奥州街道(金田一宿→三戸宿)
2009年9月14日
二戸駅(いわて銀河鉄道)→金田一温泉駅・・・府金橋(馬渕川)・・・国道4号・・・下山井橋(馬渕川)・・・姉滝大橋(馬渕川)・・・豊年橋(馬渕川)・・・県道241号・・・川口橋(金田一川)・・・蓑ケ坂・・・駕篭立場跡・・・駕篭立場の一里塚跡・・・国道4号・・・旧道・板坂・・・竹林坂・・・県道258号・・・長栄寺・・・熊野神社①・・・玉岑(ぎょくしん)寺・・・観福寺・・・妙光寺・・・三戸大神宮・・・悟真寺・・・雷平稲荷・・・門住(かどずみ)神社・・・城山公園(三戸城跡)・・・三戸代官所跡・・・在府小路・・・多聞天堂・・・秋葉山神社・・・黄金橋(熊原川)・・・法泉寺・・・毘沙門堂・・・熊野神社②・・・龍川寺・・・住谷橋(馬渕川)・・・三戸駅(青い森鉄道)→八戸駅(JR八戸線)→本八戸駅
奥州街道の蓑ケ坂峠を越えて青森県へ入り、三戸宿から野辺地宿まで4日間の坂道散歩です。金田一温泉駅の先で左に入り、馬渕川と青い森鉄道の西側を行くのが旧道なのだが、行き過ぎて府金橋から国道4号に出てしまい、そのまま豊年橋まで行き馬渕川を渡る。
金田一川の川口橋を渡り釜沢地区の中を北西に、一直線の道を蓑ケ坂の上り口まで進む。ここからは蓑ケ坂峠越えの山道となる。峠の駕篭立場は高さが180mほどで、高さもここからの距離もたいしたことはないし、急坂や蓑や笠のお化けは歓迎だが、道が夏草に覆われ分かりづらい所を進んでいると、あらぬ方向に上っているのではとちと不安になる。
しばらくすると前が開けて、平坦な駕篭立場に出てほっとする。昔の旅人も急坂を上りきりここで一安心して休憩し、前方に広がる景色を楽しんだのだろう。駕篭立場の一里塚跡を右上に見て、下って国道4号に出る。国道を少し上って下り、三戸温泉跡前から旧道に入り、板坂を上り、竹林坂を下ると三戸市街地の県道三戸南武線(鹿角街道)にぶつかる。ここは鹿角街道との追分石があった所だ。
長栄寺から三戸町を散策し、三戸城跡の城山公園に上り小休止して、在府小路を下り黄金橋を渡り三戸駅へ向う。駅までは思っていたよりは距離があり電車の時刻に間に合うように予定の所に立ち寄りながら早足で進む。後は本八戸の「みろく横丁」で一杯やるだけだ。明日は高山峠を越える。あまり飲み過ぎないようにと思っているがどうなることやら。
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
いわて銀河鉄道(二戸駅)
「座敷わらしの里」金田一温泉郷は駅の東方約2kmにある。(「緑風荘」は2009年10月4日の火事で全焼した。座敷わらしは無事だったろうか?)→現在再建中。
昔は下って、小橋で川を渡っていたらしい。
左奥にあるのは釜沢用水の案内板。蓑ケ坂へは右へ、正面の山肌がむき出している方へ向う。
釜沢用水は、天正年間(1573~91)に釜沢城主小笠原氏が釜沢地区の開田を目的に造ったと伝わる用水路。水源の取水口は金田一川上流の野々上阿弥陀地区で、延長約1.5キロメートル以上あり、現在約33haの水田を潤し、冬も凍らないのでカワニナ(蛍の幼虫の餌)が生息しているそうだ。
右端が蓑ケ坂、上方に釜沢城跡がある。左端の釜沢小学校は平成7年に閉校した。月山神社(左端)は釜沢城主の小笠原淡路守重清の氏神と伝える。地区の家々はりんごのマークになっている。
本館(ほんたて・釜沢館)と寺館(てらたて・常楽寺館)からなり、古くは樺沢城と呼ばれていた。
九戸の乱のとき、城主の小笠原淡路守重清は三戸城主の南部信直に従わず、九戸城落城後に攻められ、激戦の末に落城した。重清の首は常楽寺に埋葬されたと伝える。
まだ新しいようだ。
説明板:「蓑ヶ坂は奥州街道中の難所の一つでした。明治九年(1876)及び明治十四年(1881)の明治天皇行幸の際、天皇御一行はこの蓑ヶ坂を登り、三戸に向かいました。蓑ヶ坂にさしかかると天皇は馬車から降り馬に乗り換え、大勢の村人たちが天皇の乗ってきた車を押し上げたと伝えられています。昔、蓑ヶ坂の峠にさしかかると、風雨が起こり、そこにはうまい具合に蓑と笠が置かれていたものだそうです。しかし、この蓑と笠は実は大ムカデが化けたもので、これを身につけると沼に引きこまれてしまうと云われていました。」
蓑と笠に化けた大蛇を玉山兵庫が退治したという伝説もあるそうだ。
「駕篭立場あと500m」の標識が立つ。このあたりはまだ道筋がはっきりしていて歩きやすいが。
駕篭立場の説明板と「明治天皇巡幸碑」の後ろに展望台。明治9年の天皇巡幸の時には蓑ケ坂で馬車が動けなくなり、地元民10人で押し上げたという。時代が変わっても天皇一行は相変わらずの大名行列をしていたのだ。
江戸末期には「吉兵衛茶屋」があった。吉田松陰の「東北遊日記」の碑も立っている。
下は馬渕川が大きく蛇行して舌のようりせり出している舌崎地区、岩手県と青森県の県境を馬渕川が手前下方から左の崖下に沿い正面右方向に流れている。
昔の街道は少し上を通っていたようだ。
一里塚からまもなく右へ下って国道4号へ。直進する道(東北自然歩道のルート)も少し上って下りとなり、 国道4号へ出られるようだ。こっちが旧道なのかも。
佐々木鉄工所(右)へ入る道と合流して国道4号(現奥州街道)に出る。
国道4号を下ってカーブする所(三戸温泉跡?)から直進して旧道の板坂を上る。
カーブしながら上って行く。坂名の由来は分からず。
竹林はこのあたりの字名。昔は竹林の間の坂だったのか?
「右ハ かつの 左ハ もり岡」 今は城山公園の糠部神社の前に移設してあるが説明板もなく、ただ置かれているだけで可哀そうな感じだ。
祭礼の提灯が掛かっている。昨日まで「さんのへ秋まつり」だったようだ。
門前の亀はどういう意味か?
正応碑は上部の笠が失われた塔婆の塔身と推定。正応2年(1289)の造立とあるそうだ。
檜山御前五輪塔は檜山の秋田忠次郎へ嫁いだ南部家26代の南部信直の二女、檜山御前の墓。
三戸代官所の門を移築。十一面観音菩薩坐像は青森県の重要文化財
旧郷社、祭神は天照皇大神
糠部三十三観音霊場第25番札所
正面の洋館風の建物は大正時代に建てた離れだそうだ。
門住(かどずみ)稲荷(城山公園(三戸城跡)内)
三戸城の大手口守護のために祀られた。
昭和42年に金華山から移されてきた。
糠部(ぬかのべ)神社
創建は明治11年(1898)で、祭神は南部氏の祖の光行。
樹齢800年以上、初代南部光行の時代に当たり、当地方最古の杉という。
月曜は休館日
南部氏の居城は、「聖寿寺館(本三戸城)→三戸城(三戸古城)→福岡城(九戸)→盛岡城(不来方城)へと移っていく。
「繭子ひとり」像
NHK朝の連続ドラマ(1971年4月から1年間放映)の舞台が八戸で、原作者の三浦哲郎が八戸の出身。撮影は三戸町で行われた。
北隣(NTTのあたりか)に野馬役所があり、その隣りに蔵役所があった。
黄金橋へと続く奥州街道
今も開院しているのだろうか。
今日は三戸には泊まらないので残念ながらパスだ。
12代南部政行が後村上天皇から歌を褒められ、京の加茂川の橋の擬宝珠(ぎぼし)を模した橋を城下に架けることを許されたという。歴史民俗資料館に元和9年(1623)の擬宝珠が保存されている。
三戸城の搦手門を移築
三戸城の北方を守護
三戸城の表門の一つを移築
三戸駅(青い森鉄道)
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