奥州街道(五戸宿→伝法寺宿→藤島宿→十和田市街)
2009年9月16日
さ・くら屋旅館・・・代官坂・五戸代官所跡(復元)・・・町坂・・・五戸橋(五戸川)・・・妙心寺・・・明治天皇田の草取天覧碑・・・八幡坂・・・五戸高校・八幡宮・・・五戸町斎場・・・国道4号・・・後藤川・・・ばっけし坂跡(馬返し坂)あたり)・・・伝法寺小学校・・・旧道・・・八幡宮の鳥居・・・光明寺・・・国道4号・・・伝法寺館跡・・・旧道・丁塚の坂・・・伝法寺一里塚跡・・・馬頭観音・・・県道145号・庚申塔・・・藤島川・・・御幸橋(奥入瀬川)・・・舟渡場跡・・・相坂・・・旧道・逢坂・・・一本木の一里塚跡・・・県道145号・・・太素塚・新渡戸記念館・・・澄月寺・・・中央公園・・・官庁街通り・・・理念寺・・・稲荷神社・・・県道145号・・・稲生橋(稲生川)・・・土手山神社・大ケヤキ・・・真登地の一里塚跡・・・茶屋跡あたり・・・洞内小学校・・・法身塚・・・法蓮寺(洞内(ほらない)城跡)・・・洞内本村 バス→十和田市駅・・・プラザホテル十和田
代官坂の前に復元された五戸代官所に寄り、町坂を下り五戸橋を渡り、北へ長い八幡坂を上る。八幡宮を過ぎるあたりから急坂となって五戸斎場から左へ国道4号に出る。この先、一本松集落の先、後藤川の手前から旧道は国道の左右をくねるように続いていたという。
伝法寺小学校の先で、右へ旧道を伝法寺の集落に入る。ここには伝馬引継所の馬立場があり、宿駅が開設されていたが、貧駅のため隣村の藤島駅と半月交替で継立を行っていて旅宿は2軒だったという。光明寺まで行き少し戻って八幡宮の鳥居をくぐって国道に出る。少し進むと右側の小高い所に伝法寺館跡の木柱が忘れ去られたように立っている。十和田湖、十和田市街の標識の少し手前から左に旧道へ入る。ここも分かりにくい。水が溜り、ぬかるんだ丁塚の坂(上の写真)を上る。右足を滑らせ水溜りへじゃぽん。靴の中はびっしょりとなった。
途中に伝法寺一里塚跡があるが、塚の形ははっきりしない。ここからすぐ右へ分岐して細い道を上る。次第に歩きやすい林道のような道になるが、途中いくつかの分岐があるので迷うところだ。左に馬頭観音を見つけて一安心する。
県道へ出るとラーメン屋の前の交差点に庚申塔がポツンと置かれている。北へ宿駅、藤島館があった藤島集落の中を県道を下り、身動きしないダチョウをしばらく見て、御幸橋を渡る。このあたりからの西方の眺めがいい。遠くに浮かぶのは八甲田の山並みか。昔、城ケ倉温泉からスキーを担いで上り、滑って下って来たのを思い出した。もうそんな体力はないだろうよ。
御幸橋の先で左に入り、舟渡場から続いていたであろう旧道の逢坂(旧相坂か)を上る。坂上の墓地前を進むと、国道4号との合流点が一本木の一里塚で、短く剪定され丸坊主の大ケヤキが一本、恥ずかしそうに立っていた。十和田市街地に入り、右へ三本木原の開拓の祖、新渡戸傳の墓、太素塚に向う。太素塚の入口には大きな鳥居が立っている。以前から何で墓に神社の鳥居なのかと思っていたが、新渡戸傳はここでは神様と崇められる十和田市の守護神なのだ。新渡戸神社(仮称)の中に、墓があるというのが正解だろう。新渡戸家は三代(傳、十次郎、七郎)に渡り三本木原の開拓、十和田市街の都市計画に尽くし、5千円札の稲造さんは傳さんの孫(十次郎の三男)なのだ。
街道(国道4号)の西側に出て、中央公園で一休みし、稲荷神社から街道に戻り、稲生川を渡り北に向う。昔はこのあたり一帯はだだっ広い野原で目標物もなく往来人も難渋したようだ。土手山は風雪よけ、大ケヤキは日除けとなり、遠くからの目印にもなったのだろう。真登地の一里塚から茶屋があったという洞内の交差点まで行き、右に入り法身塚と洞内城跡という法蓮寺まで足を伸ばし、バスで十和田市駅へ戻った。
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
代官坂(坂下方向) 《地図》
「歴史みらいパーク」に復元された五戸代官所前の坂。坂下で「さいとう坂」の途中に出る。新しく名づけた坂名だろう。
大きく立派な建物ではなく、大庄屋家よりも簡素な造りだったようだ。明治3年斗南藩の藩庁が一時置かれた。
町坂(まちじゃか) 青森銀行の北側から五戸橋へ下る奥州街道。以前は下り口は階段になっていたという。【ルート地図】の195
この坂を「さいとう坂」と勘ちがいした。コメントをもらい訂正した。東側に階段坂の「さいとう坂」が今もあるそうだ。(2011年9月30日)
「さいとう坂」は、さいとう氏が開いたか、さいとう家が坂沿いにあったのか? 東京豊島区にも「さいとう坂」がある。ひらがな書きなのも同じだ。
五戸橋へと下る。
八幡坂の坂下近くだったか。天皇が草取りを眺めただけでこんなもんを建てるとは・・・。
五戸高校、八幡宮へ上る坂。明治天皇巡幸の際に新道付け替えなどの大改修が施された急坂だった。今でも八幡宮を過ぎた坂上近くはかなり急だ。
右に八幡宮の鳥居
身勝手な五戸代官に殺された愛人の菊女の供養塔がある。
このあたりは歩道も広く歩きやすい。
旧道は国道の西側で川を渡っていた。川向こうに旧道が残るようだ。
川を渡って、左から右へ上る。
旧道は国道の右へ出て、ばっけし坂の急坂を上っていた。
摂取山と号する浄土宗の寺。
ここをくぐって国道へ出る。社殿は見当たらず。
本丸跡を国道が通っていて館の面影は皆無だ。
南部氏の家臣の津村氏の居城。九戸の乱の時に七戸(南部)家国の攻撃を受けたという。
左の道路標識(十和田湖・十和田市街)の手前で旧道へ入る。ちょっと分かりづらい。
丁塚の坂、伝法寺一里塚跡へ
伝法寺一里塚跡あたり、白いのが標示板。塚跡ははっきりしない。
気持ちのいい道だがこの道でいいのかちょっと不安でもある。
どこから移設した物なのか。
交差点に庚申塔が立つ。
文政10年(1827)の建立。
明治9年の明治天皇巡幸の際に架けられた橋。当時はここから上流200mほどの所を川の両岸に張った綱を手繰り寄せて渡る、繰り舟で渡っていた。
相坂 《地図》
相対する坂の意か。
舟渡場跡 《地図》
御幸橋を渡った上流(西側)200mくらいか。
川岸に御蔵があったという。
逢坂の上りとなる。《地図》
東側の塚は国道4号建設の際に破壊された。
目抜き通りも他の地方都市同様、寂しい感じだ。
三本木(十和田市)の開拓の祖、守護神とされる新渡戸傳の墓と新渡戸記念館がある。太素は傳の号名。
新渡戸記念館(2015年8月現在休館中のようだ)
「日本の道百選」の通り。
旧郷社、新渡戸傳が都市計画の一つとして、慶応元年に千歳神社を当地に勧請した。
稲生川(稲生橋)から 《地図》
浅い川だが水は澄んでいる。
松前藩主が参勤交代の折に植えたというのケヤキ。当時ここ三本木原は広大な野原で風雪が強く、陽射しをさえぎる物もなかった。土手を築き、木を植え旅人の難儀を和らげたのだろう。
祭神は「マ-シ-号」というサラブレットの召雌馬で、兄は昭和25年のダービー馬の「クモノハナ」だそうだ。「召雌馬」とは何か、「繁殖牝馬」のことだろうか?
「西側の塚を失っている。」とあるが、東側の誤りだろう。
法身塚(洞内小学校の北側) 《地図》
法身は法蓮寺の開山で、松島瑞厳寺の中興の祖。国道の西側の水田の中には「法身袈裟掛けの松」があるという。
寛元3年(1245)法身禅師が開山で、洞内氏が開基。
洞内城の築城は室町時代で、天正20年(1592)の南部氏の城郭整理で姿を消したという説あり。
後ろが今夜の宿、プラザホテル十和田
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コメント
町坂のコメントこちらに書くとよかったですね、五戸町は坂の町です
坂という坂に名前があります。
ちなみに我が家の前には『こんばの坂(工場の坂)』があります(奥州街道ではないです)。
いろんな街道歩いているんですね、これからゆっくり読ませていただきますね
投稿: | 2011年10月 1日 (土) 00:02