仙台市の坂-4
2009年7月30日
仙台駅・・・銀杏坂・・・茂市ケ坂・・・駅前通り・・・空堀丁通り・・・上杉公園・・・(仙山線)・・・仙岳院・・・東照宮・・・長命坂・・・露無の里・・・(仙山線)・・・石巻街道・・・清浄光院・・・東北大学農学部・・・県道264号・・・東北大学病院・狼犬(おいぬ)坂跡・・・知事公館・新坂・・・又五郎坂・・・澱(よどみ)橋(広瀬川)・・・為朝神社・・・中の瀬橋(広瀬川)・・・西公園(桜ケ岡公園)・・晩翠(ばんすい)通り・・・定禅寺通り(定禅寺坂跡)・・・勾当台(こうとうだい)公園・・元貞(げんてい)坂・・・錦町公園・・・銀杏坂・・・仙台駅
葉が色づく頃はきれいだろう銀杏並木の銀杏坂を上り下りし、茂市ケ坂に入る。仙台駅から5分足らずの所だが朝も早く、路面が濡れていることもあり、何となくうらぶれた路地のようでいい感じだ。(上の写真) 坂上から駅前通りに出て通勤通学時間で人、車の多い中を北に向う。東照宮駅そばの仙山線の踏切を渡って真っ直ぐ東照宮の参道へと入る。石段をユニホーム姿の少年たちが駆け上っている。中学校の野球部の朝練か。昨日、夏の高校野球の東東京大会決勝戦で、母校の雪谷高校が帝京高校に24対1の歴史的大敗を喫した。勝てるとは思っていなかったがこんな大差がつくとは。
東照宮の北側の長命坂を下り、伝説の露無の里から再び仙山線を渡り、西へ石巻街道を進む。愛宕上杉通り、奥道中(旧奥州街道)を横切って進むと東北大学病院へぶつかる。狼犬坂は病院の敷地内にあった坂だ。狼坂は東京の立川市にもあったが今は跡だけで、ここは跡形もないのは致し方なしか。病院前の新坂通りを南に行くと太白飴本舗の昔ながらの店があり、その先の知事公館の門前から新坂(にいざか)が下っている。曲がりながら下る急坂で、仙台七坂の中で一番坂らしい坂だ。
新坂下の澱不動尊に寄り、澱橋へ続く道路の下をくぐると又五郎坂の坂下へ出る。今は尚絅学院までカーブして上る小さな坂だが、昔はへくり沢(広瀬川)の土橋から上る坂だった。澱橋を渡り、県立美術館、仙台二高の前を通り為朝神社に寄り、中の瀬橋を渡る。澱橋と中の瀬橋の間で広瀬川が大きく北から南へと蛇行している。晩翠通りを北に行き、中央がケヤキ並木の定禅寺通りを東に向う。この通りも昔は定禅寺坂だったのだが、何度も削平、整備され今は坂とは呼べなくなっている。勾当台公園の先で南に入り、元貞坂を下る。仙台七坂の一つだがビルの間の小さな坂で傾斜もゆるく面白味はない。錦町公園脇から銀杏坂を下り仙台駅に向った。
【地図】
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銀杏坂(坂上方向) 本町1丁目と2丁目の間を北西に上る愛宕上杉通り。《地図》
中央2丁目交差点の歩道橋から
坂の途中の銀杏坂ビル前の横断歩道から
江戸時代にこの通りには侍屋敷と職人屋敷が置かれ、茂市という座頭が住んでいたという。『仙台地名考』
仙台七崎の一つ、玉手ケ崎に承応3年(1654)仙台藩ニ代藩主伊達忠宗が、東照宮を建立した時、別当寺として最教院僧正晃海大和尚が開山した。
仙台三十三観音第11番札所で、観音堂には「小萩観音(十一面観世音菩薩(伝行基作))」が安置されている。
小萩は「露無の里」(後述)にゆかりの人物。
『仙台地名考』には、「後方に天神山(高山樗牛瞑想の松)を負い、青松が到る所に茂って、風光また明媚である。恐らくこの環境を讃美し、健康地というので長命坂と呼んだのであろう。」とあるが、あまり説得力のある坂名の由来話ではないと思うが。
大正元年の地図にはこの坂の北に長命坂天神と陸軍墓地がある。現在は長命坂天神の所には東京薬科大学がある。「高山樗牛瞑想の松」は残っているようだが、天神社はどうだろうか。樗牛は何を瞑想したのか。恋に思い悩んで物思いに耽っていたという。
松の根元に由来板と歌碑が立つ。
仙岳寺観音堂の「小萩観音」は小萩の念持仏
「雨が降れ風の吹くをもいとはねど 今宵一夜は 露無の宿」
狼犬(おいぬ)坂跡(現在の東北大学病院構内を北に上る坂だった。)
①昔は、中山には狼が多くこのあたりまで下りてきたらしい。狩をしてこの付近に狼を埋め「オイヌ坂」とよんだという。『仙台地図さんぽ』
②往昔、八幡太郎義家が奥州下向の時、この辺に狼が多く出没するということを聞き、土民のために狩り埋めた所と伝えている。『仙台地名考』
①②ともこの地は狼を埋めた墓場だったという。墓の上にこんな病院を建てられ、狼の霊も静かに眠れないようだ。夜な夜な病院内でうめき声が聞こえるというのは、この病院で死んだ患者の恨み声ではなく、怨霊となった狼たちのうなり声だったのだ。←全くのデタラメ話(①と②の由来話はほんとよ)
新坂通りは明治末まではまっ直ぐ北山輪王寺下まで通じていた。狼犬坂は新坂通りの一本東側の坂だった。
太白飴本舗(兵藤飴老舗・青葉区広瀬町5-30)
明治から続く「太白飴」の店
知事公館(新坂上)
仙台城にあった門だが、城のどこにあったかは不明。
新坂(にいざか)(坂下方向) 知事公館前から澱(よどみ)橋の方へ南へ下りカーブして西に下る坂。仙台七坂の一つ 《地図》
水害で支倉橋が流されるので、元禄七年(1694)澱橋が新たに架設され、橋から支倉町方面に通ずる道を川沿いに開き俗に弁慶岩といわれる岩崖を切って急な坂道を造った。そして北二番丁の西端(知事公館前)までを新坂と呼んだ。坂はそれ以来幾度も切り下げられたが坂の途中の清水は古い。『辻標』 今も坂の途中に清水はあるのか? 気づかなかったが。
残月台本荒萩の不動堂古跡との記載に基き、昭和初期に現在地北側に再建され、近年当地に移転された。堂の左に文永の板碑。
又五郎坂(坂下方向)尚絅(しょうけい)中学高校前バス停から南西方向に広瀬川へと下る坂。
へくり沢(広瀬川)の土橋から上る小さな坂で、又五郎という者が住んでいたという。坂下あたりは「角五郎丁」で、渡守角五郎にちなむ丁名。牛越(うしごえ)橋ができる明治の中期まで舟で往来した牛越渡戸(わたど)は、「角五郎渡戸」とも呼ばれた。「又」と「角」の五郎さんは二人ともこのあたりに住んでいたようで、紛らわしいが別人だ。角五郎は渡し守だが、又五郎さんは何をしていたのか? 住んでいた時代はどうなのか?
正面は尚絅学院中学・高校
この坂は埋め立てられたという烏頭坂の名残りの新道か。有巴坂もこの坂の近くにあった坂なのだろう。
文化4年(1807)蝦夷地千島へのロシア船侵入に対する出兵の指揮を国元で執った仙台藩奉行の中村日向義景が派遣部隊の神明加護と士気高揚のため、出陣の文化5年(1808)正月に建立。戦災で焼失したが再建された。以前はもっと立派な社殿だったのだろうか。
定禅寺坂跡(定禅寺通りの勾当台公園あたりから東方向に少し上り傾斜が残る。)
昔は定禅寺通りは定禅寺の岡により東西に遮断されていた。明治13年から26年の間に定禅寺の坂を切り開いて東西が直通した。『仙台地名考』
定禅寺は慶長6年(1601)に仙台城の鬼門封じのために建てられた寺で、国の合同庁舎の所にあった。終戦後の都市計画街路整理で、この通りも整備され坂とは呼べなくなったか。
元貞(げんてい)坂(坂下方向) 本町2-13と2-19の間を北東に上る短い坂。
江戸時代に元貞という医者がこの地に住んでいたことによると見られる。その伝記は詳らかでないが、仙台藩に信夫元貞という儒医があった。碩学の誉れのあった儒者蘆東山(あしとうざん)などと親交が深かったと伝えている。『仙台地名考』
大正元年の地図では、「玄定坂」と標示している。
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