出雲街道②(觜崎宿→千本宿→三日月宿)
2009年6月15日
姫路駅(姫新線)→東觜崎駅・・・觜崎(はしさき)宿・・・寝釈迦の渡し跡(揖保川)・・・古宮神社・・・觜崎の磨崖仏・・・觜崎橋(揖保川)・・・屏風岩・・・県道724号・・・船渡交差点(国道179号)・・・今宮権現神社・・・県道724号・・・馬立橋(栗栖川)・・・輪袈裟の清水・・・年宗橋(札楽川)・・・国道179号・・・旧道・・・金井橋(栗栖川)・・・県道434号・・・(千本駅)・・・千本街道踏切(姫新線)・・・千本宿・・・浄福寺・・・栗栖廃寺跡・依藤塚・・・鎮宅寺・・・大川稲荷神社・・・国道179号・・・旧道・・・(姫新線)・・・荒神社・・・栗町団地・・・国道179号・・・旧道・・・(西栗栖駅)・・・西栗栖小学校・・・西法寺・・・相坂第二踏切(姫新線)・・・県道44号・・・相坂荒神宮・・・国道179号・・・相坂・相坂峠・・・旧道・・・三日月宿・盤筒男神社・明光寺・・・桜橋(本郷川)・・・慶運寺・・・日限地蔵尊・・・新橋(志文川)・・・三日月藩乃井野陣屋跡・武家屋敷跡(上の写真)・烈祖神社・廣業館跡・日岡八幡神社・・・三日月駅(姫新線)→姫路駅・・・姫路城(菱の門→西の丸(渡櫓・化粧櫓)→見晴し坂・見返り坂→二の丸→本丸→大天守→腹切丸→お菊井戸→穴門(るの門))・・・総社(射楯兵主神社)・・・総社門・・・姫路駅
6時55分発の播磨新宮行きに乗る。ちょうど通学時間帯で2輌編成の姫新線は出発時刻前には満席になる。東觜崎駅から觜崎宿を抜け、寝釈迦の渡しからまだ起きていないお釈迦さんの寝姿を眺め、磨崖仏、屏風岩に寄り道して出雲街道を千本宿、三日月宿に向った。梅雨とは思えない陽射しの下を、下調べがいいのか?意外とすんなり、さほど迷うこともなく歩くことができた。まあ旧道歩きといってもこのあたりは姫新線と国道179号につかず離れず行けばいいのだから、誰が歩いても大同小異ということか。
姫路に戻り、まだ早いので姫路城見物だ。以前、姫路競馬のついでに寄ったことはあるが、その時の城の印象の記憶はない。今回はじっくり、といっても2時間ほどだがさすが見ごたえのある世界遺産の中を閉館のアナウンスまでうろついた。
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
ここで出雲街道は揖保川を渡った。対岸の山並みが釈迦が横たわっている姿に見えるというが、ここからだとやけにメタボ腹のお釈迦さんだ。
「寝釈迦のわたし」
岩肌に舟型状の光背を彫り、胸に知恵の宝珠を抱き、右手に錫杖を持つ。昔から「いぼ神」さんと敬い祀る浮き彫りの地蔵菩薩。文和3年(1354)の銘があるという。
4体の地蔵さんの浮き彫り。右端の地蔵さんが薄れて消えかかっている。
磨崖仏、屏風岩近く
8月23、24、日の地蔵盆の祭礼では豆茶がふるまわれるという。
正面中央だが肉眼では地蔵さんは拝めないよ。
樹木に覆われ形がはっきりしない。
左端の切れている続き「岩脈の上部はY字形に二分しており、山頂付近に登ってみると発達した節理の状態がよくわかります。」
このあたりは「馬立」という。古代の宿駅、越部駅があったのはこの地だとも、船渡だともいわれる。
手前の柄杓の下に少し水が溜まっているが、枯渇寸前で飲用はできない。
手前は栗栖川
觜崎宿から二里十五丁(9.5km程)
千本本陣(内海家) 【ルート地図】の18
手打ちそばと田舎料理の店を営業している。開店は10時からで20分ほど待てばよいのだが、まだ腹も空いていないので外から眺めるだけで我慢。邸内を見学だけすることはできない。
伊能忠敬も泊まったそうだ。
昔の懐かしい匂いがする店だ。
「嘉吉の乱」の時にここで自害した赤松満祐の家臣の依藤惟次の墓という。
このあたりは8世紀初頭の栗栖廃寺跡
伏見稲荷の摂社か末社。このあたりは立派な家が多い。
向う側は姫新線の線路
少し暑いが晴れて空気が澄んでいて気持ちがいい。
この先、姫新線も出雲街道も国道179号も南西から北西に大きくカ-ブする。
荒神社(こうじんしゃ)
この地域には荒神社が多い。荒神信仰は、西日本特に瀬戸内海沿岸地方で盛んだったようで、各県の荒神社の数は、岡山(200社)、広島(140社)、島根(120社)、兵庫(110社)、愛媛(65社)、香川(35社)、鳥取(30社)、徳島(30社)、山口(27社)。ここは岡山県に近く荒神信仰が盛んなのだろう。
ここも荒神社
揖保郡(現たつの市新宮町)と佐用郡(佐用町)のあいだの坂ということではなく、播磨風土記の「阿為山」(あいやま)によるという。
承久の変で隠岐に流される後鳥羽上皇がこの坂で詠んだ歌 「立ち帰り越しゆく関と思はばや都に聞きし逢坂の山」
上皇は再び都に帰れると思っていたようだ。逢坂は東海道の京都への入口の逢坂の関で歌枕の地。「百人一首」の蝉丸の「これやこの 行くも帰るも分かれては 知るも知らぬも逢坂の関」で有名。
左に地蔵堂
北条時頼が諸国回国の途中、この地に三ヶ月滞在したことによる地名という。『佐用郡誌』
千本宿から二里(8km程))
左が本陣織田家。武家屋敷や陣屋がある乃井野とはかなり離れている。
手すりのない、蹴上げの高い石段を180段ほど上り、その後この木の根を跨いで到着。汗が噴出してきた。
本陣より立派だ。
ここも昔の雰囲気がある。
ここは 「地蔵尊の町」で毎年8月23日に行われる夏祭り(地蔵盆) には、1万人以上の人が花火や各種イベントを楽しんでいるそうだ。
このあたりは武家屋敷跡
三日月藩乃井野陣屋門 【ル-ト地図】の24
城を持てない小藩の城代わりの藩主の屋敷。元禄10年(1697)、津山藩森家の改易に伴って、その分家である森長俊が三日月の地に移住。佐用郡や宍粟・揖保郡の一部を含む1万5千石の藩主となる。以後明治までの174年間、城下の乃井野地区は政治・文化の中心地として栄えた。森家は織田信長に仕えた森長定(蘭丸)の流れをくむ家系。
藩主の屋敷などは復元されていない。
三日月藩の祖先を祀る神社。
寛政5年に建てられた三日月藩の藩校の一部。
平安時代に奉られ、鎌倉・室町時代には多くの社領を持ち、赤松円心(即村)で有名な赤松氏の保護が厚く、江戸時代以降は、三日月藩森家から多くの寄進を受けていた。
「播磨十水」の一つだが調べても分からず。枯渇寸前で汚れていてもちろん飲めない。
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矢印方向に道はなく城壁だ。
同じ坂で、上る時は「見返り坂」、下る時は「見晴し坂」としているのだろう。まあ見晴しがきく、見返りたくなるほどの坂ではないが。
見晴し坂か(坂下方向) 《地図》
西の丸の化粧櫓の東側を二の丸の方へ下る坂。
右が化粧櫓
千姫が暮らした部屋
貝合せを楽しむ千姫
猫(写真で見ると本物のようだ)の後ろに煙草盆がある。
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