仙台市の坂-1
仙台駅・・・愛宕上杉通り・・・六道の辻(跡)・・・荒町・・・昌伝庵・・・仏眼院・・・円福寺・・・石名坂・円福寺・・・県道54号・・・姉歯横丁・(地下鉄愛宕橋駅)・・・(国道4号)・・・東北学院大・・・鹿子清水通り・・・県立工高・中ノ坂・・・鍛冶屋前丁通り・・・霊屋橋(広瀬川)・・・鹿落坂・鹿落観音・・・瑞鳳殿・瑞鳳寺・・・評定河原橋(広瀬川)・・・藤ケ坂・藤坂神社・・・青葉通り・・・大坂・大橋(広瀬川)・・・五色沼・・・大手門跡・脇櫓・・・仙台城跡(青葉城址)・・・扇坂跡・・千貫沢・・行人坂(新扇坂)・・・東北大学・・・亀岡八幡宮・・・法楽寺観音堂・・・夫婦坂①・・・牛越橋(広瀬川)・・・夫婦坂②・・・来迎寺・・・作並街道(国道48号)・・・四ツ谷用水・大崎八幡神社・・・龍宝寺・・・唸坂(鰻坂)・・・国見駅(仙山線)
東北地方は梅雨明け前だが、今日の仙台は晴れて蒸し暑い。仙台駅から愛宕上杉通りを南へ向う。六本の道が集まり、六地蔵が立っていたという六道の辻も姿を変え昔の面影はない。荒町交差点から東に入る。この通りは歩道がなく、車の通行も多くて歩きにくい。おまけに石名坂は工事中で、仙台まで落ち延びて来た坂道散歩もこの先どうなることやら。
米ケ袋の中ノ坂を上り、霊屋橋を渡ると広瀬川を下に見ながら鹿落(ししおち)坂が上っている。広瀬川の眺めのいい長い坂でやっと坂道散歩の気分になってきた。坂上から観光客が多い瑞鳳殿に寄り、評定河原橋へ下り、藤坂神社脇の藤ケ坂の石段を上る。藤坂神社は意外に小さかった。青葉通りの大町交差点から大坂を下り、青葉城址(仙台城跡)へ汗を拭き拭き上る。車もけっこう通り青葉城恋歌なんか歌う雰囲気も余裕もない。見物人が多い本丸跡で小休止して同じ道を引き返す。
大手門跡から扇坂跡を通り、行者とは程遠い活気のない、同じような顔、姿の学生が行き交う行人坂を上ると東北大学だ。まだ夏休みではないのだろうか。仙台には「東北」がつく大学が多い。ざっと地図を見ただけでも、東北大、東北学院大、東北福祉大、東北生活文化大、東北薬科大、東北文化学園大、東北工大、そんなに「東北」にこだわらなくてもいいだろうに。といっても他に適当な名もないのだろう。まあ、こちとら他国の遊興人にとってはどうでもいいことだが。
夫婦坂に向う途中で亀岡八幡宮の鳥居前に出た。元禄2年に芭蕉も上った365段の石段を上る。暑い暑いだ。社殿からは芭蕉らが眺めた眺望もきかず、ただただ暑いのみ。夫婦坂を牛越橋へ下り、大崎八幡神社へ上り返し、龍宝寺から今日最後の唸(うなり)坂に取り掛かる。車の往来の激しい、曲がりながら上る急坂で、「うなる」というより「うねり」坂だなんて考えながら上って行ったが、どうも感じが違うようだ。右を見ると大崎八幡の敷地だ。折角かなり上って引き返すことになり、上って来る自動車に唸りたくなった。
唸坂は一本西側の道で北西に国見峠まで上る長い坂だ。牛でなくても荷物を背負わされて下れば唸り声の出るような坂だ。国見駅まで上って、東北文化学園大の学生達と仙山線に乗る。何とか座れて冷房の涼しさで人心地ついた。後は仙台駅まで4駅。ところが山形県境あたりの集中豪雨のせいでダイヤが乱れ、北仙台駅で立往生してしまった。ここまで来て何だと唸りたくもなったが、幸い20分ほどで動き出し無事仙台駅に到着。雨もほとんど上がった中をホテルに向った。それにしても歩いている間は雨の一しずくにも逢わなかったのはついていたというべきだろう。後は、フロに入ってしこたまビールを飲むだけだ。
【地図】
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仙台四大画家(東東洋(あずまとうよう)、 小池曲江、 菅井梅関、 菊田伊州)の一人、東東洋の墓がある。
藤原秀衡が運慶に作らせたという毘沙門天像は寅年の夏祭りの時にしか開帳されない。
江戸時代、仙台藩では相撲興行を打てる場所として 5ヶ所を指定した。その中で最も多く興行が行われたのがここだったそうだ。
石名坂(北方向に緩やかに上って円福寺前を通って下り、また上って、右に曲がって穀町へと下る。) 仙台七坂の一つ
江戸吉原の遊郭で全盛を極めた名妓、花魁の「石名太夫」にちなむ坂名。石名の没後の明暦年間(1655~58)の頃、吉原の遊女や楼主、茶屋などが追善供養のために大般若経600巻を送ってきた。今も円福寺に保存されている。石名という地名は名妓石名より古くからあったという説もある。『仙台地名考』
仙台七坂の一つだが、坂名の由来話はともかく、坂自体は面白味がない。坂名の「石名」の名は地名学上、土地の意を表す場合が多く、石が多かった所という地名か。地名の石名に、人名の「いしな」さんの話をくっつけて坂名の由来としたのだろう。神奈川県海老市(一部は座間市)、岩手県奥州市の水沢にも石名坂がある。
仙台七坂とは、「石名坂、大坂、新坂(にいざか)、扇坂、元貞坂(げんていざか)、茂市ケ坂、藤ケ坂」をいうが、坂らしいのは新坂ぐらいで、扇坂は跡が残るだけ。
傾斜はゆるい。
ここから東に曲がって下る。(2009年7月29日撮影)
ここが一番傾斜がある。
簡易な坂標だが経費もかからず、汚れたり破損した時にはすぐに何度でも取り替えられるので好都合か。こまめに張り替えてもらいたい。
円福寺(仙台三十三観音 第20番札所)
石名坂の途中
「花魁石名太夫之碑」、左は墓標で、承応3年(1654)と刻まれているそうだ。(山門を入った左側)
石名太夫は吉原遊郭が浅草に移る前の日本橋人形町にあった時の売れっ子の花魁で、明暦の大火にも逢わずに亡くなったのだろう。この墓標はあちこちと動かされたり、土中に埋められたりしたそうだ。ここに移される前は坂下に立っていたという。
中ノ坂(坂上方向) 米ケ袋鹿子清水通りと米ケ袋鍛冶屋前丁通りの間(中)を北東に上る坂。《地図》
鹿子清水通りは片平丁東端から南へ広瀬川の徒渉場に下る坂道で、北西角の鹿にまつわる伝説を持つ鹿子清水(鹿落坂の由来の伝説)があってこの町名の由来となった。『辻標』
仙台三清水の一つの鹿子清水は民家の宅地内にあり、池の水として利用されてきたが、水量が減って利用されなくなったという。坂の途中にマンション「ルミエール中ノ坂」がある。
鹿子清水、篭鹿袋(こめがふくろ)、鹿落坂など藩政初期このあたりには鹿が多かった。元来険しかったこの坂も、八木山の開発とともに緩やかで幅広い安全な道となった。瑞鳳寺下の米ヶ袋への渡口は宝暦年間に新設。明治時代まで舟で渡し、大正四年に本格的な橋(霊屋橋)がかけられた。『辻標』
昔はこの坂の上から八木山一帯にかけ、鹿(かのしし)と猪(いのしし)が多く棲んでいて、藩政時代は殿様のお山追といわれた鹿、猪の巻き狩の場所だった。その頃は鹿や猪がこの坂を下りて広瀬河原に食物を求めに来るのでこの名が生まれたという。地元では「ししがおりる」と言うべきを「ししがおちる」といい、「おちる」は「うちる」と言うのが仙台の訛言であり、地元では「ししうちざか」と呼んでいた。『仙台地名考』
鹿落旅館のHPによると、「鹿落」の由来は、身籠った鹿が広瀬川を渡り、清水を飲みに行く途中、誤って崖からすべり落ちて負傷した。清水を飲むために鹿の歩んだ道を「鹿の子清水」と呼び、鹿のすべり落ちた場所を「鹿落坂」と呼ぶようになった。傷の治療と安産を兼ねて浸かったお湯が鹿落温泉ということ。ここでは「おちる」を「下(お)りる」でなく「落ちる」の意としている。
歩道がついておらず、今は鹿(しし)ではなくじじ(爺)、ばば(婆)が車に跳ねられて落ちそうな坂だ。
左は鹿落旅館
鹿落旅館は東日本大震災の被害で解体・撤去されたそうだ。
「うどんげ観音」とも呼ばれる仙台三十三観音第33番札所。
寛永13年(1636)に没した仙台藩祖伊達政宗の遺命により、その翌年ここ経ケ峯に造営された霊屋(おたまや・霊廟)
高尾とは江戸吉原三浦屋の高尾太夫で伊達家三代目の綱宗に身請けされたとも、綱宗を袖に振ってつるし斬りにされたとも。落語の『高尾』・『反魂香』はつるし斬りされた方のお噺。
こっちは身請けされて幸せに暮らした方の話か。
河原に評定所が置かれていた。広瀬川は、大橋から南~北~評定河原橋~南~霊屋橋へと蛇行を繰り返す。
藤ケ坂(藤坂神社脇の石段) 《地図》(道の標示はない)
仙台七坂の一つ。坂の途中の藤坂神社には大正から昭和にかけて道路の向い側にあった仙台平(せんだいひら)の織物工場の織姫様が祀られている。
藤棚が掛かっている。
大坂(坂下方向) 大橋から北東に大町交差点に上る坂。《地図》
仙台七坂の一つで、大町頭から大橋にいたる坂。藩政時代は屈折した急坂だったが明治以後直線化・勾配暖和工事が進められた。南側には有事の際に大橋焼き落としの備えとする竹籬(たかがき)が、また大橋たもとには肴蔵があり、中央の吹抜けが琵琶首丁と仲ノ町の通路となっていた。『辻標』
以前は冬は氷が張ってスケートができたようだ。今は五色というよりどろっと濁った沼の感じだ。
大手門はない。
明治の役人もこれは破却できなかったようだ。
仙台城の歴史
中央の白い像は仙台大観音(白衣大観音)だろう。
扇坂跡 《地図》
千貫沢の筋違橋から二の丸に上る坂だった。藩士は普段は大手門は通れずこの坂を上って登城した。今は廃道だが仙台七坂の一つ。仙台中心部には定禅寺通り、花京院通りなど今はなき寺の名を冠した通りがある。
二の丸北裏にあった御裏池から広瀬川に注ぐ千貫沢の北にあり、川内山屋敷に続く坂。坂を登り詰めた所の南側に榎の老木があり、昔この地に庵を結んだ行人の塚があったのでこの名がついたという。現在は扇坂と呼ばれているが、二の丸登城口であった本来の扇坂は(千貫)沢の南側にあり廃道となっている。『辻標』
ここから不規則な石段を(出世階段)を上る。
出世階段(365段)を上る。一旦平らになってまた上る。出世祈願で参ったのではないが、この蒸し暑さには参った。
かなりの高さがあるが、今は芭蕉が「奥の細道」の旅でここを訪れた時に眺めた金華山などの遠望はない。
伊達氏の入府以前から現在の仙台城の地にあったと伝えられ、築城のためこの地に移された。法楽院は廃寺となり観音堂だけが残る。聖観世音菩薩像は運慶の作と伝える。この下の広瀬川は観音渕という。
仙台城普請の際に、渡河地点に石を積んで河床路を作り、国見峠付近から切り出した石を牛車に曳かせたため、この名がついたといわれる。橋ができる明治中期までは舟で往来する牛越渡戸(わたど)で、仙台三渡戸の一つであった。角五郎渡戸とも呼ばれた。『辻標』
『辻標』では「牛越渡戸から亀岡に上る坂」としているが、これでは「夫婦」の坂にならない。牛越橋を挟んで向き合う二つの坂を夫婦にたとえて、「夫婦坂」と呼ぶのだろう。この坂は正面から向き合ってはいないが、まあ世間にはいろんな夫婦があるから。
名に似合わず庶民的な民家風な造りがいい。
「蒙古・高麗」のこと。この碑の粉が百日咳に効くといわれ長年にわたって削り取られた。
伊達家の祈願寺で、明治の神仏分離までは龍宝寺八幡宮と称していた。
金売吉次(源義経が奥州平泉に下るのを助けた人物)が勧請したという釈迦如来像は国の重文。出世、願掛け、子育て如来としてご利益多しという。
藩政時代の初期から計画、着手された城下住民の生活、防火用水、下水路、水田耕作用水。
寛永十五年(1638)仙台城二の丸が造営されるとき、国見峠付近から石材を掘り出し牛にひかせてこの坂を下り、川内まで運んだ。石切場から山上清水東端におりていく急な坂道を、牛の群れが力をふりしぼり唸り唸り下ったので唸坂(うなりざか)という。鰻(うなぎ)坂ともいうが、これは後世の訛りである。『辻標』
この坂道は急で滑りやすい道だったので、「唸り」が訛って「鰻坂」とも呼ばれた。
また、この坂には伊達政宗の「川獺(かわうそ)の大入道退治」(宮城県の事例)という由来もあるそうだ。こっちの方が話としては面白く受けるだろう。
「山上清水」は、「伝説に、弘法大師が錫杖を突き立てたところに枯れることのない清水が湧き出したというのが名水・山上清水で、地名の起源ともなった。また、城下の西口にあたるこの地は人馬の往来で茶屋が栄え、茶屋町ともいわれた。山際には、市内を貫流する四ツ谷堰の源となる水路がある。」
この先、国見ケ丘・国見峠(標高230m)まで上って行く。
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