奥州街道(郡山宿→二本松宿)
2009年8月19日
郡山駅(JR東北本線)・・・県道355号・・・会津街道(安積街道)分岐・・・阿邪詞根(あさかね)神社・・・安積橋(逢瀬川)・・・(磐越西線)・・・日吉神社・・・阿弥陀寺・・・豊景神社・・・福原宿・一里坦跡・・・宝沢沼・水神社・・・普賢坂・・・牛ケ池碑・・・旧道・・・川坂・・・(藤田川)・(東北本線)・・・県道355号・日和田宿・・・八幡神社・・・蛇骨地蔵堂・・・安積山公園・・・姉ケ茶屋跡・・・(磐越自動車道)・高倉宿・・・にごり池・・・山清寺・・・鹿島神社・・・五百川橋(五百川)・・・愛宕神社・・・瀬戸川(山田橋)・・・積達騒動鎮定碑・・・本宮宿・会津街道分岐・観音堂・薬師堂・・・南の本陣通り・・・本宮橋(安達太良川)・・・北の本陣通り・・・安達太良神社・・・百日川・・・薬師堂・薬師坂・温石(おんじゃく)坂跡・・・県道355号・・・杉田宿・・・八幡神社・・・(東北本線)・・・(国道4号)・七夜坂跡・・・県道355号・・・羽石川・・・旧道・・・木登り地蔵・・・眼鏡橋(羽石川)・・・(国道459号)・・・大壇坂・・・二本松宿・・・四ツ谷橋(六角川)・・貴船神社・・・大隣寺・・・若宮八幡神社・香泉寺・・・二本松神社・・・二本松駅(JR東北本線)
郡山宿、福原宿を抜け宝沢沼の脇を通り、所々に松並木跡が残る普賢坂を上って下る。旧道の川坂を下り、日和田宿に入る。朝の通勤時間帯で車の通行が多く、歩道のついていない県道は歩きづらい。伝説の蛇骨地蔵堂から人影のない安積山公園に上る。下って道を間違える。随分気をつけてはいたのだが。小雨がぽつぽつと降り出し、県道でも道幅が狭い所があって車道歩きはつらく疲れる。
会津街道が南西に分かれる賑やかな本宮宿で小休止する。百日川を渡ると上りとなって静かな小高い所に薬師堂が立っている。ここから長い薬師坂の下りとなって杉田宿へと下って行く。七夜坂は国道・県道によって胴体をちょん切られた蛇のように、無惨な変わり果てた姿をさらしている。坂の途中から上の方も廃道で、哀れにも頭もつぶされてしまっている。
県道に戻り羽石川を渡ると、頭上に国道459号が通る大壇坂の緩やかな上りとなる。ここは戊辰戦争で西軍と二本松少年隊の間で戦いがあった所だが、文字通り大人(西軍)と子どもの戦いで相手にはならなかったという。少年隊の連中は、武士として出陣できる喜びに意気揚々と、まるで遠足にでも行くかのようにはしゃいで参戦して命を落としたというから哀れな馬鹿げた話だ。今も二本松市の観光は少年隊一色のようで好きになれない。
今回の奥州街道歩きもこれで終わる。予定では本宮宿あたりまでと思っていたが、8月の半ばのわりには涼しくここまで歩けた。
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
道標の立つ辻 《地図》
会津街道(左)・奥州街道(右)分岐
「従是三春道」・「右奥州街道 左会津街道」
寛治3年(1089)に死んだ源義家の副将軍の平忠通が祀られている。
梵字などを配置した曼荼羅が刻まれている。
左下に「石造浮彫阿弥陀三尊塔婆」が置かれている。
中央に釈迦如来、左右に観音と勢至菩薩が膝をかがめて供養しているような姿。「福原石」呼ばれ親しまれている。鎌倉時代末期の作という。
伊達藩では参勤交代の時には必ずここに香花を手向けたという。俗に「仙台仏」というそうだ。
正安3年(1301)のもの1基、文保2年(1318)のもの1基を含む16基の塔婆がここに集められた。
福原宿の「下宿(しもじゅく)」ではなく、アパートなどの下宿(げしゅく)だろうが、右奥の郵便局の手前に「福原宿一里坦跡」の石柱が立っているのでいい道標となっているか。
後三年の役で源義家に従軍し、右目を射られながら奮戦した鎌倉権五郎景政が祭神の一人。鎌倉の権五郎神社(御霊神社)を思い出した。
「出雲流」の「福原の太々神楽」が伝承されている。
宝沢沼 《地図》
灌漑用につくられた人工池
近くに普賢菩薩を祀る寺、お堂があるのか、あったのか?
松並木が一部残る。
向こう側に池はあるのか。
松並木跡、塚らしき跡が残っている。
川坂(坂下方向) 北東に下る坂。《地図》
川は藤田川だろう。
大蛇の人身御供になる佐世姫の「由来話」は、各地に残る『佐世(佐用・小夜)姫伝説』の一つ。『松浦の小夜姫』が本家か? 唐津街道の唐津城下には、佐用姫橋・佐用姫岩がある。
蛇骨で彫った地蔵像が安置されているというが。
佐世姫と人見御供にされた32人の娘達を供養する三十三観音(地蔵堂の裏)
西国三十三観音霊場の仏になっている。
右から 三十一番長命寺・三十二番観音寺(観音正寺)・三十三番谷汲寺(谷汲山華厳寺)
伝説は書いていない。
安積山(あさかやま)は古来の歌枕で、采女伝説の地・芭蕉が「花かつみ」を探し訪ねた所。
芭蕉が尋ね歩いた「花かつみ」を「ヒメシャガ」としている。
あん餅、きな粉餅などを出した茶屋があったという。この地で明治天皇が休憩した記念碑が立つ。むろん茶屋はもうなかった。
にごり(濁り)池 《地図》
確かに濁っている。
愛宕神社 《地図》
無血一揆の記念碑
観音堂(会津街道分岐の所) 《地図》
日本各地いたる所にさまざまな「札所」あり。「人も歩けば札所にあたる」だ。
太郎丸(地名)からここに移した、鎌倉時代の「浮彫阿弥陀三尊来迎塔婆」
本宮宿では戊辰戦争の激しい攻防戦がくりひろげられた。
薬師堂の裏から
安達太良川(手前)が阿武隈川に注ぐ地点
本陣鴫原家の土蔵(本宮宿北宿) 《地図》
全身こってりのなまこ壁がなんともはや・・・。
「薬師の湯」の源泉から引水された水場。
「南杉田温石沢」と「薬師坂」が載る。
堂前にはなぜか狛獅子が守っている。
薬師坂 薬師堂(右)前を北に下る旧道。《地図》
温石(おんじゃく)坂跡 薬師坂のガードレール下の電柱の所を通っている道らしいが、今は畑の中の農作業用の道で一般道ではない。
八幡神社(杉田宿の入口近く) 《地図》
国道4号に阻まれる。
七夜坂は正面の二階建ての家の右へと続いていたのだ。
直進して北西方向に上るのが七夜坂。この先の左側に由来の説明板と歌碑が立つ。
今は美しい少女と雄々しい少年の逢瀬の桜は残らず、道も雑草に覆われた廃道となり、歌碑も由来板も風雨にさらされたままになっている。消え去り行くものの哀れの美を感じる所だ。と言いたいところだが由来板を読む間に藪蚊に刺され参った。
「七夜桜 はるばるここに北杉田 やがて都へ 帰る身なれば」 平安時代初期の藤原実方朝臣の作。
藤原実方は『源氏物語』の光源氏のモデルの一人ともいわれ、清少納言にもちょっかいを出したというプレイボーイの貴公子。一条天皇の前での口論、無作法な振る舞いで、陸奥守に左遷された。赴任中に歌枕の「阿古耶の松」を見に行った帰途、名取の笠島道祖神社前を下馬せずに通ろうとして神罰を受け、落馬して馬に蹴られて死んじまったという哀れでみっともないお兄ちゃん。歌の「やがて都へ 帰る身なれば」は、はかない夢と終わった。死後は怨念により雀に転生し殿上に入り、つまみ食いしたとの逸話も残る。「みじめ、みじめ~」だ。
堂の後ろか右の木の上に地蔵さんがいるというが、いくら目を凝らしても見えず。
厄除け、子守り地蔵尊としてご利益があり会津、仙台、塩釜方面からも人々が参拝、寄進に訪れたそうな。
馬頭観音の手前で左に入るのが旧道の大壇坂で、今は階段になっている。
大壇口では戊辰戦争の際に西軍との激しい戦があった。二本松少年隊も出陣したがあえなく惨敗した。
二本松藩主、丹羽家の歴代の菩提寺
二本松少年隊の墓(大隣寺境内) 《地図》
14名の少年隊士と隊長、副隊長の墓が並ぶ。
ひさしの上に少年隊士の人形が乗っている。藩主丹羽長国はお先にさっさと米沢へ逃亡した。西軍(官軍)と戦い犬死、無駄死させられた少年達を英雄、英霊扱いにして観光の目玉とし、商売、食い物にするのはどこでも、いつでも。懲りない大人達だ。
阿弥陀の銅像は天明2年(1782)の建立。
暑い中をけっこうな距離を歩きバテてきた。霞ケ城公園(二本松城址)はパスして街道に戻り、二本松駅に向かった。
秋の例大祭の「二本松提灯祭り」は「日本三大提灯祭り」の一つ。あとの二つは秋田の竿燈と、尾張津島の天王祭(愛知県津島市の津島神社)だそうだ。
みやげに羊羹を買う。
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