前橋市の坂-2
2009年9月9日
前橋駅(JR両毛線)バス→女屋町(おなや町)・・・国道50号・・・牛橋(寺沢川)・・・萬福寺・・・八幡坂・・・牛橋・・・観音橋(桃ノ木川)・義経の腰掛石・・・下長磯稲荷神社・・・巡礼橋(清水川)・・・(JR両毛線)・・・県道2号・・・来迎寺・・・広瀬団地入口交差点・・・広瀬新橋(広瀬川)・・・天神公園・・・天神山古墳・・・宮川用水・旦那坂跡あたり・・・八幡山公園・八幡山古墳・・・端気川・・・二子山古墳・・・前橋駅
ある程度予想はしていたが、今は八幡坂、旦那坂あたりは平坦地で坂道らしき面影はなかった。坂道散歩というより、古墳巡りの半日だったが、八幡坂には源義家、牛橋のいわれの一つには源頼朝、観音橋の義経の腰掛石には源義経が登場し、女屋町、巡礼橋、旦那坂のもそれなりの由来話があり、電車賃の半分位の価値はあっただろう。
【地図】
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ここは女屋町、「おなや町」と柔らかく女性的な響きがいい。「女屋」のいわれは、①前九年の役の帰路、源義家(八幡太郎義家)の軍勢がこの地にしばし留まった。兵士たちを目当てに女二人が酒屋を開いてたいそう賑わった。女酒屋を女屋と呼ぶようになり、地名にもなったという。②上杉氏の末孫の本間某の娘二人が、この付近で女酒屋を開き、その名は近郷近在まで広まった。『前橋の伝説百話』より
八幡坂があるのだから、①の方が説得力があるが、とすれば女屋という地名は相当古くからあったことになる。
八幡坂(坂上方向) 女屋町の萬福寺の北裏から江木へ通ずる坂。北方向に下り気味の道。
女酒屋が坂上にあったという。正面右奥がいずみ幼稚園で、その右が萬福寺。写真で見ると少し上っているようにも見えるが、歩いていると傾斜は感じられない。
少し下っているか? 真っ直ぐな道でなく、墓や石造物が並び古道らしき感じもある。
牛橋のあたりは牛の臭いが漂っている。牛舎が多く、牛橋なのかと思いきや、
「牛橋」の由来話:①都から国府に来ていた橘清重という役人が、都に帰らずに小島田の長明寺の脇に住みついた。清重の牛車の牛は寺沢川の浅瀬で体を洗ってもらい、草を食べていた。東街道(国道50号の南を東西に通っていた古道)を通る人は、牛のいる橋をいつのまにか牛橋と呼ぶようになった。 ②昔、橋がない頃は牛を並べておいて、その上を渡ったので牛橋と名づけたという。③昔、牛を曳いた人がここまで来ると、牛が立っていなないて伏せてしまった。それでこの橋を牛伏橋といい、それが後に牛橋になったという。④源頼朝がこの橋を渡った時、橋の上に牛が伏していたので、この名前がついたともいう。
へぇ-、いろんな由来話があるものだ。②の牛を並べて橋の代わりとして、その背中の上を渡ったなんかは、想像するとおかしな図で笑ってしまうよ。今は小さな流れの寺沢川にかかる国道50号の平凡な橋で写真も撮らなかったのに。
昔、女屋町の東街道に面して観音さんが祀られていて、街道を往来する人々は道中の安全、荷場の無事息災を祈ったという。
源義経が東街道を通って奥州へ向う途中で、この石に腰掛て休憩したという。
左は「下長磯のあやつり式三番人形」一式が保管されている蔵。
ここを通りかかった巡礼が土地の者に殺され金を奪われ、この川に投込まれた。爾来、巡礼橋と呼ばれるようになった。
4C後半築造の全長126mの前方後円墳だった。三角縁神獣鏡が出土した古墳なのに、簡単に破壊してしまうとは。
宅地の造成で破壊され、左の後円部の一部と埋葬部の主体の粘土槨だけが残っている。
左に延びていた前方部は住宅の建築で破壊され、惨めな姿をさらしている。
オトウカ(狐・お稲荷)が綺麗な女に化けて通りかかる人をたぶらかしたという。
市内には他にも旦那坂があった(ある)ようだ。ここよりもちゃんとした坂らしく残っているのかもしれない。
4C半ば~後半築造の全長130mの前方後方墳
6C後半~7C初めの築造の、全長104mの前方後円墳
くびれの少ないずんぐりタイプの前方後円墳
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