺で運営する児童擁護施設。
14番 成寿山常楽寺
【ル-ト地図】の79「人生即遍路」(山頭火)の石柱が立つ参道。曲がって上るちょっと変わった参道だ。
流水岩の庭の上に建っている。本尊は弥勒菩薩で、四国札所ではここだけ。
アララギ(櫟(いちい)の木)の股の間の小さな大師さん。
【ル-ト地図】の80杉の木に刻んだ地蔵さん。
八祖大師とは、「真言八祖」のこと。七祖+空海
ひっそりと落ち着いた佇まいの寺だ。
かすれてはいるが、上に3体、中央に3体の地蔵が線刻されている。
15番 薬王山国分寺
【ル-ト地図】の83縦長で他寺とは違う感じがする。
うすさま明王は、不浄を清浄と化す神、トイレの神。
このあたりは古代の政治、文化の中心部。
16番 光耀山観音寺 【ルート地図】の85
2つの社を合祀したのか。もとは観音寺の境内にあったようだ。
阿波国府の鎮守で、国司の官印や役所の蔵の鍵を紛失しないように祈り、「印鑰(いんやく)大明神」と呼ばれた。現在は「府中(こう)の宮」として親しまれている。
17番 瑠璃山井戸寺
【ル-ト地図】の88阿波藩の大谷別荘の武家門を寄進したものという。どっしりした和風門で、竜宮門風の山門より落ち着きと風格がある。
堂内に大師一夜掘りの「おもかげの井戸」と日限大師像。
井戸をのぞきこんで姿が映れば無病息災、映らなければ3年以内に不幸が訪れるとか。三年坂も、この坂で転ぶと3年以内に死ぬというが、これは急坂なので転ばぬように気をつけて歩けという戒めだ。この井戸の場合のただのこけおどしとは違う。
隣りの八幡神社が明治時代までは井戸寺と同じ境内にあり、井戸寺は当社の別当寺だった。
正面は眉山方向
ここは阿波藩主の舟遊び場だった。
地蔵院(番外霊場・新四国曼荼羅霊場第75番札所) 【ルート地図】の90
流水潅頂の道場で、安産祈願所として栄えた。
十三仏堂
7世紀中頃築造の直径20mの円墳。
中央の台石は後から置かれた物。
縁起では開山は聖徳太子だ。厄除祈祷の寺として栄えた。本尊の薬師如来は兵火(天正年間)を避けるため、大木の二股に飛び移り避難したと伝え、「二股薬師」の異名を持つ。「二股」とはあまりいい意味では使われていない。薬師さんもこの異名には異議を唱えると思うが。
33段か
山門は勝瑞城あるいは一宮城(13番大日寺の前)からの移築という。
もとは城山の北東にあったが徳島城築城の際にここへ移転した。蜂須賀氏の尊崇厚く、渭津(いのつ)五社(寺町春日神社・富田浦八幡神社・福島四所神社・助任八幡神社・当社)の随一といわれた。渭津(いのつ)は徳島城が、漢詩に「 渭城の朝雨軽塵を潤す」と歌われた中国の渭水に似ていることから名づけられた。今も「佐古のお諏訪はん」と親しまれている。石段の左下に「まよいご石」
貴重な民俗文化財だろう。
もう少し簡潔な文章にしてもらいたいよ。
四国各地にある狸話の一つ
三島神社に関係あるものか? 多分違うだろう。三島神社には県内最古の石造狛犬がある。狛犬老人遍路は寄って見ただろうか。
以前に来た時には、塀の中の墓地に「伝写楽の墓」があったはずだが墓地内を探しても見当たらず。
なぜかこの時も墓の写真は撮っていなかった。
まだ新しい案内板だ。道が一本違うのか? 論争が終結して写楽の墓でないことに決着したか。佃島(東京都中央区)の住吉神社境内にも、「東洲斎写楽終焉の地」の石碑が立っている。
鳥居の向こうの岩の形が・・・・
鳥居やなんかは邪魔だなんて言いなさんな。
「母なる胎内」・「絶妙にして幽玄なる存在」・「他に例のない秘物」
まあ、お察しのとおりです。これで分からない人は聖人君子か、よほどの朴念仁だろうよ。
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