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2009年9月30日 (水)

奥州街道(十和田市街→七戸宿→野辺地宿)

2009年9月17日

Img_8864 十和田市駅 バス→洞内・・・国道4号・・・砂土路川・・・北野の松並木・・・旧道・池ノ平の一里塚・・・川去川・・・大林川・・・旧道・・・蒼前(そうぜん)神社・・・七戸橋(七戸川)・・・青岩寺・・・柏葉公園・七戸城跡・七戸神明宮・・・天王神社・・・蛇坂・・・七戸小学校・・・七戸体育館・・・七戸文化村・道の駅しちのへ・・・国道4号・(東北新幹線七戸駅(工事中))・・県営農大校・・・七戸松並木・諏訪牧場・・・中野川・・・庚申碑の追分石・国道4号(奥州街道上道(近道))・・・七戸役場・・・道ノ上の一里塚跡・・・坪橋(坪川)・・・旧道・・・柳平の一里塚跡・・・(みちのく道路)・・・追分石・・・千曳神社の鳥居・・・尾山頭・・・上北自動車学校・・・国道4号・・・千曳交差点・・・県道8号・・東北町消防団東北第三分団・旧道・・・千曳農村公園・・・千曳小学校・・・明治天皇親巡蹟・・・県道8号・・・石坂・・・国道4号・・・野辺地川・・・国道279号・・・松ノ木平跨線橋(東北本線)・・・鳴沢橋(野辺地川)・本町通り商店街・・・奥州街道下道(本道)合流点・・・下町集会所・・・県道246号・・・国道279号・・・野辺地駅(東北本線)→八戸駅(八戸線)→本八戸駅

 6時30分の上北町行きのバスで昨日歩いた最終地点の洞内まで行く。10分ほどだが乗客は我一人だ。国道4号を砂土路川へ下って上る。北野の松並木にさしかかる頃、小学生達とすれ違い挨拶し言葉を交わす。洞内小学校まで歩いて通っているのだ。アップダウウンの道で、ここから2kmくらいはあるか。雪の日もあるだろう。きっと学校は楽しいのだろう。

 しばらく国道を進むと左のモ-テルに入る道があり、それが旧道で池ノ平の一里塚が東西に残っている。塚の間を行くとすぐに国道に合流する。小さな川去川、大林川を越えると旧道は直進して七戸町の町並みに入る。青岩寺に寄り、柏葉公園の七戸城跡に上る。天王神社の前からは左右に坂が上っている。左が蛇坂だろう。七戸小学校沿いに進むと、七戸体育館、合同庁舎や新築工事中の建物のある一画に出る。さらに北に行き右折すると国道4号との交差点に道の駅しちのへ・七戸文化村がある。この北側に新幹線の七戸十和田駅が工事中だった。近々(開業予定は2010年12月)このあたりはもっと賑やかになるだろう。

 七戸松並木を進む。右手は広大な諏訪牧場だ。中野川を渡ると、街道は本道(下道)と近道(上道)に分岐する。参勤交代などの公式ルートは本道を往来したようだが、今は水田の造成などで道が消えている部分がある。近道(国道4号)を進み、坪川を渡り、左へ旧道へ入り上る。集落が途切れると両側には刈り入れ前の田んぼが広がり明るく静かな道となり気分がいい。

 柳平の一里塚跡を過ぎ、みちのく道路を越すと林間の往時の街道情緒の残る道となる。上って下ると千曳神社への追分石がある。ここから先は旧道は直進するように進むが上北自動車学校の先で、国道4号に阻まれ旧道は途絶えてしまった。国道によじ登り、下って県道8号に出てすぐに左に旧道に入る。ここも分かりづらい所だ。右手に広がる草原(上の写真)を見ながら進み、左の千曳小学校を過ぎると給水塔の下に明治天皇親巡蹟が立っている。ここから天皇も眺めた野辺地湾方向の眺めを楽しみ、ゆるやかに下って県道8号に出て石坂を下る。

 国道4号に合流し、野辺地川を越え、県道279号に入り野辺地の市街地へと向う。電車の時刻を気にしながら、本町通りまで行き、本道との合流点から本道を逆にたどって見る。(坊ノ塚)一里塚の道路標識を見て、本道の道筋を(勝手に)納得し、駆け足で野辺地駅に向った。これで今回の奥州街道歩きは終了で明日は帰るだけ。今夜も「みろく横丁」で反省会、打ち上げ会を盛大にやろうか。

  【ルート地図

  奥州街道野辺地駅→清水川駅』へ続く。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_8633 砂土路川へ下る国道4号

Img_8642 北野の松並木

明治末年に軍馬補充部三本木支部が草刈用地の防風林として土手上に植林したもの。江戸時代には雑木林だった。

Img_8655 池ノ平一里塚跡 【ルート地図】の①

モ-テルの前を通り、一里塚を通り抜けた地点から左が東塚、右が西塚。

Img_8649 説明板

Img_8650 東塚

Img_8651 西塚

Img_8668蒼前(そうぜん)神社

奥州街道本道にも「蒼前平の一里塚」があり、近くに蒼前神社がある。野辺地の「宗善の社」も「蒼前の社」だろう。

Img_8672 七戸橋から七戸川 《地図

Img_8678 七戸町の町並み

Img_8674 蔵元駒泉

Img_8679旧家

Img_8680 青岩寺の山門 《地図

七戸城の城門を移築。

Img_8683説明板

Img_8684 追分石(本堂前)

「右ハ もりおかミち 左ハ 在郷ミち」(明和2年(1765))

かつては街道筋にあった。

Img_8689 七戸庁舎の右後ろが七戸城跡・柏葉公園

庁舎の屋上には、「町民の願い新幹線七戸駅早期完成を」の看板が掛かっている。

駅名は七戸駅ではなく、「七戸十和田駅」に決定した。この先の国道4号沿いの七戸文化村のそばに工事中で2010年12月の新幹線、八戸→新青森間開業とともに駅も開業予定という。

Img_8692 柏葉公園

七戸城の土塁跡か

Img_8702 七戸城跡(柏葉城跡) 【ルート地図】の②

鎌倉時代に作田川と七戸川の合流点北側の台地に築かれ、南北朝時代に根城南部氏二代の南部政長により整備された。八戸の根城とともに南朝方の拠点でもあった。代々の七戸南部氏の居城で、南部氏の中でも権力を持っていたが、天正19年(1591)の九戸政実の乱で、七戸(南部)家国は九戸方として南部信直と戦い敗北した。その後も破却を免れ、七戸城とその領域は盛岡南部藩の直轄地となり代官所が置かれていた。堀や土塁などが残り、本丸は七戸神明宮境内、二の丸は柏葉公園となっている。

Img_8699説明板①

薄れて見にくい。

Img_8696 説明板②

Img_8698 七戸神明宮

旧郷社。

Img_8708 七戸城東門

Img_8710 天王社

牛頭天王社・八坂神社・須賀神社とも呼び、祭神はスサノオ命。

Img_8711 説明板

Img_8713 天王社の前から右へ上る旧道

この坂も蛇のようにくねっている。

Img_8725 蛇坂 《地図

天王社の前から左に上る。

Img_8729 坂上から右に曲がった所のバス停

Img_8718 坂下方向

Img_8736 七戸町文化村(道の駅しちのへ)

鷹山宇一記念美術館

Img_8735 案内図

Img_8737 説明板

Img_8743 東北新幹線七戸十和田駅(工事中)

2010年12月開業予定

Img_8745 県営農大学校

Img_8746 奥州街道の由来

Img_8747 奥州街道地図①(右から左へ進む。)

中野川を渡り、本道(下道・天間舘の方)と近道(上道・左の坪の方)へ分かれる。

Img_8748 地図②

近道は坪川を渡り左へ旧道へ入る。

Img_8749 地図③

近道は柳平の一里塚から尾山頭を通り、国道4号を越え、石坂を下って野辺地へ向う。国道4号を越えるあたりで道は一時途切れているようだ。

Img_8750説明板

Img_8755 七戸松並木

Img_8759 諏訪牧場 《地図

Img_8762 中野川へ下って行く。

Img_8766刈入れ間近の田んぼが広がる。

Img_8769 本道(下道、県道173号)は右へ、近道(上道・坪道、国道4号)は左へ行く。右の宮沢医院の前に庚申塔がある。 【ルート地図】の③

本道は天間館の一里塚~蒼前平の一里塚~坊ノ塚の一里塚~野辺地へと続くが、途中で水田の造成などで道は途切れている所がある。

Img_8772 分岐の庚申碑

「右ハ野辺地本道 左ハ同近道」で、左の近道(上道)を行く。

Img_8771 説明板

Img_8780 道ノ上の一里塚跡 

七戸町役場近くの「みちのく銀行」の所。

Img_8779 説明板

Img_8790 旧道分岐

左へ上る。

Img_8795 静かな道を上る。

Img_8802 広々とした田んぼの中を進む。

Img_8806柳平の一里塚跡(田んぼの中) 【ルート地図】④ 

今の道は西へふくらむようにカーブしているが、昔はこのあたりは広大な原野で、街道は直線的に進み、田んぼの中を通っていた。

Img_8807 説明板

Img_8810 みちのく道路と交差する手前

左のベンチで休憩。澄んだ空気の中、強い陽射しを正面から受け、じりじり焦げてきそうになった。

Img_8813 みちのく道路を越えると一変、往時の街道風情の残る道となる。

Img_8817 上って下ると千曳神社への追分石へ出る。

Img_8820 追分石

「千曳神社 右千曳道 左野辺地道」

坪村民の建立

Img_8819 説明板

Img_8821 ここからまた上りとなる。

Img_8825 下ると右に千曳神社の鳥居

ここを正面方向に直進するのが旧道。千曳神社は大同2年(807)創建の伝承あり。地域民の信仰が厚く、南部藩主も領内視察の際に参詣し、幕府の巡検使も参拝している。

Img_8828 草に覆われた道を行くとすぐに車道に出る。

Img_8830 正面の車道を右に進む。

Img_8837 ここを直進するのが旧道

まあ右へ車道を迂回した方が無難なようで、「日本中央の碑保存館」にも寄れるだろう。

Img_8840直進して進む。ちゃんとした道があるじゃん。

Img_8841上北自動車学校も見えてきて一安心と思いきや・・・・。《地図

Img_8844 左に回りこむように進んだのだが。右へ行くべきだったのか? 右への道があったのか未確認。

尾山茶屋があったのはこのあたりか?

Img_8845 だんだん草深くなってきた。

Img_8847 石敷きの道ではないのか? ここから先で道は途切れてしまう。右の少し上を国道4号が走っている。

Img_8848 雑草を押し分け、右のガードレールをよじ登り、国道4号に這い上がる。

ここから千曳交差点まで下り、右へ入り県道8号に出た。この間の旧道は国道建設や開発事業で姿を消した部分だろう。

Img_8852 県道8号から旧道に入る。左は東北町消防団東北第三分団

Img_8854 大きな民家の前を通り千曳農村公園へと上って行く。

Img_8855右が千曳農村公園

Img_8859 千曳小学校の前を通る。

Img_8870 親巡蹟(給水塔の右下)

南側に一里塚があった。戦後の開拓の際に取り払われた。

Img_8872 説明板

Img_8868野辺地湾と下北半島の山か?

Img_8876 石坂を下る。【ルート地図】の⑤

Img_8877下って国道4号に合流

坂下あたりに茶屋があったという。

Img_8890 松ノ木平跨線橋を越え、野辺地の市街地へ入る。

Img_8896 本町通り商店街

中野で分かれた本道(下道)との合流点近く。

Img_8900 下町集会所(鳥居のある所) 《地図

本道に入り上った所。

Img_8901 青面金剛像

明和9年(1768)の建立で、集会所の背後の崖上の「家善の社」に祀られていた。家善は「宗善」だそうで、「蒼前」の社なのだろう。

Img_8904 (坊ノ塚)一里塚の標識

Img_8905 この先の本道は、鳴子館坂、坊ノ塚一里塚へと続いているのだろう。

Img_8910 野辺地駅

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2009年9月29日 (火)

奥州街道(五戸宿→伝法寺宿→藤島宿→十和田市街)

2009年9月16日

Img_8506 さ・くら屋旅館・・・代官坂・五戸代官所跡(復元)・・・町坂・・・五戸橋(五戸川)・・・妙心寺・・・明治天皇田の草取天覧碑・・・八幡坂・・・五戸高校・八幡宮・・・五戸町斎場・・・国道4号・・・後藤川・・・ばっけし坂跡(馬返し坂)あたり)・・・伝法寺小学校・・・旧道・・・八幡宮の鳥居・・・光明寺・・・国道4号・・・伝法寺館跡・・・旧道・丁塚の坂・・・伝法寺一里塚跡・・・馬頭観音・・・県道145号・庚申塔・・・藤島川・・・御幸橋(奥入瀬川)・・・舟渡場跡・・・相坂・・・旧道・逢坂・・・一本木の一里塚跡・・・県道145号・・・太素塚・新渡戸記念館・・・澄月寺・・・中央公園・・・官庁街通り・・・理念寺・・・稲荷神社・・・県道145号・・・稲生橋(稲生川)・・・土手山神社・大ケヤキ・・・真登地の一里塚跡・・・茶屋跡あたり・・・洞内小学校・・・法身塚・・・法蓮寺(洞内(ほらない)城跡)・・・洞内本村 バス→十和田市駅・・・プラザホテル十和田

 代官坂の前に復元された五戸代官所に寄り、町坂を下り五戸橋を渡り、北へ長い八幡坂を上る。八幡宮を過ぎるあたりから急坂となって五戸斎場から左へ国道4号に出る。この先、一本松集落の先、後藤川の手前から旧道は国道の左右をくねるように続いていたという。

 伝法寺小学校の先で、右へ旧道を伝法寺の集落に入る。ここには伝馬引継所の馬立場があり、宿駅が開設されていたが、貧駅のため隣村の藤島駅と半月交替で継立を行っていて旅宿は2軒だったという。光明寺まで行き少し戻って八幡宮の鳥居をくぐって国道に出る。少し進むと右側の小高い所に伝法寺館跡の木柱が忘れ去られたように立っている。十和田湖、十和田市街の標識の少し手前から左に旧道へ入る。ここも分かりにくい。水が溜り、ぬかるんだ丁塚の坂(上の写真)を上る。右足を滑らせ水溜りへじゃぽん。靴の中はびっしょりとなった。

途中に伝法寺一里塚跡があるが、塚の形ははっきりしない。ここからすぐ右へ分岐して細い道を上る。次第に歩きやすい林道のような道になるが、途中いくつかの分岐があるので迷うところだ。左に馬頭観音を見つけて一安心する。

 県道へ出るとラーメン屋の前の交差点に庚申塔がポツンと置かれている。北へ宿駅、藤島館があった藤島集落の中を県道を下り、身動きしないダチョウをしばらく見て、御幸橋を渡る。このあたりからの西方の眺めがいい。遠くに浮かぶのは八甲田の山並みか。昔、城ケ倉温泉からスキーを担いで上り、滑って下って来たのを思い出した。もうそんな体力はないだろうよ。

 御幸橋の先で左に入り、舟渡場から続いていたであろう旧道の逢坂(旧相坂か)を上る。坂上の墓地前を進むと、国道4号との合流点が一本木の一里塚で、短く剪定され丸坊主の大ケヤキが一本、恥ずかしそうに立っていた。十和田市街地に入り、右へ三本木原の開拓の祖、新渡戸傳の墓、太素塚に向う。太素塚の入口には大きな鳥居が立っている。以前から何で墓に神社の鳥居なのかと思っていたが、新渡戸傳はここでは神様と崇められる十和田市の守護神なのだ。新渡戸神社(仮称)の中に、墓があるというのが正解だろう。新渡戸家は三代(傳、十次郎、七郎)に渡り三本木原の開拓、十和田市街の都市計画に尽くし、5千円札の稲造さんは傳さんの孫(十次郎の三男)なのだ。

 街道(国道4号)の西側に出て、中央公園で一休みし、稲荷神社から街道に戻り、稲生川を渡り北に向う。昔はこのあたり一帯はだだっ広い野原で目標物もなく往来人も難渋したようだ。土手山は風雪よけ、大ケヤキは日除けとなり、遠くからの目印にもなったのだろう。真登地の一里塚から茶屋があったという洞内の交差点まで行き、右に入り法身塚と洞内城跡という法蓮寺まで足を伸ばし、バスで十和田市駅へ戻った。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_8439 代官坂(坂下方向) 《地図

「歴史みらいパーク」に復元された五戸代官所前の坂。坂下で「さいとう坂」の途中に出る。新しく名づけた坂名だろう。

Img_8434標識

Img_8438 五戸代官所(復元)

大きく立派な建物ではなく、大庄屋家よりも簡素な造りだったようだ。明治3年斗南藩の藩庁が一時置かれた。

Img_8436説明板

Img_8441 町坂(まちじゃか) 青森銀行の北側から五戸橋へ下る奥州街道。以前は下り口は階段になっていたという。【ルート地図】の①

この坂を「さいとう坂」と勘ちがいした。コメントをもらい訂正した。東側に階段坂の「さいとう坂」が今もあるそうだ。(2011年9月30日)

「さいとう坂」は、さいとう氏が開いたか、さいとう家が坂沿いにあったのか? 東京豊島区にも「さいとう坂」がある。ひらがな書きなのも同じだ。

Img_8443 坂下方向

五戸橋へと下る。

Img_8446 五戸橋から五戸川

Img_8447 レトロチックの床屋

Img_8451 明治天皇田の草取天覧御聖蹟碑

八幡坂の坂下近くだったか。天皇が草取りを眺めただけでこんなもんを建てるとは・・・。

Img_8452 八幡坂 【ルート地図】の②

五戸高校、八幡宮へ上る坂。明治天皇巡幸の際に新道付け替えなどの大改修が施された急坂だった。今でも八幡宮を過ぎた坂上近くはかなり急だ。

Img_8456 坂上方向

右に八幡宮の鳥居

Img_8462 八幡宮

身勝手な五戸代官に殺された愛人の菊女の供養塔がある。

Img_8460 供養塔説明板

Img_8465 八幡坂をさらに上って国道4号へ。

Img_8469 国道4号を北に向う。

このあたりは歩道も広く歩きやすい。

Img_8472 歩道がなくなり歩きにくい。

Img_8479 後藤川

旧道は国道の西側で川を渡っていた。川向こうに旧道が残るようだ。

Img_8478 旧道

川を渡って、左から右へ上る。

Img_8485 ばっけし(馬返し)坂跡あたり

旧道は国道の右へ出て、ばっけし坂の急坂を上っていた。

Img_8494 右へ旧道に入ると伝法寺の集落がある。

Img_8498 光明寺

摂取山と号する浄土宗の寺。

Img_8496 八幡宮の鳥居

ここをくぐって国道へ出る。社殿は見当たらず。

Img_8500 伝法寺館跡(右)

本丸跡を国道が通っていて館の面影は皆無だ。

Img_8501 伝法寺館跡

南部氏の家臣の津村氏の居城。九戸の乱の時に七戸(南部)家国の攻撃を受けたという。

Img_8502 左の道路標識(十和田湖・十和田市街)の手前で旧道へ入る。ちょっと分かりづらい。

Img_8504 旧道

丁塚の坂、伝法寺一里塚跡へ

Img_8505このあたりは私有地らしい。

Img_8508 丁塚の坂(坂上方向)  【ルート地図】の③

伝法寺一里塚跡あたり、白いのが標示板。塚跡ははっきりしない。

Img_8509 なんとか「一里塚」の文字が読める。

Img_8511 すぐ先の分岐を右に入りさらに上る。

Img_8512 左が開けてくる。

Img_8514 八甲田の山並みか?

Img_8516 林間の旧街道

気持ちのいい道だがこの道でいいのかちょっと不安でもある。

Img_8519 馬頭観音(左)と移設碑(平成4年 藤島町内会)

どこから移設した物なのか。

Img_8526 分岐を直進(右)

Img_8530 県道145号に出る。

交差点に庚申塔が立つ。

Img_8532 庚申塔

文政10年(1827)の建立。

Img_8534 県道を下って御幸橋へ

Img_8535 なぜかダチョウが

Img_8536看板

Img_8545 八甲田の山並みだろう。

Img_8544 御幸橋(奥入瀬川)

Img_8548 御幸橋から奥入瀬川上流方向

明治9年の明治天皇巡幸の際に架けられた橋。当時はここから上流200mほどの所を川の両岸に張った綱を手繰り寄せて渡る、繰り舟で渡っていた。

Img_8551 由来

Img_8556 相坂 《地図

相対する坂の意か。

Img_8553 舟渡場跡 《地図

御幸橋を渡った上流(西側)200mくらいか。

Img_8554 この先、水田、工場で道は途切れる。

川岸に御蔵があったという。

Img_8564 逢坂の上りとなる。《地図

Img_8566 坂上は逢坂山相互寺の墓地

Img_8567 街道筋から移設された地蔵と青面金剛像

Img_8576 一本木の一里塚のケヤキの木(西側) 【ルート地図】の④

東側の塚は国道4号建設の際に破壊された。

Img_8577 説明板

Img_8579 十和田市街の中心地、稲生町の通り。

目抜き通りも他の地方都市同様、寂しい感じだ。

Img_8615 太素塚

三本木(十和田市)の開拓の祖、守護神とされる新渡戸傳の墓と新渡戸記念館がある。太素は傳の号名。

Img_8621新渡戸記念館2015年8月現在休館中のようだ

Img_8622_2 説明板

Img_8620 説明板

Img_8625 太素塚(中央)

Img_8623_2 説明板

Img_8608 官庁街通り

日本の道百選」の通り。

Img_8604 (三本木)稲荷神社

旧郷社、新渡戸傳が都市計画の一つとして、慶応元年に千歳神社を当地に勧請した。

Img_8603 稲生川(稲生橋)から 《地図

浅い川だが水は澄んでいる。

Img_8602 土手山の大ケヤキ

松前藩主が参勤交代の折に植えたというのケヤキ。当時ここ三本木原は広大な野原で風雪が強く、陽射しをさえぎる物もなかった。土手を築き、木を植え旅人の難儀を和らげたのだろう。

Img_8596 説明板

Img_8598 下に土手山神社の小祠

祭神は「マ-シ-号」というサラブレットの召雌馬で、兄は昭和25年のダービー馬の「クモノハナ」だそうだ。「召雌馬」とは何か、「繁殖牝馬」のことだろうか?

Img_8591 真登地の一里塚跡

Img_8592 説明板

「西側の塚を失っている。」とあるが、東側の誤りだろう。

Img_8587 法身塚(右)

Img_8590 法身塚(洞内小学校の北側) 《地図

法身は法蓮寺の開山で、松島瑞厳寺の中興の祖。国道の西側の水田の中には「法身袈裟掛けの松」があるという。

Img_8588 説明板

Img_8585 法蓮寺(洞内城跡) 【ルート地図】の⑤

寛元3年(1245)法身禅師が開山で、洞内氏が開基。

洞内城の築城は室町時代で、天正20年(1592)の南部氏の城郭整理で姿を消したという説あり。

Img_8626 カトリック十和田教会

後ろが今夜の宿、プラザホテル十和田

 

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2009年9月26日 (土)

奥州街道(三戸宿→五戸宿)

2009年9月15日

Img_8283 本八戸駅(JR八戸線)→八戸駅(青い森鉄道)→三戸駅・・・住谷橋(馬渕川)・・・旧道・・・馬暦神社・唐馬の碑・・・処刑場(首切場)跡あたり・・・(国道4号)・・・府金坂・・・地獄沢土橋跡・・・稲荷神社・・・馬場坂・・・県道143号・・・小向橋(猿辺川)・・・若宮八幡宮・・・聖寿寺館跡(本三戸城跡)・・・南部霊屋(たまや)・三光寺・・・北沢川・・・県道233号・・・旧道・長坂・・・水道記念碑・・・庚申塔分岐・・・隧道分岐・・・嶺の薬師入口・・・牛立場坂・・・十和田山碑・・・高山峠(277m)・・・雨宮坂・・・水無坂・・・稲荷大明神・・・水梨清水・・・並木の松・・・佐野坂・・・新橋(浅水川)・・・県道233号・・・宝福寺・・・八幡宮・・・明治天皇休憩所跡・・・旧道・・・地蔵坂・・・庚申塔・二十三夜塔・・・十峰庵・・・鞍越(くらごし)坂(クラカケ坂)・・・鳥内清水・・・鳥内(とりない)坂(鳥谷内坂)・・・一里塚跡・・・明治天皇休憩所跡・・・御大典記念碑・・・ひよどり坂(旧街道の旧道)・・・国道4号・・・稲荷神社・五戸消防団屯所・・おんこ坂・・・江渡家住宅・・・高雲寺・・・専念寺・・・さ・くら屋旅館

 昨夜はかなりの雨が降って、今朝の空もどんよりしている。青い森鉄道は学生の貸切通学電車のようだ。女子学生が「今日の天気予報で雨、降るって言ってた。」 外を見ると窓ガラスに大粒の雨が流れている。雨中の街道歩きを覚悟して、三戸駅で雨具を着て出発するが、馬暦神社へ向う旧道に入る頃には雨は上がってくれた。このまま高山峠を越えるあたりまでは降らないでと願うばかりだ。

 天気はいまいちだが、今日は国道、県道歩きは少なく、坂も多いので気分がいい。府金坂を上り、馬場坂を下り、小向橋を渡って北へ、聖寿寺館の堀割跡という若宮八幡宮沿いの道を上って突当たりを左へ、聖寿寺館(本八戸城)跡、南部霊屋に寄る。戻って果樹園の中の農道を進み、県道233号に出てしばらく北方向に行き、右へ高山峠への旧道の長坂に入る。いくつかの分岐を過ぎると、だんだん足元の雑草が多くなって道筋もはっきりしない所もある。それよりも雨を被った雑草に膝まで濡れ、靴の中までびっしょりになったのには参った。

 牛立場坂、十和田山碑を過ぎると高山峠で、展望台で早い昼飯で小休止。曇っているが寒くなく、北方向にしか眺望はきかないがむろん我一人で静かだ。ここからすぐに雨宮坂、水無坂で、林道を浅水まで下って行く。水無坂に水梨清水があるものだと思い込んでいてあちこち探し、少し下ってまた引き返したが見当たらず、もう涸れてしまったのかとあきらめかけていたら、水無坂からだいぶ下った所にちゃんと水梨清水はあった。そんなに簡単に涸れてしまうはずがないよ。まったく。相変わらずいい加減な男だ。

 下りの途中の道標のない左右の分岐でどちらか迷い、左右両方の道を一周半も上り下りしてしまった。(左の道が旧道・ここがてっきり佐野坂と思い、坂標が立っているのを探したため。佐野坂はもっと下った所にあった。この間小1時間、大汗かきのくたびれ儲け、くたびれ損か。水梨清水はあきらめても、佐野坂はあきらめないのがせめてもの救いか、ただの「坂おたくか」だろうよ。) 

 林道から集落に出て、また道を間違えたがなんとか佐野坂(上の写真)にめぐり合い、下って浅水川を渡って県道233号に出ると、左手の小高い所に八幡宮がある。だいぶ時間もロスしたし、遥拝で済まそうかとも思ったが、ここは浅水城跡だし上ることにする。途中から子どもの歓声が聞こえ出した。何かのイベントがあるのか、上って正解、境内で南小学校の生徒が奉納相撲の大会の真っ最中だった。生徒や父兄の観客も多く、「物言い」がついたりしてなかなか本格的だ。しばし観戦していたが、まだ先が長いので二回戦の途中で失礼する。

 県道から北に入り、地蔵坂、鞍越坂を上って下ると鳥内清水で、うまい水でのどを潤し、鳥内坂の上りにかかる。明治天皇休憩所跡で小休止し、交差点に御大典記念碑のある槍沢へ向う道を突っ切り、五戸町の市街へ向う。この先、国道4号の二本柳橋を越えて進むのが旧道だが、橋の手前で左に、ひよどり坂を下るのが旧道の旧道だ。下って国道4号をくぐって進むと小社の先で「おかん坂」の途中に出る。稲荷神社に寄り、隣のモダンな造りの消防団の建物を見て、「おんこ坂」を上る。坂沿いの江渡家は「おんこ」の生垣に囲まれた風格満点に旧家だ。坂上から新町の交差点で旧道を横切り、さらに上って今夜の宿の「旅館さ・くら屋」に向った。いい旅館だった。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_8106 雨上がりの旧道を北に向う。

Img_8110 馬暦神社

唐馬の碑(中央)・紅梅号の碑(左)

紅梅号は日本の馬だろう。

Img_8108 唐馬の碑(馬頭観音)           

オランダ人が徳川吉宗に献上したペルシャ馬が南部藩に下付された。その春砂(はるしゃ)号を供養する馬頭観音(寛保3年(1743)の建立)。

「から花の陸奥に散る春砂哉」と「子の花や住谷に開く春の駒」の句、左側面に「異国春砂追善 鹿毛二白九歳長四尺九寸五分」と刻まれているそうだ。

千葉県流山市の「オランダ様の坂」にも、徳川吉宗から小金原の牧に送られたペルシャ馬28頭を供養する馬頭観音(元文2年(1737)建立)が祀られている。流山市の方が頭数も多く、馬頭観音の建立も少し古い。『流山市の坂-6』に記載。

Img_8107 説明板

Img_8118 江戸時代の処刑場(首切場)跡あたり(府金坂の手前)

畑の中に供養碑(文化8年)の供養碑がある(あった)というが、今は畑は無く、きれいなグループホーム「ひまわり」の建物になっている。このあたりが首切場だったのをご存知だろうか。知らぬが仏よ。

Img_8122 府金坂(坂上方向) 【ルート地図】の①

Img_8125 坂下方向

左は馬渕川と馬渕橋

Img_8126 坂上方向

Img_8127 地獄沢土橋跡

このあたりは三戸町と南部町の境で小さな沢が流れていた。地獄とは処刑場と関係がある名なのか?

Img_8131 稲荷社

今にも崩れ落ちそうな鳥居が並ぶ。社殿はどうなっているのか。

Img_8133 府金坂の坂上

何の「待合処」(跡)?

Img_8137 馬場坂を下る。(府金橋から続いて下る坂)

Img_8140 坂下方向

下って県道143号に突当たる。

Img_8141 下って県道143号に突当たり右へ。

正面に「天明飢饉の供養塔」 (天明4年(1784)建立)

Img_8144_2 小向橋(正面)を渡って左(北)に上る。直進(東)するのは 八戸街道で交差点には追分石(右者八戸道 左者五戸道)があった。今は南部町中央公民館に移されているそうだ。

Img_8147 北へ上る奥州街道

坂の途中の左に八幡宮がある。

Img_8168 聖寿寺館跡(本三戸城跡) 《地図

南部氏の居城で、ここから三戸城(三戸古城)→福岡城(九戸)→盛岡城(不来方)へと移って行く。

Img_8166 南部霊屋の覆堂

中に南部利康の霊屋(たまや)がある。

Img_8157 説明板

Img_8162 三光寺の大イチョウ

高さ約22m、周囲約9.5m、樹齢約800年という。

Img_8171 北に入る旧道。

Img_8175 農道となる。

Img_8179 下って小さな北沢川を渡って県道233号へ出る。

Img_8183 県道を500mほど上り、右へ高山峠越えの山道に入る。

Img_8184 長坂の長い上りが始まる。 

坂ではなく山道と思えばたいしたことはない。

Img_8186 このあたりは気分のいい道だが。【ルート地図】の②

Img_8189 左に水道記念碑

Img_8191 庚申塔分岐を左に行く。

どれが庚申塔なのか分からず。

Img_8195 だんだん下草が多くなって道が見えにくくなる。

Img_8196 前が開けてきた感じだ。

Img_8197 倒木が道を塞ぐ

Img_8202 隧道分岐

隧道は南部町と五戸町の境の県道233号のトンネル

Img_8289 案内図①(浅水の集落入口に掲示されている。)

(左から)牛立場坂~十和田山碑~高山峠・駕篭立場~雨宮坂水無坂

Img_8290 案内図②

水無坂~並木の松~佐野坂地蔵坂

Img_8291 案内図③

地蔵坂~クラコシ(鞍越)坂~鳥内坂~御大典記念碑

Img_8206 嶺の薬師(少彦名神社)入口

道はあるのか、草で覆われているのか?

Img_8207 牛立場坂あたりだろう。

荷を背負った牛がここいらで一休みしたのか?

Img_8208 十和田山碑の木柱

Img_8209 十和田山碑(嘉永6年(1853)造立)

木柱がなければ気がつかないかも。

Img_8212 駕篭立場へ一息

Img_8217 明治天皇御駐蹕所(ごちゅうひつしょ)記念碑

Img_8216 東北御巡幸記

明治天皇に随行した新聞記者の岸田吟香のもの。

説明書に、「安達の婆の伝説」・「逆さ栗」・「出刃洗い場の滝」が載る。

Img_8215 高山峠の駕篭立場の展望台

Img_8218 八甲田方向

Img_8222 雨宮坂あたり

Img_8223 水無坂を下る。

Img_8224【坂標】

Img_8226 「安達ケ原の鬼ババ伝説」

ここから南東方向が伝説の地で、水田の中に根姥大明神の祠があり、落差10mの「出刃洗いの滝」、安達の婆が刺した杖が根づいたという「逆さ栗」(しだれ栗)があるらしい。

「安達の鬼婆伝説」は、主君の病気を直すため、自分の娘を殺し生肝を献上したという女の話。 福島県二本松の「安達ケ原の鬼婆伝説」に似ている。類似の鬼婆の伝承は日本各地に伝わっているという。

Img_8228 下りの気分のいい道

Img_8235 稲荷の小祠

Img_8237 水梨清水。

Img_8238 冷たいうまい水だった。

Img_8245 林間コースを行く。

Img_8266 工事中の道になる。これが奥州街道

Img_8263 並木の松

Img_8275 開けた所に出る。

Img_8276 「おんこ」の生垣か?

Img_8279 佐野坂を下る。【ルート地図】の③

佐野はこのあたりの地名。

Img_8282【坂標】

Img_8281 きれいにカーブして浅水川へ

Img_8287 佐野坂を下って、浅水川を渡り高山峠方向を振り返る。

Img_8298 宝福寺

Img_8299 説明板

Img_8303 八幡宮(浅水城跡)の丘

浅水城は南部一族の南氏の居城。戦国期の一族内紛の時、南氏は南部信直に属したため、南部晴政の攻撃を受けた。九戸政実の乱では九戸方の櫛引氏の攻撃を受けたが南盛義はこれを撃退し、さらに櫛引城を攻めようとしたが、法師岡の合戦で激戦の末討死した。

Img_8313 八幡宮

Img_8309 由緒

Img_8310 社殿の前で南小学校の生徒の奉納相撲

Img_8317 県道から北へ地蔵坂の上りとなる。

Img_8318 地蔵坂(坂上方向) 【ルート地図】の④

地蔵さんは見当たらなかったが。

Img_8319【坂標】

Img_8320 細い道となる。

Img_8323 青面金剛像(宝暦14年(1764))・二十三夜塔(安政4年(1857))

Img_8328 右側が開けてくる。

Img_8333 十峰庵

秋には積もった落葉を南小学校の生徒が清掃するそうだ。

Img_8334 奥州街道の案内板

Img_8338 八幡宮で相撲を取っていた南小学校が街道の右下に。

Img_8339 鞍越坂(クラカケ坂ともいう) 地蔵坂から続いて、上って下る坂。

鞍へ上って越して、下る坂。

Img_8345【坂標】

Img_8343 下りとなる。

Img_8349 鳥内(とりない)清水(右下)

Img_8350標識

Img_8351 細いが絶えずきれいな清水が流れている。ここでも一杯飲む。

Img_8352 鳥内坂へ向う奥州街道

Img_8353 鳥内坂(鳥谷内坂ともいう)

Img_8356【坂標】

Img_8359 坂上方向

Img_8373 明治天皇小休所跡(右側)

Img_8374 明治天皇小休所跡

ここであたしも小休止、小・・・。それは不敬罪かも?

Img_8376 説明板

Img_8378 松の先の槍沢への道の交差点に御大典記念碑

Img_8380 御大典記念碑

表に「御大典記念 右槍沢」 裏に「昭和三年十一月廿日 槍沢部落一同」

Img_8382 国道4号の二本柳橋へ

Img_8383_2 ひよどり坂(坂下方向) 【ルート地図】の⑤

二本柳橋の手前で左に入る。奥州街道の旧道の旧道。坂名の由来が分からず。

Img_8384 ひよどり坂(坂下方向)

Img_8385 坂下方向

Img_8389 国道4号をくぐって上る。

Img_8398 稲荷神社

旧郷社で、享保18年(1733)に京都の伏見稲荷を勧請し、天明8年(1788)正一位を授与されたという。

お狐さんの前に猿顔の狛犬が鎮座する。

Img_8399 五戸消防団屯所(稲荷神社の隣り)

教会風の建物だ。

Img_8396 説明板

Img_8394 おんこ坂(坂上方向) 北東に上る坂。 《地図

「おんこ」はイチイ科の常緑針葉樹で、五戸の町の木。当地方の生垣によく用いられている。

Img_8401 後ろは江渡家住宅の「おんこ」の生垣

Img_8404 坂上方向

左に高雲寺、右に専念寺

Img_8420 坂下方向

Img_8412 江渡家の表門

Img_8406 江渡家住宅 《地図

現在も居住している旧家。

Img_8405 説明板

Img_8424旅館さ・くら屋

「さくら」は、五戸名物の馬肉の「さくら」と「桜」、間の「・」ここらで一休みの点。

この旅館は安くし、料理もうまい。お薦めの宿だ。

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2009年9月20日 (日)

奥州街道(金田一宿→三戸宿)

2009年9月14日

二戸駅(いわて銀河鉄道)→金田一温泉駅・・・府金橋(馬渕川)・・・国道4号・・・下山井橋(馬渕川)・・・姉滝大橋(馬渕川)・・・豊年橋(馬渕川)・・・県道241号・・・川口橋(金田一川)・・・蓑ケ坂・・・駕篭立場跡・・・駕篭立場の一里塚跡・・・国道4号・・・旧道・板坂・・・竹林坂・・・県道258号・・・長栄寺・・・熊野神社①・・・玉岑(ぎょくしん)寺・・・観福寺・・・妙光寺・・・三戸大神宮・・・悟真寺・・・雷平稲荷・・・門住(かどずみ)神社・・・城山公園(三戸城跡)・・・三戸代官所跡・・・在府小路・・・多聞天堂・・・秋葉山神社・・・黄金橋(熊原川)・・・法泉寺・・・毘沙門堂・・・熊野神社②・・・龍川寺・・・住谷橋(馬渕川)・・・三戸駅(青い森鉄道)→八戸駅(JR八戸線)→本八戸駅

 奥州街道の蓑ケ坂峠を越えて青森県へ入り、三戸宿から野辺地宿まで4日間の坂道散歩です。金田一温泉駅の先で左に入り、馬渕川と青い森鉄道の西側を行くのが旧道なのだが、行き過ぎて府金橋から国道4号に出てしまい、そのまま豊年橋まで行き馬渕川を渡る。

 金田一川の川口橋を渡り釜沢地区の中を北西に、一直線の道を蓑ケ坂の上り口まで進む。ここからは蓑ケ坂峠越えの山道となる。峠の駕篭立場は高さが180mほどで、高さもここからの距離もたいしたことはないし、急坂や蓑や笠のお化けは歓迎だが、道が夏草に覆われ分かりづらい所を進んでいると、あらぬ方向に上っているのではとちと不安になる。

 しばらくすると前が開けて、平坦な駕篭立場に出てほっとする。昔の旅人も急坂を上りきりここで一安心して休憩し、前方に広がる景色を楽しんだのだろう。駕篭立場の一里塚跡を右上に見て、下って国道4号に出る。国道を少し上って下り、三戸温泉跡前から旧道に入り、板坂を上り、竹林坂を下ると三戸市街地の県道三戸南武線(鹿角街道)にぶつかる。ここは鹿角街道との追分石があった所だ。

 長栄寺から三戸町を散策し、三戸城跡の城山公園に上り小休止して、在府小路を下り黄金橋を渡り三戸駅へ向う。駅までは思っていたよりは距離があり電車の時刻に間に合うように予定の所に立ち寄りながら早足で進む。後は本八戸の「みろく横丁」で一杯やるだけだ。明日は高山峠を越える。あまり飲み過ぎないようにと思っているがどうなることやら。

  【ルート地図】  

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Img_7909 いわて銀河鉄道(二戸駅)

Img_9029 金田一温泉駅

Img_9028 駅前の通りは道幅が広いが閑散としている。

「座敷わらしの里」金田一温泉郷は駅の東方約2kmにある。(「緑風荘は2009年10月4日の火事で全焼した。座敷わらしは無事だったろうか?)→現在再建中。

Img_9023 府金橋から馬渕川、東北新幹線(上)、青い森鉄道(正面奥)

Img_9011 豊年橋から馬渕川

Img_9000 川口バス停(県道241号)

Img_8995 川口橋から金田一川

昔は下って、小橋で川を渡っていたらしい。

Img_8993 左奥にあるのは釜沢用水の案内板。蓑ケ坂へは右へ、正面の山肌がむき出している方へ向う。

釜沢用水は、天正年間(1573~91)に釜沢城主小笠原氏が釜沢地区の開田を目的に造ったと伝わる用水路。水源の取水口は金田一川上流の野々上阿弥陀地区で、延長約1.5キロメートル以上あり、現在約33haの水田を潤し、冬も凍らないのでカワニナ(蛍の幼虫の餌)が生息しているそうだ。

Img_8988 蓑ケ坂の上り口へ一直線

Img_8982釜沢地区の案内板(相当古いが)

右端が蓑ケ坂、上方に釜沢城跡がある。左端の釜沢小学校は平成7年に閉校した。月山神社(左端)は釜沢城主の小笠原淡路守重清の氏神と伝える。地区の家々はりんごのマークになっている。

Img_8987釜沢城跡(寺館山・250m)方向

本館(ほんたて・釜沢館)と寺館(てらたて・常楽寺館)からなり、古くは樺沢城と呼ばれていた。
九戸の乱のとき、城主の小笠原淡路守重清は三戸城主の南部信直に従わず、九戸城落城後に攻められ、激戦の末に落城した。重清の首は常楽寺に埋葬されたと伝える。

Img_8980 道端の庚申塔、二十三夜塔

まだ新しいようだ。

Img_8978 親亀の上に・・・

Img_8975 蓑ケ坂の上り口から来た道を振り返る。

Img_8965 蓑ケ坂へ 【ルート地図】の①

説明板:「蓑ヶ坂は奥州街道中の難所の一つでした。明治九年(1876)及び明治十四年(1881)の明治天皇行幸の際、天皇御一行はこの蓑ヶ坂を登り、三戸に向かいました。蓑ヶ坂にさしかかると天皇は馬車から降り馬に乗り換え、大勢の村人たちが天皇の乗ってきた車を押し上げたと伝えられています。昔、蓑ヶ坂の峠にさしかかると、風雨が起こり、そこにはうまい具合に蓑と笠が置かれていたものだそうです。しかし、この蓑と笠は実は大ムカデが化けたもので、これを身につけると沼に引きこまれてしまうと云われていました。」

Img_8968 説明板

蓑と笠に化けた大蛇を玉山兵庫が退治したという伝説もあるそうだ。

Img_8963落石危険の標識があるがここだけでなんてことはない。

Img_8961 蓑ケ坂

「駕篭立場あと500m」の標識が立つ。このあたりはまだ道筋がはっきりしていて歩きやすいが。

Img_8959標識

Img_8958下草に覆われ道筋がよく見えない所もある。

Img_8953 標識があって一安心

Img_8950 駕篭立場へ到着

Img_8936駕篭立場の説明板と「明治天皇巡幸碑」の後ろに展望台。明治9年の天皇巡幸の時には蓑ケ坂で馬車が動けなくなり、地元民10人で押し上げたという。時代が変わっても天皇一行は相変わらずの大名行列をしていたのだ。

江戸末期には「吉兵衛茶屋」があった。吉田松陰の「東北遊日記」の碑も立っている。

Img_8943 展望台(標高180m位)から

下は馬渕川が大きく蛇行して舌のようりせり出している舌崎地区、岩手県と青森県の県境を馬渕川が手前下方から左の崖下に沿い正面右方向に流れている。

Img_8945_2 釜沢地区、豊年橋方向

Img_8937 説明板

Img_8931 駕篭立場から駕篭立場の一里塚へ向う。

Img_8930 右側上に駕篭立場の一里塚跡

昔の街道は少し上を通っていたようだ。

Img_8929 駕篭立場の一里塚跡

Img_8926 説明板

Img_8924一里塚からまもなく右へ下って国道4号へ。直進する道(東北自然歩道のルート)も少し上って下りとなり、 国道4号へ出られるようだ。こっちが旧道なのかも。

Img_8917_2 東北自然歩道の道標

Img_8916佐々木鉄工所(右)へ入る道と合流して国道4号(現奥州街道)に出る。

Img_8915 右へ上るのが旧奥州街道(蓑ケ坂方向)

Img_7919 東北自然歩道の案内図が掛かっている国道4号との合流点。

Img_7933 国道4号を下ってカーブする所(三戸温泉跡?)から直進して旧道の板坂を上る。

Img_7934 板坂の坂下

Img_7937 板坂(坂上方向) 【ルート地図】の②

カーブしながら上って行く。坂名の由来は分からず。

Img_7942 坂上から広域農道を横切り、竹林坂へと向う。

Img_7948 道の両側には果樹園

Img_7953 竹林坂を下る。 【ルート地図】の③

竹林はこのあたりの字名。昔は竹林の間の坂だったのか?

Img_7956 三戸町の家並みが見え出した。

Img_7960 坂下を進むと県道258号(鹿角街道)に突当たる。

Img_8034 「鹿角街道」との交差点(同心町)にあった追分石

「右ハ かつの 左ハ もり岡」 今は城山公園の糠部神社の前に移設してあるが説明板もなく、ただ置かれているだけで可哀そうな感じだ。

Img_7964 赤塚工務店(県道沿い)

祭礼の提灯が掛かっている。昨日まで「さんのへ秋まつり」だったようだ。

Img_7966 長栄寺

門前の亀はどういう意味か?

Img_7969 正応碑(左)と檜山御前五輪塔(右)

正応碑は上部の笠が失われた塔婆の塔身と推定。正応2年(1289)の造立とあるそうだ。

檜山御前五輪塔は檜山の秋田忠次郎へ嫁いだ南部家26代の南部信直の二女、檜山御前の墓。

Img_7968 正応碑説明板

Img_7967 檜山御前五輪塔説明板

Img_7973 熊野神社

Img_7979 観福寺山門

三戸代官所の門を移築。十一面観音菩薩坐像は青森県の重要文化財

Img_7978 説明板

Img_7985 三戸大神宮

旧郷社、祭神は天照皇大神

Img_7992 悟真寺

糠部三十三観音霊場第25番札所

Img_7990 佐瀧本店

正面の洋館風の建物は大正時代に建てた離れだそうだ。

Img_8000 照井鮮魚店

Img_8015 門住(かどずみ)稲荷(城山公園(三戸城跡)内

三戸城の大手口守護のために祀られた。

Img_8014 由緒

Img_8026 三戸城綱御門(復元)

Img_8028 説明板

Img_8029 武者溜まり

Img_8030 説明板

Img_8031 鹿園

昭和42年に金華山から移されてきた。

Img_8036 糠部(ぬかのべ)神社

創建は明治11年(1898)で、祭神は南部氏の祖の光行。

Img_8039神木の杉

樹齢800年以上、初代南部光行の時代に当たり、当地方最古の杉という。

Img_8045 三戸城温故館(右)・歴史民俗資料館(左)

月曜は休館日

Img_8048 三戸城本丸跡 【ルート地図】の④

南部氏の居城は、「聖寿寺館(本三戸城)→三戸城(三戸古城)→福岡城(九戸)→盛岡城(不来方城)へと移っていく。

Img_8049 説明板

Img_8053繭子ひとり」像

NHK朝の連続ドラマ(1971年4月から1年間放映)の舞台が八戸で、原作者の三浦哲郎が八戸の出身。撮影は三戸町で行われた。

Img_8009 代官所跡(右上は三戸城跡)

北隣(NTTのあたりか)に野馬役所があり、その隣りに蔵役所があった。

Img_8002 在府小路

黄金橋へと続く奥州街道

Img_8003 富田修歯科医院

今も開院しているのだろうか。

Img_8066 酒処「蓑ケ坂」

今日は三戸には泊まらないので残念ながらパスだ。

Img_8005 多聞天堂

Img_8006 秋葉山神社

Img_8073 黄金(きがね)橋から城山公園方向 【ルート地図】の⑤

12代南部政行後村上天皇から歌を褒められ、京の加茂川の橋の擬宝珠(ぎぼし)を模した橋を城下に架けることを許されたという。歴史民俗資料館に元和9年(1623)の擬宝珠が保存されている。

Img_8069 由緒碑

Img_8076 旧家(黄金橋を渡った所)

Img_8078 法泉寺山門

三戸城の搦手門を移築

Img_8077 説明板

Img_8080 毘沙門堂

三戸城の北方を守護

Img_8079 説明板

Img_8085旧家

Img_8090 龍川寺山門

三戸城の表門の一つを移築

Img_8089 説明板

Img_8097 村井家住宅(国登録有形文化財)

Img_8098 三戸駅(青い森鉄道

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2009年9月13日 (日)

前橋市の坂-2

2009年9月9日

前橋駅(JR両毛線)バス→女屋町(おなや町)・・・国道50号・・・牛橋(寺沢川)・・・萬福寺・・・八幡坂・・・牛橋・・・観音橋(桃ノ木川)・義経の腰掛石・・・下長磯稲荷神社・・・巡礼橋(清水川)・・・(JR両毛線)・・・県道2号・・・来迎寺・・・広瀬団地入口交差点・・・広瀬新橋(広瀬川)・・・天神公園・・・天神山古墳・・・宮川用水・旦那坂跡あたり・・・八幡山公園・八幡山古墳・・・端気川・・・二子山古墳・・・前橋駅

 ある程度予想はしていたが、今は八幡坂、旦那坂あたりは平坦地で坂道らしき面影はなかった。坂道散歩というより、古墳巡りの半日だったが、八幡坂には源義家、牛橋のいわれの一つには源頼朝、観音橋の義経の腰掛石には源義経が登場し、女屋町、巡礼橋、旦那坂のもそれなりの由来話があり、電車賃の半分位の価値はあっただろう。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_7838 萬福寺へ

ここは女屋町、「おなや町」と柔らかく女性的な響きがいい。「女屋」のいわれは、①前九年の役の帰路、源義家(八幡太郎義家)の軍勢がこの地にしばし留まった。兵士たちを目当てに女二人が酒屋を開いてたいそう賑わった。女酒屋を女屋と呼ぶようになり、地名にもなったという。②上杉氏の末孫の本間某の娘二人が、この付近で女酒屋を開き、その名は近郷近在まで広まった。『前橋の伝説百話』より

八幡坂があるのだから、①の方が説得力があるが、とすれば女屋という地名は相当古くからあったことになる。

Img_7818 萬福寺

Img_7821 八幡坂(坂上方向) 女屋町の萬福寺の北裏から江木へ通ずる坂。北方向に下り気味の道。 【ルート地図】の①

女酒屋が坂上にあったという。正面右奥がいずみ幼稚園で、その右が萬福寺。写真で見ると少し上っているようにも見えるが、歩いていると傾斜は感じられない。

Img_7834 坂下(江木)方向

少し下っているか? 真っ直ぐな道でなく、墓や石造物が並び古道らしき感じもある。

Img_7825 坂上方向

Img_7828八幡坂近くの農家の門

Img_7841 ひまわり畑(牛橋のそば)

牛橋のあたりは牛の臭いが漂っている。牛舎が多く、牛橋なのかと思いきや、

「牛橋」の由来話:①都から国府に来ていた橘清重という役人が、都に帰らずに小島田の長明寺の脇に住みついた。清重の牛車の牛は寺沢川の浅瀬で体を洗ってもらい、草を食べていた。東街道(国道50号の南を東西に通っていた古道)を通る人は、牛のいる橋をいつのまにか牛橋と呼ぶようになった。 ②昔、橋がない頃は牛を並べておいて、その上を渡ったので牛橋と名づけたという。③昔、牛を曳いた人がここまで来ると、牛が立っていなないて伏せてしまった。それでこの橋を牛伏橋といい、それが後に牛橋になったという。④源頼朝がこの橋を渡った時、橋の上に牛が伏していたので、この名前がついたともいう。

へぇ-、いろんな由来話があるものだ。②の牛を並べて橋の代わりとして、その背中の上を渡ったなんかは、想像するとおかしな図で笑ってしまうよ。今は小さな流れの寺沢川にかかる国道50号の平凡な橋で写真も撮らなかったのに。

Img_7847 観音橋(桃ノ木川・国道50号)

昔、女屋町の東街道に面して観音さんが祀られていて、街道を往来する人々は道中の安全、荷場の無事息災を祈ったという。

Img_7846 義経の腰掛石(観音橋のたもと)

源義経が東街道を通って奥州へ向う途中で、この石に腰掛て休憩したという。

Img_7845 説明板

Img_7852 下長磯稲荷神社

左は「下長磯のあやつり式三番人形」一式が保管されている蔵。

Img_7849_2説明板

Img_7853 巡礼橋(清水川) 【ルート地図】の②

ここを通りかかった巡礼が土地の者に殺され金を奪われ、この川に投込まれた。爾来、巡礼橋と呼ばれるようになった。

Img_7861 天神山古墳(後円部の一部と埋葬主体部の粘土槨のみ残存) 【ルート地図】の③

4C後半築造の全長126mの前方後円墳だった。三角縁神獣鏡が出土した古墳なのに、簡単に破壊してしまうとは。

Img_7860 説明板

Img_7859 昭和43年頃の写真

宅地の造成で破壊され、左の後円部の一部と埋葬部の主体の粘土槨だけが残っている。

Img_7871 左に延びていた前方部は住宅の建築で破壊され、惨めな姿をさらしている。

Img_7874 旦那坂跡あたり 【ルート地図】の④

オトウカ(狐・お稲荷)が綺麗な女に化けて通りかかる人をたぶらかしたという。

市内には他にも旦那坂があった(ある)ようだ。ここよりもちゃんとした坂らしく残っているのかもしれない。

Img_7875 八幡山古墳(右が前方部・左が後方部)

4C半ば~後半築造の全長130mの前方後方墳

Img_7882 後方部

Img_7883 接合部

Img_7884 前方部

Img_7888 後方部(高さ12m)から前方部(高さ8m)

Img_7906 二子山古墳(右が前方部、左が後円部) 【ルート地図】の⑤

6C後半~7C初めの築造の、全長104mの前方後円墳

Img_7897 説明板

Img_7900 後円部から前方部

くびれの少ないずんぐりタイプの前方後円墳

Img_7901 前方部墳頂に残る葺石の川原石

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2009年9月 1日 (火)

前橋市の坂-1

2009年8月26日

前橋駅(JR両毛線)・・・隆興寺・・・天狗坂・東福寺・・・馬場川通り・・・縁切り坂・・・前橋望景の碑・・・馬場川通り・・・前橋城車橋門跡・・・市立図書館・・・清光寺・・・長壁神社・・・虎姫観音堂・・・前橋城跡・・・前橋公園・東照宮・・・臨江閣・・・石川橋(広瀬川)・・・雷電神社・・・森厳寺・・・梅が橋(広瀬川)・・・稲荷橋・・・県道6号・・・飛石稲荷・・・県道6号・・・(群馬大学附属病院)・・・若宮4丁目交差点・・・県道4号・・・北代田橋(桃ノ木橋)・・・南白川橋(赤城白川)・・・大悟橋(竜ノ口川)・・・鎌倉川・鎌倉中学校・・・鎌倉坂・・・県道76号・・・大国主神社・・・道進坊坂・・・日枝神社・善勝寺・・・県道76号・・・上泉郷蔵(上泉城跡)・・・流通橋(藤沢川)・・・県道3号・赤坂・・・赤坂駅(上毛電鉄)→中央前橋駅・・・前橋駅

 天狗坂の位置がはっきりせず、東福寺の回りを一周してなるほど分かった。天狗坂も縁切り坂も馬場川通りへ下る小さな坂で、由来話はともかく坂らしい感じはない。前橋は萩原朔太郎の故郷、先日、奥州街道の白河宿で朔太郎の妻の生まれた造り酒屋の前を通ったばかり。坂道散歩をしていると現在過去、いろんな人物との出会いがある。

 前橋城の車橋門跡から市立図書館に寄るが、目ぼしい資料は見つからず。吉田松陰の妹が創建した清光寺に寄り、利根川方向に向うと長壁神社がある。この神社には我がままな稲荷姫の伝説があり、前橋城の本丸があったという虎姫観音堂に祀られているのは怨霊となった虎姫だ。奥州街道日和田宿の蛇骨地蔵堂の由来話にも、大蛇となって人々を苦しめたあやめ姫がいる。そういえば根田宿の入口には安珍堂があった。清姫の妄執の炎も忘れたら叱られる。どこでも、いつの時代にも怖いのは・・・・。

 形のいい土塁が残る前橋城跡から北の前橋公園に入る。東照宮と県道を挟んだ北側のレトロの建物の臨江閣は入場無料なのが嬉しい。大きな部屋が続いていて壮観だ。夏休みもそろそろ終わりのせいかちょうど入場客は私一人。涼しい風が抜ける広い廊下で、管理の女性としばし雑談する。

 石川橋下の広瀬川は水位が高く、流れも速い。いわれのある梅が橋あたりは今は何の変哲もない所。橋柱の古さだけが残っていた。社殿の後ろにどっしりとした大岩を従えた飛石稲荷から県道6号を東に向う。県道4号の北代田交差点からいくつかの小川を渡り、県道76号の鎌倉橋交差点へ出ると、すぐ南から北条時頼の伝説のある鎌倉坂の上りとなる。今はこのあたりには鎌倉の風情はないが。

 端気(はけ)町と上沖町をつなぐという道進坊坂には3つの道筋が考えられる。①②③として歩いてみたが、①が一番適当に思うが自信はない。いい加減なものだ。鎌倉坂の由来話に出てくる善勝寺から県道76号に下り、上泉城址に残る郷蔵から藤沢川を渡り、県道の緩やかな赤坂を上って上毛電鉄の赤坂駅に着いた。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_7598 田中石材点の天狗坂の道標?

↑方向に直進したら隆興寺へ行ってしまった。天狗坂は反対方向。

Img_7610 天狗坂(坂下方向) 国道50号から三河町1丁目の東福寺へ下る参道の坂。【ルート地図】の①

東福寺の秘仏である聖天様は江戸時代大変信仰を集め、年一回の開帳日には特に若い男女の参拝が多かった。その姿を見た人たちが天狗の鼻を連想したことからこの名がついたという。

Img_7608 山門と本堂の間に馬場川通りが通っている。

Img_7603 坂上方向

馬場川通りの所から

Img_7604 東福寺

永禄2年(1559)に創建され、酒井忠世の時に当地に移った真言宗の寺。

アジア風の本堂だ。今でも聖天様の開帳はあるのだろうか。

Img_7617 縁切り坂 本町5丁目の東和銀行本店の東側を北西に馬場川通りへ下る坂。【ルート地図】の②

広瀬川の河原の処刑場に連れて行かれる罪人がこの坂を通った。罪人にとってはこの坂が今生の縁を切る所なので、縁切り坂と呼ぶようになった。相思相愛の男女が一緒に通ると縁が切れるという言い伝えがあった。どうしてもこの坂を通らなくてはならない時は、男女別々に通ったという。

広瀬川の河原に処刑場があったというのは事実だろうか? 詳しく調べていないので何とも言えず。

Img_7618 坂下方向

Img_7619 坂下の馬場川(通り)

縁切り坂の坂下の明聞寺(現在は移転)の隣地に「梅の井」があったという。 井戸の傍らに「八房の梅」があり、その水の噴き出るさまは、梅の花の形に見えたという。この井戸にちなんで、「梅の井亭」という寄席や銭湯、だんご屋の名にも使われ、「袖ごとに 香をとめて汲め 名に高き 群馬(くるま)のさとの 梅の井の水」(養行寺の行妙和尚)の石碑が立っていたという。この井戸も昭和38、39年頃に区画整理で埋立てられたそうだ。『前橋の伝説百話』より

Img_7630 坂上方向

Img_7629 前橋望景の碑

この地で生まれた萩原朔太郎の記念碑

Img_7628 説明板

Img_7632 巨大岩石

東和銀行建築の際の地中から出土したもの。飛石稲荷の大岩(後掲)と同じ系統のものだろうが、全然小さい。

Img_7631 説明板

Img_7637 前橋城車橋門跡(市指定史跡) 《地図

Img_7640 長壁神社

姫路城から遷された神社。前橋城は利根川の流れを西の守りとして築かれたが、その流れは激しく毎年、城の崖を崩した。そこで城主は前橋城を捨て川越に移ろうとした。そんなある夜、城主の夢枕に一人の美女が現れ、「私は先代が姫路城からこの城に遷した長壁稲荷である。城を移るようだが今度もお供したい。」と頼んだ。しかし城主は城の守護神が城の守りも出来ず、城替えに連れて行ってもらいたいとはけしからんと思い願いを断った。それからと言うもの長壁稲荷は人々の夢枕に立ち、「川越に行きたい、行きたい」と言ったという。

Img_7642 長壁稲荷社

社殿の後ろ側にひっそりと小さな祠がある。

Img_7645 虎姫観音堂

怨霊となった虎姫を観音として祀った観音堂。

Img_7649 由来

Img_7650 虎姫観音

ちょっときつい顔立ちだが、なかなかの美形だ。左には弁財天とお使い姫の蛇が虎姫が暴れ出さないように守っている。

Img_7646 観音堂から利根川、群馬大橋。

Img_7651 前橋城の天守閣は虎姫観音堂のあたりにあったそうだ。

暴れ川の「坂東太郎」利根川に翻弄され続けた城。

Img_7656前橋城の土塁跡(県警本部の北側)

古くは厩橋城と呼ばれた、関東七名城の一つ。

Img_7662 前橋城址之碑

明治41年に土塁上に建てられた。

Img_7666 東照宮

徳川家康を祀る。前橋公園内の意外とこじんまりとした神社だった。

Img_7670 臨江閣別館

明治43年一府十四県連合共進会の貴賓館として建てられた書院風建築物。

Img_7669 説明板

Img_7672 本館・渡り廊下・茶室(右)

明治17年に群馬県や前橋の迎賓館として建てられた。

Img_7671 説明板

Img_7674 明治天皇が休憩した部屋

Img_7679 別館から日本庭園、渡り廊下、本館

Img_7685 石川橋から広瀬川

水量が多く、流れが速く、水面が高い。大雨が降ると岡山県の佐用川みたいに氾濫しそうに見えるが、大丈夫なのだろう。

Img_7689 雷電神社

Img_7692 梅が橋(広瀬川) 《地図

橋のたもとで一本の香り豊かに咲き誇る梅の木を見つけた前橋城主が、梅が橋と名づけたとも、殿さんの愛妾の「お梅の方」が橋のそばの「お梅御殿」に住んでいたからとも伝える。『前橋の伝説百話』より

Img_7695 梅が橋から稲荷橋の間の通り

木陰が涼しい。

Img_7696 飛石稲荷神社(岩神稲荷) 【ルート地図】の③

Img_7701 社殿の後ろの「飛石」

10万年以上も前の赤城山の大規模な山崩れによって押し出された岩が、約2万年前の前橋台地を造った浅間山の火山泥流でここまで押されて来たものという。木々で覆われているが、周囲が約60m、高さは地上に露出した部分で10m近く、地下にも数m埋まっていると推定されている。

石工がこの大岩にノミを打ち込んだところ、真っ赤な血が噴き出たという「岩神の飛石」の話もある。

Img_7707説明板

Img_7714反対側から

下に小さな稲荷が祀られている。

Img_7712ミニ稲荷 

Img_7730 鎌倉坂 上細井町の県道76号の鎌倉橋交差点の一つ南の交差点から北東方向に上る坂。【ルート地図】の④

正嘉2年(1258)諸国を巡っていた旅僧姿の北条時頼が善勝寺を訪れ、住職の覚山和尚と語り合った。時頼は庭先に今を盛りに咲き誇る二本の桜を目にとめ、「海もなく 磯べも遠きこの里に 何れのあまが 植し塩釜」と詠んで覚山和尚に贈り、立ち去った。この歌から旅の僧が時頼であることを知った和尚は引き返してもらおうと小僧に後を追わせた。今の鎌倉坂で追いついた小僧がその意を告げると、時頼は「もう鎌倉へ着いた。帰るには及ばない」といい、舟で大利根を渡って行った。」という。以来この坂を鎌倉坂と呼ぶようになった。『前橋の伝説百話』より

この時代には利根川が近くに流れ、水利に富んだ地形や景色が鎌倉に似ていたのだろう。今は鎌倉の風情は感じられないが。

善勝寺の塩釜桜はとうに枯れてしまったが、本家、塩釜市の塩釜神社にはちゃんと残っている。五月上旬に満開となる八重桜で、国の天然記念物だそうだ。

Img_7732 坂上方向

Img_7733 坂下方向

Img_7734 道標か?

坂の途中の分岐 「神明」と「端気(はけ)」とあるようだが。坂上は小神明町で、神明宮があり、その南が端気町だ。

Img_7736 鎌倉坂バス停から坂下方向

Img_7743 大国主神社 《地図

Img_7744 道進坊坂①(坂上方向) 県道76号の上沖町交差点から端気町へ北東に上る。《地図

端気町と上沖町をつなぐ坂で、昔、道進坊という偉い坊さんがこの坂で倒れて死んだというが詳細は分からず。

坂下近くに道祖神、坂上に墓地があり古道の面影が残っている。この坂が一番ふさわしいようだが、自信はない。

Img_7747 道祖神(坂下近く)

Img_7748 坂上方向

Img_7750 坂下方向

左側は墓地

Img_7753 道進坊坂②  ①の坂の途中を東西に上る坂。《地図

Img_7770 日枝神社(善勝寺の前)

周りに木が無く、ポツンと裸で殺風景で、何となく可哀そうな感じだ。

Img_7763 善勝寺

「鎌倉坂」の由来話に登場する寺。

Img_7766 鉄造阿弥陀如来座像は国指定重要文化財

Img_7773 道進坊坂③(坂下方向) 県道76号の端気町交差点から北に端気町に上る坂。《地図

Img_7774 坂上方向

Img_7778坂下方向

Img_7784 上泉郷蔵 《地図

寛政8年(1796)に天災、飢饉などの備えとして建てられた穀物貯蔵用の土蔵。

Img_7782 説明板

Img_7786 剣聖上泉伊勢守

上泉郷蔵あたりは上泉城の本丸、二の丸跡。上泉伊勢守は柳生新陰流の祖で、柳生但馬守宗厳(むねよし)が3度試合に敗れ、師事したほどの無双の兵法者だった。

Img_7797 説明板

Img_7796_2 周辺図

Img_7806 赤坂(坂上方向) 上毛電鉄赤坂駅の北側を北東に上る県道3号。【ルート地図】の⑤

傾斜は緩いが長い坂。昔は赤土のむき出した坂だったのだろう。

Img_7808

坂下方向

Img_7812上毛電鉄赤坂駅

二両編成の電車

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