« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »

2009年8月31日 (月)

白河市(福島県)の坂

2009年8月20日

Img_7563 白河駅(東北本線)・・・敷教舎跡・・・白河宿本陣跡・・・県道11号(御斎所街道)・・・龍蔵寺・・・鹿島神社・・・宗祇戻し・・・谷津田橋(谷津田川)・・・感忠銘碑・(白川城跡)・・・搦目(からめ)橋・善知烏(うとう)坂跡・・・谷津田川遊歩道・・・八竜神橋・・・県道76号(南湖公園線)・・・合戦(こうせん)坂・・・県道76号・・・南湖公園・・・棚倉街道・・・花見坂・・・白河第一小学校・・・友月山公園・・・新橋(谷津田川)・・・玄仙小路・・・(白河駅)・・・小峰城跡公園・・・白川駅

 郡山に一泊して白河に戻り、半日、市内の坂道散歩をする。白河駅から旧奥州街道を進み、そのまま直進して県道11号に入る。この通りにも古い商家が残っている。宗祇戻しの碑などが立つ辻を過ぎ、谷津田橋を渡ると右上の崖に感忠銘碑が刻まれている。このあたりになると人家はまばらで歩道もなく、車がスピードを上げて往来しているので歩きにくい。

 搦目橋あたりから上っているはずの善知烏坂は雑草に覆われ行き止まりの道になっている。地図にはしっかりと道筋が載っているのだが。谷津田橋まで戻り、川沿いの遊歩道を八竜神橋まで行き、県道76号を少し上ると道標が立つ辻から南へ合戦坂の長い上り坂となり、坂上から引目橋へと下って行く。この坂を往復したが、坂の由来話に出てくる味方不動、味方不動清水を見つけられなかった。今はもうないのかも。2つの坂であてがはずれ少々がっかり。

 県道76号を上り南湖公園を半周して、棚倉街道に入るとすぐに右へ花見坂が上っている。坂上を進むと白河第一小学校で、ここから下る坂がなかなかいい(上の写真) 名前はついていないようだが。下って友月山公園から新橋を渡り、再び奥州街道に出て、玄仙小路を通り白河駅脇のガードをくぐって小峰城跡を見学。下の広場で小休止して、白河駅から鈍行を乗り継ぎ帰路についた。

  【ルート地図

 写真をクリックすると拡大します。

Img_7444 敷教舎跡(本陣跡の手前)

寛政11年(1799)に松平定信が建てた庶民の学校、「郷学所」

Img_7443 説明板

Img_7446 白河宿本陣跡 《地図

Img_7445 説明板

Img_7454 龍蔵寺参道

Img_7453 いぼなし鐘

普通の鐘の上部にある、いぼのような突起「乳」がなく、梵字が記されている。郡山市の如宝寺にもあった。

Img_7452 説明板

Img_7455 年貢町会館 

Img_7459 上の片野屋

老舗の呉服店。店舗は昭和30年代に建てられた比較的新しいものだが、白壁、瓦が古さを感じさせる。

Img_7463 油屋須釜醸造

味噌、醤油を醸造している店

Img_7470 宗祇戻しの碑(説明板の左)・芭蕉句碑(説明板の右)・道標・石地蔵が並ぶ分岐点 【ルート地図】の① 

「宗祇戻し」と同じような話が秩父の「西行戻しの坂」にある。「秩父巡礼道-1」に記載。

Img_7466_2「宗祇戻し」の由来話①(説明板)

由来話②:「おくの細道」の旅で芭蕉に随行した曾良の旅日記には、「宗祇もどし橋 白河の町の右、かしま行道、ゑた町有。其きわに成程かすか成橋也。むかし、結城殿数代、白河を知玉ふ時、一家衆寄合、かしまにて連歌有時、難句有之。いずれも三日付る事不成。宗祇旅行の宿にて被聞之て、其所へ被趣時。四十計の女出向、宗祇に「いか成事にて、いづ方へ」と問。右の由しかじか。女「それは先に付侍りし」と答て失せぬ。「月日の下に 独りこそすめ  (付句) かきおくる 文のをくには 名をとめて」 と申ければ、宗祇かんじられてもどられけりと云伝。と言うものだが、①の方が分かりやすく面白い。 

Img_7483 感忠銘碑 《地図

南朝方の結城宗広、親光親子の忠烈を伝える碑。碑文が刻まれた断崖の下にも説明板があるようだが、ここから先は崩落の危険があるためか立ち入り禁止。

Img_7481 碑文

Img_7501 白川城(搦目城)跡(感忠銘碑の上部の搦目山)

南朝方の結城氏の拠点

Img_7480説明板

Img_7490 善知烏坂跡(右に上る坂だった?)【ルート地図】の②(地図には2つの道筋があるのだが、雑草に覆われて廃道のようだったが)

台地からに水鳥の善知烏の口ばしのように川の出崎に伸びていた坂だったのだろう。各地にある「うとう坂」の一つ。「烏頭坂」・「鵜頭坂」・「有藤坂」・「宇都布坂」、「うとう」から転訛した「宇土坂」・「歌坂」・「謡坂」・「御塔坂」・「おと(音)坂」など数多い。ここの坂上あたりの字名も「謡坂深沢」という。

滝沢馬琴は、「陸奥の方言に、海浜の出崎を、うとふという」とし、言語学者の新村出は、「ウトウはアイヌ語で「突起」を意味する語であり、この鳥の嘴が突き出ているので「ウトウ」と呼ぶようになった」とする。青森県には善知烏神社がある。『うとう坂表

Img_7488 これ以上は前に進めず。

Img_7489 前方の搦目橋へと下っていた坂なのだろう。

Img_7493 搦目橋のたもとから

Img_7496 近くに馬頭観音などが集められている。

Img_7497 「・・・・・跡」とある。

Img_7506 谷津田川(谷津田橋)の下

左に魚道が作られいる。

Img_7504説明板

Img_7509 谷津田川沿いに遊歩道を八竜神橋に向う。

Img_7519 合戦坂下

Img_7521 合戦(こうせん)坂(坂上方向) 市営斎場の東側を南東に上り、引目橋へと下る坂。 【ルート地図】の③

「天正7年(1579)5月17日に侵攻してきた常陸の佐竹義重軍をこの坂を通って迎え撃った白河の結城義親勢は、激戦の末に劣勢となり引目橋まで退いた。この時、白河軍の背後から14、5歳の少年二人が躍り出て、獅子奮迅の活躍で佐竹軍を蹴散らした。少年たちは不動明王の使徒の、矜迦羅童子(こんがらどうじ)と制咤迦童子(せいたかどうじ)と名乗り姿を消した。以来、この坂は「合戦坂」と呼ばれ、路傍に「味方不動」が祀られ、そこに湧く「味方不動清水」は、今も絶えずに残っている」と言うが、味方不動、味方不動清水は探しても見当たらず。 『みちのく怪道風まかせ』に味方不動の写真が載っている。いつ頃撮った写真だろうか。

右に「戊辰戦死之碑」が立つが、むろんこの「合戦」とは関係がない。

Img_7523 戊辰戦死之碑

Img_7522_2説明板

Img_7525 坂下方向(左は白河斎場)

右の民家の傍らに味方不動、味方不動清水がある(あった)らしい。

Img_7526 坂上方向

Img_7531 坂上から引目橋へと下って行く。

ここの地名は「合戦坂」

Img_7543 南湖公園

享和元年(1801)、白河藩主松平定信によって造られたわが国最古の「公園」だそうだ。

Img_7547南湖

Img_7552 蛇も散歩中か。かなり長い蛇で薄いきれいな色をしていた。生きているように見えたが。

Img_7556 花見坂(坂上方向) 棚倉街道から右に入り、北西に上る坂。 【ルート地図】の④

Img_7557 坂上近く

桜の木か

Img_7567 蕎麦屋の大福家

Img_7592 玄仙小路の旧家

Img_7593標柱

Img_7575 小峰城(白河城)跡(前御門から三重櫓) 【ルート地図】の⑤

南北朝の興国元年(1340)に結城親朝が小峰ケ岡に築いたのがはじまり。

Img_7574 説明碑

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月29日 (土)

奥州街道(郡山宿→二本松宿)

2009年8月19日

郡山駅(JR東北本線)・・・県道355号・・・会津街道(安積街道)分岐・・・阿邪詞根(あさかね)神社・・・安積橋(逢瀬川)・・・(磐越西線)・・・日吉神社・・・阿弥陀寺・・・豊景神社・・・福原宿・一里坦跡・・・宝沢沼・水神社・・・普賢坂・・・牛ケ池碑・・・旧道・・・川坂・・・(藤田川)・(東北本線)・・・県道355号・日和田宿・・・八幡神社・・・蛇骨地蔵堂・・・安積山公園・・・姉ケ茶屋跡・・・(磐越自動車道)・高倉宿・・・にごり池・・・山清寺・・・鹿島神社・・・五百川橋(五百川)・・・愛宕神社・・・瀬戸川(山田橋)・・・積達騒動鎮定碑・・・本宮宿・会津街道分岐・観音堂・薬師堂・・・南の本陣通り・・・本宮橋(安達太良川)・・・北の本陣通り・・・安達太良神社・・・百日川・・・薬師堂・薬師坂・温石(おんじゃく)坂跡・・・県道355号・・・杉田宿・・・八幡神社・・・(東北本線)・・・(国道4号)・七夜坂跡・・・県道355号・・・羽石川・・・旧道・・・木登り地蔵・・・眼鏡橋(羽石川)・・・(国道459号)・・・大壇坂・・・二本松宿・・・四ツ谷橋(六角川)・・貴船神社・・・大隣寺・・・若宮八幡神社・香泉寺・・・二本松神社・・・二本松駅(JR東北本線)

 郡山宿、福原宿を抜け宝沢沼の脇を通り、所々に松並木跡が残る普賢坂を上って下る。旧道の川坂を下り、日和田宿に入る。朝の通勤時間帯で車の通行が多く、歩道のついていない県道は歩きづらい。伝説の蛇骨地蔵堂から人影のない安積山公園に上る。下って道を間違える。随分気をつけてはいたのだが。小雨がぽつぽつと降り出し、県道でも道幅が狭い所があって車道歩きはつらく疲れる。

 会津街道が南西に分かれる賑やかな本宮宿で小休止する。百日川を渡ると上りとなって静かな小高い所に薬師堂が立っている。ここから長い薬師坂の下りとなって杉田宿へと下って行く。七夜坂は国道・県道によって胴体をちょん切られた蛇のように、無惨な変わり果てた姿をさらしている。坂の途中から上の方も廃道で、哀れにも頭もつぶされてしまっている。

 県道に戻り羽石川を渡ると、頭上に国道459号が通る大壇坂の緩やかな上りとなる。ここは戊辰戦争で西軍と二本松少年隊の間で戦いがあった所だが、文字通り大人(西軍)と子どもの戦いで相手にはならなかったという。少年隊の連中は、武士として出陣できる喜びに意気揚々と、まるで遠足にでも行くかのようにはしゃいで参戦して命を落としたというから哀れな馬鹿げた話だ。今も二本松市の観光は少年隊一色のようで好きになれない。

 今回の奥州街道歩きもこれで終わる。予定では本宮宿あたりまでと思っていたが、8月の半ばのわりには涼しくここまで歩けた。

  【ルート地図

  奥州街道二本松宿→福島城下』へ続く。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_7109 道標の立つ辻 《地図

会津街道(左)・奥州街道(右)分岐

Img_7110 道標

「従是三春道」・「右奥州街道 左会津街道」

Img_7111 説明板

Img_7113 阿邪詞根(あさかね)神社

寛治3年(1089)に死んだ源義家の副将軍の平忠通が祀られている。

Img_7115 曼荼羅の碑

梵字などを配置した曼荼羅が刻まれている。

左下に「石造浮彫阿弥陀三尊塔婆」が置かれている。

Img_7114 説明板

Img_7119 石造浮彫阿弥陀三尊塔婆

中央に釈迦如来、左右に観音と勢至菩薩が膝をかがめて供養しているような姿。「福原石」呼ばれ親しまれている。鎌倉時代末期の作という。

Img_7118 説明板

Img_7124 旧家

Img_7125 旧家

Img_7137 日吉神社

Img_7139 伊達政宗を救い、戦死した「伊東肥前の碑」(日吉神社境内)

伊達藩では参勤交代の時には必ずここに香花を手向けたという。俗に「仙台仏」というそうだ。

Img_7138 説明板

Img_7134 石造塔婆(日吉神社境内)

正安3年(1301)のもの1基、文保2年(1318)のもの1基を含む16基の塔婆がここに集められた。

Img_7133 説明板

Img_7142 福原宿の「下宿(しもじゅく)」ではなく、アパートなどの下宿(げしゅく)だろうが、右奥の郵便局の手前に「福原宿一里坦跡」の石柱が立っているのでいい道標となっているか。

Img_7143 福原宿「史蹟 一里坦址」

Img_7151 豊景神社

後三年の役で源義家に従軍し、右目を射られながら奮戦した鎌倉権五郎景政が祭神の一人。鎌倉の権五郎神社(御霊神社)を思い出した。

「出雲流」の「福原の太々神楽」が伝承されている。

Img_7147 由緒

Img_7149 太々神楽説明板

Img_7158 宝沢沼 《地図

灌漑用につくられた人工池

Img_7162 説明板

Img_7163 水神宮(宝沢池のほとり)

Img_7166 普賢坂(坂上方向) 北西に上る坂。【ルート地図】の①

近くに普賢菩薩を祀る寺、お堂があるのか、あったのか?

Img_7173 坂上から下りとなる。

松並木が一部残る。

Img_7176 牛ケ池の碑

向こう側に池はあるのか。

Img_7179 川坂の坂上 

松並木跡、塚らしき跡が残っている。

Img_7180 地蔵、馬頭観音などが立つ。

Img_7184 川坂(坂下方向) 北東に下る坂。《地図

川は藤田川だろう。

Img_7185 藤田川、東北本線を越えて日和田宿へ

Img_7193 日和田宿

Img_7203蛇骨地蔵堂 【ルート地図】の②

大蛇の人身御供になる佐世姫の「由来話」は、各地に残る『佐世(佐用・小夜)姫伝説』の一つ。『松浦の小夜姫』が本家か? 唐津街道の唐津城下には、佐用姫橋・佐用姫岩がある。

蛇骨で彫った地蔵像が安置されているというが。

Img_7198 佐世姫と人見御供にされた32人の娘達を供養する三十三観音(地蔵堂の裏)

西国三十三観音霊場の仏になっている。

Img_7200 右から 三十一番長命寺・三十二番観音寺(観音正寺)・三十三番谷汲寺(谷汲山華厳寺)

Img_7205 説明板

伝説は書いていない。

Img_7196 傘松(蛇骨地蔵堂の隣り)

Img_7204 説明板

Img_7212 安積山公園入口 《地図

安積山(あさかやま)は古来の歌枕で、采女伝説の地・芭蕉が「花かつみ」を探し訪ねた所。

Img_7215 芭蕉が尋ね歩いた「花かつみ」を「ヒメシャガ」としている。

Img_7218 姉ケ茶屋跡

あん餅、きな粉餅などを出した茶屋があったという。この地で明治天皇が休憩した記念碑が立つ。むろん茶屋はもうなかった。

Img_7217説明板

Img_7222 松並木が残る街道

Img_7230 にごり(濁り)池 《地図

確かに濁っている。

Img_7246 愛宕神社 《地図

Img_7255 積達騒動鎮定碑

無血一揆の記念碑

Img_7254 説明板

Img_7267 観音堂(会津街道分岐の所) 《地図

Img_7260 日本各地いたる所にさまざまな「札所」あり。「人も歩けば札所にあたる」だ。

Img_7263 太郎丸観音堂供養塔(観音堂境内)

太郎丸(地名)からここに移した、鎌倉時代の「浮彫阿弥陀三尊来迎塔婆」

Img_7262 説明板

Img_7268 薬師堂(観音堂の北側)

Img_7270 戊辰戦役殉難者の碑(薬師堂境内)

本宮宿では戊辰戦争の激しい攻防戦がくりひろげられた。

Img_7269 説明板

Img_7273 阿武隈川

薬師堂の裏から

Img_7272 うまく詠むものだ。

Img_7278本宮橋から

安達太良川(手前)が阿武隈川に注ぐ地点

Img_7282 本陣鴫原家の土蔵(本宮宿北宿) 《地図

全身こってりのなまこ壁がなんともはや・・・。

Img_7285 安達太良神社 【ルート地図】の③

Img_7287 安達郡の総鎮守

Img_7310 薬師の霊泉(薬師堂の石段下) 

「薬師の湯」の源泉から引水された水場。

Img_7311 由来

「南杉田温石沢」と「薬師坂」が載る。

Img_7312 薬師堂への石段

Img_7315 薬師堂

堂前にはなぜか狛獅子が守っている。

Img_7321 薬師坂 薬師堂(右)前を北に下る旧道。《地図

Img_7322 坂下方向

Img_7333 県道355号に合流して下って行く。

Img_7325 温石(おんじゃく)坂跡 薬師坂のガードレール下の電柱の所を通っている道らしいが、今は畑の中の農作業用の道で一般道ではない。

Img_7329 道筋らしき踏み跡があるが。

Img_7334 八幡神社(杉田宿の入口近く) 《地図

Img_7336 八幡神社

Img_7340 杉田宿

Img_7341 旧家

Img_7348 七夜坂跡(坂下から)

Img_7351 ガードをくぐる。

Img_7352 上って行くが

Img_7354

国道4号に阻まれる。

七夜坂は正面の二階建ての家の右へと続いていたのだ。

Img_7358 迂回して国道4号をくぐって七夜坂を追いかける。 

Img_7370坂下方向を振り返る。正面の自動車の方へ坂は続いていたのだ。

Img_7371 直進して北西方向に上るのが七夜坂。この先の左側に由来の説明板と歌碑が立つ。 【ルート地図】の④

Img_7360 由来板と歌碑が取り残され、忘れ去られそうに立っている。

今は美しい少女と雄々しい少年の逢瀬の桜は残らず、道も雑草に覆われた廃道となり、歌碑も由来板も風雨にさらされたままになっている。消え去り行くものの哀れの美を感じる所だ。と言いたいところだが由来板を読む間に藪蚊に刺され参った。

Img_7363 由来

Img_7359 歌碑(文政9年建立、昭和2年再建)

「七夜桜 はるばるここに北杉田 やがて都へ 帰る身なれば」 平安時代初期の藤原実方朝臣の作。

藤原実方は『源氏物語』の光源氏のモデルの一人ともいわれ、清少納言にもちょっかいを出したというプレイボーイの貴公子。一条天皇の前での口論、無作法な振る舞いで、陸奥守に左遷された。赴任中に歌枕の「阿古耶の松」を見に行った帰途、名取の笠島道祖神社前を下馬せずに通ろうとして神罰を受け、落馬して馬に蹴られて死んじまったという哀れでみっともないお兄ちゃん。歌の「やがて都へ 帰る身なれば」は、はかない夢と終わった。死後は怨念により雀に転生し殿上に入り、つまみ食いしたとの逸話も残る。「みじめ、みじめ~」だ。

Img_7365この先は雑草に覆われ道は途絶える。

Img_7382 木登り地蔵

堂の後ろか右の木の上に地蔵さんがいるというが、いくら目を凝らしても見えず。

厄除け、子守り地蔵尊としてご利益があり会津、仙台、塩釜方面からも人々が参拝、寄進に訪れたそうな。

Img_7391 眼鏡橋を渡り、大壇坂への上りとなる。

Img_7394 馬頭観音の手前で左に入るのが旧道の大壇坂で、今は階段になっている。

Img_7395 馬頭観音(左は文化11年(1814)の建立)

大壇口では戊辰戦争の際に西軍との激しい戦があった。二本松少年隊も出陣したがあえなく惨敗した。

Img_7397 大壇坂(坂上方向) 北東に上って下る坂。【ルート地図】の⑤

Img_7398 民家の脇を通る。ここが坂上あたり。

Img_7401 下りとなって二本松市街地へ。

Img_7419大隣寺

二本松藩主、丹羽家の歴代の菩提寺

Img_7415 説明板

Img_7418 二本松少年隊の墓(大隣寺境内) 《地図

14名の少年隊士と隊長、副隊長の墓が並ぶ。

Img_7417 説明板

Img_7420二本松観光センター二本松少年隊

ひさしの上に少年隊士の人形が乗っている。藩主丹羽長国はお先にさっさと米沢へ逃亡した。西軍(官軍)と戦い犬死、無駄死させられた少年達を英雄、英霊扱いにして観光の目玉とし、商売、食い物にするのはどこでも、いつでも。懲りない大人達だ。

Img_7427 若宮八幡神社

Img_7430 香泉寺

阿弥陀の銅像は天明2年(1782)の建立。

Img_7429 説明板

暑い中をけっこうな距離を歩きバテてきた。霞ケ城公園二本松城址)はパスして街道に戻り、二本松駅に向かった。

Img_7436 二本松神社

秋の例大祭の「二本松提灯祭り」は「日本三大提灯祭り」の一つ。あとの二つは秋田の竿燈と、尾張津島の天王祭(愛知県津島市の津島神社)だそうだ。

Img_7435 由緒

Img_7438拝殿

Img_7441 玉嶋屋

みやげに羊羹を買う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月27日 (木)

奥州街道(笠石宿→郡山宿)

2009年8月18日

鏡石駅(JR東北本線)・・・西光寺・・・国道4号・・・旧道・須賀川一里塚・・・(東北本線)・・・須賀川宿・・・千日堂・・・南の黒門坂・・・大町よってけ広場・・・軒の栗庭園・・・軒の栗可伸庵跡・・・芭蕉記念館・・・十念寺・八天宮・・・二階堂神社(須賀川城址)・・・神炊館(おたきや)神社・・・弘法壇坂・・・千用寺・・・普應寺・・・北町坂・・・岩瀬の渡し坂・・・雷神社・・・中宿橋(釈迦堂川)・・・鎌足神社・岩瀬の森(跡)・・・上人坦橋(東北本線)・・・宝来寺・・・白石坂・森宿一里塚跡・・・筑後塚供養塔・・・県道355号・・・滑川橋(滑川)・・・子安観音堂・・・(東北本線)・・・(水郡線)・・・(東北新幹線)・・・笹川宿・八雲神社・・・蛍橋(荒川)・・・熊野神社・・・東舘稲荷神社・・・耳語(ささやき)橋(笹原川)・・・日出山宿・・・日出山神社・・・小原田(こはらだ)宿・・・香久山神社・・・(東北本線)・・・文化通り・・・麓山公園・麓山(はやま)神社・市立中央図書館・・・郡山宿・如宝寺・一心坂・・・金透坂・金透小学校・・・善導寺・・・・安積国造(あさかくにつこ)神社・・・郡山道路元標・・郡山宿本陣跡・・・郡山駅(JR東北本線)

  【ルート地図

 芭蕉は『おくの細道』に、「かげ沼と云ふ所を行くに今日は空曇りて物影うつらず。」と記す。鏡石町には沼が多く、かげ沼(鏡沼)では蜃気楼が見られたようだ。しかっりと2つの塚の残る須賀川一里塚を過ぎ須賀川宿に入る。この宿で芭蕉は7泊も滞留している。さすが見るべきものもかなりの時間を費やす。北町坂、岩瀬の渡し坂を下り宿を抜け釈迦堂川を渡り、歌枕の「岩瀬の森」の鎌足神社の前から上人壇橋で東北本線を越える。このあたりは開発により旧道の道筋は消滅している。

 上人壇橋を渡って右に回り込むように下って旧道に入ると白石坂の上りとなる。坂の途中に森一里塚跡が残り、坂上から波打つような上り下りを繰り返して柏城小学校の先で筑後塚供養塔の前に出る。ここは鎌倉時代の官道の東山道の道筋にあたり、近世に奥州街道として整備されたようだ。供養塔の前を下り、県道355号に出て東北本線沿いを北に進む。小さな滑川を渡り、清陵情報高の先の小社の石段で線路と県道を見ながら一休み。

 子安観音堂の先で踏切を渡り県道に出てしばらく行くと郡山市となり笹川宿に入る。道筋には商店、車の通行も増えて賑やかになってくる。東に路地を入ると阿武隈川近くに篠川城(篠川御所)跡の東舘稲荷神社がある。采女伝説の耳語橋、歌枕の笹原川には往時のロマンの香りはない。日出山宿を過ぎ、小原田宿に入ると香久山神社の参道入口に立派な塀と茅葺きの旧家が構えている。

 旧道から離れ、麓山公園の中央図書館に寄る。如宝寺前の「はやま通り」が、一心坂ということを道沿いのスナック「一心坂」の看板で知った。思いがけず新しい坂を一つゲットして疲れも忘れた。坂沿いの一段高い所の金透小学校へ上る坂が金透坂だ。坂と言っても一般道ではなく生徒用の通学路だが、明治時代には蒼々たる連中が上った由緒ある坂なのだ。郡山の鎮守の安積国造神社から旧道の郡山道路元標の所に戻り、郡山本陣跡から郡山駅に向った。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_6805 西光寺 《地図

右は葉書の語源の「たらよう(多羅葉)」の木。利尿作用があり、健康茶にもなるそうだ。

Img_6802 由緒

Img_6806 説明板

Img_6819 須賀川一里塚(江戸方向) 【ルート地図】の①

日本橋から59番目の一里塚。左が東塚、右が西塚。街道の両側には松並木が続いていたという。

Img_6815 説明板

Img_6823 千日堂(南の黒門跡の手前)

Img_6822 説明板

Img_6825 何の店か? 明治乳業の看板が架かっているが。

Img_6826 人は住んでいないようだ。

Img_6832 南の黒門坂 南の黒門跡(写真右の東北電力前)から北に下る坂。 【ルート地図】の②

黒塗りの木戸があり、番小屋が置かれていた。午前4時開門、午後10時閉門。早寝、早起き健康の元。

Img_6829 「すかがわ坂物語」の説明板

Img_6830 説明柱

Img_6836 「大町よってけ広場」の説明板

東京オリンピックでマラソン銅メダルの円谷幸吉は須賀川生まれ。大ヒットした「ゴジラ」の特撮映画監督の円谷英二も同郷人。

Img_6845 軒の栗庭園

芭蕉の「世の人の 見つけぬ花や 軒の栗」にちなむ庭園。

Img_6842 説明板

Img_6844 芭蕉と曾良

Img_6843 等躬

芭蕉は相良伊佐衛門(等躬)宅に7泊した。

Img_6852 軒の栗 可伸庵跡

可伸とは、「おくの細道」で芭蕉が「世の人の 見つけぬ花や 軒の栗」と詠んだ「世をうとう僧」のこと。

Img_6850 説明板

Img_6853_2 八木甚本店?

何の店だったか。今は営業していないようだ。

Img_6855 フジ薬局(芭蕉記念館のはす向い)

長い建物で両端が入らず。

Img_6860 この蔵もフジ薬局のもの?

Img_6863 説明板(蔵の前)

Img_6858芭蕉記念館(八幡町・市役所の前)

芭蕉が参拝した八幡社・岩瀬(がんらい)寺などがあったあたり。

Img_6867 町中には所々に「物語ボックス」が立っている。

Img_6875 十念寺

芭蕉が訪れた寺の一つ。円谷幸吉の墓がある。健脚祈願でもしようと思ったが止めといた。

Img_6874 説明板

Img_6876芭蕉句碑(十念寺境内)

「風流の はじめや 奥の田植唄」

安政2年当地の俳人市原たよ(多代)女が建立。

Img_6872 市川多代女辞世の句碑(十念寺境内)

Img_6871辞世の句

Img_6877 俳句ポスト(22カ所に設置)

一句ひねろうと思ったが、首と頭をひねっても何も出て来ず、すごすごと退散。

Img_6880 二階堂神社

ここは須賀川城の本丸があった所。

須賀川城は二階堂家の重臣守谷筑後守の内通により伊達政宗に攻められて落城した。この時の戦死者の霊を弔うために「松明(たいまつ)あかし」の行事が始まったという。

Img_6881 説明板

Img_6882 二階堂氏居城時代の須賀川城と町割図

Img_6887亜欧堂田善生誕之地(須賀川市保険センターの所)

西洋の技法を取り入れたわが国初の銅版画家。

Img_6886 説明板

Img_6901 神炊館(おたきや)神社

須賀川の総鎮守。『曾良旅日記』には、「十念寺、諏訪明神へ参拝」とある、今でも「お諏訪さま」で親しまれている神社。

Img_6892 由緒

Img_6900 奥の細道碑

Img_6894 説明板

Img_6902 三八稲荷(右)・天満神社(岡天神)(左)

天満神社には数学者の岡潔も祀られている。須賀川とどういう関わりがあるのだろうか?

Img_6903 説明板

Img_6905 説明板

Img_6904 須賀川城外濠跡説明板

天満神社の裏側の竹薮に濠跡らしき窪みが残っている。

Img_6910 弘法壇坂 神炊館神社の北側を西に下る坂。【ルート地図】の③

坂の途中の交差点南側に弘法大師堂がある。

Img_6909 説明板

Img_6912 坂下方向

坂下近くで東北本線をくぐる。

Img_6914 坂上方向

Img_6929 北町坂の坂上の八百屋さん

Img_6931 北町坂(坂下方向) 《地図

北の黒門があったあたりか。

Img_6926 坂上方向

坂の途中に新しい立派な石の坂標が立つ。

Img_6932 坂下方向

Img_6939 岩瀬の渡し坂 北町坂から続いて曲がりながら下る坂。《地図

奥州街道の岩瀬の渡し場へ下る坂だった。

Img_6942 説明板

Img_6941 坂下方向(北町坂の途中から)

Img_6943 坂下方向

Img_6944 歌碑(坂下近くの民家の塀の前)

「岩瀬の渡し 水越へて みつまき山に 雲ぞかかれる」 (詠み人知らず)の歌だろう。 みつまき山は岩瀬の森をいうそうだ。

Img_6949 中宿橋から釈迦堂川

釈迦堂川の由来となった釈迦堂(跡)があるはずだが見つからず。歌碑(前の写真)の近くにあるようだ。

Img_6952 鎌足神社 《地図

ここは古くからの歌枕の「岩瀬の森」で、紀貫之も「陸奥や岩瀬森の茂る日に一声くらき初時鳥(ほととぎす)」と詠んでいる。都から岩瀬の森を想像して詠んだのだろう。当地に8日間も滞在し、歌枕の好きな芭蕉翁だが岩瀬の森を訪れた様子はない。等躬も案内しなかったのは何故なのか。芭蕉の時代には岩瀬の森も往時の面影はなく、歌枕ではなくなっていたのかも。現在の地名では鎌足神社の所は上人坦で、上人壇廃寺の所が岩瀬森となっている。昔はこの付近一帯に森が広がっていたのだろう。

岩瀬は養老2年(718)に陸奥国から独立して「石背の国」となり、須賀川はその国府があった所だが、わずか8年後の神亀3年(726)に陸奥国に再編入されたそうだ。

Img_6953 説明板

写真だと読めない箇所が多い。その場でしっかり読むべきだった。

藤原鎌足の子孫の波多野筑後守が建久元年(1190)に鎌足の霊を奉斎したというものか。最後に前述の紀貫之の歌が載る。波多野筑後守についても分からず。二階堂氏の時代に伊達政宗に内通して、須賀川城を落城させた守谷筑後守がいるが時代が違う。

Img_6956 上人壇橋から旧道(正面奥に伸びる道)

橋を渡った左側の第二中学校の隣りに上人壇廃寺跡がある。

Img_6960 宝来寺前の石造物(旧道に入ってすぐの左側)

Img_6961 宝来寺

Img_6969 白石坂(坂上方向) 北に上る坂。 【ルート地図】の④

正面が森一里塚跡

Img_6971 森一里塚跡(東側)

多くの石造物が集められている。

Img_6972 坂下方向

西側(右)の塚の跡形も残るようだ。

Img_6977 坂上近く

Img_6985 柏城小学校

天正11年(1582)の滑川合戦の舞台となった柏館跡

Img_6991 筑後塚供養塔

阿弥陀信仰の盛んな鎌倉時代末頃に建てられた双式阿弥陀三尊来迎浮彫供養塔など四基の板碑。もとは南の柏城小学校の所にあった。筑後塚の由来は須賀川の二階堂氏の家臣で伊達政宗に内通した守谷筑後守が、戦いの後に主君を裏切ったとして伊達政宗によりこの地で成敗されたことによる。

Img_6990 説明板

Img_6995 左に下る旧道

鎌倉時代の官道の東山道で近世には奥州街道となった。

Img_6997 旧道沿いの馬頭観音など石造物

Img_7000 下って国道355号に出て、滑川、東北本線を渡り笹川宿(郡山市)へと入って行く。

Img_7031 東舘稲荷神社 《地図

ここは足利満直の篠川城(篠川御所)跡

Img_7034 理髪店

ちょんまげでも結われそうな床屋さん。

Img_7037 耳語橋(ささやきばし)から笹原川 《地図

采女となって都へ向う里長の娘の春姫と恋人の太郎がこの橋の上で泣く泣く愛をささやいたという采女伝説の橋。

郡山市と姉妹都市の奈良市の猿沢池のほとり、辷(すべり)坂の坂下に采女神社があり、伝説の采女が祀られている。采女伝説もここのとは違う話になっている。「奈良市の坂-2」に記載。

Img_7039 ささやき公園(耳語橋のたもと)に歌碑が立つ。

Img_7040 歌碑

「あさか山 影さえ見ゆる 山ノ井の 浅き心を 我が思はなくに」 春姫の歌

永承6年(1051)「前九年の役」の追討に向う源頼義がこの地にさしかかった時には橋は朽ち果てて渡れず、「あづま路の ささやきの橋 なか絶えて ふみ(文)だに今は 通わざりけり」

「みちのくの 音無川に わたさばや ささやきの橋 しのびしのびに」と詠んだと伝える。

Img_7056 小原田宿

香久山神社の参道入口の所

Img_7055 旧家

Img_7057 門から中を失礼して茅葺きの屋根を撮る。

Img_7062 思わず「すみません」と謝ってしまいそうだ。

Img_7066 如宝寺

Img_7068 いぼなし鐘

通常の鐘は、上半部に「乳」(ち)と称するいぼ状の突起を多数並べるが、この鐘は「乳」のある位置に梵字が鋳出されている。文化3年(1806年)の改鋳。

Img_7073 一心坂(坂下方向) 如宝寺門前の「はやま(麓山)通り」(通称一心坂通り)で西へ上る坂。 【ルート地図】の⑤

ちょうど「スナック一心坂」があったので気がついた坂。このあたりは傾斜はほとんどない。夜にこのスナックを覗いてみようかとも思ったが忘れてしまった。

Img_7086 金透坂 金透小学校へ上る坂。通学用の坂で一般道ではない。《地図》(道の標示はない。)

Img_7083 坂の途中に二の宮金次郎

今の若者は本ではなく、携帯電話を見ながら歩いている。

Img_7079金透小学校(昔の金透坂の写真も見られる。)

校名は木戸孝允が「朱子語録」の中の一説から命名したそうだ。

Img_7080 坂下方向

金透小学校スクールアメニティ通路整備工事」には、「そしてこの金透坂は、明治天皇始め、明治時代における日本の発展を担った大久保利通、伊藤博文、岩倉具視など蒼々たる人物が登りました。ある時は、この坂を補修する為に諸先輩の方々が鞄を背い日和田の小和滝まで行って小石を拾い、それをつめて学校まで運び坂を補修したとも聞いております。」とある。なかなか由緒深い坂なのだ。

Img_7100 安積国造神社参道

旧奥州街道の道路元標の手前から入り、国道4号に分断されて神社へと続く。

Img_7095 安積国造神社拝殿

郡山の総鎮守

Img_7099 神楽殿

Img_7102 郡山道路元標

Img_7101 説明板

Img_7105 郡山本陣跡(碑) 《地図

左のビュ-アネックスホテルの所。「魚民」の看板下に「郡山宿本陣跡」碑がある。右手前は道路元標

Img_7104「 旧奥州街道 郡山宿本陣跡」碑

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月23日 (日)

奥州街道(白河宿→笠石宿)

2009年8月17日

Img_6650 白河駅(東北本線)・・・白河宿・・・皇徳寺・・・国道294号・・・白河宿本陣跡・・・(東北本線)・・・津島神社・・・田町大橋(阿武隈川)・・・向寺の坂・・・三柱神社・・・聯芳(れんぽう)寺・・・会津街道分岐・仙台藩士戊辰戦没之碑・・・旧道・遊女志げ女の碑・・・国道4号・・・旧道・大清水(跡)・・・高橋川・・・国道4号・安珍堂・・・旧道・根田宿・・・岩崎橋(栗ケ作川)・・・国道4号・・・旧道・愛宕神社・・・根渡神社・・・国道4号・・・旧道・小田川宿・・・小野薬師堂・・・宝積院・・・馬橋・・・(東北自動車道)・・・八幡神社(岩窟切岸城址)・・・夫婦坂・武光(たけみつ)地蔵・・・太田川宿・・・常願寺・・・愛宕神社・・・新池・・・(国道4号)・・・踏瀬(ふませ)宿・・・慈眼寺・・・踏瀬松並木・五本松並木・・・卯右衛門茶屋跡・文七茶屋跡・・・五本松橋(あぶくま高原通り)・・・七曲り峠・七曲り坂・・・大和久(おおわく)宿・・・山王寺・・・執心地蔵尊・・・中畑新田宿・・・幸福寺・・・(県道44号)・・・矢吹宿・・・大福寺・・・矢吹神社・・本陣跡・・・北町地蔵尊・・・国道4号・・・旧道・久来石(きゅうらいし)宿・・・熊野神社・笠石宿・・・宝泉院・・・笠地蔵堂・・・北原稲荷・・・鏡石駅(東北本線)

 今年の東北は梅雨明けも、盛夏もなくこのまま秋を迎えるのだろうか。東京は残暑真っ盛りというのに、白河駅を降りた途端に風の違いを感じた。奥州街道を白河宿から二本松宿までの坂道散歩だが、このくらいの暑さなら何とかなりそうだ。手始めに皇徳寺に小原庄助さん(墓)を訪ね、街道を北に出発する。

 阿武隈川を渡り、だらだらと向寺の坂を上って下り、戊辰戦争の傷跡の碑、大清水跡を見ながら国道4号に出ると小高い所に「安珍生誕之地」・「安珍之里」の碑が立っていて、安珍堂にはやさしく気の弱そうな安珍さんが座っている。根田醤油の前から旧道の根田宿に入る。人影、車もない閑静な家並みを抜け、国道4号に出てしばらくしてまた旧道に入ると小田川宿で入口に小野薬師堂がある。ここも静かな通りで、立派な家並みが続く。家並みが途絶え、東北自動車道が左手に近づくとガードの所に八幡神社の石柱が立っている。側面に「岩窟切岸城址」とある。ガードをくぐって行って見ると社殿の背後が岩窟切岸城址のようだが説明板もないので詳細は分からず。

 旧道に戻って田園の中を進むと夫婦坂の上りとなる。途中、左手に武光地蔵がどっしり座っている(上の写真は武光地蔵の下あたりから坂下方向)。太田川宿へ下り、細い石段を愛宕神社へ上る。やっぱり暑い。社殿(小祠だった)からの眺望を期待したが木々が繁っていまいちだった。新池の手前には民家の裏側を通る未舗装の旧道が残っている。上り下りを繰り返しながら新池の前を通り、国道4号を渡り踏瀬宿へ入ると一部に松並木が残っている。茶屋跡前からあぶくま高原通りを越えるとすぐに七曲り峠で、七曲り坂となって大和久宿へと下って行く。右手に東北本線が近づき、町並みもだんだん賑やかになって矢吹宿へと入る。ここは栄えた宿場だったようで見るべきものが多かった。

 矢吹宿の北の北町地蔵から国道4号に出てしばらく進み、左に旧道に入ると久来石宿できれいで立派な家並みが続いている。旧道は国道4号を渡り、熊野神社あたりから笠石宿となる。笠地蔵は民家の脇にある。うるさく吼える犬を怒鳴りつけ、堂内の笠地蔵(実際は石を乗せた板碑)をすき間から見るが暗くて見えない。写真を撮って見てなるほどと納得。ミニ風車の立つ鏡石駅で今日の街道歩きの終わりとした。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_6554_2小原庄助の墓(皇徳寺境内の羅漢山人の墓の隣り)

辞世が、「朝によし昼になほよし晩によし 飯前飯後その間もよし」で、戒名は「米汁呑了信士」 呑み了(お)えたなら徳利は寝かせればいいものを。この墓の石を削って飲むと下戸も上戸になれるとか。

旧東海道の箱根の小枯木坂の坂下には、「雲助徳利の墓」がある。『箱根の坂-2』(2008年4月22日)に記載。 

Img_6552_2 説明板

Img_6549_2 本家富川屋染物店

老舗通りに染物屋が数軒並んでいる。

Img_6550_2 大野屋染物店

Img_6559_2 本陣芳賀家跡 《地図

後に福島県立病院へと発展する白河医術講義所(白河県立病院)跡

Img_6558_2 説明板

Img_6562_2 萩原朔太郎の妻の生家(本町54)

清酒「白陽」の大谷酒造

Img_6561_2 説明板

Img_6564_2 岩淵悦太郎生家跡

酒造業の「岩淵屋」で生まれた国語学者。今はお茶屋になっている。

Img_6565 説明板

Img_6566_2 白河だるまの「渡辺だるま製作所」

白河だるまは、今から約360年前の城主丹羽長重の頃から旧正月14日の「市神祭」で、縁起物として売られてきた。

Img_6571_2向寺の坂(坂上方向) 田町大橋を渡り、北方向に緩やかに上る奥州街道。 【ルート地図】の①

聯芳寺の向いの坂か、聯芳寺へ向う坂の意か?

Img_6575 聯芳(れんぽう)寺

枝垂れ桜が見事な寺

Img_6577_2 坂上から会津街道との分岐の女石へ下る。旧道は切通しの上の方を通っていて、地蔵や回国供養碑が残っているそうだ。

Img_6580国道4号の手前で右へ旧道に入る。

Img_6581_2 仙台藩士戊辰戦没之碑 《地図

Img_6582_2 説明板

Img_6583_2 遊女志げ女の碑(説明板の前)

戦争の犠牲となるのはいつも弱い者だ。

Img_6584_2 説明板

Img_6586_2 大清水跡あたり

Img_6587_2 そばや「大清水」の手前

「上水道念」?、ほかに馬頭観音が幾つか草むらに半分埋まっている。そばやの前には道標が立っているというが見逃した。

Img_6598安珍堂

安珍清姫」物語の安珍は当地(根田)の生まれ。安珍の墓は堂の下を西に行った東北自動車道をくぐった所にある。

Img_6592 説明板

Img_6596_2 安珍像

もとは道成寺にあったもの。女の執念に焼き殺されても仕方ないような優男(やさおとこ)の像だ。道成寺は『熊野古道(紀伊路⑧)』に記載。

安珍念仏踊り(奥州白河歌念仏踊)」は今でも踊られているようだ。

Img_6600 根田醤油合名会社(根田宿の入口)

創業200年の老舗、簡易郵便局も兼ねている。

Img_6609 愛宕神社

石段が崩れかけていて危険なのか、鉄の階段には施錠してあり上れない。

Img_6612 根渡神社

ひっそりとした佇まいでいい雰囲気だが、薮蚊に食われ長居はできない。

Img_6617 小野薬師堂(小田川宿入口)

小野小町伝説の地で、奥州街道を往来する旅人が参拝し、道中の無事、安全を祈願したという。

Img_6620 小田川宿の町並み

豪勢で、端正な家並みが続く。

Img_6627 旧家

Img_6645 八幡神社入口

「岩窟切岸城址」とある。東北自動車道をくぐって向う。

Img_6640 八幡神社

Img_6643 岩窟切岸城址 【ルート地図】の②

社殿の後ろに垂直に切り削られた崖が切岸で、その上に中世の城砦があったのか。鎌倉の大切岸を思い出した。

Img_6648 夫婦坂(坂上方向) 白河市と泉崎村の境あたりの緩やかな坂。 【ルート地図】の③

上って下る向き合う坂で夫婦坂か?

Img_6651 武光(たけみつ)地蔵(夫婦坂の途中を左側に入った石段上)

仙台藩の居合い抜きの達人の侍が、奥州街道を急ぎ江戸に向う途中、夜更けの夫婦坂にさしかかった。すると前方に妖しい女の影が出た。侍は一刀のもとにこれを斬り捨てた。江戸からの帰り、再びここを通ると、道端に二つに切断された石地蔵が転がっていたという。土地の者はこの石地蔵を斬りつけた刀が竹光だったので「武光地蔵」とも、「化け地蔵・首切り地蔵・二身堂地蔵」とも呼んだ。近年まで、そばに切断された下半身があったという。

これは地蔵像ではなく薬師像という土地の人もいるそうだが、どう見ても地蔵にも薬師にも見えず、田舎の人の良さそうなお百姓のおっさんだ。

Img_6654坂上からも緩やかに下って行く。

Img_6659 太田川宿の町並み

正面は愛宕神社の丘

Img_6665 愛宕神社 《地図

急で細い石段を上るとこんな小さな社だった。

Img_6667 石段の途中から

Img_6672 旧道を上る

左上に石造物が並ぶ。

Img_6674 馬頭観音など

Img_6678 池沿いの旧道

Img_6681 下って新池から国道4号を横断して踏瀬宿へ

Img_6682 新池 《地図

新池の手前には民家の裏側を通る未舗装の旧道が残っているが写真を撮り忘れた。

Img_6685 踏瀬宿入口の小社

Img_6688 踏瀬(ふませ)宿

検断と問屋を兼ねていた箭内家。現在は白い土蔵と門柱が残る。

Img_6700 五本松並木

踏瀬松並木から続いている。

Img_6695 説明板

Img_6709 卯右衛門茶屋と文七茶屋茶屋跡

軒を連ねて、旅人の休み処として繁盛してきたが、明治の中頃の鉄道開通により街道がさびれて店じまいとなった。道はあぶくま高原道路の上を越し、七曲り峠から七曲り坂を蛇行しながら下って行って大和久宿へ入る。

Img_6707 説明板

Img_6710 五本松橋であぶくま高原通りを越えるとすぐに七曲り峠だ。

Img_6713 七曲り峠(富士見峠)

峠といってもたいした高さではない。

Img_6718 七曲り坂 峠からの下りの方が長いが傾斜はゆるい。 【ルート地図】の④

Img_6721大和久(おおわく)宿の町並み

Img_6728 山王寺の「臥竜の松」

樹齢200年という黒松。松並木は赤松で、黒松は海岸に多く珍しいらしい。

Img_6730 執心地蔵尊

Img_6732右側に大和久宿跡とある。

左側は、「幾星霜・・・・」後は読めず。由来が書かれているのではないようだが。

Img_6739 幸福寺

左は「しあわせ観音」

Img_6744 矢吹宿の町並み

Img_6751 矢吹神社

Img_6754_2 大木代吉本店

慶応元年(1865年)創業の造り酒屋。店先に代表銘柄の「自然郷」の幕を垂す。

Img_6756 大正ロマンの館

昭和40年代まで産婦人科の建物として使用されていた。夜はライトアップされるそうだ。

Img_6755 説明板

Img_6758 本陣跡

門だけが残るのみ。

Img_6760 会田医院の建物の中の1棟。

Img_6762 北町地蔵

丸い体で、プロレスラーみたいな顔つきだ。

Img_6768 久来石宿の町並み

道の両側に東側、西側の字名が残っている。

Img_6772 旧家の土蔵

Img_6781 熊野神社

笠石宿の入口

Img_6789 笠地蔵堂 【ルート地図】の⑤

Img_6790 説明板

Img_6793 笠地蔵(左)

地蔵ではなく、石を乗せた板碑

Img_6799 鏡石駅

唱歌「牧場の朝」のモデルとなった岩瀬牧場が駅の東2kmほどにある。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月16日 (日)

三鷹市の坂

2009年8月3日

多磨駅(西武多摩川線)・・・人見街道(都道110号)・・・調布パブテスト教会・・・近藤勇生家跡・近藤神社・・・龍源寺(近藤勇の墓)・・・御狩野橋(野川)・・・大坂・・・(東八道路)・・・大沢八幡神社・・・東八道路・・・二塚神社・・・天文台通り・・・長久寺・・・天文台の坂・国立天文台・・・天文台下交差点・・・古八幡神社・・・羽沢小学校・・・八幡坂(三鷹市と調布市の境)・・・(調布市)・ひきずり坂下・・・小坂下・御塔坂上・・・深大寺通り・・・仁王坂下・・・城山の坂下・・・多聞院の坂・・・あおなみさんの坂・青渭(あおなみ)神社・・・法性院・・・絵堂橋(中央自動車道)・・・蛇久保の坂上・・・学校の坂上・病院坂上(上ノ原五差路)・・・(三鷹市)アカドッケ・中仙川橋跡・・・(調布市)・向台の坂・・・仙川駅(京王線)

  *八幡坂から病院坂と向台の坂は「調布市の坂」に記載。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_6438 近藤勇生家跡(調布市) 【ルート地図】の①

産湯の井戸だけが残り、近藤神社の小祠がある。

Img_6434 生家の宮川家は昭和18年に軍部によって取り壊された。

Img_6432説明板①

Img_6433 説明板②

Img_6436 産湯の井戸

昭和18年に取り壊されてここを立ち退くまで、宮川家で生活用水として使用していた井戸。

Img_6435説明板

Img_6437 近藤神社の説明板

Img_6440 堅牢地神社(近藤勇生家跡の隣り)

仏教における天部の神の一つで大地を司さどる神だそうだ。

Img_6449 龍源寺山門前の近藤勇像と六地蔵

Img_6445 龍源寺

Img_6448 近藤勇の墓(中央)

Img_6446 説明板

Img_6454 大坂(おおざか) 御狩野橋(野川)から北東に上る人見街道(都道110号)。【ルート地図】の②

人見街道が国分寺崖線にさしかかる所の坂。大正13年頃、旧道が拡巾されたことから地元の人たちは、この坂を「おおざか」と呼ぶようになった。『三鷹市史』

Img_6455 坂上方向

坂上で東八道路へ出る。

Img_6456 坂下方向

Img_6465 大沢八幡神社

古くは古八幡社の地にあり、元和3年(1617)に長久寺の境内に移り、大正6年に当地に移転した。

Img_6467 青龍権現二塚神社

古来、雨乞いの神として崇敬されてきた神社。

Img_6470 長久寺

かつては国立天文台の地にあった。

Img_6472 天文台の坂(坂下方向) 国立天文台の前を北に上る天文台通り。【ルート地図】の③

大正末年、天文台完成により開通した通りで、国分寺崖線の坂で、通称名として使われている。『三鷹市史』

Img_6476国立天文台

Img_6481 坂下方向

Img_6482 坂上方向

Img_6484 古八幡社

Img_6489 八幡坂(坂上から・三鷹市と調布市の境) 【ルート地図】の④

かつて坂上に八幡社があった。(上の古八幡神社とは別の八幡社)

Img_6491 ひきずり坂下

エンコした車が坂下に止まっている。

Img_6497 多聞院の坂(調布市)

左に多聞院、深大寺の東参道

Img_6512 学校の坂上(調布市)

上ノ原小学校へ下る坂

Img_6529 アカドッケ 調布市との境から北へ、東台方向へ下って上る中仙川通り。 【ルート地図】の⑤

つつじが丘から東台へ行く坂で、往時から地元の人はこの名で呼んでいる。意味は不明。『三鷹市市史』

アカは赤土のことだろう。ドッケは何かの訛りか? 坂の形からは夫婦坂、相生坂、薬研坂に入る。調布市の向台の坂上から続く坂で、二つの坂を合わせるとWを平たくしたような形になる。

Img_6539 中仙川橋跡(坂下あたり)

中仙川は調布市深大寺東町8丁目あたりを水源地とし、南東に流れ三鷹市を通り、調布市入間町2丁目で野川に注ぐ川で、調布市では入間川(埼玉県の一級河川の入間川とは別)、三鷹市では中仙川というそうだ。ここは暗渠になって今は遊歩道になっている。

Img_6525 南の調布市方向

坂上で向台の坂につながる。

Img_6526 北方向

坂上から中央自動車道をくぐり、都道114号へ出る。

Img_6532 坂上近く

西側に中島神社、東側に東台小学校がある。

Img_6542 向台の坂(調布市)

アカドッケの坂上から南に下って、上る坂。

Img_6545 馬頭観音の小祠

向台の坂の坂上から南に続く坂の途中。

Img_6544 風化して形が薄れた馬頭観音

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月11日 (火)

仙台市の坂-4

2009年7月30日

Img_6285_2 仙台駅・・・銀杏坂・・・茂市ケ坂・・・駅前通り・・・空堀丁通り・・・上杉公園・・・(仙山線)・・・仙岳院・・・東照宮・・・長命坂・・・露無の里・・・(仙山線)・・・石巻街道・・・清浄光院・・・東北大学農学部・・・県道264号・・・東北大学病院・狼犬(おいぬ)坂跡・・・知事公館・新坂・・・又五郎坂・・・澱(よどみ)橋(広瀬川)・・・為朝神社・・・中の瀬橋(広瀬川)・・・西公園(桜ケ岡公園)・・晩翠(ばんすい)通り・・・定禅寺通り(定禅寺坂跡)・・・勾当台(こうとうだい)公園・・元貞(げんてい)坂・・・錦町公園・・・銀杏坂・・・仙台駅

 葉が色づく頃はきれいだろう銀杏並木の銀杏坂を上り下りし、茂市ケ坂に入る。仙台駅から5分足らずの所だが朝も早く、路面が濡れていることもあり、何となくうらぶれた路地のようでいい感じだ。(上の写真) 坂上から駅前通りに出て通勤通学時間で人、車の多い中を北に向う。東照宮駅そばの仙山線の踏切を渡って真っ直ぐ東照宮の参道へと入る。石段をユニホーム姿の少年たちが駆け上っている。中学校の野球部の朝練か。昨日、夏の高校野球の東東京大会決勝戦で、母校の雪谷高校が帝京高校に24対1の歴史的大敗を喫した。勝てるとは思っていなかったがこんな大差がつくとは。

 東照宮の北側の長命坂を下り、伝説の露無の里から再び仙山線を渡り、西へ石巻街道を進む。愛宕上杉通り、奥道中(旧奥州街道)を横切って進むと東北大学病院へぶつかる。狼犬坂は病院の敷地内にあった坂だ。狼坂は東京の立川市にもあったが今は跡だけで、ここは跡形もないのは致し方なしか。病院前の新坂通りを南に行くと太白飴本舗の昔ながらの店があり、その先の知事公館の門前から新坂(にいざか)が下っている。曲がりながら下る急坂で、仙台七坂の中で一番坂らしい坂だ。

 新坂下の澱不動尊に寄り、澱橋へ続く道路の下をくぐると又五郎坂の坂下へ出る。今は尚絅学院までカーブして上る小さな坂だが、昔はへくり沢(広瀬川)の土橋から上る坂だった。澱橋を渡り、県立美術館、仙台二高の前を通り為朝神社に寄り、中の瀬橋を渡る。澱橋と中の瀬橋の間で広瀬川が大きく北から南へと蛇行している。晩翠通りを北に行き、中央がケヤキ並木の定禅寺通りを東に向う。この通りも昔は定禅寺坂だったのだが、何度も削平、整備され今は坂とは呼べなくなっている。勾当台公園の先で南に入り、元貞坂を下る。仙台七坂の一つだがビルの間の小さな坂で傾斜もゆるく面白味はない。錦町公園脇から銀杏坂を下り仙台駅に向った。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_6284 銀杏坂(坂上方向) 本町1丁目と2丁目の間を北西に上る愛宕上杉通り。《地図

中央2丁目交差点の歩道橋から

Img_6425 坂下方向

坂の途中の銀杏坂ビル前の横断歩道から

Img_6287 茂市ケ坂(坂上方向)仙台七坂の一つ。左は茂市ケ坂パーキング 【ルート地図】の①

江戸時代にこの通りには侍屋敷と職人屋敷が置かれ、茂市という座頭が住んでいたという。『仙台地名考』

Img_6288 坂下方向

Img_6300 仙岳院

仙台七崎の一つ、玉手ケ崎に承応3年(1654)仙台藩ニ代藩主伊達忠宗が、東照宮を建立した時、別当寺として最教院僧正晃海大和尚が開山した。

仙台三十三観音第11番札所で、観音堂には「小萩観音(十一面観世音菩薩(伝行基作))」が安置されている。

Img_6297 小萩観音の由来

小萩は「露無の里」(後述)にゆかりの人物。

Img_6308 東照宮

Img_6313 随身門

Img_6312 唐門

Img_6337 長命坂(坂上方向) 東照宮の北側を東から西方向へ上る坂。 【ルート地図】の②

『仙台地名考』には、「後方に天神山(高山樗牛瞑想の松)を負い、青松が到る所に茂って、風光また明媚である。恐らくこの環境を讃美し、健康地というので長命坂と呼んだのであろう。」とあるが、あまり説得力のある坂名の由来話ではないと思うが。

大正元年の地図にはこの坂の北に長命坂天神と陸軍墓地がある。現在は長命坂天神の所には東京薬科大学がある。「高山樗牛瞑想の松」は残っているようだが、天神社はどうだろうか。樗牛は何を瞑想したのか。恋に思い悩んで物思いに耽っていたという。

Img_6336坂下方向

Img_6342 露無の里(長命坂の坂下近く)

松の根元に由来板と歌碑が立つ。

Img_6340由来

仙岳寺観音堂の「小萩観音」は小萩の念持仏

Img_6341 小萩の歌 

「雨が降れ風の吹くをもいとはねど 今宵一夜は 露無の宿」  

Img_6348 東北大学病院

Img_6350狼犬(おいぬ)坂跡(現在の東北大学病院構内を北に上る坂だった。) 【ルート地図】の③

①昔は、中山には狼が多くこのあたりまで下りてきたらしい。狩をしてこの付近に狼を埋め「オイヌ坂」とよんだという。『仙台地図さんぽ』

②往昔、八幡太郎義家が奥州下向の時、この辺に狼が多く出没するということを聞き、土民のために狩り埋めた所と伝えている。『仙台地名考』

①②ともこの地は狼を埋めた墓場だったという。墓の上にこんな病院を建てられ、狼の霊も静かに眠れないようだ。夜な夜な病院内でうめき声が聞こえるというのは、この病院で死んだ患者の恨み声ではなく、怨霊となった狼たちのうなり声だったのだ。←全くのデタラメ話(①と②の由来話はほんとよ)

新坂通りは明治末まではまっ直ぐ北山輪王寺下まで通じていた。狼犬坂は新坂通りの一本東側の坂だった。

Img_6356 太白飴本舗(兵藤飴老舗・青葉区広瀬町5-30)

明治から続く「太白飴」の店

Img_6361知事公館(新坂上)

仙台城にあった門だが、城のどこにあったかは不明。

Img_6359 説明板

Img_6363 新坂(にいざか)(坂下方向) 知事公館前から澱(よどみ)橋の方へ南へ下りカーブして西に下る坂。仙台七坂の一つ 《地図

水害で支倉橋が流されるので、元禄七年(1694)澱橋が新たに架設され、橋から支倉町方面に通ずる道を川沿いに開き俗に弁慶岩といわれる岩崖を切って急な坂道を造った。そして北二番丁の西端(知事公館前)までを新坂と呼んだ。坂はそれ以来幾度も切り下げられたが坂の途中の清水は古い。『辻標』 今も坂の途中に清水はあるのか? 気づかなかったが

Img_6377 坂上方向

Img_6375 坂下方向

Img_6378 澱不動尊(新坂の坂下)

残月台本荒萩の不動堂古跡との記載に基き、昭和初期に現在地北側に再建され、近年当地に移転された。堂の左に文永の板碑。

Img_6383 板碑

Img_6381 板碑説明板

Img_6403 又五郎坂(坂下方向)尚絅(しょうけい)中学高校前バス停から南西方向に広瀬川へと下る坂。【ルート地図】の④

へくり沢(広瀬川)の土橋から上る小さな坂で、又五郎という者が住んでいたという。坂下あたりは「角五郎丁」で、渡守角五郎にちなむ丁名。牛越(うしごえ)橋ができる明治の中期まで舟で往来した牛越渡戸(わたど)は、「角五郎渡戸」とも呼ばれた。「又」と「角」の五郎さんは二人ともこのあたりに住んでいたようで、紛らわしいが別人だ。角五郎は渡し守だが、又五郎さんは何をしていたのか? 住んでいた時代はどうなのか?

Img_6409 坂上方向

正面は尚絅学院中学・高校

Img_6400 坂上で澱橋からの道と合流しさらに上って行く。

この坂は埋め立てられたという烏頭坂の名残りの新道か。有巴坂もこの坂の近くにあった坂なのだろう。

Img_6393 澱橋から広瀬川

Img_6396 為朝神社(中の瀬橋のたもと)

文化4年(1807)蝦夷地千島へのロシア船侵入に対する出兵の指揮を国元で執った仙台藩奉行の中村日向義景が派遣部隊の神明加護と士気高揚のため、出陣の文化5年(1808)正月に建立。戦災で焼失したが再建された。以前はもっと立派な社殿だったのだろうか。

Img_6416 定禅寺坂跡(定禅寺通りの勾当台公園あたりから東方向に少し上り傾斜が残る。)

昔は定禅寺通りは定禅寺の岡により東西に遮断されていた。明治13年から26年の間に定禅寺の坂を切り開いて東西が直通した。『仙台地名考』

定禅寺は慶長6年(1601)に仙台城の鬼門封じのために建てられた寺で、国の合同庁舎の所にあった。終戦後の都市計画街路整理で、この通りも整備され坂とは呼べなくなったか。

Img_6420 元貞(げんてい)坂(坂下方向) 本町2-13と2-19の間を北東に上る短い坂。【ルート地図】の⑤

江戸時代に元貞という医者がこの地に住んでいたことによると見られる。その伝記は詳らかでないが、仙台藩に信夫元貞という儒医があった。碩学の誉れのあった儒者蘆東山(あしとうざん)などと親交が深かったと伝えている。『仙台地名考』

大正元年の地図では、「玄定坂」と標示している。

Img_6421 坂下方向

Img_6423 坂上方向

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年8月10日 (月)

仙台市の坂-3(塩釜街道①)

2009年7月29日

Img_6014 仙台駅・・・宮城野通り・・・榴岡(つつじがおか)天満宮・・・国道45号・旧道・原町・陽雲寺・・・原町3丁目交差点・国道45号・・・梅田川・・・(東北本線)・・・県道8号・・・大蓮寺・・・旧道・・・比丘尼坂(上の写真)・・・(国道4号)・・・耕田寺・・・今市橋(七北田川)・・・東光寺・・・県道35号・・・おくの細道・十符の菅・・・八坂神社・・・旧道・・・岩切駅(東北本線)→仙台駅・・・仙台市歴史民俗資料館・・・県道137号・・・宮城野公園総合運動場・・・県道137号・・・陸奥国分尼寺跡・国分尼寺・・・陸奥国分寺跡(国分寺薬師堂・白山神社・準胝観音堂・・・県道235号・・・常林寺・・・石名坂・・・閻魔堂横丁・・・姉歯横丁・・・真福寺・・・愛宕橋(広瀬川)・・・七曲り坂・・・大満寺・虚空蔵堂・愛宕神社・・・愛宕大橋(広瀬川)・・・仙台駅

 時々どしゃ降りとなる中、途中で何度も雨宿りをしながら、塩釜街道を「おくの細道」の由来の歌枕の地、十符の菅まで行き、電車で仙台駅に戻り、歴史民俗資料館で見学兼雨宿り兼調べ物をして小降りとなった頃、これも歌枕の地で芭蕉も杖をひいた木ノ下の陸奥国分寺跡を訪ねた。

 先日歩いた石名坂へ出て閻魔堂横丁を通り、姉歯横丁から愛宕橋を渡り、七曲り坂へ出て虚空蔵堂へ上り、愛宕神社までの雨中の坂道散歩です。

  【ルート地図(1)】(塩釜街道①)・【ルート地図(2)】(陸奥国分寺跡~七曲り坂~愛宕神社)

  塩釜街道②』へ続く。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_5977榴岡天満宮 【ルート地図(1)】の①

もとは仙台七崎の一つ玉手崎の東照宮の地にあった。境内には多数の句碑、歌碑が並ぶ。榴岡は歌枕にも詠まれたツツジの名所。元禄2年(1688)5月7日(陽暦の6月23日)の梅雨の晴れ間に、芭蕉は、仙台の俳人北野加之(かし)の案内で曽良とともに、東照宮、榴岡天満宮、木の下の薬師堂(陸奥国分寺跡)などを訪れた。

Img_5974 説明板

Img_5982原町の辻標

国道45号(向こう側)と塩釜街道の分岐(手前)

Img_5984 塩釜(竃)街道

「原町は明治二十二年の南目、若竹、小田原三村合併で成立した町名であるが、古くから塩竃街道沿いに細長い町場を形成し、城下東方では最初の宿駅として藩政期の絵図にもその名が記されている。西端には藩の米蔵や材木蔵が置かれ、明治~大正期には代官所跡が宮城郡役所となった。昭和三年に仙台市と合併した。」『辻標』

Img_5987 陽雲寺

Img_5985 由来

Img_5988 錦湯

昭和4年の創業の銭湯

Img_5989 旧家

Img_5990 道標(原町苦竹の道知るべ石)

嘉永6年(1853)に建てられたもので、「西 御城下」、「北 塩可満松嶋」とある。

Img_5992 説明板

Img_6006 比丘尼坂(坂下から) 小鶴1丁目と燕沢3丁目の間を北から東に上り、カーブして北方向上る。【ルート地図(1)】の②

「平将門が滅ぼされた時、その妹が相馬御所をのがれてこの地にたどり着き、比丘尼となって庵を結び、道行く人々に甘酒を造って売ったと伝えられる。この甘酒はのちのちまで伝わり、案内の湯豆腐や今市のおぼろ豆腐、今市足軽が内職として作った今市おこしなどとともに塩竃街道の名物となった。」『辻標』

平将門の生き様からは尼になって甘酒を造って売ったという妹は思いもつかないが、何となく微笑ましい由来話だ。

Img_6013 坂下方向

Img_6015 辻標「比丘尼坂」

Img_6038 坂上から下って国道4号を越え、岩切へ

Img_6051 辻に大正8年に岩切村の青年団が立てた道標

右が比丘尼坂、原町へ向う旧道

Img_6059 出羽三山碑(耕田寺境内)

天保3年(1832)の建立、中央下は慈母観音像。

Img_6058 説明板

Img_6062 仙台藩七北田刑場跡の地蔵に似た顔だ。

Img_6063 旧家

Img_6066 旧家

今市地区は原町宿につぐ塩竃街道の宿場町で、仙台藩の足軽の居住地でもあった。

Img_6069 今市橋(七北田川)から

正面が東光寺

Img_6070 道標

「石巻街道から岩切若宮で分岐する街道である。多賀城市南宮~市川間で砂押川を渡り、多賀城政庁跡の北を通り、塩竃市大日向・赤坂を経て塩竃神社に至る。赤坂橋をわたると元禄頃の遺構とされる越後屋があり、塩竃詣の客に土産品を売っていた。母屋は藩公の休息所とされたが、腐朽が甚だしく昭和52年に解体された。」 

Img_6078東光寺

Img_6077 あかぎれ地蔵堂

東光寺背後の斜面の石窟の奥壁の磨崖仏を剥ぎ取ってここに安置、保存したようだ。「あかぎれ」の由来は何だろう?

Img_6075_2由来

Img_6083 県道37号の清風荘の手前で右に入り、「おくの細道」、十符の菅へ

Img_6093 右の道が「おくの細道」

Img_6084 「奥の細道」の「十符の菅」説明板

中世以来、陸奥の歌枕の地として知られていた。
「みちのくの十符の菅薦七符には君を寝なして 三符(みふ)に我寝む」 

Img_6087 ここが「おくの細道」で、「奥の細道」の書名の由来となった。 【ルート地図(1)】の③

『かの画図にまかせてたどり行けば、おくの細道の山際に十符の菅有。今も年々十符の菅菰を調へて国守に献ずと云へり』と本文にある。

十符の菅を栽培していた(いる)菅守の家は右奥らしい。十符の菅とは、網目が十筋の菅薦の材料となる上質なものいわれる。

Img_6096 青麻道の道標

青麻神社への表参道(左に入る)

Img_6103 八坂神社 【ルート地図(1)】の④

Img_6104 由緒

Img_6108 頭に瘤(こぶ)があり、「瘤とり神社」といい、「いぼ取り」にもご利益があるそうだ。

Img_6107 説明板

Img_6105 冠川神社(志波彦神社)

Img_6100 レトロな「時報堂時計店」の前から旧道に入る。

Img_6116 追分の道標(正面分岐点) 【ルート地図(1)】の⑤

塩釜街道(直進)・石巻街道(左折) 左の建物は日本新生キリスト教会岩切集会所

Img_6125 追分の道標

「従是 右しおがまミち 一り二十五丁  左まつしまミち 三り二十七丁」  安永3年(1774)の建立

芭蕉らも真っ直ぐ、壺碑(つぼのいしぶみ・多賀城碑)へと向った。

Img_6124 説明板

Img_6118 日本新生キリスト教会岩切集会所(旧岩切郵便局)

Img_6122

向い側の「毛糸のタカノ」店

Img_6134 仙台市歴史民俗資料館(旧第四連隊兵舎) 【ルート地図(2)】の①

Img_6136 説明板

Img_6138 天狗煙草の看板(展示品)

天狗坂 (渋谷区)のゆかりの天狗煙草の支店が仙台にもあったのだ。

Img_6162 陸奥国分尼寺跡

Img_6158 説明板

Img_6163 現国分尼寺

Img_6177 陸奥国分寺跡の仁王門 

国分寺の南大門の位置に建てられた。

Img_6172 説明板

Img_6170 陸奥国分寺の概要

Img_6175 配置図

Img_6179 陸奥国分寺薬師堂 【ルート地図(2)】の②

『奥の細道』には、「日影ももらぬ松の林に入て、ここを木の下と云とぞ、昔もかく露ふかければこそ、みさぶらひみかさとはよみたれ」とある。この日は快晴だったようだ。この地は古今集東歌にある、「みさぶらひ 御笠と申せ 宮城野の 木の下露は 雨にまされり」に由来する歌枕の地。天平の頃の鬱蒼とした木立にそびえる七重塔、七堂伽藍は跡形もなく、芭蕉の頃の「日影ももらぬ松の林」の面影はないが、今日は雨で境内は薄暗く、ひっそりと静かで落ち着いた風情が漂っている。

Img_6171_2 説明板

 

Img_6191 白山神社

Img_6183 説明板

Img_6203 準胝(じゅんてい)観音堂

仙台三十三観音の第25番札所

Img_6174 説明板

Img_6195 芭蕉句碑

「あやめ草 足に結ん(むすばん) 草鞋の緒」

Img_6194 説明板

Img_6199 大淀三千風供養碑

芭蕉が仙台を訪れた時、三千風は旅に出ていて会えなかった。

Img_6213 姉歯横丁の辻標

「荒町から土樋の真福寺門前までの南北一町程の横丁をいう。若林城普請に伴う寛永五年(1628)以降の城下の東南方面への拡張期に、土樋とともに割り付けられた。侍屋敷が置かれたが、居住者に姉歯八郎右衛門という者がいたことから、この呼称となった。明治の末葉には愛宕橋まで通じている。」

耐震偽装で世間を騒がせたあの姉歯さんを思い出した。

Img_6214 真福寺前を通り愛宕橋へ下る。

Img_6222 愛宕橋から広瀬川

Img_6225 七曲り坂(坂上方向) 国道4号の越路交差点の北側から曲がりながら西方向に緩やかに上る。 【ルート地図(2)】の④

愛宕山と大年寺山の間を沼を避けて通る、越路(こえじ)の古道で鹿落坂へと続いて行く。

Img_6226 坂上方向

Img_6230 坂上方向

この先で新道に合流してしまう。

Img_6233 虚空蔵堂(大満寺)

Img_6238 愛宕神社への参道を右に分ける。

虚空蔵堂→愛宕神社からここへ下りて来るつもりだったが、国道4号の方へ下りてしまった。

Img_6241燈明の灯った暗い石段を上る。

Img_6244 虚空蔵堂 【ルート地図(2)】の⑤

青葉山→経ケ峰→愛宕山へと移ってきた。南の高台から仙台城下を守護してきたのだろう。

Img_6245 説明板

Img_6253 千体観音堂

大満寺のHPによれば、堂内の千体仏が仙台の地名のルーツという。

Img_6257 八角堂

十二支の守り本尊が奉安されている。小生の亥は阿弥陀如来さん。

Img_6248 阿保原地蔵尊(とげ抜き地蔵)

水子供養の地蔵

Img_6250 十二支の動物が並ぶ境内。

Img_6269 愛宕神社

神門右に「日本最大の大天狗」、左に「日本最大の烏天狗」が座っている。

天狗は、愛宕大神のお使いで、大天狗は愛宕太郎坊といい天狗の中でも最高位の天狗。烏天狗は大天狗の命を受け善道をつかさどるそうだ。

Img_6259境内から広瀬川、仙台中心地方向

Img_6261 由緒

Img_6265 拝殿

Img_6264 説明板

Img_6276 石段を下って国道4号へ出て左に愛宕大橋を渡って仙台駅へ。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2009年8月 7日 (金)

奥州街道奥道中(仙台城下→富谷宿)

2009年7月28日

仙台駅・・・芭蕉の辻・・・(広瀬通り)・・・(定禅寺通り)・・・村境榎稲荷神社・・・玄光庵(仙台七福神)・熊野神社・・・旧検断所屋敷・・・青葉神社・・・東昌寺(マルミガヤ)・・・光明院(支倉常長の墓)・・・(仙山線)・・・日浄寺・天神社・・・堤町まちかど博物館・御仲下改所跡・・・県道22号・・・青笹不動尊・・・(仙台文学館)・・・虹の丘入口交差点・日向坂・仙台藩刑場跡・・・(地下鉄八乙女駅)・・・七北田橋(七北田川)・・・善正寺・・・ニ柱神社・・・市名坂・・・七北田宿・七北坂・・・浄満寺・・・(愛宕神社)・・・丁切根・・・国道4号・泉消防署・・・(東北自動車道)・・・大曲坂・・・金玉神社・・・国道4号・・・さるはな坂・(富谷町)・・・大清水石盥・・・ゆっぽ・・・熊谷寺・・・日吉神社・薬師堂・・・一枚沖交差点・・・富谷宿(八雲神社①・熊野神社・中宿・恋路の坂・富谷の茶畑・毘沙門堂・本陣跡・内ケ崎三郎生誕の地・脇本陣跡・内ケ崎家別邸・御所橋(西川)・代官松・八雲神社②)・・・富谷学校バス停→仙台駅

 奥州街道は仙台より北、津軽の三厩(みんまや)までは奥道中と呼びます。仙台市の隣りの富谷宿(富谷町)まで、奥道中のほんの一部の坂道散歩です。

 芭蕉の辻から北へ、ビルの間の朝早く静かな通りを北へ向う。北四番丁通り(作並街道)を越えると、古い家並みもちらほら見え始める。旧検断所屋敷の先で青葉神社にぶつかり右へ、北山五山の東昌寺の境内から光明寺へ入る。仙山線をくぐって旧道を行くと日浄寺の先に堤町まちかど博物館がある。博物館といっても堤焼の店だった建物で、登り窯が残り、水がめや土人形などが展示されている。館長さんから丁寧な案内、説明をしていただき、お茶までご馳走になってしばし雑談した。旧道は御仲下改所(おすあいどころ)跡の先で県道22号と合流する。

 青笹不動尊に寄り、仙台文学館前を過ぎ、青葉区から泉区に入ると旧道は日向坂の上りとなって県道沿いに左に上って行く。坂上を行くと仙台刑場跡で、薄笑いを浮かべているような地蔵の顔が不気味だ。地下鉄八乙女駅を過ぎ、七北田(ななきた)川を渡ると七北田宿だが宿場町を偲ばせるものは少ない。市名坂交差点を渡ると七北坂の上りとなり、両側の旧家が昔を感じさせる程度か。浄満寺の先の丁切根(ちょうぎね)の二股を左に入り下ると国道4号でしばらく単調な国道歩きとなる。

 東北自動車道をくぐった先の交差点から旧道は右に入り大曲坂となって上って行くが、道沿いには何もないただの退屈な車道で疲れが増す。ただ国道4号と合流する手前の道を右に行くと金玉神社があるのが唯一の救い?か。国道に出て下るのがさるはな坂のようだ。富谷町に入ってすぐの大清水.石盥(せっかん)からは今も水がしたたり落ちていた。坂下から右の崖上に並ぶ新しい住宅を見ながら進むと、あけの平団地で旧道は右へ団地の中を行くようだが、新しい団地の中の道には何も残っていないようで、国道の左側の熊谷寺から日吉神社、薬師堂に寄ってから富谷宿へと向った。

 一枚沖交差点から右に入り緩やかに上り、宿場の入口の小高い八雲神社に寄り、富谷宿へと入る。ここは本陣跡をはじめ、宿場の町並みがよく保存され見ごたえがある。目あての恋路の坂なんてのもあって疲れも忘れる。この坂の由来となったお二人さんも、後日調べてみるとなかなか面白い。ゆっくりと散策して、宿の北の出入り口の八雲神社を最後として、富谷学校前バス停から仙台駅行きに乗った。やっぱりバスは涼しくて早い。1時間ほどで仙台駅に着いた。でも料金は800円也、やっぱり歩きは安い。

  【ルート地図

 この先は『奥州街道(富谷宿→古川宿)』へ続く。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_5670 芭蕉の辻(仙台城の大手から東西に延びる大町通りが奥州街道と交差する辻) 【ルート地図】の①

道標(里程標):「北 津軽三厩迄 四十五次 百七里二十二丁 奥道中」・「南 江戸日本橋迄 六十九次 九十三里 奥州街道」 

芭蕉の辻の由来は碑文によると 「①かってここに芭蕉樹があった。②繁華な場所ゆえの「場所の辻」の訛ったもの。 ③藩祖伊達政宗が重く用いた芭蕉という虚無僧が一時居住していたため。」などさまざまだが、松尾芭蕉の名は出でこない。芭蕉は「奥の細道」の旅で元禄2年(1689)5月4日(陽暦6月20日)に仙台に至り、この辻の北側の国分町の大崎庄左衛門方に泊まっている。

正式には「札の辻」で、この辻の西 大町3丁目の道路の中央に幕府の指令による忠孝・切支丹・捨馬などの制札が掲げられていた。

Img_5675 北(国分町)方向

今は殺風景なビルの間の通りだ。まだ7時前で車、人の往来も少ないが。

Img_6146 明治時代の芭蕉の辻(国分町方向)

右側の塔のような建物は七十七銀行で、後に精養軒、日本銀行仙台支店として利用されたが、昭和20年7月10日の仙台空襲で焼失。市電が走っている。

Img_5679 村境榎稲荷神社 《地図

由緒碑によると、もとは荒巻村と小田原村の境にあったようだ。

Img_5680 由緒碑

Img_5682熊谷屋

元禄8年(1695)創業の仙台駄菓子の老舗

Img_5683 旧街道らしい家並みが残る。

Img_5693 横山味噌醤油店の店蔵

Img_5690 説明板

Img_5687 裏側に続く横山家の方が広く立派か。

Img_5699 玄光庵(左)・熊野神社(右)

玄光庵は仙台七福神の寿老人

Img_5700 旧検断所屋敷(青葉神社の手前)

Img_5703 青葉神社

仙台藩祖伊達政宗を祀る明治7年に建てられた新しい神社。

Img_5705 東昌寺

北山五山(仙台城の鬼門を守る寺)の一つ。

Img_5712 マルミガヤ(国指定天然記念物)

Img_5710 説明板

Img_5711 丸い種子で「マルミガヤ」

通常は楕円形だそうだ。

Img_5715 支倉常長の墓(光明寺境内)

右はソテロ(慶長遣欧使節団の案内人の宣教師)の墓。光明寺も北山五山の一つ。

Img_5714 説明板

Img_5727 堤人形・松川ダルマ製作所 《地図

Img_5726 隣りの堤焼の佐大商店(青葉区堤町2-11)

現在は「堤町まちかど博物館・佐大ギャラリー」

Img_5730 登り窯(佐大商店の裏側) 6つ並んでいる。

このあたりは江戸時代の中頃から昭和20年代にかけて、焼物一色の街で、水がめ、どんぶりなどの生活用具や、堤人形で親しまれている土人形を作っていた。次第に周囲に住宅、団地が増え、黒煙を吹き出す登り窯は敬遠され、昭和40年代には堤焼の窯の火は消えた。

Img_5734 堤焼の水がめなどを、まちかど博物館の館長、佐藤達夫氏に案内、説明していただいた。

Img_5738_2 御仲下改所(おすあいどころ)跡の記念説明板

仙台藩が城下に持ち込まれる商品から税を取った番所。東の原町、西の八幡町、南の河原町とここ北の堤町に設置された。はっきりした場所が分かっているのはここだけという。建物は老朽化して危険なため平成13年に取り壊された。

Img_5740 青笹不動尊

仙台藩七北田刑場に引かれて行く囚人が青笹の生い茂る泉で末期の水を飲まされたという。

Img_5739 由来

Img_5741 不動さん

天保9年(1838)の作

Img_5748 このあたりは切通された道で両側には樹木が多い。往時は一面の青笹が茂っていたのだろう。

Img_5759 日向(ひなた?)坂(坂上方向) 県道22号の虹の丘入口交差点から県道沿いに北に上る。 【ルート地図】の②

読み方は「ひなた」か? 東側が開けて陽射しを受けているからか?

Img_5762 坂下方向

Img_5763 緩やかに上って仙台藩刑場跡へ

Img_5765 仙台藩刑場跡(日向坂の途中)

178年間で百姓、町人など5300~7000人もの刑を執行したという。中には無実や軽い罪で処刑された庶民も多くいたことだろう。南無・・・

左の地蔵は丸く肥った薄気味悪い顔のように感じる。

Img_5764 説明板

Img_5766 西を向く地蔵

Img_5781 ニ柱(ふたはしら)神社

七夕の短冊にいろんな願い事が書かれている。

Img_5782 中央の馬櫪神(ばれきじん)とは「馬の守護神で両足で猿とセキレイを踏み、両手に剣を持った姿が描かれる。」というが、ここのは文字だけで、この後の道筋でもいくつか見かけたが全部文字だけの物だった。馬頭観音の神さまバージョンか。

Img_5791 市名坂(坂下方向) 南東に緩やかに下る泉ケ丘通り。《地図

ここは七北田(ななきた)宿の下町で市が開かれていたのか。

Img_5793 坂上方向

Img_5795 七北坂(坂上方向)

Img_5797 本郷医院の土塀と医薬門

だいぶ老朽化している。補修しているのだろうか?

Img_5798 坂下方向

Img_5810丁切根(ちょうぎね)あたりで左に入るのが旧道

ここにあった旧家の屋号で、宿場の出入口の木戸の役目とその鍵番をしていたらしい。

Img_5825 大曲坂 国道4号の大沢二丁目バス停近くの交差点から北に入り、曲がりながら北西方向に上る。【ルート地図】の③

今でも大きく曲がる坂ではあるが旧道の面影はないただの坂。

Img_5831 坂上方向

道沿いには何もない。北側にケーズ電気の大きな建物があるが。

Img_5835 金玉(きんぎょく)神社 

金玉とは座頭の名で残念? 勾当の位とは盲人の官位で、検校→勾当→座頭の順。勾当台公園も盲目の狂歌師、花村勾当の屋敷があった所。

Img_5836 由来

Img_5837 杖の代りに木の枝が奉納か

Img_5839 さるはな坂(坂下方向) 大曲坂から続いて富谷町へ下る国道4号。《地図

右上はシンフォニータワー(富谷配水池)で展望台もある。

Img_5843 坂下方向

坂名の由来不明

Img_5844 大清水石盥 【ルート地図】の④

新妻豊前という武士が、病気で倒れた家臣ののどを潤すために、持っていた槍の先で岩を掘ったところ冷水が湧き出たといわれている。富谷の茶とともにこの街道を行き交う人々から親しまれ、愛されてきたという。

弘法大師の杖で湧き出た泉は各地にあるが、武士の槍は珍しいか。

Img_5846 由来

Img_5848 今でも水が流れている

Img_5857 高台に住宅が並んでいる。

Img_5854ゆっぽ(スーパー銭湯)

ひと風呂浴びて、生ビールでも飲みたいところだが、じっと我慢で通り過ぎる。

Img_5861 熊谷寺

Img_5862 田圃の向うに日吉神社の鳥居(左)と薬師堂(右)

Img_5863 日吉神社の由緒

Img_5864 日吉神社の山王鳥居

Img_5865 日吉神社

Img_5881 薬師堂

Img_5877 由緒

Img_5887 一枚沖交差点から右へ入り富谷宿へ

Img_5953 富谷宿案内図

Img_5892 八雲神社①

富谷宿の南の入口の高台

Img_5889 由緒

Img_5897 熊野神社

もとは現在地より東にあったが、元和6年(1620)に富谷宿が開設された時に宿場の入口に移設された。

Img_5896 由緒

Img_5902 中宿の通り(本陣方向)

宿場通りの面影が残っている。

Img_5904 富谷新町八景案内板

Img_5905 八景の絵

Img_5903 恋路の坂(中宿の通りから南に入り、緩やかに上る路地の坂) 【ルート地図】の⑤

大正時代のアララギ派の歌人、原阿佐緒とアインシュタインの弟子の物理学者、東北帝国大学教授石原純が恋の逢瀬をした坂という。

原阿佐緒は純粋、多感、美貌の抒情歌人で波乱に富んだ生涯を送った。『原阿佐緒記念館』のHPには阿佐緒の写真や石原純との「恋愛事件」の顛末などが載っている。東京の八王子市と町田市の境にも「恋路の坂」があるが悲恋の哀しい物語の坂。ここの坂の二人の恋路の行く末も、幸せとはならなかった。

Img_5906 「奥州道 恋路の坂や 茶の香り」

Img_5911_2 坂上方向

Img_5929 坂下方向

Img_5913 富谷の茶畑

Img_5912 案内板

Img_5924 毘沙門堂と六地蔵(下)

Img_5923 由緒

Img_5916 毘沙門堂(中)・天満宮(右)・明歴稲荷大明神(左)

Img_5930阿部八味噌醤油店?

享保20年(1735)の創業

Img_5931 本陣跡(内ケ崎酒造店)

Img_5932 説明板

Img_5938_2地酒「鳳陽」の内ケ崎酒造店

Img_5939 杉玉が吊ってある

Img_5941 内ケ崎三郎生誕地(本陣の向い側)

Img_5942 説明板

Img_5944 富谷宿(熊野神社方向)

右が本陣

Img_5945 富谷宿資料館・地場産品販売所

天保14年(1843)創業の「佐忠」が、明治末期に呉服店として建てた土蔵を改修した。

Img_5950 脇本陣跡

明治天皇が東北巡幸の折、小休止したそうだ。

Img_5949 説明板

Img_5951 旧家

Img_5956 内ケ崎家別邸

敷地面積3500㎡の回遊式庭園のある邸宅。

Img_5958 説明板

Img_5968 代官松

代官所の玄関前にあった樹齢200くらいの松。代官所は富谷小学校となり、今は中央公民館。

Img_5966 説明板

Img_5964 八雲神社②

富谷宿の北側の入口の高台

Img_5963 説明板

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月 2日 (日)

仙台市の坂-1

2009年7月27日

仙台駅・・・愛宕上杉通り・・・六道の辻(跡)・・・荒町・・・昌伝庵・・・仏眼院・・・満福寺・・・石名坂・円福寺・・・県道54号・・・姉歯横丁・(地下鉄愛宕橋駅)・・・(国道4号)・・・東北学院大・・・鹿子清水通り・・・県立工高・中ノ坂・・・鍛冶屋前丁通り・・・霊屋橋(広瀬川)・・・鹿落坂・鹿落観音・・・瑞鳳殿・瑞鳳寺・・・評定河原橋(広瀬川)・・・藤ケ坂・藤坂神社・・・青葉通り・・・大坂・大橋(広瀬川)・・・五色沼・・・大手門跡・脇櫓・・・仙台城跡(青葉城址)・・・扇坂跡・・千貫沢・・行人坂(新扇坂)・・・東北大学・・・亀岡八幡宮・・・法楽寺観音堂・・・夫婦坂①・・・牛越橋(広瀬川)・・・夫婦坂②・・・来迎寺・・・作並街道(国道48号)・・・四ツ谷用水・大崎八幡神社・・・龍宝寺・・・唸坂(鰻坂)・・・国見駅(仙山線)

 東北地方は梅雨明け前だが、今日の仙台は晴れて蒸し暑い。仙台駅から愛宕上杉通りを南へ向う。六本の道が集まり、六地蔵が立っていたという六道の辻も姿を変え昔の面影はない。荒町交差点から東に入る。この通りは歩道がなく、車の通行も多くて歩きにくい。おまけに石名坂は工事中で、仙台まで落ち延びて来た坂道散歩もこの先どうなることやら。

 米ケ袋の中ノ坂を上り、霊屋橋を渡ると広瀬川を下に見ながら鹿落(ししおち)坂が上っている。広瀬川の眺めのいい長い坂でやっと坂道散歩の気分になってきた。坂上から観光客が多い瑞鳳殿に寄り、評定河原橋へ下り、藤坂神社脇の藤ケ坂の石段を上る。藤坂神社は意外に小さかった。青葉通りの大町交差点から大坂を下り、青葉城址(仙台城跡)へ汗を拭き拭き上る。車もけっこう通り青葉城恋歌なんか歌う雰囲気も余裕もない。見物人が多い本丸跡で小休止して同じ道を引き返す。

 大手門跡から扇坂跡を通り、行者とは程遠い活気のない、同じような顔、姿の学生が行き交う行人坂を上ると東北大学だ。まだ夏休みではないのだろうか。仙台には「東北」がつく大学が多い。ざっと地図を見ただけでも、東北大、東北学院大、東北福祉大、東北生活文化大、東北薬科大、東北文化学園大、東北工大、そんなに「東北」にこだわらなくてもいいだろうに。といっても他に適当な名もないのだろう。まあ、こちとら他国の遊興人にとってはどうでもいいことだが。

 夫婦坂に向う途中で亀岡八幡宮の鳥居前に出た。元禄2年に芭蕉も上った365段の石段を上る。暑い暑いだ。社殿からは芭蕉らが眺めた眺望もきかず、ただただ暑いのみ。夫婦坂を牛越橋へ下り、大崎八幡神社へ上り返し、龍宝寺から今日最後の唸(うなり)坂に取り掛かる。車の往来の激しい、曲がりながら上る急坂で、「うなる」というより「うねり」坂だなんて考えながら上って行ったが、どうも感じが違うようだ。右を見ると大崎八幡の敷地だ。折角かなり上って引き返すことになり、上って来る自動車に唸りたくなった。

 唸坂は一本西側の道で北西に国見峠まで上る長い坂だ。牛でなくても荷物を背負わされて下れば唸り声の出るような坂だ。国見駅まで上って、東北文化学園大の学生達と仙山線に乗る。何とか座れて冷房の涼しさで人心地ついた。後は仙台駅まで4駅。ところが山形県境あたりの集中豪雨のせいでダイヤが乱れ、北仙台駅で立往生してしまった。ここまで来て何だと唸りたくもなったが、幸い20分ほどで動き出し無事仙台駅に到着。雨もほとんど上がった中をホテルに向った。それにしても歩いている間は雨の一しずくにも逢わなかったのはついていたというべきだろう。後は、フロに入ってしこたまビールを飲むだけだ。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_5387昌伝庵

仙台四大画家(東東洋(あずまとうよう)、 小池曲江、 菅井梅関、 菊田伊州)の一人、東東洋の墓がある。

Img_5386 由緒

Img_5395 満福寺(荒町の毘沙門さん)

藤原秀衡が運慶に作らせたという毘沙門天像は寅年の夏祭りの時にしか開帳されない。

江戸時代、仙台藩では相撲興行を打てる場所として 5ヶ所を指定した。その中で最も多く興行が行われたのがここだったそうだ。

Img_5394 説明板

Img_5396 日限地蔵は仙台ではここだけだそうだ。

Img_5399 仙台七福神

Img_5407 石名坂(北方向に緩やかに上って円福寺前を通って下り、また上って、右に曲がって穀町へと下る。) 仙台七坂の一つ 【ルート地図】の①

江戸吉原の遊郭で全盛を極めた名妓、花魁の「石名太夫」にちなむ坂名。石名の没後の明暦年間(1655~58)の頃、吉原の遊女や楼主、茶屋などが追善供養のために大般若経600巻を送ってきた。今も円福寺に保存されている。石名という地名は名妓石名より古くからあったという説もある。『仙台地名考』 

仙台七坂の一つだが、坂名の由来話はともかく、坂自体は面白味がない。坂名の「石名」の名は地名学上、土地の意を表す場合が多く、石が多かった所という地名か。地名の石名に、人名の「いしな」さんの話をくっつけて坂名の由来としたのだろう。神奈川県海老市(一部は座間市)、岩手県奥州市の水沢にも石名坂がある。

仙台七坂とは、「石名坂、大坂、新坂(にいざか)、扇坂、元貞坂(げんていざか)、茂市ケ坂、藤ケ坂」をいうが、坂らしいのは新坂ぐらいで、扇坂は跡が残るだけ。

Img_5411 円福寺前を通り下った北側から

傾斜はゆるい。

Img_6211 さらに北へ上った所から

ここから東に曲がって下る。(2009年7月29日撮影)

Img_6209 曲がって下った途中から

ここが一番傾斜がある。

Img_5410簡易な坂標だが経費もかからず、汚れたり破損した時にはすぐに何度でも取り替えられるので好都合か。こまめに張り替えてもらいたい。

Img_5408 円福寺(仙台三十三観音 第20番札所)

石名坂の途中

Img_5409 「花魁石名太夫之碑」、左は墓標で、承応3年(1654)と刻まれているそうだ。(山門を入った左側)

石名太夫は吉原遊郭が浅草に移る前の日本橋人形町にあった時の売れっ子の花魁で、明暦の大火にも逢わずに亡くなったのだろう。この墓標はあちこちと動かされたり、土中に埋められたりしたそうだ。ここに移される前は坂下に立っていたという。

Img_5417 中ノ坂(坂上方向) 米ケ袋鹿子清水通りと米ケ袋鍛冶屋前丁通りの間(中)を北東に上る坂。《地図》

鹿子清水通りは片平丁東端から南へ広瀬川の徒渉場に下る坂道で、北西角の鹿にまつわる伝説を持つ鹿子清水(鹿落坂の由来の伝説)があってこの町名の由来となった。『辻標』

仙台三清水の一つの鹿子清水は民家の宅地内にあり、池の水として利用されてきたが、水量が減って利用されなくなったという。坂の途中にマンション「ルミエール中ノ坂」がある。

Img_5418 坂上の所だけ傾斜がきつくなる。

Img_5424 霊屋(おたまや)橋から広瀬川と右が鹿落坂

Img_5427 鹿落(ししおち)坂(坂上方向)南へ上る坂。 【ルート地図】の②

鹿子清水、篭鹿袋(こめがふくろ)、鹿落坂など藩政初期このあたりには鹿が多かった。元来険しかったこの坂も、八木山の開発とともに緩やかで幅広い安全な道となった。瑞鳳寺下の米ヶ袋への渡口は宝暦年間に新設。明治時代まで舟で渡し、大正四年に本格的な橋(霊屋橋)がかけられた。『辻標』

昔はこの坂の上から八木山一帯にかけ、鹿(かのしし)と猪(いのしし)が多く棲んでいて、藩政時代は殿様のお山追といわれた鹿、猪の巻き狩の場所だった。その頃は鹿や猪がこの坂を下りて広瀬河原に食物を求めに来るのでこの名が生まれたという。地元では「ししがおりる」と言うべきを「ししがおちる」といい、「おちる」は「うちる」と言うのが仙台の訛言であり、地元では「ししうちざか」と呼んでいた。『仙台地名考』

鹿落旅館のHPによると、「鹿落」の由来は、身籠った鹿が広瀬川を渡り、清水を飲みに行く途中、誤って崖からすべり落ちて負傷した。清水を飲むために鹿の歩んだ道を「鹿の子清水」と呼び、鹿のすべり落ちた場所を「鹿落坂」と呼ぶようになった。傷の治療と安産を兼ねて浸かったお湯が鹿落温泉ということ。ここでは「おちる」を「下(お)りる」でなく「落ちる」の意としている。

Img_5429 坂上方向

歩道がついておらず、今は鹿(しし)ではなくじじ(爺)、ばば(婆)が車に跳ねられて落ちそうな坂だ。

Img_5432 坂上方向

Img_5440 坂下方向

左は鹿落旅館

Img_5442 鹿落旅館・鹿落観音(石段上)

鹿落旅館は東日本大震災の被害で解体・撤去されたそうだ。

Img_5444 鹿落観音

「うどんげ観音」とも呼ばれる仙台三十三観音第33番札所。

Img_5443 由来

Img_5446 瑞鳳殿

寛永13年(1636)に没した仙台藩祖伊達政宗の遺命により、その翌年ここ経ケ峯に造営された霊屋(おたまや・霊廟)

Img_5455 瑞鳳寺

Img_5453 由緒

Img_5458 高尾門(冠木門)

高尾とは江戸吉原三浦屋の高尾太夫で伊達家三代目の綱宗に身請けされたとも、綱宗を袖に振ってつるし斬りにされたとも。落語の『反魂香』はつるし斬りされた方のお噺。

Img_5457 説明板①

こっちは身請けされて幸せに暮らした方の話か。

Img_5459 説明板②

Img_5470 評定河原橋

河原に評定所が置かれていた。広瀬川は、大橋から南~北~評定河原橋~南~霊屋橋へと蛇行を繰り返す。

Img_5479 藤ケ坂(藤坂神社脇の石段) 《地図》(道の標示はない)

仙台七坂の一つ。坂の途中の藤坂神社には大正から昭和にかけて道路の向い側にあった仙台平(せんだいひら)の織物工場の織姫様が祀られている。

Img_5477 藤坂神社

Img_5484 坂上の片平丁通りから

藤棚が掛かっている。

Img_5485 大坂(坂下方向) 大橋から北東に大町交差点に上る坂。《地図

仙台七坂の一つで、大町頭から大橋にいたる坂。藩政時代は屈折した急坂だったが明治以後直線化・勾配暖和工事が進められた。南側には有事の際に大橋焼き落としの備えとする竹籬(たかがき)が、また大橋たもとには肴蔵があり、中央の吹抜けが琵琶首丁と仲ノ町の通路となっていた。『辻標』

Img_5490 坂上方向

Img_5491 大橋から広瀬川

Img_5496 五色沼

以前は冬は氷が張ってスケートができたようだ。今は五色というよりどろっと濁った沼の感じだ。

Img_5514 大手門脇櫓

大手門はない。

Img_5510 昭和20年7月の仙台空襲で焼失する前の大手門と脇櫓

Img_5502 城壁の石垣

明治の役人もこれは破却できなかったようだ。

Img_5509 説明板

Img_5505 仙台城跡(青葉城)の伊達政宗像

Img_5508 仙台城の歴史

Img_5503_2中央の白い像は仙台大観音(白衣大観音)だろう。

Img_5506 護国神社

Img_5520 扇坂跡 《地図

千貫沢の筋違橋から二の丸に上る坂だった。藩士は普段は大手門は通れずこの坂を上って登城した。今は廃道だが仙台七坂の一つ。仙台中心部には定禅寺通り、花京院通りなど今はなき寺の名を冠した通りがある。

Img_5518 説明文

Img_5517 地図

Img_5521 道跡らしいのが残っている。

Img_5524_2 千貫沢の流れの名残り

Img_5525 行人坂(新扇坂) 【ルート地図】の③

二の丸北裏にあった御裏池から広瀬川に注ぐ千貫沢の北にあり、川内山屋敷に続く坂。坂を登り詰めた所の南側に榎の老木があり、昔この地に庵を結んだ行人の塚があったのでこの名がついたという。現在は扇坂と呼ばれているが、二の丸登城口であった本来の扇坂は(千貫)沢の南側にあり廃道となっている。『辻標』

Img_5527 坂下方向

Img_5532 亀岡八幡宮への石段下

ここから不規則な石段を(出世階段)を上る。

Img_5533 説明板

Img_5535 出世階段(365段)を上る。一旦平らになってまた上る。出世祈願で参ったのではないが、この蒸し暑さには参った。

Img_5539 亀岡八幡宮 

かなりの高さがあるが、今は芭蕉が「奥の細道」の旅でここを訪れた時に眺めた金華山などの遠望はない。

Img_5540仙台三十三観音第1番法楽院観音堂

伊達氏の入府以前から現在の仙台城の地にあったと伝えられ、築城のためこの地に移された。法楽院は廃寺となり観音堂だけが残る。聖観世音菩薩像は運慶の作と伝える。この下の広瀬川は観音渕という。

Img_5553 夫婦坂①(坂下方向、牛越橋へ下って行く坂) 【ルート地図】の④

Img_5562 牛越(うしごえ)橋から広瀬川

仙台城普請の際に、渡河地点に石を積んで河床路を作り、国見峠付近から切り出した石を牛車に曳かせたため、この名がついたといわれる。橋ができる明治中期までは舟で往来する牛越渡戸(わたど)で、仙台三渡戸の一つであった。角五郎渡戸とも呼ばれた。『辻標』

Img_5564 夫婦坂②(牛越橋から八幡町へ上って行く坂)

『辻標』では「牛越渡戸から亀岡に上る坂」としているが、これでは「夫婦」の坂にならない。牛越橋を挟んで向き合う二つの坂を夫婦にたとえて、「夫婦坂」と呼ぶのだろう。この坂は正面から向き合ってはいないが、まあ世間にはいろんな夫婦があるから。

Img_5566 坂下方向

Img_5573 来迎寺

名に似合わず庶民的な民家風な造りがいい。

Img_5571 モクリコクリの碑(来迎寺境内)

「蒙古・高麗」のこと。この碑の粉が百日咳に効くといわれ長年にわたって削り取られた。

Img_5570 碑文

Img_5567 説明板

Img_5579 大崎八幡神社

Img_5595 由緒

Img_5596 長床(ながとこ)(割拝殿)

Img_5600 社殿

Img_5607 龍宝寺金堂

伊達家の祈願寺で、明治の神仏分離までは龍宝寺八幡宮と称していた。

Img_5618 縁起

Img_5611 釈迦堂

金売吉次(源義経が奥州平泉に下るのを助けた人物)が勧請したという釈迦如来像は国の重文。出世、願掛け、子育て如来としてご利益多しという。

Img_5617 四ツ谷用水

藩政時代の初期から計画、着手された城下住民の生活、防火用水、下水路、水田耕作用水。

Img_5580 説明板

Img_5632 唸(うなり)坂 【ルート地図】の⑤

寛永十五年(1638)仙台城二の丸が造営されるとき、国見峠付近から石材を掘り出し牛にひかせてこの坂を下り、川内まで運んだ。石切場から山上清水東端におりていく急な坂道を、牛の群れが力をふりしぼり唸り唸り下ったので唸坂(うなりざか)という。鰻(うなぎ)坂ともいうが、これは後世の訛りである。『辻標』

この坂道は急で滑りやすい道だったので、「唸り」が訛って「鰻坂」とも呼ばれた。

また、この坂には伊達政宗の「川獺(かわうそ)の大入道退治」(宮城県の事例)という由来もあるそうだ。こっちの方が話としては面白く受けるだろう。

Img_5627 『辻標』(唸坂の坂下)

「山上清水」は、「伝説に、弘法大師が錫杖を突き立てたところに枯れることのない清水が湧き出したというのが名水・山上清水で、地名の起源ともなった。また、城下の西口にあたるこの地は人馬の往来で茶屋が栄え、茶屋町ともいわれた。山際には、市内を貫流する四ツ谷堰の源となる水路がある。」

Img_5634 坂上方向

Img_5640 坂下方向

Img_5648 坂の途中の馬頭観音(文政9年)など。

Img_5667 国見駅(仙山線)

この先、国見ケ丘・国見峠(標高230m)まで上って行く。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »