板橋区の坂-12
2009年7月15日
中板橋駅(東武東上線)・・・山中稲荷神社・・・専称院・・・轡神社・・・旧川越街道上板橋宿・豊敬稲荷神社・海老山坂・・・川越街道(国道254号)・・・大山福地蔵・・・大山ハッピーロード(旧川越街道)・・・(大山駅)・・・子易道・・・(首都高速5号・山手通り)・・・子易神社(子易観音・胸突き地蔵)・胸突き坂・・・四ツ又交差点・国道17号(中山道)・・・平尾追分・旧中山道・観明寺・・・東光寺・・・漆坊弁財天・・・板谷公園・・・加賀橋(石神井川)・・・加賀公園・金沢橋・・・十条駅(埼京線)
梅雨明けの猛暑の中の短い坂道散歩です。新しい坂は胸突き坂ですが、胸突き八丁の急坂という意ではありません。歩いているうちに暑さで頭がぼーっとしてきました。
【地図】
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轡(くつわ)神社(仲町46)
子どもの守り神で、特に百日咳の神様として有名。神社から馬のわらじと麻を借り、わらじは神棚に供え、麻は子どもの首に掛ける。お礼詣りには新しい馬わらじと麻を、借りたわらじに添えてお供えする。
由来話:「①徳川家康が村々の様子を見て回った時、馬で鎌倉街道を進み、石神井川を渡り山中村の香林庵の森で休憩した。出発した後に残っていた馬の轡を祀ったのが始まりという。②奥州平泉に向う源義経がここを通った時、乗った馬が咳をしていた。義経は新しい馬に乗り換えて道を急いだ。残された馬は咳に苦しみながら死んでしまった。村人はたいそう哀れんで、丁寧に葬り、馬の口からはずした轡を祀ったことから轡神社が始まった。」 『いたばしの昔話』より
いつ頃吊るされた物か、触ると崩れてしまいそうだ。もう馬わらじの信仰はすたれてしまったようだ。それでも新しいのが一足あるが。
轡神社の由来話の山中村の鎮守か。石神井川には山中橋が架かっている。
香林庵はここに移った。
江戸末期か明治初期の建立。
中央の道が旧川越街道の海老山坂
このあたりを海老山という。飢饉に備えた稗(ヒエ)蔵があった。ヒエが訛ってエビになったというが・・・。
ハッピーロード大山商店街(旧川越街道)
このアーケードの商店街は560mあり、繁盛していて人通りも多い。1日の買い物客は25000人だそうだ。久し振りに「ちんどん屋」が練り歩いているのを見た。「左に大山福地蔵尊入口」の石柱が立つ。
左は「お身洗い地蔵尊」
大山駅の先で旧川越街道から分かれ右に入り首都高速5号をくぐる。
子易道と高田道との交差するところ。高田道は、板橋宿→金井窪村→池袋村→高田村に至る道。
子易観音は明和2年(1765)の造立。当社の別当寺であった福生寺に安置されていたが廃寺になったためこの地に移された。
由来話:「池袋村で用たしをした、王子村の長者が夜道を急いで、ここ高稲荷山の坂道、子易の森にさしかかった。すると物盗りが現れ長者の胸を槍で突いた。長者は倒れてお経を唱えた。しばらくして胸をさすってみると傷も、痛みもない。あたりを見回すと道端のお地蔵さんの胸に真新しい槍傷がついていた。長者は身代りになってくれた地蔵さんに感謝し、お堂を建てて祀ったという。『いたばしの昔話』より
元禄8年(1695)の造立。元は北側の子易道と高田道の辻に立ち、道標も兼ねていた。「右 上尾」・「左 河越」と刻む。高田道を北に進み、四ツ又から旧中山道に出て、上尾宿(埼玉県)へ、子易道を西に進み、旧川越街道に出て川越(河越)へと通じている。例祭は7月24日。
赤い着物の下の槍傷は確認しなくともいいだろう。
胸突き坂(坂上方向) 板橋2-16と2-19の間を北に上る。
このあたりは高稲荷山といい、ここの狐は夜になると、胸突き坂に出て人を化かしたという。一方、板橋第七小学校のあたりは狐山といい、そこの狐は人を化かしたり、人の物を盗んだりはしない心やさしい狐だったそうだ。『いたばしの昔話』より
板橋の刑場で処刑された近藤勇の最初の位牌は初めこの寺に納められた。その後、滝野川の寿徳寺に移されたが昭和20年4月13日の空襲で本堂とともに焼けてしまった。
寛文元年(1661)造立で、青面金剛庚申塔では都内最古。
もと加賀藩前田家下屋敷内に祀られていた三稲荷の内の一社。
千葉の成田山新勝寺から不動尊の分身を勧請。
東光寺(板橋4-13)
平尾追分地蔵と呼ばれもとは板橋追分(旧中山道と旧川越街道の分岐点)にあった。享保4年(1719)の造立
宇喜多秀家の墓(東光寺境内)
関ヶ原の戦いに敗れ、八丈島に流された秀家の子孫が明治2年、内地に帰り、秀家の妻の豪姫(前田利家の娘・秀吉の養女)の実家の縁で前田家の下屋敷地を開拓した時に建立した。正面に「秀家卿」と刻まれている。宇喜多氏はあの児島高徳(出雲街道の杉坂峠で後醍醐天皇の奪還に失敗)の後裔とする説もある。
八丈島への流人の第一号の「秀家の墓」は八丈町大賀郷にある。
日像・月像・二童子・四夜叉・一猿・一鶏・ニ鬼すべてが刻まれている。全国的にも珍しく勝れた庚申塔の一つだろう。
もとは加賀藩下屋敷内の池の中の島にあった弁天様だったが、明治維新後、荒地になってしまった。昭和3年、このあたりに住んでいたおばあさん(岩本さん)の夢枕に弁天様が立ち、「この地に弁天堂を再興して祀れ」とお告げがあった。おばあさんはお堂を建てて、「漆弁財天」としてお祀りした。その後、おばあさんが草取りをしていると、熊手とほうきを持ったおじいさんが現れ、「漆坊弁財天が正しい呼び名だ。その坊は田宮坊太郎の坊である。今後は漆坊弁財天とせよ」と言い姿を消した。
以後、幸運及び厄除けの有難い弁天様として信仰されている。『御由来記』及び『いたばしの昔話』より
田宮坊太郎とは如何なる人物か、調べてみると『異形列伝』というサイトに、「江戸初期の剣豪。讃岐国丸亀藩士であった父・源八郎を同じ藩中の堀源太左衛門に殺され、柳生宗冬について修行。18歳の時に丸亀の八幡社境内で仇を討ったという。若くして病没したとも、上野山内観成院で自刃したともいう。」 とある。しかし加賀藩前田家とも関係がないようだし、弁財天との関連も分からない。また漆(坊)とはどういう意味なのか?
「志度寺」という芝居では、田宮坊太郎の仇討ち成就のため乳母「お辻」が活躍し、命をかけて神仏に働きかけるという。その姿が坊太郎を守護する弁財天のようであったのだろうか? まあ勝手でいい加減な憶測だが。志度寺は四国85番札所で、境内の庭園の片隅に「お辻の井戸」があるという。去年「四国遍路道(香川県④)」で志度寺を訪れた時には気がつかなかった。むろん当時は田宮坊太郎も、お辻さんも知らなかったが。『志度寺訪問記』には芝居のあらすじと「お辻の井戸」の写真が載っている。
岩本さんが自費で建てた石碑のようだ。
昭和12年に板谷氏から土地の寄付を受け、板橋区で最初に開園した公園。
加賀橋から石神井川
中山道板橋宿の東側の21万坪に及ぶ加賀藩前田家の下屋敷跡地。
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