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2009年8月31日 (月)

白河市(福島県)の坂

2009年8月20日

Img_7563 白河駅(東北本線)・・・敷教舎跡・・・白河宿本陣跡・・・県道11号(御斎所街道)・・・龍蔵寺・・・鹿島神社・・・宗祇戻し・・・谷津田橋(谷津田川)・・・感忠銘碑・(白川城跡)・・・搦目(からめ)橋・善知烏(うとう)坂跡・・・谷津田川遊歩道・・・八竜神橋・・・県道76号(南湖公園線)・・・合戦(こうせん)坂・・・県道76号・・・南湖公園・・・棚倉街道・・・花見坂・・・白河第一小学校・・・友月山公園・・・新橋(谷津田川)・・・玄仙小路・・・(白河駅)・・・小峰城跡公園・・・白川駅

 郡山に一泊して白河に戻り、半日、市内の坂道散歩をする。白河駅から旧奥州街道を進み、そのまま直進して県道11号に入る。この通りにも古い商家が残っている。宗祇戻しの碑などが立つ辻を過ぎ、谷津田橋を渡ると右上の崖に感忠銘碑が刻まれている。このあたりになると人家はまばらで歩道もなく、車がスピードを上げて往来しているので歩きにくい。

 搦目橋あたりから上っているはずの善知烏坂は雑草に覆われ行き止まりの道になっている。地図にはしっかりと道筋が載っているのだが。谷津田橋まで戻り、川沿いの遊歩道を八竜神橋まで行き、県道76号を少し上ると道標が立つ辻から南へ合戦坂の長い上り坂となり、坂上から引目橋へと下って行く。この坂を往復したが、坂の由来話に出てくる味方不動、味方不動清水を見つけられなかった。今はもうないのかも。2つの坂であてがはずれ少々がっかり。

 県道76号を上り南湖公園を半周して、棚倉街道に入るとすぐに右へ花見坂が上っている。坂上を進むと白河第一小学校で、ここから下る坂がなかなかいい(上の写真) 名前はついていないようだが。下って友月山公園から新橋を渡り、再び奥州街道に出て、玄仙小路を通り白河駅脇のガードをくぐって小峰城跡を見学。下の広場で小休止して、白河駅から鈍行を乗り継ぎ帰路についた。

  【ルート地図

 写真をクリックすると拡大します。

Img_7444 敷教舎跡(本陣跡の手前)

寛政11年(1799)に松平定信が建てた庶民の学校、「郷学所」

Img_7443 説明板

Img_7446 白河宿本陣跡 《地図

Img_7445 説明板

Img_7454 龍蔵寺参道

Img_7453 いぼなし鐘

普通の鐘の上部にある、いぼのような突起「乳」がなく、梵字が記されている。郡山市の如宝寺にもあった。

Img_7452 説明板

Img_7455 年貢町会館 

Img_7459 上の片野屋

老舗の呉服店。店舗は昭和30年代に建てられた比較的新しいものだが、白壁、瓦が古さを感じさせる。

Img_7463 油屋須釜醸造

味噌、醤油を醸造している店

Img_7470 宗祇戻しの碑(説明板の左)・芭蕉句碑(説明板の右)・道標・石地蔵が並ぶ分岐点 【ルート地図】の① 

「宗祇戻し」と同じような話が秩父の「西行戻しの坂」にある。「秩父巡礼道-1」に記載。

Img_7466_2「宗祇戻し」の由来話①(説明板)

由来話②:「おくの細道」の旅で芭蕉に随行した曾良の旅日記には、「宗祇もどし橋 白河の町の右、かしま行道、ゑた町有。其きわに成程かすか成橋也。むかし、結城殿数代、白河を知玉ふ時、一家衆寄合、かしまにて連歌有時、難句有之。いずれも三日付る事不成。宗祇旅行の宿にて被聞之て、其所へ被趣時。四十計の女出向、宗祇に「いか成事にて、いづ方へ」と問。右の由しかじか。女「それは先に付侍りし」と答て失せぬ。「月日の下に 独りこそすめ  (付句) かきおくる 文のをくには 名をとめて」 と申ければ、宗祇かんじられてもどられけりと云伝。と言うものだが、①の方が分かりやすく面白い。 

Img_7483 感忠銘碑 《地図

南朝方の結城宗広、親光親子の忠烈を伝える碑。碑文が刻まれた断崖の下にも説明板があるようだが、ここから先は崩落の危険があるためか立ち入り禁止。

Img_7481 碑文

Img_7501 白川城(搦目城)跡(感忠銘碑の上部の搦目山)

南朝方の結城氏の拠点

Img_7480説明板

Img_7490 善知烏坂跡(右に上る坂だった?)【ルート地図】の②(地図には2つの道筋があるのだが、雑草に覆われて廃道のようだったが)

台地からに水鳥の善知烏の口ばしのように川の出崎に伸びていた坂だったのだろう。各地にある「うとう坂」の一つ。「烏頭坂」・「鵜頭坂」・「有藤坂」・「宇都布坂」、「うとう」から転訛した「宇土坂」・「歌坂」・「謡坂」・「御塔坂」・「おと(音)坂」など数多い。ここの坂上あたりの字名も「謡坂深沢」という。

滝沢馬琴は、「陸奥の方言に、海浜の出崎を、うとふという」とし、言語学者の新村出は、「ウトウはアイヌ語で「突起」を意味する語であり、この鳥の嘴が突き出ているので「ウトウ」と呼ぶようになった」とする。青森県には善知烏神社がある。『うとう坂表

Img_7488 これ以上は前に進めず。

Img_7489 前方の搦目橋へと下っていた坂なのだろう。

Img_7493 搦目橋のたもとから

Img_7496 近くに馬頭観音などが集められている。

Img_7497 「・・・・・跡」とある。

Img_7506 谷津田川(谷津田橋)の下

左に魚道が作られいる。

Img_7504説明板

Img_7509 谷津田川沿いに遊歩道を八竜神橋に向う。

Img_7519 合戦坂下

Img_7521 合戦(こうせん)坂(坂上方向) 市営斎場の東側を南東に上り、引目橋へと下る坂。 【ルート地図】の③

「天正7年(1579)5月17日に侵攻してきた常陸の佐竹義重軍をこの坂を通って迎え撃った白河の結城義親勢は、激戦の末に劣勢となり引目橋まで退いた。この時、白河軍の背後から14、5歳の少年二人が躍り出て、獅子奮迅の活躍で佐竹軍を蹴散らした。少年たちは不動明王の使徒の、矜迦羅童子(こんがらどうじ)と制咤迦童子(せいたかどうじ)と名乗り姿を消した。以来、この坂は「合戦坂」と呼ばれ、路傍に「味方不動」が祀られ、そこに湧く「味方不動清水」は、今も絶えずに残っている」と言うが、味方不動、味方不動清水は探しても見当たらず。 『みちのく怪道風まかせ』に味方不動の写真が載っている。いつ頃撮った写真だろうか。

右に「戊辰戦死之碑」が立つが、むろんこの「合戦」とは関係がない。

Img_7523 戊辰戦死之碑

Img_7522_2説明板

Img_7525 坂下方向(左は白河斎場)

右の民家の傍らに味方不動、味方不動清水がある(あった)らしい。

Img_7526 坂上方向

Img_7531 坂上から引目橋へと下って行く。

ここの地名は「合戦坂」

Img_7543 南湖公園

享和元年(1801)、白河藩主松平定信によって造られたわが国最古の「公園」だそうだ。

Img_7547南湖

Img_7552 蛇も散歩中か。かなり長い蛇で薄いきれいな色をしていた。生きているように見えたが。

Img_7556 花見坂(坂上方向) 棚倉街道から右に入り、北西に上る坂。 【ルート地図】の④

Img_7557 坂上近く

桜の木か

Img_7567 蕎麦屋の大福家

Img_7592 玄仙小路の旧家

Img_7593標柱

Img_7575 小峰城(白河城)跡(前御門から三重櫓) 【ルート地図】の⑤

南北朝の興国元年(1340)に結城親朝が小峰ケ岡に築いたのがはじまり。

Img_7574 説明碑

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