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2009年7月17日 (金)

板橋区の坂-12

2009年7月15日

中板橋駅(東武東上線)・・・山中稲荷神社・・・専称院・・・轡神社・・・旧川越街道上板橋宿・豊敬稲荷神社・海老山坂・・・川越街道(国道254号)・・・大山福地蔵・・・大山ハッピーロード(旧川越街道)・・・(大山駅)・・・子易道・・・(首都高速5号・山手通り)・・・子易神社(子易観音・胸突き地蔵)・胸突き坂・・・四ツ又交差点・国道17号(中山道)・・・平尾追分・旧中山道・観明寺・・・東光寺・・・漆坊弁財天・・・板谷公園・・・加賀橋(石神井川)・・・加賀公園・金沢橋・・・十条駅(埼京線)

 梅雨明けの猛暑の中の短い坂道散歩です。新しい坂は胸突き坂ですが、胸突き八丁の急坂という意ではありません。歩いているうちに暑さで頭がぼーっとしてきました。

  【ルート地図

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Img_5314 轡(くつわ)神社(仲町46)【ルート地図】の①

子どもの守り神で、特に百日咳の神様として有名。神社から馬のわらじと麻を借り、わらじは神棚に供え、麻は子どもの首に掛ける。お礼詣りには新しい馬わらじと麻を、借りたわらじに添えてお供えする。

由来話:「①徳川家康が村々の様子を見て回った時、馬で鎌倉街道を進み、石神井川を渡り山中村香林庵の森で休憩した。出発した後に残っていた馬の轡を祀ったのが始まりという。②奥州平泉に向う源義経がここを通った時、乗った馬が咳をしていた。義経は新しい馬に乗り換えて道を急いだ。残された馬は咳に苦しみながら死んでしまった。村人はたいそう哀れんで、丁寧に葬り、馬の口からはずした轡を祀ったことから轡神社が始まった。」 『いたばしの昔話』より

Img_5316 馬わらじ

いつ頃吊るされた物か、触ると崩れてしまいそうだ。もう馬わらじの信仰はすたれてしまったようだ。それでも新しいのが一足あるが。

Img_5311 山中稲荷神社(中板橋駅南口そば)

轡神社の由来話の山中村の鎮守か。石神井川には山中橋が架かっている。

Img_5312 専称院

香林庵はここに移った。

Img_5318 豊敬稲荷神社(旧川越街道)

江戸末期か明治初期の建立。

Img_5317上板橋宿案内図

中央の道が旧川越街道の海老山坂

Img_5322 海老山坂(坂上方向) 【ルート地図】の②

このあたりを海老山という。飢饉に備えた稗(ヒエ)蔵があった。ヒエが訛ってエビになったというが・・・。

Img_5331ハッピーロード大山商店街(旧川越街道)

このアーケードの商店街は560mあり、繁盛していて人通りも多い。1日の買い物客は25000人だそうだ。久し振りに「ちんどん屋」が練り歩いているのを見た。「左に大山福地蔵尊入口」の石柱が立つ。

Img_5325 大山福地蔵(小堂内) 【ルート地図】の③

左は「お身洗い地蔵尊」

Img_5328 縁起

Img_5329 福地蔵の横顔

Img_5334 子易道

大山駅の先で旧川越街道から分かれ右に入り首都高速5号をくぐる。

Img_5346 子易(こやす)神社(板橋2-19)

子易道と高田道との交差するところ。高田道は、板橋宿→金井窪村→池袋村→高田村に至る道。

Img_5335 説明板

Img_5341 子易観音堂

子易観音は明和2年(1765)の造立。当社の別当寺であった福生寺に安置されていたが廃寺になったためこの地に移された。

Img_5336 胸突き地蔵堂

由来話:「池袋村で用たしをした、王子村の長者が夜道を急いで、ここ高稲荷山の坂道、子易の森にさしかかった。すると物盗りが現れ長者の胸を槍で突いた。長者は倒れてお経を唱えた。しばらくして胸をさすってみると傷も、痛みもない。あたりを見回すと道端のお地蔵さんの胸に真新しい槍傷がついていた。長者は身代りになってくれた地蔵さんに感謝し、お堂を建てて祀ったという。『いたばしの昔話』より

Img_5338 胸突き地蔵

元禄8年(1695)の造立。元は北側の子易道と高田道の辻に立ち、道標も兼ねていた。「右 上尾」・「左 河越」と刻む。高田道を北に進み、四ツ又から旧中山道に出て、上尾宿(埼玉県)へ、子易道を西に進み、旧川越街道に出て川越(河越)へと通じている。例祭は7月24日。

赤い着物の下の槍傷は確認しなくともいいだろう。

Img_5348 胸突き坂(坂上方向) 板橋2-16と2-19の間を北に上る。 【ルート地図】の④

このあたりは高稲荷山といい、ここの狐は夜になると、胸突き坂に出て人を化かしたという。一方、板橋第七小学校のあたりは狐山といい、そこの狐は人を化かしたり、人の物を盗んだりはしない心やさしい狐だったそうだ。『いたばしの昔話』より

Img_5350 坂上方向

Img_5352 坂下方向

Img_5361 観明寺赤門(板橋3-25)

板橋の刑場で処刑された近藤勇の最初の位牌は初めこの寺に納められた。その後、滝野川の寿徳寺に移されたが昭和20年4月13日の空襲で本堂とともに焼けてしまった。

Img_5355 説明板

Img_5356 庚申塔(観明寺境内)

寛文元年(1661)造立で、青面金剛庚申塔では都内最古。

Img_5357 出世稲荷(観明寺境内)

もと加賀藩前田家下屋敷内に祀られていた三稲荷の内の一社。

Img_5359 出世不動(観明寺境内)

千葉の成田山新勝寺から不動尊の分身を勧請。

Img_5364東光寺(板橋4-13)

Img_5365 説明板

Img_5367六道利生の地蔵尊(石造地蔵菩薩座像・全高3m)

平尾追分地蔵と呼ばれもとは板橋追分(旧中山道と旧川越街道の分岐点)にあった。享保4年(1719)の造立

Img_5369 宇喜多秀家の墓(東光寺境内)

関ヶ原の戦いに敗れ、八丈島に流された秀家の子孫が明治2年、内地に帰り、秀家の妻の豪姫(前田利家の娘・秀吉の養女)の実家の縁で前田家の下屋敷地を開拓した時に建立した。正面に「秀家卿」と刻まれている。宇喜多氏はあの児島高徳(出雲街道の杉坂峠で後醍醐天皇の奪還に失敗)の後裔とする説もある。

八丈島への流人の第一号」の「秀家の墓」は八丈町大賀郷にある。

Img_5371 庚申塔(寛文2年(1662)・東光寺境内)

日像・月像・二童子・四夜叉・一猿・一鶏・ニ鬼すべてが刻まれている。全国的にも珍しく勝れた庚申塔の一つだろう。

Img_5374 漆坊弁財天 【ルート地図】の⑤

もとは加賀藩下屋敷内の池の中の島にあった弁天様だったが、明治維新後、荒地になってしまった。昭和3年、このあたりに住んでいたおばあさん(岩本さん)の夢枕に弁天様が立ち、「この地に弁天堂を再興して祀れ」とお告げがあった。おばあさんはお堂を建てて、「漆弁財天」としてお祀りした。その後、おばあさんが草取りをしていると、熊手とほうきを持ったおじいさんが現れ、「漆坊弁財天が正しい呼び名だ。その坊は田宮坊太郎の坊である。今後は漆坊弁財天とせよ」と言い姿を消した。
以後、幸運及び厄除けの有難い弁天様として信仰されている。『御由来記』及び『いたばしの昔話』より

田宮坊太郎とは如何なる人物か、調べてみると『異形列伝』というサイトに、「江戸初期の剣豪。讃岐国丸亀藩士であった父・源八郎を同じ藩中の堀源太左衛門に殺され、柳生宗冬について修行。18歳の時に丸亀の八幡社境内で仇を討ったという。若くして病没したとも、上野山内観成院で自刃したともいう。」 とある。しかし加賀藩前田家とも関係がないようだし、弁財天との関連も分からない。また(坊)とはどういう意味なのか?

「志度寺」という芝居では、田宮坊太郎の仇討ち成就のため乳母「お辻」が活躍し、命をかけて神仏に働きかけるという。その姿が坊太郎を守護する弁財天のようであったのだろうか? まあ勝手でいい加減な憶測だが。志度寺は四国85番札所で、境内の庭園の片隅に「お辻の井戸」があるという。去年「四国遍路道」で志度寺を訪れた時には気がつかなかった。むろん当時は田宮坊太郎も、お辻さんも知らなかったが。『志度寺訪問記』には芝居のあらすじと「お辻の井戸」の写真が載っている。

Img_5373 御由来記

岩本さんが自費で建てた石碑のようだ。

Img_5376 板谷公園

昭和12年に板谷氏から土地の寄付を受け、板橋区で最初に開園した公園。

Img_5378 加賀橋から石神井川

Img_5382 加賀公園(金沢橋から)

中山道板橋宿の東側の21万坪に及ぶ加賀藩前田家の下屋敷跡地。

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2009年7月14日 (火)

中野区の坂ー2

2009年7月10日

江古田駅(西武池袋線)・・・(仙川通り)・・・(新江古田駅)・・・江古田通り・・・江古田川・・・江古田の森公園・北江古田公園・・・氷川神社・・・東福寺・・・下の原橋(江古田川)・熊の坂・・・東橋(江古田川)・・・水の塔公園(野方配水塔)・・・蓮華寺・・・下田橋(妙正寺川)・・・北野神社・・・哲学堂公園・経験坂・・・葛谷御霊神社・・・三井文庫・・・新井薬師(梅照院)・・・新井薬師駅(西武新宿線)

 中野区には何故か坂名のついている坂は少ない。あちこち調べて熊の坂を見つけ出したが、今も坂として残っているのか半信半疑で訪ねてみた。経験坂は哲学堂公園の案内図で見つけた公園内の坂。どちらも魅力的とは言えない坂だが、2つの坂が追加できて、まずは大収穫というところか。

  【ルート地図

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Img_5208 氷川神社(江古田3-13) 【ルート地図】の①

10月第一日曜の例祭には江古田獅子舞が奉納される。

Img_5210 神楽殿

昭和7年までは本堂だった。

Img_5211 氷川神社の境内末社

もとは熊野八幡神社(右)は熊の坂にあった。北野天満社は、北側の天神山(今の江古田の森公園あたり)にあった。両社ともこんな小さな石祠になり、神社の片隅にひっそり祀られている。

Img_5217 東福寺

徳川将軍家の御膳所だった。

Img_5218 説明板

Img_5228 熊の坂 下の原橋(江古田川)あたりから江原町1丁目と2丁目の間を北東に上る。 【ルート地図】の②
今は氷川神社内にある熊野八幡神社がこのあたりにあった。

Img_5230 坂上方向

Img_5236 坂上の「サニ-第二熊の坂

隣りに「第三熊の坂」がある。

Img_5243 野方配水塔(水の塔公園内) 【ルート地図】の③

現在は災害用給水槽となっている。

Img_5245 説明板

Img_5247 空襲の弾痕はどれか。

Img_5252 北野神社

昔は神事の「おびしゃ」が行われていた。

Img_5253 説明板

Img_5294 哲学堂公園の由来 【ルート地図】の④

このあたりは和田山と呼ばれ、和田義盛の館跡という。

Img_5292 経験坂(坂下から)

Img_5257経験坂の位置

Img_5284 説明板

Img_5286 坂上方向

Img_5285 坂標

Img_5260 哲理門(妖怪門)

右側に天狗、左側に幽霊の彫刻像を置く。この地に天狗松と幽霊梅があったことにちなむ。天狗は物的で、幽霊は心的なもので物質界・精神界とも根底に不可思議が存在している、という圓了の妖怪観にもとづき、不可解の象徴とみなした。

Img_5268 四聖堂

釈迦・孔子・カント・ソクラテスの「四聖」を東西の哲学者の代表として祀るために建てられた。

Img_5266_2六賢臺

聖徳太子・菅原道真(日本)・荘子・朱子(中国)・龍樹・迦毘羅仙(印度)の六人を東洋的「六賢」として祀る。

Img_5267 宇宙館

哲学が宇宙の真理を研究する学問であるとの観点にもとづく講堂。

Img_5296 葛谷御霊(くずのやごりょう)神社(新宿区西落合2-17)

備射祭と葛ケ谷囃子は今でも行われているのだろうか。「備射祭」は北野神社の「おびしゃ」と同じ神事だろう。境内に「イボ取り」の疣天神社がある。

Img_5298 上高田図書館へ上る坂

坂名はないようだ。

Img_5299 坂上から

Img_5302 三井文庫

もとは三井坂(『品川区の坂②』)にあった。

Img_5303_2 新井薬師 【ルート地図】の⑤

本尊は、薬師如来と如意輪観音の
ニ仏一体の黄金仏という。背中会わせに彫られているのだろうか?

Img_5304 本堂

Img_5308 願い地蔵尊

巣鴨のとげぬき地蔵の「洗い観音」のような、行列はできていない。

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2009年7月13日 (月)

新宿区・港区・渋谷区の坂

2009年7月3日

四谷三丁目駅(地下鉄丸の内線)・・新宿通り・・・津の守坂・・・仲坂・・・女夫坂・・・本性寺・・・外苑東通り・・・(信濃町駅)・・・(港区)・安鎮坂(権田原坂)上・・・青山通り(国道246号)・・(カナダ大使館)・高橋是清記念公園・・・薬研坂・・・稲荷坂上・・・円通寺坂・・・三分坂・・・さくら坂③・サカス坂・・・福吉坂・・氷川公園・・・転坂・・・南部坂・・・氷川坂上・・・氷川神社・・・本氷川坂・・・檜坂・・・乃木坂・・・青山霊園・・・姫下坂(北坂)・・・根津坂・・・南青山4丁目交差点・・・大松稲荷・・・表参道・青山通り・・・(渋谷区)・(子どもの城)・・・明治通り・・・渋谷消防署・フランス坂・・・オルガン坂・・・スペイン坂・・・間坂・・・渋谷駅

 梅雨の合間の久し振りの都心の坂道散歩です。新しい坂は太字の5坂です。23区別の坂数では、港区が127坂、文京区が126坂で、港区が1坂多くなりました。

  【ルート地図

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Img_5058 津の守(つのかみ)坂(坂下方向) 《地図

坂上の西脇に松平摂津の守の屋敷があったのでそれを略してこう名づけた。別名を小栗坂、坂下は靖国通りの合羽坂下交差点。

Img_5063 仲坂 【ルート地図】の①

荒木町12と13の間を北に上る石段。

Img_5064 左下に「仲坂」の坂標

右下には「昭和七年六月竣工」の石柱が立つ。

Img_5068 坂上から

Img_5072 女夫坂 《地図

下って上る向き合う坂。この形の坂は、「相生坂」・「薬研坂」・「夫婦坂」・「向坂」など呼び名も様々。

Img_5076 北向き毘沙門天(本性寺)

北向地蔵はあちこちにあるが。

Img_5075 由来

Img_5079 薬研坂 《地図

中央が窪んで両側の高い形が、薬を砕く薬研に似ているために名づけられた。別名を何左衛門坂。

Img_5081反対側から

Img_5088 円通寺坂 《地図

右に円通寺

Img_5090 三分(さんぷん)坂 《地図

急坂のため車賃を銀三分(100円余)増した。坂下の渡し賃一分に対していたとの説もある。「さんぶ」では四分の三両になるので誤り。

Img_5104 赤坂サカスの案内図

さくら坂・サカス坂の位置:中央近くで北方向に上るのが「サカス坂」、サカス坂の坂上で西から東に下っているのが「さくら坂」

Img_5095 さくら坂③

両側におよそ100本の桜が植えられている。これで港区には、さくら(桜)坂が4つになった。

Img_5097 坂下方向

Img_5102 サカス(Sacas)坂(坂下方向)

「akasaka Sacas」を右から読むと、SACA・SAKA・SAKAと3つの坂。坂の街、港区ならではの名前か。

Img_5110 坂上方向

Img_5111 福吉坂 赤坂2-15と2-17の間を南に上る石段。【ルート地図】の②

旧町名の赤坂福由吉町による坂名

Img_5122 旧町名由来板(氷川公園に設置)

Img_5114 坂上方向

Img_5117 福吉坂改修工事碑

Img_5119 坂下方向

Img_5125 転(ころび)坂 《地図

急坂で道が悪く、通行する人たちがよく転んだためこう呼んだ。

Img_5128 南部坂(坂下方向) 《地図

江戸時代初期に南部家中屋敷があったためといい、「忠臣蔵」の「南部坂雪の別れ」で有名。

Img_5131 坂上方向

Img_5138 氷川神社

Img_5137 本殿

Img_5142 本氷川坂 《地図

Img_5146 檜坂(坂下方向) 《地図

檜が多く、檜屋敷と呼ばれた山口藩毛利邸(檜町公園)に沿う坂。

Img_5150 坂上方向

Img_5163 乃木坂 《地図

乃木将軍の葬儀と同時に幽霊坂から改められた。

右奥が乃木神社

Img_5172 姫下坂(坂下方向) 【ルート地図】の③

渋谷長者の姫と白金長者の息子の恋物語伝説の坂。この坂については、「港区の坂-8」(2006年2月28日)に詳述。

Img_5174 坂上方向

右は青山墓地で昼間でも人通りの少ない寂しい坂。今は夜に姫が下れば、けしからん輩が現れる「痴漢坂」、私が下ればお化けが出る「幽霊坂」か。

Img_5176 青山の庚申塔

Img_5175 説明板

Img_5177根津坂(坂上方向) 《地図》(標示は北坂)

左が根津美術館

Img_5188フランス坂 【ルート地図】の④

ファイヤー通りから渋谷消防署とハローワ-ク渋谷の間を西へ渋谷区役所前交差点へと上がるイエローストリート。

代々木公園からのデモ隊がここでフランスデモでもしたのか。バスティーユ通りとも呼ばれる。渋谷消防署をバスティーユ監獄とでも見立てたのか。イエローストリートの由来は何なのか? 

Img_5187 坂上方向

Img_5190 坂下方向

Img_5193 オルガン坂(坂下方向) 井の頭通りの東急ハンズ前の交差点からパルコ前交差点へ上がる坂道。《地図

通りの周辺に音楽関係の店が多かったところから命名されたという。
東急ハンズ前の階段がオルガンの鍵盤に見えるから、という説もある。

今は音楽関係の店も多くもなく、東急ハンズ前の階段もオルガンの鍵盤には見えないと思うが。

Img_5196 スペイン坂(坂上方向) パルコパート1裏のペンギン通りから井の頭通りへと下る坂。 【ルート地図】の⑤

喫茶「阿羅比花」(あらびか)の店主が写真で見たスペインの風景に心ひかれ、店の内装 をスペイン風にした。昭和50年にパルコからこの坂の命名を依頼され、「スペイン坂」とした。
この先の石段は往来人が多すぎて写真は撮れず。港区のスペイン大使館のところにもスペイン坂がある。

Dsc03187 「スペイン坂」の坂柱

Dsc03188 朝のスペイン坂(2005年11月17日撮影)

右が喫茶「阿羅比花」か?

Img_5197 間坂(坂上方向) 井の頭通りから公園通りへロフト沿いに上る坂。 《地図
平成元年、ロフトが一般公募により命名。
渋谷駅と公園通りとの間・ビルとビルの間・「まさか」という語呂のよさ・間という漢字が人と人との関わり合いをイメージするとの理由から。

Dsc03183 朝の間坂(2005年11月17日撮影)

Dsc03184 「間坂」の坂柱

坂の途中の左側にある。

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2009年7月12日 (日)

古河市(茨城県)

2009年6月29日

Img_4994 古河駅(JR宇都宮線)・万葉歌碑・・・西光寺・・・浄円寺・・・八幡宮・・・日光街道(県道261号)・高札場跡・本陣跡・・・金刀比羅宮・・・竹駒稲荷神社・・・宝輪寺・・・尊勝院・・・脇本陣跡・・・神宮寺・・・よこまち柳通り・・・徳星寺・・・正隣寺・・・本成寺・・・野渡貝塚・・・下宮八幡宮・・・雀神社・・・永井寺・・・頼政寺・水神宮・・・渡良瀬川・・・三国橋・・・古河城本丸跡・・・国道354号・・・香取神社・・・(国道354号)・・・鳳桐寺・・・総合公園(富士見塚・御所沼・天神橋・古河公方館跡・芋ころがし坂・目洗い弁天池・徳源院跡)・地蔵堂・虚空蔵堂・浅間神社・・・日光街道・・・稲荷神社・・・御茶屋口門跡・・・(古河歴史博物館・文学記念館・鷹見泉石記念館(全部休館日))・・・長谷観音・・・子ノ神社・・・福法寺・・・妙光寺・・・宗願寺・・・正定寺・・・福寿稲荷神社・・・武家屋敷通り・・・天満宮・・・日光街道・・・大聖院・・・古河駅

  参考:『古河市HP 史跡と寺院

  【ルート地図

 日光街道の古河宿、南総里見八犬伝の名場面、八犬士の犬塚信乃と犬飼見八(のちの現八)が死闘を演じた古河城芳流閣の地、茨城県古河市を訪ねました。

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Img_5043 万葉歌碑(東歌の中に収録されている相聞歌二首 作者不詳)

まくらがの 許我(こが)の渡りの からかじの 音高しもな 寝なへ児ゆえに

逢はずして 行かば惜しけむ まくらがの 
許我こぐ船に 君も逢はぬかも

Img_4810 説明板

Img_4818 高札場跡

このあたりが古河宿の中心地で、斜め前に本陣があった。

Img_4820 説明板

Img_4822 古河宿本陣跡 【ルート地図】の①

Img_4823 金刀比羅宮

文化11年(1814)建立の社殿は2006年に焼失し、2007年この小さな社が再建された。

Img_4824 由来碑

Img_4833 尊勝寺

初代古河公方の足利成氏が、鎌倉から古河に移るとともに祈願所とした。永禄7年(1564)当時、古河公方領が現在の東京都品川方面にまで及んだことを示す足利義氏充行状がある。

Img_4834 神宮寺 【ルート地図】の②

宝徳元年(1449)に良宥上人が鎌倉で開いた寺で、古河公方足利成氏に伴って古河に移った。室町時代の作である十一面観音座像がある。

Img_4835 由来

Img_4842 常夜灯道標

正面に「左日光道」、右側面に「東筑波山」、左側面に「右江戸道」と刻まれている。もとは二丁目の突当たり(神宮寺の方へ曲がる所)にあった。文久元年(1811)の建立

Img_4843 説明板

Img_4849_2 よこまち柳通り

遊郭があったという。

Img_4865正麟寺

古河城主小笠原氏の開創。「新訳和蘭国全図」を著した鷹見泉石の墓がある。

Img_4861 家並み

Img_4869 本成寺の赤門

Img_4879 野渡貝塚跡(栃木県野木町)

野渡の狐塚の標高20~21mの河岸段丘上の縄文時代前期(約5000年前)の貝塚。

Img_4878 説明板

消えてしまってこれじゃあ読めないよ。

Img_4883 下宮八幡神社

天文年間(1532~54)に旧栃木県谷中村字下宮の守護神として創建。明治時代の足尾銅山鉱毒被害で村人は移住、離散した。大正2年に現在地に遷座し、平成5年に改築した。

Img_4884 由緒

Img_4891 雀神社 【ルート地図】の③

初代古河公方、足利成氏が尊崇し、天下泰平、国土安穏、武運長久を祈ったという。夏の祭礼には「ささら獅子舞」が奉納される。

Img_4889 由来

Img_4890 雀神社

清和天皇の貞観元年に出雲大社より勧請したと伝える。祭神は大己貴命・少彦名命・事代主命の三柱。「雀」の由来は、①昔、このあたりを「雀が原」といったことから。②「国を鎮めの神」といったのがスズメになった。

Img_4895 延命地蔵

Img_4898 永井(えいせん)寺

寛永3年(1626)に古河城主の永井直勝が創建

Img_4901 頼政神社

もとは古河城内南端の竜崎郭(頼政郭)にあった。頼政郭とは、宇治平等院の戦いで敗れ自刃した、源三位頼政の首塚のこと。

Img_4912 渡良瀬川(下流方向)

河川敷が広がり川の流れは細い。前方は新三国橋

Img_4918 古河城本丸跡 【ルート地図】の④

渡良瀬川は幾度も改変されている。ここは今は河岸の利根・渡良瀬サイクリングコースで正面は新三国橋。その先で利根川に合流する。八犬伝の時代には渡良瀬川は利根川とは合流していなかった。(平行して江戸湾に流れ込んでいた。) 芳流閣から死闘の末、渡良瀬川へ落ちた犬塚信乃と犬飼見八は、小舟で下総の行徳に流れつく。(もちろん物語上の架空の話)

Img_4917 本丸跡から見ると草っ原が広がっている。

Img_4925 香取神社

屋根の色がなんともいい感じ。

Img_4931 古河総合公園案内図

下の方に古河公方館跡、その右の茶畑の右に、「芋ころがし坂」

Img_4933 孔雀小屋

なんで孔雀なのか?

Img_4936 御所池

Img_4940 古河公方館跡 【ルート地図】の⑤

右は旧中山家住宅(延宝2年(1674)頃の建築)

Img_4946 旧飛田家

県内の曲がり家形式の農家の中でも最も古いもので、建築年代は18世紀前半頃と推定。

Img_4948 芋ころがし坂(坂下方向)

坂名の由来は何なのか? 隣りは茶畑だし。

Img_4956 目洗い弁天池

Img_4958 弁天さん

Img_4978 徳源院跡(古河公方義氏墓所)

義氏の娘、足利氏女の法号により徳源院と称した寺の跡。

Img_4973 説明板

Img_4962 子育て地蔵堂

Img_4961 説明板

Img_4963 もとは徳源院内にあった。氏女の守り本尊ともいわれていた。

木像とは思えない滑らかさと艶がある地蔵さんだ。顔も道端に立つ石の地蔵さんと違って優美で気品がある。

Img_4965 虚空蔵堂

狛犬は山門を入った右の浅間神社(鳥居が見える)のものか。まさに神仏混交だ。

Img_4967 由来

Img_4969 浅間神社

Img_4982 日光街道松並木跡

江戸時代には、ここから5kmもの松並木が続いていたという。

Img_4981 説明板

Img_4988 御茶屋口門跡

徳川将軍家の日光社参の際の休憩所の「御茶屋」があった。ここは将軍が宿城の古河城に入る「御成口」だった。御茶屋破却後は「御茶屋口番所」が置かれた。

Img_4986 説明板

Img_4993鷹見泉石記念館

鷹見泉石は江戸時代の古河藩の家老、蘭学者。

Img_4999 長谷観音

古河城の鬼門を守る仏で、歴代古河城主の祈願所。本尊は木像十一面観世音像。鎌倉、大和の長谷寺とともに日本三大長谷の一つというが、2ケ寺に比べるとかなり小さな寺

Img_5006 福法寺

山門は古河城の乾門を移築。

Img_5007説明板

Img_5009蛭子神社

古河七福神の恵比寿

Img_5010 妙光寺

お万とは誰なのか、何人もいるようだが?

Img_5013 馬頭観音

享保3年(1718)年の建立で市内最古の馬頭観音

Img_5012 説明板

Img_5015 宗願寺

親鸞上人の関東での高弟の一人、西念房が開いた寺。茨城県指定文化財の親鸞上人木像などがある。

Img_5017 正定寺

江戸時代初期の大老土井利勝の開いた寺で、土井家歴代の墓所。古河七福神の弁財天。古河八景の「正定寺の晩鐘」。鐘堂はなかったようだが、見逃したか。

Img_5018 弁財天堂

Img_5019 お使い姫の蛇だらけ

Img_5024 福寿稲荷神社

古河七福神の寿老人

Img_5029 旧武家屋敷の土塀

Img_5030 今も個人の住宅

Img_5037 大聖院

古河公方足利晴氏が妻の兄北条氏康のために開基。古河七福神の弁財天

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2009年7月11日 (土)

結城市(茨城県)

2009年6月26日

東結城駅(JR水戸線)・・・観音堂・・・大杉殿・・・乗国寺・・・貴布禰神社・・・大勝寺・・・松月院・・・結城家御廟・・・結城城跡(城跡公園)・聡敏神社・あじさい坂・・・源翁和尚の墓・・・県道35号・・・安穏寺・秋葉龍神神社・・妙国寺・・・光福寺・・・金福寺・・・弘経寺・・・毘沙門堂・・・神明神社・・・孝顕寺・・・称名寺・・・常光寺・・・健田須賀神社・・・薬師堂・・・住吉神社・・・結城観光物産館・・・観光物産センター・結城駅

 滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」の物語の発端「結城合戦」の地、見世蔵の並ぶ「紬の里」の結城を歩きました。

  【ルート地図

  *参考:【結城市HP観光

  写真をクリックすると拡大します。

Img_4545

東結城駅

無人駅だがスイカは使える。

Img_4568 乗国寺 【ルート地図】の①

結城合戦で敗死した12代結城持朝の菩提を弔うため、宝徳元年(1449)に13代成朝が建立。

Img_4554 由緒

Img_4574 貴布禰神社

本宮は京都市の貴船神社で祭神は雨水を司る神、止雨の神の高龗(たかおかみ)の命。社殿によれば結城家2代朝広が康元元年(1256)に創建したという。

Img_4583 結城家御廟(慈眼院境内跡) 【ルート地図】の②

結城家初代朝光から16代政勝までと、妙仙・明朝・と無銘2基の花崗岩製の五輪塔が20基並ぶ。

Img_4590 説明板

Img_4596 結城合戦で戦死した11代氏朝(手前中央)・12代持朝(前方正面)の墓

Img_4611 結城城跡(城跡公園) 【ルート地図】の③

ここで幕府軍を相手に1年以上も戦った。「南総里見八犬伝」は父親と一緒に結城側で戦った里見義実(よしざね)が、死を決意した父親と別れて主従三騎で三浦半島へ落ち延び、房総の安房へ渡るところから始まる。

Img_4610 説明板①

Img_4632 説明板②

Img_4633 城域図

結城埋蔵金伝説」がある。この一画に今でも莫大な埋蔵金が眠っているかも。

Img_4613 城跡から北側には今も田んぼが広がる。

Img_4617 田んぼから一段高い城跡を望む

Img_4622 あじさい坂

田んぼから城跡に上る緩やかな坂。

Img_4621【坂標】

Img_4626 坂下方向

Img_4606 聡敏神社

江戸時代の結城藩水野家の藩祖水野勝成を祭神とする。文化13年に福山聡敏神社(福山八幡宮境内)より勧請。水野勝成を「聡明俊敏」と讃える社名。

Img_4607 由緒

Img_4638 源翁和尚の墓 【ルート地図】の④

「九尾の狐」の那須の殺生石を杖で砕いたことで有名。死んだのは陸奥国(福島県)の示現寺。

Img_4640 安穏寺

応安4年(1371)に結城家8代直光が源翁心昭(和尚)を招き禅宗に改宗し中興開山した。

Img_4645 河野商店

結城紬の問屋

Img_4648 妙国寺

早見晋我の墓と与謝蕪村が晋我の死を悼んで詠んだ「北寿老を悼む」の詩碑ある。

Img_4649 由緒

Img_4651 蕪村の「北寿老仙を悼む」の詩碑。

Img_4656 中澤商店

もとは結城紬問屋・肥料商

Img_4657 秋葉喬庸商店

もとは農業資材関係の店

Img_4663 福井薬局

Img_4669 光福寺

弘経寺との間に御朱印堀の一部の跡が残っている。

Img_4666 由緒

Img_4667 御朱印堀説明板

Img_4673 弘経(ぐぎょう)寺 【ルート地図】の⑤

文禄4年(1595)18代結城秀康の長女松姫の菩提を弔うために創建。以来一度も焼失していない寺。浄土宗関東十八檀林(宗派の学問所)の一つ。

Img_4675 由緒

Img_4680 俳人・砂岡雁宕(いさおかがんとう)説明板

Img_4687 結城酒造

Img_4689 説明板

Img_4691

Img_4688

Img_4695 毘沙門堂

石灯籠の台石は道標になっている。右側が「右 小山 左 さかい」 左側が「向 水戸海道」

Img_4707 武勇(造り酒屋)

Img_4699 武勇

Img_4709 向い側の旧家

Img_4715孝顕寺

結城水野家の菩提寺。開山は独放曇聚(どっぽうどんしゅう)禅師、開基は結城家15代政朝。

Img_4721 称名寺

Img_4722由緒

Img_4737 常光寺

門前の阿弥陀如来像の「金仏さん」で親しまれている時宗の寺。

Img_4727由緒

Img_4733 金仏説明板

Img_4732 十九夜観音堂(右)から金仏さんの背中

Img_4729 十九夜観音

Img_4735 石崎旅館

Img_4738 磯田邸

もとは乾物屋

Img_4740 築島邸

もとは穀物商

Img_4743 秋葉糀味噌醸造

Img_4744 説明板

Img_4747 会津屋呉服店

Img_4748 赤荻米店

Img_4750旧家

Img_4751 小西金物店

Img_4752 説明板

Img_4754 健田須賀神社

結城家ゆかりの須賀神社と、この地方一帯を開発したという竹田氏ゆかりの健田神社が合祀された。

Img_4756_2 由緒

Img_4757 鈴木新平商店

Img_4762 桜井長太郎商店

現在は干瓢商店舗兼住宅

Img_4763 須関商店

もとは穀物商

Img_4766 奥順

結城紬の問屋兼住宅

Img_4770 奥順の部屋

NHKTV「鳩子の海」のロケ地

Img_4765奥順壱の蔵

現在は喫茶ギャラリー

Img_4772 キヌヤ薬舗

Img_4774 藤貫邸別館

もとは米穀肥料商

Img_4779 左が古川邸・右が藤貫邸別館

Img_4781 旧黒川米穀店

現在はイベントやCMのロケ地等で利用

 

Img_4784薬師堂

扁額には、「辻薬師如来」とある。

Img_4789 紬の館

Img_4792 山中石材店

Img_4796 住吉神社

Img_4798 鈴木紡績

もとは穀物・紡績商

Img_4804 結城駅

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2009年7月 9日 (木)

出雲街道⑥(津山宿)

2009年6月19日

Img_4514 津山駅・・・今津屋橋(吉井川)・・・ごんご通り・・・京町・・・思案橋・本琳寺・・・東大番所跡・大橋(宮川)・・橋本町・・・大入道坂・・・上之町武家屋敷跡・東寺町・「男はつらいよ」ロケ地・本蓮寺・浄円寺・千光寺・・・大入道坂・・・稲荷橋(宮川)・千代稲荷神社・・・(城北通り)・・・衆楽園・・・津山城(鶴山公園・文学の散歩道・千石坂・旧基督教図書館(上の写真は津山城内から下る坂))・・・大手町・・・津山駅

 電車の時間まで津山城の東側をぶらついて帰京した。勝間田宿から津山宿は次回に歩きます。 『出雲街道⑦』へ続く。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_4542 吉井川(今津屋橋から)

Img_4543 今津屋橋から今津屋橋商店街

当時の方が通りは賑やかだったようだ。

Img_4405 今津屋橋商店街(ごんご通り)

車は多いが人通りは少ない。「ごんご」とは吉井川の渕に住んでいた河童のこと。

Img_4404 説明板

Img_4408 京町の出雲街道

Img_4406 説明板

Img_4413 思案橋 【ルート地図】の①

「行こか、戻ろか」の思案橋。この橋を渡れば遊郭だった。金沢、高知、長崎、「遊郭あるところ、思案橋あり」か。ここまで来て思案するくらいなら初めから来なければいいようなものだが、結局、思案の末に帰る御仁はいないだろう。金が足りずに入れない人は別よ。今はあたりに全く当時の面影は無い。正面は本琳寺。遊郭で貰ってくる「淋しい病気」の「淋」でなくてほっとした?

Img_4412 思案橋

Img_4421 東大番所跡 【ルート地図】の②

出雲街道の津山城下への東の出入口。西は翁橋の東詰にある。

Img_4420 説明板

Img_4429 橋本町

鍵型に曲がった出雲街道に沿う町

Img_4428 説明板

Img_4441 大入道坂へ向う。

手前に右に入る「小入道坂」がある。左前方の鳥居は千代稲荷神社。

Img_4442 大入道坂(坂下から) 南西に上之町に上る坂。 【ルート地図】の③

坂名の由来は、①刀工の山本土佐守正信入道の屋敷があった。②見越入道という妖怪が出没した。 

Img_4447 坂標

駅前の観光案内所でもらった『津山ご城下めぐり旅』には「入道坂」と記載されている。大小二つの坂があるとは知らなんだ。少しあたりを探したが分からず。後で津山城の切符売り場で聞いて分かった。切符売場のおばさんも大小あるのは知らず、どこか(観光協会か?)に電話して位置を確認してくれた。時間がないので、小入道坂は次回に歩く。

Img_4448 説明板

Img_4446 坂上方向

坂上は武家屋敷跡の通り。津田真道の生誕地も近い。

Img_4463 坂下方向

Img_4455 武家屋敷跡の通り

男はつらいよ 寅次郎紅の花」(1995)」のロケ地。 満男(吉岡隆徳)が結婚式場へ向う花嫁(泉・後藤久美子)の一行を車で妨害するシーン。これが最終作となった。もう14年も経ってしまったとは・・・。

狭い道で車が来ればよけなければならず、お婆さんが「なんでこんな狭い道を通るのか」と車に怒っていた。まことにごもっとも。

Img_4456説明板

Img_4461 千光寺

しだれ桜(正面)が見事の寺

Img_4459 説明板

Img_4467 稲荷橋を渡って千代稲荷神社へ

Img_4471 千代稲荷神社

鶴山の山頂の大杉に舞い降りた鶴の千歳を冠し、千代稲荷神社を祀った。

Img_4468 由来記

Img_4482 衆楽園 【ルート地図】の④

津山藩別邸の池泉廻遊式庭園

Img_4486 

Img_4480 説明板

Img_4493 迎賓館

Img_4495 茶店

Img_4500 千石坂 【ルート地図】の⑤

津山城から鶴山通りへ下る石段坂。

Img_4506 坂上方向

Img_4529津山城備中櫓

2005年に復元。城跡の鶴山公園は日本の桜名所100選の一つ。

Img_4520 説明板

Img_4521 歴代藩主

Img_4539 天守閣跡

Img_4537天守跡から津山市街

Img_4544 津山駅

箕作阮甫の銅像が立つ。

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2009年7月 4日 (土)

出雲街道⑤(土居宿→勝間田宿)

2009年6月18日

Img_4203 美作土居駅・・・門尻橋(山家川)・・・一里塚跡・・・国道179号・・・土居浄化センター・・・山城橋(山家川)・・・(姫新線)・・・(県道86号)・・・恵美坂・恵美坂陸橋・・・(中国自動車道)・・・県道365号(中国自然歩道)・・・後醍醐天皇御口漱の泉・・・杉坂・杉坂峠・杉坂関所跡・・・県道365号・・・恵美坂・・・県道86号・・・仁の坂・・・山城大橋(山家川)・・・国道179号・・・旧道・・・供養塔・地蔵(大師?)堂・・・城近坂・・・国道179号・・・旧道・警固屋坂・・・北向地蔵堂・・・江見金宝稲荷大社・・・大還橋(吉野川)・・・(姫新線)・・・国道179号・・・旧道・・・(老人ホーム作東寮)・・・(中国自動車道)・・・峠の地蔵堂・・・大曲りの大師堂・・・楢原宿人舛跡・・・火之神社・・・笠懸の森・笠懸橋・・・豊国神社・・・おかやまファーマーズマーケット・・・新姿見橋(中国自動車道)・・・みちしるべ地蔵・・・岡神社・・・勝間田宿・・・勝間田駅(姫新線)→津山駅

 土居宿から万ノ乢越え以前の出雲街道の道筋だった杉坂峠へ向う。中国自然歩道のルートになっている県道365に出て、緩やかな上りを播磨の方へ2~3kmほど引き返すと杉坂峠で少し旧道を上ると杉坂史蹟として整備・保存されている。同じ道を戻り県道86号の仁の坂を下って国道179号沿いに行くと交差点に杉坂峠への元禄の道標があるはずだが見当たらず山側の旧道に入る。この道は田園の中の少し起伏のあるのどかな道で、城近坂を下り国道179号に出て、すぐに警固屋坂(上の写真は坂下方向)の急坂となって上り、江見(宿)へと下って行く。ここも江見庄、江戸時代は幕府の直轄領として栄えたところで家並みに往時の面影を残している。

 旧出雲街道は大還橋で吉野川を渡り、姫新線、国道179号を越えて今在家の集落を斜めに北西方向に中国自動車道の方へ上って行く。この道は分かりづらいが事前に何度もシュミレーションしたお蔭で、まあすんなりとクリアーできた。ただ暑さでバテ気味で、一貫清水などいくつかの見所を見逃した。一ノ乢近くで中国自動車道をくぐり北側に出ると、大蛇?がとぐろを巻いて死んでいた。(死んでいるように見えた。) 道の北側に峠の地蔵堂、その先の大曲りの小高い所に大師堂がある。自動車道を挟んで楢原パーキングエリアがあるあたりだ。

 なおも中国自動車道に沿って行くと舗装道路となり、道祖神などが立つ辻を過ぎて、楢原(宿)へ入る。ここの家並みも街道筋らしい昔の姿を留めている。楢原の町並みを出て、中国自動車沿いを行くと火之神社で、その先が後醍醐天皇ゆかりの笠懸の森だ。笠懸橋を渡り、豊国神社へ寄る。この先、旧道は自動車道を挟んで途切れ途切れに残っているようだがはっきりしない。新道は予想外に長いきついアップダウンが続く。ここまでお茶とお菓子で歩き続けてきてかなり疲れてきた。やっとおかやまファーマーズマーケットにたどり着く。売店で地ビールとソーセージを買い、遅い昼食代わりで休憩だ。エネルギーを補給し、やっと人心地がついていざ出発だ。新姿見橋を渡って下り、道しるべ地蔵、岡神社から勝間田宿を抜けて勝間田駅に向った。ちょうど16時21分発の津山行きに間に合った。勝間田宿は次回ゆっくり歩くことにする。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_4056 門尻橋下の河原

勤皇志士の元の埋葬地。埋葬というより投げ捨てられたのだろう。後に四つ塚に改葬された。

Img_4057土居の一里塚跡(正面の木の所)

Img_4058 説明板

Img_4059 南塚跡の石柱

Img_4060 供養塔

国道179号の道脇

Img_4065 山城橋(前方右)を渡って杉坂峠へ向う。

Img_4079恵美坂を下る。 【ルート地図】の①

Img_4091 杉坂峠へ

県道365号だが車はあまり通っていない。この道は中国自然歩道のルートになっている。

Img_4092 道標

「是より播州? 右山みち」 後ろに「宝暦十一年」(1761)とある。

Img_4097 後醍醐天皇御口漱の泉

隠岐へ配流の途中、ここで泉の水を飲んだという伝承の地。標柱の文字は消えかかっている。

Img_4100 右が中国自動車道の杉坂トンネル

Img_4103 杉坂

峠が近くなり少し傾斜を増す。

Img_4107 杉坂峠(国道365号)

兵庫県佐用町へと下る

Img_4123 標柱から少し上る。

Img_4125 「佐用郡八景一等」の石柱

今は峠からの眺望はない。

Img_4114 杉坂峠・杉坂関所跡 【ルート地図】の②

元弘3年(1333)隠岐に流される後醍醐天皇を奪還しようと児島高徳がここで挙兵したが、すでに天皇一行は院庄(津山)付近まで行っていて失敗。これ以前の船坂山でも護送のルート読み違いで失敗。こんなヘマばかりをやらかした男だが、戦前は忠臣、国民的英雄として、尋常小学唱歌にも♪「児島高徳」♪として歌われた。

Img_4113 説明板

Img_4144 仁の坂(坂下方向) 《地図

山城大橋、国道179号へ下る県道86号

Img_4161 「杉坂史蹟→」の標識がかかるこの交差点に、元禄2年の道標があるはずだが見当たらず。どこかに移設されたのか。元禄の頃にはもう万ノ乢越えの道が開かれていたのに杉坂峠への道標が設置(もとは旧道沿いにあった。)されたということは、依然として杉坂峠を越える古い出雲街道も通行量の多い、重要な道だったのだろう。

Img_4169 旧道

手前は行き止まり。

Img_4173 緩やかに上って行く。

Img_4177 直進するのが旧道だったのだろう。

正面に供養碑と小堂が立つ。

Img_4179 直進するとすぐに行き止まりになる。

右上の石柱は何か?

Img_4180 道標か供養塔か? 読めず。

Img_4183 振り返るとのどかな風景が広がっている。

Img_4178 六十六部回国供養碑

安永2年(1773)に半四郎夫婦が建立。

Img_4187 後ろの小堂の地蔵さん

「遍照」と書かれた板が掛かっているから弘法大師像かも。

Img_4191 城近坂となって下って行く。「じょうきん」か「しろちか」どっちだ? 《地図

城とはどこなのか?

Img_4193 坂下で国道179号に出る。

坂下近くの左側に新しい道標が立つ。

Img_4199 道標

Img_4198 右 警固屋坂

Img_4201 警固屋坂 【ルート地図】の③

城近坂の坂下から国道179号に出て、すぐに左へ上る坂。

Img_4202 坂上方向

竹田村の八幡を京八幡より警固してきた者の子孫が石切となってここに住まった故に警固屋坂というようになった。

京八幡とはどこなのか、いつの頃の話なのか? この坂はけっこうな急坂だ。

Img_4207 北向き地蔵堂

Img_4209 江見大宝稲荷大社への急坂

Img_4216 江見大宝稲荷大社

馬場山公園の中にある。大社にしては小さな造りだ。

Img_4239 江見の町

Img_4232 六地蔵前の坂

ここを上ったら墓地を抜けまた江見稲荷に出てしまった。

Img_4235 六地蔵

まだ新しそうに見えた。

Img_4243 江見の町並み

平安時代に江見庄の中心となり、江戸時代中期には幕府の直轄地となった。

Img_4245家並み

Img_4250 大還橋から吉野川

向う岸にも立派な屋根が並ぶ。

Img_4253 姫新線踏切を渡る。

江見駅の近く

Img_4255 今在家の集落を抜ける。

このあたりの民家にお茶堂、一貫清水があるという。暑さと疲れで探すのも、聞くのも億劫になり通り過ぎてしまった。

Img_4266 何の祠か

ここで小休止

Img_4267 老人ホームの脇を上って行く。

Img_4272 中国自動車道の方へ

Img_4275 中国自動車に沿って進む

Img_4281 自動車道をくぐって

Img_4286 道標「峠の地蔵堂」

楢原は宿ではなかったのでは。

Img_4288 峠の地蔵堂(左)・上人塚(右) 【ルート地図】の④

Img_4289 地蔵

行基が西国行脚の時、出雲街道峠村日の平に自作の地蔵尊を建立(現在の宝聚山仏法寺の奥の院)したといわれる。仏法寺は美作江見駅の近くにある。ここが奥の院なのか。ちょっと見すぼらしいが。この地蔵が行基の自作の物ならここには置かないだろう。自作と伝える物でも。

Img_4290 空念上人塚の上の宝筐印塔

貞治元年(1362)に入定した仏法寺住職の空念上人は穴を掘り、その底で念仏三昧に入った。その塚の上に建てられた宝筐印塔。中国自動車道の工事でここに移設された。

Img_4296 大曲りのところの民家

Img_4297 大曲りの大師堂

Img_4300 大師

Img_4301反対側は楢原パーキングエリア

Img_4307 舗装された道になり楢原へ

Img_4310 道祖神、供養碑などが立つ辻

Img_4313 神宿郷の円柱と道祖神

Img_4316 「出雲街道 楢原宿 人舛跡」の石柱

人舛とは何なのか?

Img_4319 楢原(宿)の家並み

Img_4320

Img_4324 中国自動車道の北側に沿って進む。

Img_4331 火之神社(正面)

Img_4332 火之神社

神体は大石というが、あっただろうか?

Img_4337 笠懸けの森 【ルート地図】の⑤

ここも後醍醐天皇ゆかりの地。笠懸とは流鏑馬みたいなもの。

Img_4342 由来

Img_4340 説明板

Img_4339 石碑や石造物がいくつも立つ。

Img_4348 笠懸橋を渡った所から笠懸の森

昔は渡し舟があり、今も「渡里」という地名が残る。

Img_4352 豊田神社

Img_4362おかやまファーマーズマーケット・ノースヴィレッジ

Img_4364 地ビールとソーセージで1050円だったか。ビールはあまり冷えてなく、ちと高いが暑さでバテ気味の体には恰好の栄養補給となった。

Img_4370_2 新姿見橋を渡り勝間田宿の方へ下る。

一本手前の道に姿見橋のあった(ある)のか? 石碑と説明板が設置されているようだが。出雲街道は姿見橋から轟池へ続いていたのだろう。

Img_4382 道しるべ地蔵(荒手地蔵) 《地図

轟池の傍らにあった6体(3体?)の地蔵の中で唯一残っている地蔵。くらしき道(林野)とかみや(上相)への道標にもなっていた。地蔵の後背に「右くらしき道 左かみ??道」とあるようだ。轟池は1970年代に埋立てられた。姿見橋、轟池も後醍醐天皇のゆかりの地。

Img_4383 由来

分かりづらい文章だ。

Img_4374 岡神社

王子大権現から文明12年(1480)惣社岡神社となったという。

Img_4375 由来

Img_4377 馬頭観音堂

岡神社の隣り

Img_4378 馬頭観音と石仏

Img_4387 小祠の石仏

岡神社から下った所。

Img_4403 勝間田駅

電車の時刻と、いい加減に疲れたので勝間田宿の散策は次回とした。

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2009年7月 1日 (水)

出雲街道④(佐用宿→土居宿)

2009年6月17日

姫路駅(姫新線)→佐用駅・・・旧道・・・(姫新線)・(佐用川)・・・国道179号・・・ふれあいの里上月・(上月駅)・・・金屋橋(幕山川)・・・(姫新線)・・・判官橋(大日山川)・・・万能峠(兵庫、岡山県境)・・・万の台団地・八咫鏡発掘の地)・・・(姫新線)・・・出合川・・・土居小学校(土居廃寺跡)・四つ塚・・・旧道・・・(姫新線)・・・梅香塚・・・万ノ乢(旧万能峠・播磨国と美作国の境)・・・土居宿・・・美作土居駅(姫新線)→津山駅

 佐用から早瀬、上月と国道179号を進む。判官橋を過ぎたあたりから上りとなって大きなカーブを繰り返しての万能峠へ着く。車の通行も少なく、思っていたほどの高さでもない。今日も晴天で暑い。旧道の万ノ乢(たわ)から移された地蔵さんの前へ座り込んで小休止。日影で涼しく、後は土居宿まで下って行くだけなので気が楽だ。

 慶長9年(1604)に津山藩主の森忠政が万ノ乢越えに変更するまでは出雲街道は万ノ乢の北の杉坂峠を越えて美作国へ入っていた。後鳥羽上皇、後醍醐天皇が隠岐へ流された時も杉坂峠を越えたのだ。ちょうど佐用からの県道365号、中国自動車道のルート沿いに上福原、江見に通じていたのだろう。時代によりいくつもの改変はあるが、①杉坂峠(古出雲街道)→②万ノ乢(旧出雲街道)→③万能峠(国道179号)で、北から①③②の順に並んでいる。高さは③→①→②だろう。美作側から万ノ乢までは距離も短く、さほど高さも感じられない。播磨側から万ノ乢までの道が荒廃して、途切れてしまっているのはなんとも残念だ。

 万能峠から下る途中、迷いながら何だか妖しげな「八咫鏡発掘の地」に寄ってみる。このあたりの傾斜地は宅地に開発され何本も新しい道が造られているが住宅はまばらで、あまりなじめない所だ。国道179号に戻ってしばらく下り、国道から離れ土居宿へ下る。土居小学校の前には大きな「土居宿の案内図」が掛かっていて頭に叩き込もうとするが、この縮み上がった脳細胞では無理というものだ。だがありがたいことに、四つ塚の所で街道歩きの自分を見つけ自転車で追いかけて来たおじさんから『出雲街道土居宿マップ』(それも2枚)を頂く。大きな分かりやすい地図で、裏面の『作東町内出雲街道マップ』には「警固役坂」があるではないか。坂道散歩としては嬉しい限りで、明日の楽しみが一つ増えた。

 草の露に足元を濡らしながら旧道を万ノ乢まで上って引き返し、土居宿を散策する。晴れて明るい昼下がりの町中は閑散としてひっそりと静まりかえっている。リュックを背負い、カメラと地図を持ってキョロキョロと町並みを行く自分は全く別世界からやって来た人間のように思えてきた。今日の予定は土居宿の西惣門までで、美作土居駅のそばだ。姫路からはだいぶ離れたので今日と明日は津山に泊まる。まだ電車の時刻まで1時間近くある。姫新線の線路を跨ぎ墓地の間を福城跡に上り始めたが、暑いのとすぐに急坂となり止めにして、墓地の日影で寝転んで休憩にした。明日はここから江見に向かい、途中から古出雲街道の杉坂峠へ行く予定だ。江見から楢原に抜ける道筋にも自信がなくちょっと不安でもあるが天気も良さそうだしなんとかなるだろう。

 美作土居駅から津山駅までは40分ほどだ。ホテルから晩飯(晩酌か)を食いに出かけたが駅前の商店街や今津屋橋を渡った「ごんご通り」もシャッターを降ろした店が多く、「売り店舗」の貼り紙の建物もある。時間のせいなのだろうか、昼間は賑やかなのだろうか。薄暗い通りは物寂しい。まあ昨今どちらにもある商店街風景ではあるが。幸い、いい食堂を見つけた。今日と明日、そして次回の出雲街道歩きも津山を基点とする日が何日か続く。この食堂とはしばらく付き合うことになりそうだ。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_3852 智頭急行電鉄

上郡行きの普通電車

Img_3863 佐用川沿いに旧道を進む。

Img_3864 小橋を渡って国道179号へ

Img_3865 壱本松旅館

このあたりに一本松の一里塚があるはずだが見当たらず。

Img_3867 何のモニュメントか

このあたりは早瀬地区

Img_3870 いい感じの坂が右方向に上っている。

Img_3871坂名はあるのか?

Img_3877 ふれあいの里上月 【ルート地図】の①

上月駅そば

Img_3880 上月体育館

Img_3883 金屋橋(幕山川)

Img_3887 車も少なくなる。

Img_3890 姫新線の踏切を渡る。

Img_3898 国道から離れ立派な家並みの道に入る。

Img_3899 雑草に覆われた小堂

Img_3902 集落の中を行く

このあたりは越田和というようだ。

Img_3905 国道179号に出ると田んぼの向うに鳥居が。

Img_3906 大避神社

この先で判官橋を渡る。地名も判官だ。判官とは誰のことなのか?

Img_3923 万能峠への上り

Img_3927 万能峠 【ルート地図】の②

左の地蔵堂は旧道の万ノ乢(たわ)にあったものがここに移された。

Img_3928 地蔵さん

Img_3929 峠から下って美作国(岡山県美作市)の土居宿へ

Img_3934 途中にこんな看板が

行ってみることにする。

Img_3939八咫の鏡発掘の地

皇位の正当性を象徴する三種の神器(鏡・剣・玉)の一つ。ここから万ノ乢は近いが道は通じていない。

Img_3937 由来

回りくどい、責任逃れの文章だ。安徳天皇と後南朝とはどういう繋がりがあるのか。赤間神宮の宝物の中にこの鏡の記載はない。もしも本物であれば一番目に記載されるはずだ。「安置」されずに倉庫の片隅にでも眠っているのだろうか。

Img_3938 これが発掘された八咫の鏡(模型)の裏面

現品は安徳天皇を祀る山口県の赤間神宮に奉献し、安置されているというが・・・。

Img_3944 土居宿には国道179号と分かれ直進する。

Img_3950土居宿へ下る坂

Img_3955 土居小学校(左)は白鳳期の土居廃寺跡

Img_3959 案内図(左半分)

今はこのような宿場の家並みの面影はない。

Img_3958右半分

Img_3960 四つ塚(左奥)・安東鉄馬の碑(右) 【ルート地図】の④

活動資金集めを強盗と間違われ、自刃した4人の間抜な勤皇志士の墓。安東鉄馬は幕末の地元の勤皇志士。4人もいて何故きちんと説明できなかったのか。きっと強盗まがいのことをやったのだろう。

Img_3964 由来

Img_3968 四つ塚の向うを姫新線が通る。

佐用行きだろう。

Img_3999 万ノ乢(旧出雲街道)への途中から土居宿方向を振り返る。

Img_3977 姫新線の踏切を渡り、万ノ乢へ上る。

峠からの播磨の方への道は荒れて途切れているので、この道もあまり通られていないようだ。下草が生い茂り、水滴で靴の中まで濡れてしまった。峠から引き返すだけの道だと、ここも荒れてきて廃道になってしまうのでは。なんとか播磨側の道も整備して出雲街道を復活させたいものだが、まあヤル気も金もないだろう。

Img_3979 右に梅香塚

Img_3982 梅香塚

寛政5年(1793)建立の芭蕉の歌碑

「むめ(梅)が香にのっと日の出る山路かな」

Img_3981 説明板

Img_3985 峠は近い

Img_3987 萬ノ乢(タワ) 【ルート地図】の③

標高は万能峠より低い。この地方には「一の乢」・「出雲乢」・「杉が乢」・「嵐が乢」と乢が多い。秩父の武甲山近くにも「タワ尾根」、「ウノタワ」があるが、漢字は使われていない。「たわ(撓)んでいる所」と思っていた。

Img_3990 念仏供養碑

宝暦14年(1764)建立

Img_3989 播磨国側へ下りてみる。

Img_3993 雑草で覆われてこの先、道は不分明。

Img_4001 土居宿東惣門跡あたり(佐用宿から土居宿まで3里)

万ノ乢を越えて東惣門から土居宿へと入った。

Img_4004 脇本陣(亀井屋)あと

Img_4009 土居宿の家並み 【ルート地図】の⑤

Img_4012 御旅所

土居子安八幡神社の大鳥居があった所

Img_4014宿場町資料館標識

Img_4013 上の案内標示があるが、「老人共同作業所」になっている。

Img_4028 本陣跡

今は普通の民家になっている。

Img_4022 本典寺(左)・幸福寺薬師堂(右)

本典寺には寺子屋が開かれた。

Img_4020 役所稲荷

土居代官所跡

Img_4041 福城跡

正面山頂

Img_4040 説明板

Img_4025 旅館泉屋跡

ここで勤皇志士の一人、千屋金策がここで自決した。ここまで金策に来て強盗に間違われ自決とは。シャレにもならない。

Img_4026 泉屋後の建物

Img_4024 人馬問屋跡

Img_4031 西惣門へ向う

東惣門から西惣門までは720mほど。

Img_4033 西惣門(復元)

向こう側に「四つ塚志士顕彰碑」

Img_4034 説明板

Img_4047西惣門から出雲街道土居宿の家並み

むろん門は出雲街道上にあった。

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