奥州街道(笠石宿→郡山宿)
2009年8月18日
鏡石駅(JR東北本線)・・・西光寺・・・国道4号・・・旧道・須賀川一里塚・・・(東北本線)・・・須賀川宿・・・千日堂・・・南の黒門坂・・・大町よってけ広場・・・軒の栗庭園・・・軒の栗可伸庵跡・・・芭蕉記念館・・・十念寺・八天宮・・・二階堂神社(須賀川城址)・・・神炊館(おたきや)神社・・・弘法壇坂・・・千用寺・・・普應寺・・・北町坂・・・岩瀬の渡し坂・・・雷神社・・・中宿橋(釈迦堂川)・・・鎌足神社・岩瀬の森(跡)・・・上人坦橋(東北本線)・・・宝来寺・・・白石坂・森宿一里塚跡・・・筑後塚供養塔・・・県道355号・・・滑川橋(滑川)・・・子安観音堂・・・(東北本線)・・・(水郡線)・・・(東北新幹線)・・・笹川宿・八雲神社・・・蛍橋(荒川)・・・熊野神社・・・東舘稲荷神社・・・耳語(ささやき)橋(笹原川)・・・日出山宿・・・日出山神社・・・小原田(こはらだ)宿・・・香久山神社・・・(東北本線)・・・文化通り・・・麓山公園・麓山(はやま)神社・市立中央図書館・・・郡山宿・如宝寺・一心坂・・・金透坂・金透小学校・・・善導寺・・・・安積国造(あさかくにつこ)神社・・・郡山道路元標・・郡山宿本陣跡・・・郡山駅(JR東北本線)
【ルート地図】
芭蕉は『おくの細道』に、「かげ沼と云ふ所を行くに今日は空曇りて物影うつらず。」と記す。鏡石町には沼が多く、かげ沼(鏡沼)では蜃気楼が見られたようだ。しかっりと2つの塚の残る須賀川一里塚を過ぎ須賀川宿に入る。この宿で芭蕉は7泊も滞留している。さすが見るべきものもかなりの時間を費やす。北町坂、岩瀬の渡し坂を下り宿を抜け釈迦堂川を渡り、歌枕の「岩瀬の森」の鎌足神社の前から上人壇橋で東北本線を越える。このあたりは開発により旧道の道筋は消滅している。
上人壇橋を渡って右に回り込むように下って旧道に入ると白石坂の上りとなる。坂の途中に森一里塚跡が残り、坂上から波打つような上り下りを繰り返して柏城小学校の先で筑後塚供養塔の前に出る。ここは鎌倉時代の官道の東山道の道筋にあたり、近世に奥州街道として整備されたようだ。供養塔の前を下り、県道355号に出て東北本線沿いを北に進む。小さな滑川を渡り、清陵情報高の先の小社の石段で線路と県道を見ながら一休み。
子安観音堂の先で踏切を渡り県道に出てしばらく行くと郡山市となり笹川宿に入る。道筋には商店、車の通行も増えて賑やかになってくる。東に路地を入ると阿武隈川近くに篠川城(篠川御所)跡の東舘稲荷神社がある。采女伝説の耳語橋、歌枕の笹原川には往時のロマンの香りはない。日出山宿を過ぎ、小原田宿に入ると香久山神社の参道入口に立派な塀と茅葺きの旧家が構えている。
旧道から離れ、麓山公園の中央図書館に寄る。如宝寺前の「はやま通り」が、一心坂ということを道沿いのスナック「一心坂」の看板で知った。思いがけず新しい坂を一つゲットして疲れも忘れた。坂沿いの一段高い所の金透小学校へ上る坂が金透坂だ。坂と言っても一般道ではなく生徒用の通学路だが、明治時代には蒼々たる連中が上った由緒ある坂なのだ。郡山の鎮守の安積国造神社から旧道の郡山道路元標の所に戻り、郡山本陣跡から郡山駅に向った。
写真をクリックすると拡大します。
西光寺 《地図》
右は葉書の語源の「たらよう(多羅葉)」の木。利尿作用があり、健康茶にもなるそうだ。
日本橋から59番目の一里塚。左が東塚、右が西塚。街道の両側には松並木が続いていたという。
南の黒門坂 南の黒門跡(写真右の東北電力前)から北に下る坂。
黒塗りの木戸があり、番小屋が置かれていた。午前4時開門、午後10時閉門。早寝、早起き健康の元。
東京オリンピックでマラソン銅メダルの円谷幸吉は須賀川生まれ。大ヒットした「ゴジラ」の特撮映画監督の円谷英二も同郷人。
芭蕉の「世の人の 見つけぬ花や 軒の栗」にちなむ庭園。
芭蕉は相良伊佐衛門(等躬)宅に7泊した。
可伸とは、「おくの細道」で芭蕉が「世の人の 見つけぬ花や 軒の栗」と詠んだ「世をうとう僧」のこと。
何の店だったか。今は営業していないようだ。
長い建物で両端が入らず。
芭蕉記念館(八幡町・市役所の前)
芭蕉が参拝した八幡社・岩瀬(がんらい)寺などがあったあたり。
芭蕉が訪れた寺の一つ。円谷幸吉の墓がある。健脚祈願でもしようと思ったが止めといた。
「風流の はじめや 奥の田植唄」
安政2年当地の俳人市原たよ(多代)女が建立。
一句ひねろうと思ったが、首と頭をひねっても何も出て来ず、すごすごと退散。
ここは須賀川城の本丸があった所。
須賀川城は二階堂家の重臣守谷筑後守の内通により伊達政宗に攻められて落城した。この時の戦死者の霊を弔うために「松明(たいまつ)あかし」の行事が始まったという。
亜欧堂田善生誕之地(須賀川市保険センターの所)
西洋の技法を取り入れたわが国初の銅版画家。
須賀川の総鎮守。『曾良旅日記』には、「十念寺、諏訪明神へ参拝」とある、今でも「お諏訪さま」で親しまれている神社。
天満神社には数学者の岡潔も祀られている。須賀川とどういう関わりがあるのだろうか?
天満神社の裏側の竹薮に濠跡らしき窪みが残っている。
坂の途中の交差点南側に弘法大師堂がある。
坂下近くで東北本線をくぐる。
北町坂(坂下方向) 《地図》
北の黒門があったあたりか。
坂の途中に新しい立派な石の坂標が立つ。
岩瀬の渡し坂 北町坂から続いて曲がりながら下る坂。《地図》
奥州街道の岩瀬の渡し場へ下る坂だった。
「岩瀬の渡し 水越へて みつまき山に 雲ぞかかれる」 (詠み人知らず)の歌だろう。 みつまき山は岩瀬の森をいうそうだ。
釈迦堂川の由来となった釈迦堂(跡)があるはずだが見つからず。歌碑(前の写真)の近くにあるようだ。
鎌足神社 《地図》
ここは古くからの歌枕の「岩瀬の森」で、紀貫之も「陸奥や岩瀬森の茂る日に一声くらき初時鳥(ほととぎす)」と詠んでいる。都から岩瀬の森を想像して詠んだのだろう。当地に8日間も滞在し、歌枕の好きな芭蕉翁だが岩瀬の森を訪れた様子はない。等躬も案内しなかったのは何故なのか。芭蕉の時代には岩瀬の森も往時の面影はなく、歌枕ではなくなっていたのかも。現在の地名では鎌足神社の所は上人坦で、上人壇廃寺の所が岩瀬森となっている。昔はこの付近一帯に森が広がっていたのだろう。
岩瀬は養老2年(718)に陸奥国から独立して「石背の国」となり、須賀川はその国府があった所だが、わずか8年後の神亀3年(726)に陸奥国に再編入されたそうだ。
写真だと読めない箇所が多い。その場でしっかり読むべきだった。
藤原鎌足の子孫の波多野筑後守が建久元年(1190)に鎌足の霊を奉斎したというものか。最後に前述の紀貫之の歌が載る。波多野筑後守についても分からず。二階堂氏の時代に伊達政宗に内通して、須賀川城を落城させた守谷筑後守がいるが時代が違う。
橋を渡った左側の第二中学校の隣りに上人壇廃寺跡がある。
正面が森一里塚跡
多くの石造物が集められている。
西側(右)の塚の跡形も残るようだ。
天正11年(1582)の滑川合戦の舞台となった柏館跡
阿弥陀信仰の盛んな鎌倉時代末頃に建てられた双式阿弥陀三尊来迎浮彫供養塔など四基の板碑。もとは南の柏城小学校の所にあった。筑後塚の由来は須賀川の二階堂氏の家臣で伊達政宗に内通した守谷筑後守が、戦いの後に主君を裏切ったとして伊達政宗によりこの地で成敗されたことによる。
鎌倉時代の官道の東山道で近世には奥州街道となった。
下って国道355号に出て、滑川、東北本線を渡り笹川宿(郡山市)へと入って行く。
東舘稲荷神社 《地図》
ここは足利満直の篠川城(篠川御所)跡
ちょんまげでも結われそうな床屋さん。
耳語橋(ささやきばし)から笹原川 《地図》
采女となって都へ向う里長の娘の春姫と恋人の太郎がこの橋の上で泣く泣く愛をささやいたという采女伝説の橋。
郡山市と姉妹都市の奈良市の猿沢池のほとり、辷(すべり)坂の坂下に采女神社があり、伝説の采女が祀られている。采女伝説もここのとは違う話になっている。「奈良市の坂-2」に記載。
「あさか山 影さえ見ゆる 山ノ井の 浅き心を 我が思はなくに」 春姫の歌
永承6年(1051)「前九年の役」の追討に向う源頼義がこの地にさしかかった時には橋は朽ち果てて渡れず、「あづま路の ささやきの橋 なか絶えて ふみ(文)だに今は 通わざりけり」
「みちのくの 音無川に わたさばや ささやきの橋 しのびしのびに」と詠んだと伝える。
香久山神社の参道入口の所
通常の鐘は、上半部に「乳」(ち)と称するいぼ状の突起を多数並べるが、この鐘は「乳」のある位置に梵字が鋳出されている。文化3年(1806年)の改鋳。
一心坂(坂下方向) 如宝寺門前の「はやま(麓山)通り」(通称一心坂通り)で西へ上る坂。
ちょうど「スナック一心坂」があったので気がついた坂。このあたりは傾斜はほとんどない。夜にこのスナックを覗いてみようかとも思ったが忘れてしまった。
金透坂 金透小学校へ上る坂。通学用の坂で一般道ではない。《地図》(道の標示はない。)
今の若者は本ではなく、携帯電話を見ながら歩いている。
校名は木戸孝允が「朱子語録」の中の一説から命名したそうだ。
「金透小学校スクールアメニティ通路整備工事」には、「そしてこの金透坂は、明治天皇始め、明治時代における日本の発展を担った大久保利通、伊藤博文、岩倉具視など蒼々たる人物が登りました。ある時は、この坂を補修する為に諸先輩の方々が鞄を背い日和田の小和滝まで行って小石を拾い、それをつめて学校まで運び坂を補修したとも聞いております。」とある。なかなか由緒深い坂なのだ。
旧奥州街道の道路元標の手前から入り、国道4号に分断されて神社へと続く。
安積国造神社拝殿
郡山の総鎮守
郡山本陣跡(碑) 《地図》
左のビュ-アネックスホテルの所。「魚民」の看板下に「郡山宿本陣跡」碑がある。右手前は道路元標
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