奥州街道(三戸宿→五戸宿)
2009年9月15日
本八戸駅(JR八戸線)→八戸駅(青い森鉄道)→三戸駅・・・住谷橋(馬渕川)・・・旧道・・・馬暦神社・唐馬の碑・・・処刑場(首切場)跡あたり・・・(国道4号)・・・府金坂・・・地獄沢土橋跡・・・稲荷神社・・・馬場坂・・・県道143号・・・小向橋(猿辺川)・・・若宮八幡宮・・・聖寿寺館跡(本三戸城跡)・・・南部霊屋(たまや)・三光寺・・・北沢川・・・県道233号・・・旧道・長坂・・・水道記念碑・・・庚申塔分岐・・・隧道分岐・・・嶺の薬師入口・・・牛立場坂・・・十和田山碑・・・高山峠(277m)・・・雨宮坂・・・水無坂・・・稲荷大明神・・・水梨清水・・・並木の松・・・佐野坂・・・新橋(浅水川)・・・県道233号・・・宝福寺・・・八幡宮・・・明治天皇休憩所跡・・・旧道・・・地蔵坂・・・庚申塔・二十三夜塔・・・十峰庵・・・鞍越(くらごし)坂(クラカケ坂)・・・鳥内清水・・・鳥内(とりない)坂(鳥谷内坂)・・・一里塚跡・・・明治天皇休憩所跡・・・御大典記念碑・・・ひよどり坂(旧街道の旧道)・・・国道4号・・・稲荷神社・五戸消防団屯所・・おんこ坂・・・江渡家住宅・・・高雲寺・・・専念寺・・・さ・くら屋旅館
昨夜はかなりの雨が降って、今朝の空もどんよりしている。青い森鉄道は学生の貸切通学電車のようだ。女子学生が「今日の天気予報で雨、降るって言ってた。」 外を見ると窓ガラスに大粒の雨が流れている。雨中の街道歩きを覚悟して、三戸駅で雨具を着て出発するが、馬暦神社へ向う旧道に入る頃には雨は上がってくれた。このまま高山峠を越えるあたりまでは降らないでと願うばかりだ。
天気はいまいちだが、今日は国道、県道歩きは少なく、坂も多いので気分がいい。府金坂を上り、馬場坂を下り、小向橋を渡って北へ、聖寿寺館の堀割跡という若宮八幡宮沿いの道を上って突当たりを左へ、聖寿寺館(本八戸城)跡、南部霊屋に寄る。戻って果樹園の中の農道を進み、県道233号に出てしばらく北方向に行き、右へ高山峠への旧道の長坂に入る。いくつかの分岐を過ぎると、だんだん足元の雑草が多くなって道筋もはっきりしない所もある。それよりも雨を被った雑草に膝まで濡れ、靴の中までびっしょりになったのには参った。
牛立場坂、十和田山碑を過ぎると高山峠で、展望台で早い昼飯で小休止。曇っているが寒くなく、北方向にしか眺望はきかないがむろん我一人で静かだ。ここからすぐに雨宮坂、水無坂で、林道を浅水まで下って行く。水無坂に水梨清水があるものだと思い込んでいてあちこち探し、少し下ってまた引き返したが見当たらず、もう涸れてしまったのかとあきらめかけていたら、水無坂からだいぶ下った所にちゃんと水梨清水はあった。そんなに簡単に涸れてしまうはずがないよ。まったく。相変わらずいい加減な男だ。
下りの途中の道標のない左右の分岐でどちらか迷い、左右両方の道を一周半も上り下りしてしまった。(左の道が旧道・ここがてっきり佐野坂と思い、坂標が立っているのを探したため。佐野坂はもっと下った所にあった。この間小1時間、大汗かきのくたびれ儲け、くたびれ損か。水梨清水はあきらめても、佐野坂はあきらめないのがせめてもの救いか、ただの「坂おたくか」だろうよ。)
林道から集落に出て、また道を間違えたがなんとか佐野坂(上の写真)にめぐり合い、下って浅水川を渡って県道233号に出ると、左手の小高い所に八幡宮がある。だいぶ時間もロスしたし、遥拝で済まそうかとも思ったが、ここは浅水城跡だし上ることにする。途中から子どもの歓声が聞こえ出した。何かのイベントがあるのか、上って正解、境内で南小学校の生徒が奉納相撲の大会の真っ最中だった。生徒や父兄の観客も多く、「物言い」がついたりしてなかなか本格的だ。しばし観戦していたが、まだ先が長いので二回戦の途中で失礼する。
県道から北に入り、地蔵坂、鞍越坂を上って下ると鳥内清水で、うまい水でのどを潤し、鳥内坂の上りにかかる。明治天皇休憩所跡で小休止し、交差点に御大典記念碑のある槍沢へ向う道を突っ切り、五戸町の市街へ向う。この先、国道4号の二本柳橋を越えて進むのが旧道だが、橋の手前で左に、ひよどり坂を下るのが旧道の旧道だ。下って国道4号をくぐって進むと小社の先で「おかん坂」の途中に出る。稲荷神社に寄り、隣のモダンな造りの消防団の建物を見て、「おんこ坂」を上る。坂沿いの江渡家は「おんこ」の生垣に囲まれた風格満点に旧家だ。坂上から新町の交差点で旧道を横切り、さらに上って今夜の宿の「旅館さ・くら屋」に向った。いい旅館だった。
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
唐馬の碑(中央)・紅梅号の碑(左)
紅梅号は日本の馬だろう。
オランダ人が徳川吉宗に献上したペルシャ馬が南部藩に下付された。その春砂(はるしゃ)号を供養する馬頭観音(寛保3年(1743)の建立)。
「から花の陸奥に散る春砂哉」と「子の花や住谷に開く春の駒」の句、左側面に「異国春砂追善 鹿毛二白九歳長四尺九寸五分」と刻まれているそうだ。
千葉県流山市の「オランダ様の坂」にも、徳川吉宗から小金原の牧に送られたペルシャ馬28頭を供養する馬頭観音(元文2年(1737)建立)が祀られている。流山市の方が頭数も多く、馬頭観音の建立も少し古い。『流山市の坂-6』に記載。
畑の中に供養碑(文化8年)の供養碑がある(あった)というが、今は畑は無く、きれいなグループホーム「ひまわり」の建物になっている。このあたりが首切場だったのをご存知だろうか。知らぬが仏よ。
左は馬渕川と馬渕橋
このあたりは三戸町と南部町の境で小さな沢が流れていた。地獄とは処刑場と関係がある名なのか?
今にも崩れ落ちそうな鳥居が並ぶ。社殿はどうなっているのか。
何の「待合処」(跡)?
下って県道143号に突当たる。
正面に「天明飢饉の供養塔」 (天明4年(1784)建立)
小向橋(正面)を渡って左(北)に上る。直進(東)するのは 八戸街道で交差点には追分石(右者八戸道 左者五戸道)があった。今は南部町中央公民館に移されているそうだ。
坂の途中の左に八幡宮がある。
南部氏の居城で、ここから三戸城(三戸古城)→福岡城(九戸)→盛岡城(不来方)へと移って行く。
中に南部利康の霊屋(たまや)がある。
高さ約22m、周囲約9.5m、樹齢約800年という。
坂ではなく山道と思えばたいしたことはない。
どれが庚申塔なのか分からず。
隧道は南部町と五戸町の境の県道233号のトンネル
(左から)牛立場坂~十和田山碑~高山峠・駕篭立場~雨宮坂~水無坂~
水無坂~並木の松~佐野坂~地蔵坂
地蔵坂~クラコシ(鞍越)坂~鳥内坂~御大典記念碑
道はあるのか、草で覆われているのか?
荷を背負った牛がここいらで一休みしたのか?
木柱がなければ気がつかないかも。
明治天皇に随行した新聞記者の岸田吟香のもの。
説明書に、「安達の婆の伝説」・「逆さ栗」・「出刃洗い場の滝」が載る。
ここから南東方向が伝説の地で、水田の中に根姥大明神の祠があり、落差10mの「出刃洗いの滝」、安達の婆が刺した杖が根づいたという「逆さ栗」(しだれ栗)があるらしい。
「安達の鬼婆伝説」は、主君の病気を直すため、自分の娘を殺し生肝を献上したという女の話。 福島県二本松の「安達ケ原の鬼婆伝説」に似ている。類似の鬼婆の伝承は日本各地に伝わっているという。
佐野はこのあたりの地名。
浅水城は南部一族の南氏の居城。戦国期の一族内紛の時、南氏は南部信直に属したため、南部晴政の攻撃を受けた。九戸政実の乱では九戸方の櫛引氏の攻撃を受けたが南盛義はこれを撃退し、さらに櫛引城を攻めようとしたが、法師岡の合戦で激戦の末討死した。
地蔵さんは見当たらなかったが。
青面金剛像(宝暦14年(1764))・二十三夜塔(安政4年(1857))
秋には積もった落葉を南小学校の生徒が清掃するそうだ。
鞍越坂(クラカケ坂ともいう) 地蔵坂から続いて、上って下る坂。
鞍へ上って越して、下る坂。
ここであたしも小休止、小・・・。それは不敬罪かも?
表に「御大典記念 右槍沢」 裏に「昭和三年十一月廿日 槍沢部落一同」
二本柳橋の手前で左に入る。奥州街道の旧道の旧道。坂名の由来が分からず。
旧郷社で、享保18年(1733)に京都の伏見稲荷を勧請し、天明8年(1788)正一位を授与されたという。
お狐さんの前に猿顔の狛犬が鎮座する。
教会風の建物だ。
おんこ坂(坂上方向) 北東に上る坂。 《地図》
「おんこ」はイチイ科の常緑針葉樹で、五戸の町の木。当地方の生垣によく用いられている。
左に高雲寺、右に専念寺
江渡家住宅 《地図》
現在も居住している旧家。
「さくら」は、五戸名物の馬肉の「さくら」と「桜」、間の「・」ここらで一休みの点。
この旅館は安いし、料理もうまい。お薦めの宿だ。
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