前橋市の坂-1
2009年8月26日
前橋駅(JR両毛線)・・・隆興寺・・・天狗坂・東福寺・・・馬場川通り・・・縁切り坂・・・前橋望景の碑・・・馬場川通り・・・前橋城車橋門跡・・・市立図書館・・・清光寺・・・長壁神社・・・虎姫観音堂・・・前橋城跡・・・前橋公園・東照宮・・・臨江閣・・・石川橋(広瀬川)・・・雷電神社・・・森厳寺・・・梅が橋(広瀬川)・・・稲荷橋・・・県道6号・・・飛石稲荷・・・県道6号・・・(群馬大学附属病院)・・・若宮4丁目交差点・・・県道4号・・・北代田橋(桃ノ木橋)・・・南白川橋(赤城白川)・・・大悟橋(竜ノ口川)・・・鎌倉川・鎌倉中学校・・・鎌倉坂・・・県道76号・・・大国主神社・・・道進坊坂・・・日枝神社・善勝寺・・・県道76号・・・上泉郷蔵(上泉城跡)・・・流通橋(藤沢川)・・・県道3号・赤坂・・・赤坂駅(上毛電鉄)→中央前橋駅・・・前橋駅
天狗坂の位置がはっきりせず、東福寺の回りを一周してなるほど分かった。天狗坂も縁切り坂も馬場川通りへ下る小さな坂で、由来話はともかく坂らしい感じはない。前橋は萩原朔太郎の故郷、先日、奥州街道の白河宿で朔太郎の妻の生まれた造り酒屋の前を通ったばかり。坂道散歩をしていると現在過去、いろんな人物との出会いがある。
前橋城の車橋門跡から市立図書館に寄るが、目ぼしい資料は見つからず。吉田松陰の妹が創建した清光寺に寄り、利根川方向に向うと長壁神社がある。この神社には我がままな稲荷姫の伝説があり、前橋城の本丸があったという虎姫観音堂に祀られているのは怨霊となった虎姫だ。奥州街道日和田宿の蛇骨地蔵堂の由来話にも、大蛇となって人々を苦しめたあやめ姫がいる。そういえば根田宿の入口には安珍堂があった。清姫の妄執の炎も忘れたら叱られる。どこでも、いつの時代にも怖いのは・・・・。
形のいい土塁が残る前橋城跡から北の前橋公園に入る。東照宮と県道を挟んだ北側のレトロの建物の臨江閣は入場無料なのが嬉しい。大きな部屋が続いていて壮観だ。夏休みもそろそろ終わりのせいかちょうど入場客は私一人。涼しい風が抜ける広い廊下で、管理の女性としばし雑談する。
石川橋下の広瀬川は水位が高く、流れも速い。いわれのある梅が橋あたりは今は何の変哲もない所。橋柱の古さだけが残っていた。社殿の後ろにどっしりとした大岩を従えた飛石稲荷から県道6号を東に向う。県道4号の北代田交差点からいくつかの小川を渡り、県道76号の鎌倉橋交差点へ出ると、すぐ南から北条時頼の伝説のある鎌倉坂の上りとなる。今はこのあたりには鎌倉の風情はないが。
端気(はけ)町と上沖町をつなぐという道進坊坂には3つの道筋が考えられる。①②③として歩いてみたが、①が一番適当に思うが自信はない。いい加減なものだ。鎌倉坂の由来話に出てくる善勝寺から県道76号に下り、上泉城址に残る郷蔵から藤沢川を渡り、県道の緩やかな赤坂を上って上毛電鉄の赤坂駅に着いた。
【地図】
写真をクリックすると拡大します。
↑方向に直進したら隆興寺へ行ってしまった。天狗坂は反対方向。
天狗坂(坂下方向) 国道50号から三河町1丁目の東福寺へ下る参道の坂。
東福寺の秘仏である聖天様は江戸時代大変信仰を集め、年一回の開帳日には特に若い男女の参拝が多かった。その姿を見た人たちが天狗の鼻を連想したことからこの名がついたという。
馬場川通りの所から
永禄2年(1559)に創建され、酒井忠世の時に当地に移った真言宗の寺。
アジア風の本堂だ。今でも聖天様の開帳はあるのだろうか。
縁切り坂 本町5丁目の東和銀行本店の東側を北西に馬場川通りへ下る坂。
広瀬川の河原の処刑場に連れて行かれる罪人がこの坂を通った。罪人にとってはこの坂が今生の縁を切る所なので、縁切り坂と呼ぶようになった。相思相愛の男女が一緒に通ると縁が切れるという言い伝えがあった。どうしてもこの坂を通らなくてはならない時は、男女別々に通ったという。
広瀬川の河原に処刑場があったというのは事実だろうか? 詳しく調べていないので何とも言えず。
縁切り坂の坂下の明聞寺(現在は移転)の隣地に「梅の井」があったという。 井戸の傍らに「八房の梅」があり、その水の噴き出るさまは、梅の花の形に見えたという。この井戸にちなんで、「梅の井亭」という寄席や銭湯、だんご屋の名にも使われ、「袖ごとに 香をとめて汲め 名に高き 群馬(くるま)のさとの 梅の井の水」(養行寺の行妙和尚)の石碑が立っていたという。この井戸も昭和38、39年頃に区画整理で埋立てられたそうだ。『前橋の伝説百話』より
この地で生まれた萩原朔太郎の記念碑
東和銀行建築の際の地中から出土したもの。飛石稲荷の大岩(後掲)と同じ系統のものだろうが、全然小さい。
前橋城車橋門跡(市指定史跡) 《地図》
姫路城から遷された神社。前橋城は利根川の流れを西の守りとして築かれたが、その流れは激しく毎年、城の崖を崩した。そこで城主は前橋城を捨て川越に移ろうとした。そんなある夜、城主の夢枕に一人の美女が現れ、「私は先代が姫路城からこの城に遷した長壁稲荷である。城を移るようだが今度もお供したい。」と頼んだ。しかし城主は城の守護神が城の守りも出来ず、城替えに連れて行ってもらいたいとはけしからんと思い願いを断った。それからと言うもの長壁稲荷は人々の夢枕に立ち、「川越に行きたい、行きたい」と言ったという。
社殿の後ろ側にひっそりと小さな祠がある。
怨霊となった虎姫を観音として祀った観音堂。
ちょっときつい顔立ちだが、なかなかの美形だ。左には弁財天とお使い姫の蛇が虎姫が暴れ出さないように守っている。
暴れ川の「坂東太郎」利根川に翻弄され続けた城。
前橋城の土塁跡(県警本部の北側)
古くは厩橋城と呼ばれた、関東七名城の一つ。
明治41年に土塁上に建てられた。
徳川家康を祀る。前橋公園内の意外とこじんまりとした神社だった。
臨江閣別館
明治43年一府十四県連合共進会の貴賓館として建てられた書院風建築物。
明治17年に群馬県や前橋の迎賓館として建てられた。
水量が多く、流れが速く、水面が高い。大雨が降ると岡山県の佐用川みたいに氾濫しそうに見えるが、大丈夫なのだろう。
梅が橋(広瀬川) 《地図》
橋のたもとで一本の香り豊かに咲き誇る梅の木を見つけた前橋城主が、梅が橋と名づけたとも、殿さんの愛妾の「お梅の方」が橋のそばの「お梅御殿」に住んでいたからとも伝える。『前橋の伝説百話』より
木陰が涼しい。
10万年以上も前の赤城山の大規模な山崩れによって押し出された岩が、約2万年前の前橋台地を造った浅間山の火山泥流でここまで押されて来たものという。木々で覆われているが、周囲が約60m、高さは地上に露出した部分で10m近く、地下にも数m埋まっていると推定されている。
石工がこの大岩にノミを打ち込んだところ、真っ赤な血が噴き出たという「岩神の飛石」の話もある。
下に小さな稲荷が祀られている。
鎌倉坂 上細井町の県道76号の鎌倉橋交差点の一つ南の交差点から北東方向に上る坂。
正嘉2年(1258)諸国を巡っていた旅僧姿の北条時頼が善勝寺を訪れ、住職の覚山和尚と語り合った。時頼は庭先に今を盛りに咲き誇る二本の桜を目にとめ、「海もなく 磯べも遠きこの里に 何れのあまが 植し塩釜」と詠んで覚山和尚に贈り、立ち去った。この歌から旅の僧が時頼であることを知った和尚は引き返してもらおうと小僧に後を追わせた。今の鎌倉坂で追いついた小僧がその意を告げると、時頼は「もう鎌倉へ着いた。帰るには及ばない」といい、舟で大利根を渡って行った。」という。以来この坂を鎌倉坂と呼ぶようになった。『前橋の伝説百話』より
この時代には利根川が近くに流れ、水利に富んだ地形や景色が鎌倉に似ていたのだろう。今は鎌倉の風情は感じられないが。
善勝寺の塩釜桜はとうに枯れてしまったが、本家、塩釜市の塩釜神社にはちゃんと残っている。五月上旬に満開となる八重桜で、国の天然記念物だそうだ。
坂の途中の分岐 「神明」と「端気(はけ)」とあるようだが。坂上は小神明町で、神明宮があり、その南が端気町だ。
大国主神社 《地図》
道進坊坂①(坂上方向) 県道76号の上沖町交差点から端気町へ北東に上る。《地図》
端気町と上沖町をつなぐ坂で、昔、道進坊という偉い坊さんがこの坂で倒れて死んだというが詳細は分からず。
坂下近くに道祖神、坂上に墓地があり古道の面影が残っている。この坂が一番ふさわしいようだが、自信はない。
左側は墓地
道進坊坂② ①の坂の途中を東西に上る坂。《地図》
周りに木が無く、ポツンと裸で殺風景で、何となく可哀そうな感じだ。
「鎌倉坂」の由来話に登場する寺。
道進坊坂③(坂下方向) 県道76号の端気町交差点から北に端気町に上る坂。《地図》
上泉郷蔵 《地図》
寛政8年(1796)に天災、飢饉などの備えとして建てられた穀物貯蔵用の土蔵。
剣聖上泉伊勢守
上泉郷蔵あたりは上泉城の本丸、二の丸跡。上泉伊勢守は柳生新陰流の祖で、柳生但馬守宗厳(むねよし)が3度試合に敗れ、師事したほどの無双の兵法者だった。
赤坂(坂上方向) 上毛電鉄赤坂駅の北側を北東に上る県道3号。
傾斜は緩いが長い坂。昔は赤土のむき出した坂だったのだろう。
坂下方向
上毛電鉄赤坂駅
二両編成の電車
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コメント
鎌倉坂追憶
赤城の火山段丘上の上細井町で生まれ育ちました.,子供の頃坂から300メートル程の先に有る冷田でt田植えを手伝いました.近くの端気の地名は湧水が出るという意味.その湧水 の為田んぼは夏でも冷たく子供膝位ズブズブでした,真冬でも暗渠の排水口から大量 の湧水が流れ出るのを覚えております,今は水道タンクがその謂れを残すのみで昔の景色はありません.
投稿: ぐんまちゃんのマネージャー | 2017年9月22日 (金) 22:26