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2009年10月31日 (土)

中山道(太田宿→鵜沼宿→加納宿)

2009年10月14日

美濃太田駅・・・太田宿・太田稲荷神社・祐泉寺・高札場跡・・・(弥勒寺跡)・・・(国道41号)・・・虚空蔵寺・・・尾張藩代官所跡(太田小学校)・・・芳春院・深田神社・・・国道21号・・・加茂川・・・酒倉交差点・・・ロマンティック街道・(日本ライン御幸巌)・・・勝山西交差点・国道21号・・・(巌屋坂)観音坂・岩屋観音・・・カフェテラスゆらぎ・(国道21号・JR高山線)・・・長坂・・・うとう(謡)峠・うとう坂一里塚跡・・・うとう坂・・・合戸池・・・みどり坂上・・・天王坂・赤坂神社・・・地蔵堂・・・塞の神坂・・・見桃院・・・鵜沼宿・尾州領傍示石・高札場跡・安積門・鵜沼宿町屋館・・大安寺橋(大安寺川)・・・二宮神社・・・弘法堂・・・衣装塚古墳・空安寺・・・坊ノ塚古墳・・・津島神社・・・国道21号・・・(山の前一里塚跡・播隆上人碑)・(JR高山線)・・・(各務ヶ原駅)・・・(三柿野駅)・(名鉄各務ヶ原線)・・・三柿野町交差点・旧道・・・六軒一里塚跡・竹林寺・・・神明神社・・・市民公園・・・那加橋(新境川)・・・新加納町交差点・旧道・・・栄町秋葉神社・・・西那加稲荷神社・・・日吉神社・・・新加納一里塚跡・立場跡・・・善林寺・(少林寺)・・・西坂・西坂の松並木跡・・・(東海北陸自動車道)・・・高田橋(境川)・・・手力雄神社・・・市場山浄慶寺・・・切通観音堂・切通陣屋跡(長森城址)・・・伊豆神社・・・誓賢寺・・・細畑の一里塚跡・・・地蔵堂・道標・・・八幡宮・・・(東海道線)・・・茶所駅(名鉄線)・・・新荒田川・・・加納宿・加納八幡神社・加納大橋(新荒田川)・秋葉神社・東番所跡・善徳寺・柳町秋葉三尺坊・専福寺・水薬師・高札場跡・・・加納城大手門跡・・・加納城跡・・・旧加納町役場・・・加納天満宮・・・雲瑞寺・・・天満橋(清水川)・・・岐阜駅

 太田宿の昔の面影の残る家並みを抜け深田神社の先で国道21号に出るが、車の往来の激しさに嫌気がさし、取組一里塚跡(碑)の手前の酒倉交差点から工場の敷地内?を通って木曽川の土手に上り、ロマンティック街道を歩く。勝山西交差点で国道に戻りしばらく進み、観音坂の石段で岩屋観音に上る。もっと手前に岩屋観音への道があるのだが、なぜか気づかず通り過ぎてしまったようだ。

 この先、今の中山道はカフェテラス「ゆらぎ」のすぐ先で石段を下り、小さな流れ沿いに国道とJRをくぐり長坂の上り口に出る。この間はとても街道とは呼べない代物だ。ここから一登りで明るく開けた団地が広がるうとう峠へ出る。まったく往時の峠の趣きはない。うとう峠からうとう坂、赤坂、塞の神坂をくだると鵜沼宿へ入る。ここも古い家並に往時が偲ばれる。

 津島神社の先で国道21号に合流して高山線を越える。このあたりに山の前一里塚跡碑があるはずだが見つからず。JRと名鉄の間をひたすら西へ向う。名鉄三柿野駅の先で名鉄の線路を越える。南側は航空自衛隊岐阜基地で、時折、頭上を轟音をあげて戦闘機?が飛んで行く。どこへ行くのか訓練なのか? 市民はよく我慢をしているよ。三柿野町交差点の先で右へ旧道に入ると竹林寺の前が六軒一里塚跡で碑だけが立っている。市民公園の前を通り、新境川を渡り、新加納一里塚からゆるやかな西坂を下り、東海北陸自動車道をくぐると、各務ヶ原市から岐阜市に入る。

 平坦な所を歩いているのに山道よりも気分的に疲れを感じる。名鉄の茶所駅から加納宿の中心部へ入り、いくつもの枡形を曲がり、加納城の大手門跡に出た頃にはいい加減足の方も疲れてきた。もう一ふん張りで加納城跡まで行き、小休止して中山道に戻る。加納宿は本陣、脇本陣などの建物は残らず、碑のみがぽつんと立つだけで宿場風情は残っていない。加納天満宮から岐阜駅近くのビジネスホテルに向った。7時半過ぎに歩き始めたのにもう日がだいぶ傾いてきた。それほどの距離とは思ってなかったのだが今日もけっこう歩いたようだ。

  【ルート地図

 写真をクリックすると拡大します。

Img_1073 坪内逍遥像(美濃太田駅前)

逍遙は太田宿の代官所で生まれた。

Img_1081 太田宿の家並み

祐泉寺(左)の所の枡形

Img_1085 山門は木曽川の方を向いている。

文明6年(1474)の創建の臨済宗の寺。火難水難守護の瀧場観音がある。本尊の聖観音菩薩は、7年ごとの開帳。美濃西国三十三観音霊場の第27番札所。

Img_1084 説明板

Img_1086 小松屋(旧吉田家住宅)

Img_1091 永楽屋(右)

Img_1093 家並み

Img_1097 造り酒屋「御代桜」

Img_1102 脇本陣林家  《地図

Img_1099 説明板

Img_1108 中山道会館

Img_1117 本陣跡の門

Img_1118 説明板

Img_1120亀谷酒店

Img_1122高札場跡・郡上街道追分道標

Img_1123 説明板

Img_1124 道標

Img_1128 虚空蔵寺・承久の乱の古戦場跡 《地図

Img_1131 説明板

Img_1132 承久の乱の古戦場跡(大井戸の渡し場跡あたり)

こちら(太田宿)側は朝廷軍、対岸(可児側)は幕府軍。

Img_1135 坪内逍遥ゆかりのムクノ木

Img_1134 説明板

Img_1138 太田代官所跡

坪内逍遥の父は代官所の役人だった。

Img_1137 説明板

Img_1144 深田神社

Img_1159 日本ラインの「御幸巌」あたり

大した景勝地でもないように見える。本場のライン川はこんなものではないだろう。行ったことはないが。

Img_1157 説明板

Img_1161 ロマティック街道

なんちゅうこともない、土手沿いの道だが車が通らないだけ歩きやすい。

Img_1166 この先で木曽川は左へ流れを変える。

Img_1167 猿啄(さるばみ)城

「さるぶた」と勘違いした。

Img_1168 正面の城山(265m)に猿啄城跡がある。岩屋観音の上の方だろう。

Img_1176 この手前から岩屋観音の方へ上るのが中山道の「巌屋坂」だが、気づかずに通り過ぎたのか、今は崩落の危険があって通行不能となっているのか?

Img_1179 岩屋観音への参道の観音坂 【ルート地図】の①

中山道は巌屋坂を上り、岩屋観音の前を通りここへ下りてくるようだ。

Img_1183 木曽川下流方向

上流方向の眺めがいいらしのだが、ここからは見えず。

Img_1180 岩屋観音堂 《地図

Img_1184 岩屋観音

Img_1193 「ゆらぎ」の後ろから国道、JR高山線をくぐるのが今の旧中山道。

このあたりに「栗栖の渡し」があったらしい。

Img_1196 石段を下る。

Img_1198 国道と中央線をくぐる。

ここが中山道とは・・・・。

Img_1202 トンネル?を抜けると未舗装の道となる。

正面に案内板がある。

Img_1203 案内板

Img_1204 長坂の上りとなる。 【ルート地図】の②

長坂からうとう峠を越え、赤坂、塞の神坂までを「うとう坂」と総称している。

Img_1211 うとう峠へ

峠上は新しい団地が広がる明るい所で、峠の雰囲気は全然ない。このあたりも地元の中高年のウオーキング道になっている。

Img_1218 うとう峠の一里塚

Img_1214 説明板①

「「うとう」とは疎(うとい・うとむ・うとう)で、「不案内・よそよそしい・気味の悪い」などの意味が考えられます。」と書かれている。何を「うとむ」のか、何が気味悪いのか、そういう伝承、由来話があるのか? これを書いた人は、うとう坂は各地にあることも、「うとう」の語源についても知らないのだろう。『うとう坂表

Img_1217 説明板②

Img_1223 うとう坂を下る。【ルート地図】の③

Img_1226 合戸池

池の南東側から「みどり坂」が下る。《地図

Img_1243 天王坂を下る。【ルート地図】の④

坂の右手に赤坂神社(天王社)がある。

Img_1246 赤坂神社(天王社)

Img_1247 坂下近くに地蔵堂

Img_1249 地蔵さん

前掛けの下には、右側に「右ハさいしょ(在所)みち」・左側に「左ハ江戸井せんこうし(善光寺)みち」と書かれているそうで、道標も兼ねていた。このあたりが鵜沼宿の東の見付け跡。

Img_1254 塞の神坂

地蔵堂から下る坂としたが、塞の神(道祖神)は見当たらなかった。

Img_1252 赤坂神社参道

東の見付けとの間に高札場があった。

Img_1256 尾州領傍示石

Img_1257 説明板

Img_1259 高札場(復元)

Img_1261 説明板

Img_1266 安積門(旧大垣城鉄門)

Img_1265 説明板

Img_1270 鵜沼宿町屋館 《地図

江戸時代の旅籠「絹屋」で、明治から昭和30年代までは郵便局だった旧武藤家住宅。

Img_1269 説明板

Img_1276 菊川酒造(国登録有形文化財)

Img_1279 二宮神社

遥拝で済ませたが、社殿前の石垣の一部に古墳の石室が使われているようで惜しいことをした。

Img_1283脇本陣坂井家住宅

Img_1296 衣装塚古墳(空安寺の隣り)

4世紀末から5世紀前半の築造と推定される直径52mの県下最大規模の円墳。前方後円墳だった可能性もあるという。前方部は空安寺の建立で削平されてしまったようだ。

駐車場(空安寺)の所が鵜沼宿の西木戸跡

Img_1294 説明板

Img_1297 空安寺

Img_1298 坊ノ塚古墳(後円部) 《地図

昼飯大塚古墳に次ぐ、県下2番目の規模の前方後円墳。

Img_1300 このあたりがくびれ部か

手前が後円部

Img_1299 説明板

Img_1305 中山道へ戻る裏道にも風情がある。

Img_1306津島神社

Img_1317 六軒一里塚跡(竹林寺の前)

Img_1323 神明神社の馬頭観音

細面のやさしい顔立ちをしている。三面八臂?の観音さん。

Img_1327 各務ヶ原市民公園

Img_1338 新加納一里塚・立場跡(正面に一里塚の木柱と説明板が立つ。) 《地図

鵜沼宿と加納宿の間の宿。

Img_1339 説明板

Img_1348 西坂 【ルート地図】の⑤

Img_1353 西坂の松並木跡あたり

名鉄各務ヶ原線・正面は東海北陸自動車道

Img_1354 JR高山線

Img_1364 手力雄神社

古い石灯籠と新しい社殿がミスマッチ風で面白い。

Img_1361 由緒

Img_1366 手力雄神社参道

電柱右下に道標、ここは枡形になっている。神社まではけっこう距離がある。

Img_1365 「左 木曽路」

右は書かれていないようだ。

Img_1367 浄慶寺

Img_1368 説明板

Img_1371 切通の由来

岩戸南方一帯の滞留水を境川に落としていたことによる地名。

Img_1375_2 切通観音堂・切通陣屋跡 《地図

ここは渋谷金王丸(土佐坊昌俊)が築城した長森城があった場所という。渋谷金王丸は東京渋谷の渋谷城址の金王八幡宮境内の「金王丸影堂」に祀られているが、同一人物だろうか?

Img_1376 説明板①

幟に隠れて見にくい。

Img_1377 説明板②

Img_1381 伊豆神社

祭神は大山祗神の娘「石長姫命」で手力雄神社の祭神で男神の荒神「天手力雄命」をいさめる神。

Img_1382 由緒

Img_1383 旧家

Img_1390 家並み

長森細畑交差点を渡った所。

Img_1391 上の写真の左側の家

Img_1399細畑の一里塚跡

中山道をはさんで榎が立つ2塚が並ぶ。

Img_1396 説明板

Img_1401 地蔵堂の左に道標 《地図

左が「伊勢名古屋ちかみち」、右へ直進するのが「木曽路」(中山道)

Img_1405 堂内の延命地蔵

Img_1402 道標

Img_1410 旧家

Img_1415 東海道線をくぐる。

Img_1417 名鉄線の踏切を渡る。

ここは茶所駅

Img_1418 加納宿道標

踏切を渡った所。この先の交差点の「だんごや」の前を右に曲がる枡形になっている。ここからいくつもの枡形が続く。

Img_1419 ここを右に曲がる。正面の「だんごや」は中山道の案内所にもなっている。

後ろの木立は加納八幡神社

Img_1420 加納八幡神社

Img_1430 道標 「右 岐阜 谷汲」「左 西京」

明治時代に建てられたので、京都方向は「西京」か。「谷汲」は西国三十三ヵ所観音霊場の満願寺の第33番札所の谷汲山華厳寺で、加納宿から赤坂宿までの中山道で北に向かう道標があれば、それはほとんどが谷汲参道だそうだ。

Img_1431 秋葉神社

加納宿を抜けるまでにはいくつもの秋葉神社がある。よほど火事が多く、怖かったのだろう。

Img_1444 太田薬局前に道標「右 ぎふ道」・「左 中山道」で、「ぎふ道」は、『美濃路・岐阜街道(御鮨街道)』のこと。

ここも枡形だ。

Img_1446 説明板

Img_1451 水薬師

慶長17年(1612)6月21日夏、清水川で泳いでいた伊三郎という若者が黄金の薬師像を拾い上げ、光国寺に奉納した。これを慶んだ藩主奥平忠政と亀姫(加納御前・加納の方)は清水川の川中に二間四方の浮見堂を建て安置した。以来、水薬師、乳薬師と呼ばれ乳の出る仏として親しまれている。亀姫は徳川家康の長女で、忠政は亀姫の3男の奥平忠政。

Img_1452 高札場跡

Img_1453 説明板

Img_1455 加納城跡 《地図

本丸北側の石垣

Img_1457 説明板

Img_1458 本丸跡

今は公園となり子どもの遊び場、中高年と犬の散歩道か。

Photo 加納城下の松並木の中山道を進む大名行列(広重)

松並木の向こう側に加納城が画かれている。

Img_1466 旧加納町役場(国登録有形文化財)《地図

空襲を避けるため黒く塗られていたのがはげたそうだ。夜はちょっと薄気味悪そうだ。

Img_1470 二文字屋

もとは旅籠、今はうなぎで有名な料理屋。左甚五郎作「月夜に川原で餅をつくウサギ」の欄間がある。火事の時、欄間の「川原」から水が噴出し、一瞬のうちに火を消したという、まるでスプリンクラ-のような欄間だ。

Img_1472 当分本陣跡

文久3年(1863)から当分の間、補助的に置かれた本陣。本陣のまま幕末を迎えたのか。

Img_1474 本陣跡

Img_1475 西問屋跡

万治元年(1658)松波清左衛門が開業。西は河渡宿から、東は鵜沼宿から出入りする人馬の継ぎ立てをした。

Img_1477 脇本陣跡

Img_1479 加納天満宮

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2009年10月26日 (月)

中山道(細久手宿→御嵩宿→伏見宿→太田宿)

2009年10月13日

Img_0888 大黒屋・・・県道65号・・・細久手坂(西坂)・穴観音・・・津島神社・・・くじ場跡・・・平岩橋・・・旧道・西の坂・・秋葉坂・秋葉坂三尊石窟・・・鴻之巣道の馬頭観音・・・鴻之巣辻の道祖神・・・切られケ洞・・・鴻之巣一里塚跡・・・御嵩町・くじあげ坂・・・藤上坂・藤上坂の馬頭観音・山内嘉助屋敷跡・・・(津橋薬師堂)・・・諸ノ木坂・・・諸ノ木峠・馬の水呑み場・御殿場・・・唄清水・・・一呑清水・・・(謡坂)十本木立場跡・・・地蔵の清水・・・(謡坂)十本木一里塚跡・十本木の洗い場跡・木賃宿跡・茶屋跡・・・謡坂石畳・・・キリシタン遺跡・・・謡坂石畳・・・耳神社・・・寒念仏供養塔・牛の鼻欠け坂(西洞坂)・・・西洞の馬頭観音・・・和泉式部の墓・・・国道21号・・・(津島神社)・・・旧道(県道341号)・・・御嵩宿・秋葉神社・中山道みたけ館・願興寺(蟹薬師)・御嵩駅・神明神社・・・国道21号・・・鬼の首塚・・・(顔戸八幡神社)・・・顔戸(ごうと)城跡・・・旧道・比衣一里塚跡・・・土橋(比衣川)・・・(国道475号)・・・国道21号・・・高倉山古墳・・・旧道・・・国道21号・・・伏見宿・本陣跡碑・尾州領碑・浄覚寺・西坂・・神明神社・・・中恵土一里塚跡・中恵土交差点・・・愛知用水・・・(JR太多線)・・・今渡神社・・・浅間神社・・・弘法堂・今渡の渡し跡・・・渡し場公園・太田橋(木曽川)・・・(化石林公園)・・・文化会館・(古井の一里塚跡あたり)・・岡本一平終焉の地・・・太田宿・神明水神公園・新町木戸門跡・・・美濃太田駅(JR高山線)

  【ルート地図

 大黒屋を7時半前に出発する。今日もいい天気だ。県道65号を西に進み、緩やかに下って平岩橋を渡り、ちょっと急な西の坂を上り、途中から左に秋葉坂の山道の旧道へ入る。少し上るともう暑くなってきて半袖姿になる。鴻之巣一里塚跡を過ぎると下りとなり、藤上坂から津橋の集落へ出る。薬師堂の位置がはっきりせず民家で老人に聞くと、薬師堂が見える所へ案内してくれた。もうかなり行き過ぎてしまっているので遥拝で済ます。

 車道の間の旧道をしばらく行くと、山道となって諸ノ木坂の急な上りとなる。諸ノ木峠は、和宮一行が休憩した所で御殿場と呼ばれている。ここから下って車道へ出ると唄清水、一呑み清水へと続く。両方とも今は飲めないようだ。車道の広い坂(これも謡坂か)を少し下り途中で左に入り、(謡坂)十本木一里塚跡、木賃宿跡から謡坂の石畳を下る。途中で右に入り、マリア像の立つキリシタン遺跡へ寄ってみる。ここにも隠れキリシタンの信仰があったのだ。戻って謡坂の石畳(上の写真)から車道に出てさらに下ると右上に耳神社がある。今の所、耳はまだ大丈夫だが、近い将来のことを思って手を合わせた。

 耳神社の先で右へ旧道に入り、寒念仏供養塔から牛の鼻欠け坂を下る。下りは楽だが上りは苦労する急坂だろう。畑の広がる道に出て、小さな馬頭観音を右下に見て進み、国道21号に出る。国道の手前には和泉式部の墓がある。小野小町などと同様、各地にある伝承の墓の一つだ。ここからは車がブンブン通る国道歩きとなる。今回の中山道歩きもここからは坂も少なく、平坦な車道歩きが多くなり面白味も半減以上、惰性で垂井宿まで行くようなものだ。

 津島神社が前方右上に見える交差点から左へ旧道(県道341号)に入ると御嵩宿となる。細久手宿、次ぎの伏見宿と違い古い家並みも残り、往時の宿場の雰囲気も感じさせる所だ。「中山道みたけ館」は無料で、二階の郷土館は展示品も資料も充実している。310円払っていまいちだった中津川宿の「中山道歴史資料館」とは大違いだ。蟹薬師の願興寺から御嵩駅前を通り、宿を抜け国道に出て、鬼の首塚、顔戸城址を過ぎ、比衣一里塚跡から国道と平行するように旧道を進み、共和中学校の前から国道に下ると伏見宿だが、宿場の面影は残らず足早に通り過ぎる。

 「伏見宿本陣之跡碑」の前あたりから西へ下るのが西坂だろうが、今は傾斜はないようだ。この先つらい国道歩きとなる。上恵土交差点あたりが工事中で道なりに進んだらバイパスの方へ入ってしまい。しばし方向が分からなくなった。疲れてきた証拠だろう。バイパスを西に進むとすぐに国道21号に合流する。中恵土交差点の手前に新しい「中山道一里塚の跡」の石標が立っていた。中恵土一里塚跡のことだろう。もう2時近くで腹が空いてきて、道路沿いの中華店で遅い昼食休憩とした。愛知用水を越え、JR太多線をくぐり、今渡神社に寄り太田橋の先の弘法堂下の今渡の渡し跡まで行き、引き返して太田橋を渡り、川沿いに太田宿へ向う。文化会館の手前に古井の一里塚跡碑があるらしいが見逃したか。川沿いの道から太田宿の家並みに入り、祐泉寺の手前で今日の終わりとし、美濃太田駅に向った。  

  写真をクリックすると拡大します。

Img_0714 細久手坂(西坂)の穴観音

九万九千日観音とも呼ばれ、縁日の日に拝むと九万九千回のご利益があるという、寛政13年(1801)建立の馬頭観音。

Img_0716 細久手坂(西坂)

Img_0720 津島社の小祠

Img_0719 由来

蘇民将来」の説話が載っている。

Img_0722 くじ場跡

かつては出茶屋があり、日稼ぎの人足や駕篭かきたちが、大湫宿や御嵩宿への荷の順番を決めて、たむろしていた場所という。「くじ」で荷の順番を決めていたのだろう。

Img_0727 下って平岩橋、平岩の集落へ

Img_0731 西の坂

平岩橋を渡り上る。

Img_0733 左に旧道の秋葉坂に入る。

Img_0736 秋葉坂 【ルート地図】の①

道標は西の坂で、一つの坂としているようだ。

Img_0739 秋葉坂三尊石窟の方へ上って行く。

Img_0741 秋葉坂三尊石窟

右から馬頭観音、(千手)観音、秋葉様の前仏。

Img_0744 説明板

Img_0750 石窟上の秋葉様の小祠

Img_0752 鴻之巣道の馬頭観音

Img_0756 鴻之巣辻の道祖神

Img_0758 切られケ洞

牛を追ってきた人がここで強盗に斬られたとか。

Img_0761 鴻之巣一里塚跡

Img_0765 説明板

Img_0767 くじあげ坂

鴻之巣一里塚から下る坂。藤上坂へ続く。

Img_0774 藤上坂

Img_0771 藤上坂の馬頭観音

三面六臂の馬頭観音で、「津島村上下女人念仏講中」と刻まれているそうだ。

Img_0779 藤上坂を下る。【ルート地図】の②

Img_0782 山内嘉助屋敷跡(藤上坂の途中)

江戸時代に酒造業を営んでいた山内嘉助の屋敷跡で城郭のような石垣が残っている。諸大名の休憩所となり、旅人も泊めたとも伝える。

Img_0785 津橋の集落へ出る。右は天満宮の石灯籠

Img_0791 津島薬師堂

通り過ぎてしまい遥拝のみ。堂前の宝暦3年(1753)の石灯籠は何代目かの山内嘉助が勧進したものという。

Img_0790 右の旧道に入る。

Img_0801 諸ノ木坂 【ルート地図】の③

Img_0810 御殿場(諸ノ木峠)へ

Img_0816 馬の水呑み場

Img_0818 御殿場説明板

和宮降嫁の際の4千~5千もの大行列。「姫街道」とは聞こえがいいが、近隣の村民、旅人も迷惑、苦労したことだろう。

Img_0823 御殿場展望台から

正面に笠置山(1128)がぼんやり見えるだけ。左の御嶽山(3068)、右の恵那山(2191)は見えず。

Img_0824 御殿場から下りとなる。

左はラ・プロバンス。ケーキが美味いそうだ。

Img_0829 唄清水

尾張藩の千村平右衛門源征重(五歩)の「馬子唄の響きに浪立つ清水かな」の歌から由来するという。今は飲用不可。

Img_0830 この先で車道へ出る。

Img_0836 一呑清水

和宮が気に入った清水だそうで、柄杓が置いてあるがここも飲用不可。

Img_0837 説明板

Img_0842 馬頭観音

Img_0844_2 十本木立場跡

Img_0845 説明板

Img_0848 地蔵の清水だろう

Img_0858 十本木の洗い場跡

共同の洗い場跡

Img_0853 説明板

Img_0849 (謡坂)十本木一里塚跡

説明板には、「明治41年にこの塚は2円50銭で払い下げられ、その後取り壊されました。」とある。江戸幕府から明治維新はやっぱり、革命だったのか、少なくとも「文化大革命」だったことは間違いなしか。

Img_0850 説明板

Img_0854 木賃宿・茶屋跡

広重の浮世絵のモデル地。

Img_0855 説明板

Img_0868 謡坂の石畳 【ルート地図】の④

説明板には、急坂で苦しさを紛らわすために唄いながら上ったとあるが、各地にある「うとう坂」と同じで、「烏頭坂」・「善知鳥坂」・「歌坂」・「有藤坂」・「御塔」・「宇土坂」・「音坂」・「宇都布坂」・「鵜頭坂」など、様々な字を当てている。『うとう坂表

太田南畝は『壬戌紀行』で、「善知鳥村の善知鳥坂」と書いている。また、滝沢馬琴は、『烹雑(にまぜ)の記』で、「美濃の御嶽駅(御嵩宿のこと)の東に、うとふ村あり。」と記す。「謡」は「うとう」の当て字で、「唄いながら上った」というのも、後世の創作に過ぎない。(うとう坂については、『江戸の坂東京の坂』(横関英一)に詳しい。)

Img_0873 説明板

Img_0870 馬頭観音石室

Img_0871 謡坂の馬頭観音

右は三面六臂、左は一面二臂で「村中安全」と刻むという。

Img_0875 マリア像(キリシタン遺跡)へ

Img_0879 キリシタン遺跡の前のマリア像(昭和62年に建立)

Img_0878 説明板①

Img_0880 説明板②

Img_0881 マリア像の後ろに並ぶ移設された五輪塔など。

発見された「隠れキリシタン遺跡」の十字架を刻んだ自然石は、この先の「中山道みたけ館」の「御嵩町郷土館」に確かに展示されていた。

Img_0889 謡坂に戻って下る。

Img_0893 車道を下ると右上に耳神社

武田耕雲斎率いる水戸の天狗党がここを通った時、耳神社の祭礼の大幟を敵軍の布陣と勘違いし、刀を抜いて通ったという逸話がある。

Img_0897 耳神社

Img_0896 由緒

Img_0895 耳が治って奉納された錐と、すだれ状に組まれた錐。

Img_0904 右へ旧道に入る。

Img_0906 百八十八ケ所順拝納経塚

西国、四国、板東、秩父の霊場巡拝記念碑。十三峠の観音坂の坂上にもあった。

Img_0914 牛の鼻かけ坂へ

Img_0915 寒念仏供養塔

三面六臂の馬頭観音で、台座正面に「寒念仏供養塔」・左側に「維持明和二酉年」・右側に「八月彼岸珠日」と刻まれているそうだ。寒念仏は一年で最も寒い時期に、村人が白装束で集まり、鉦を叩いて念仏を唱えながら村中を練り歩く修行のことで、心身を鍛え願いを祈念した。

Img_0923 牛の鼻かけ坂(西洞(さいと)坂) 【ルート地図】の⑤

左の石垣は何なのか?

Img_0917 説明板

浮世絵は牛でなく馬だが??

Img_0924 牛の鼻欠け坂を下るとこの先、中山道は比較的平坦な道となる。

Img_0926 死んでいるのか動かない。

Img_0927 明るく開けた道を行く。

右の電柱の下に小さな馬頭観音が佇む。

Img_0928 西洞の馬頭観音(文化13年(1816)建立)

ひっそり目立たず往来する旅人、牛馬を見守ってきた小仏さん。

Img_0933 和泉式部廟所 《地図

各地にある和泉式部の墓の一つ。

Img_0934 説明板

Img_0936 八幡神社(国道21号沿いの右手)

石柱だけかと思ったが、右奥に社殿があるようだ。

Img_0938 一里塚みたいな変な塚が2基(国道21号の左手)

Img_0943 津島神社(正面上)の手前で国道から離れ左へ旧道(県道341号)に入る。

Img_0939 道標

Img_0946 秋葉神社

上町の用心井戸。飲料用、防火用でもあり、火除け、火伏せの秋葉様が祀られている。

Img_0965 御嵩宿説明板

Img_0953 中心部の家並み

Img_0951 商家竹屋

江戸末期に本陣野呂家から分家した商家。明治10年頃の建築。

Img_0957 本陣跡

Img_0963 中山道みたけ館(脇本陣跡) 《地図

2階の郷土館に「キリシタン遺跡」から発見された十字架を彫った自然石などが展示されている。

Img_0970 蟹薬師願興寺(右)・御嵩駅(名鉄広見線・正面)

Img_0968 願興寺(可児大寺・蟹薬師)

蟹薬師の由来は、近くの池から1寸8分の薬師如来が無数の蟹の背に乗って現れたという言い伝えによるとか。

Img_0976 御嵩冨士(292m)を見て左に曲がり、宿を抜けて行く。

Img_0977 大東酒店

Img_0981 鬼の首塚(国道21号沿い) 《地図

Img_0982 由来

Img_0983 首塚

Img_0986 顔戸(ごうと)八幡神社参道

遥拝のみ

Img_0992 顔戸城址 《地図

応仁の乱の頃に斉藤妙椿が築いた平城。

Img_0988 説明板

Img_0989 見取り図

Img_0991 土塁と空堀跡

Img_0994 比衣一里塚跡 《地図

標柱がなければ一里塚跡とは分からないほど小さくなってしまっている。

Img_1006 高倉山古墳 《地図

この地域では最も古い4世紀後半に築造された前方後方墳。

Img_1010 伏見宿本陣跡碑・「是よ里東尾州領」の傍示杭(公民館前) 《地図

一ヶ所にまとめて並べられているだけという感じ。宿場の面影は残らず。

Photo 広重の伏見宿

宿場の西方にあった「伏見大杉」と呼ばれた杉の大木だが、これも今はない。

Img_1020 中恵土一里塚跡 《地図

国道21号の中恵土交差点近く、ラッキープラザ店前に最近立てられたもの。

Img_1019 「これより約30メートル東」とある。

Img_1029 今渡神社

Img_1035 浅間神社 

Img_1049 弘法堂

Img_1039 可児の名水「錦江水」(弘法堂境内)

これはちゃんと飲めて美味い水だ。

Img_1040 今渡の渡し跡(弘法堂の下) 《地図

対岸が「木曽で桟橋(かけはし)、太田で渡し、碓氷峠がなくばよい」と馬子唄で唄われた中山道の難所だった「太田の渡し」。
名古屋城下からの木曽街道の終点でもある。

Img_1042 説明板

広重の絵は木曽川を急流のようには描いていない。

Img_1050 渡し場公園

太田橋のたもと

Img_1051 木曽川(太田橋から)

上流方向だったか、このあたりの流れは広く、穏やかだ。

Img_1063 水神・山神・秋葉神社碑などが木曽川を向いて立っている。

Img_1066 神明水神公園

Img_1076 太田宿の家並み

新町木戸門あたり

Img_1074 美濃太田駅に向う通り沿いにはいろんな彫像が並んでいる。

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2009年10月24日 (土)

中山道(大井宿→大湫宿→細久手宿)

2009年10月12日

Img_0601 恵那プラザホテル・・・大井橋(阿木川)・・・中野村庄屋家・・・長島橋(永田川)・・・中野観音堂・・・坂の上交差点・坂の上石仏群・豊玉稲荷神社・・・上町観音堂・・・西行硯水公園・・・西行塚道標・(JR中央線)・・・十三峠道標・・・西行坂・・・西行塚・・・五本松坂・・・槙ケ根一里塚跡・・・七本松坂・・・茶屋槙本屋跡・・・茶屋水戸屋敷跡・・・(槙ケ根石仏群)・旧道分岐・・・茶屋松本屋跡・・・槙ケ根立場の茶屋跡・伊勢神宮遥拝所・下街道追分・・・馬頭観音・・・姫御殿跡(祝峠)・子持松跡・・・首なし地蔵・・・乱れ坂・・・下座切場跡・・・乱れ橋・・・お継原坂・・・竹折村高札場跡・・・かくれ神坂(妻(塞)の神坂)・・・平六坂・平六茶屋跡・・・夫婦岩跡・・・紅坂一里塚跡・・・ぼたん岩・・・でん坂・・紅坂・・・うばが茶屋跡・・・念仏坂・・・黒すくも坂・・・三社灯篭・佐倉宗五郎大明神・・・藤村高札場跡・・・深萱高札場跡・・・西坂・・・ちんちん石・・・みつじ坂(三城坂)・・・三城峠・ばばが茶屋跡・・・茶屋坂・・・中山道道標・(瑞浪市)・(向い)茶屋の坂・大久後の向茶屋跡・・・観音坂①・新道坂分岐・観音坂霊場巡拝碑・・・灰くべ餅の出茶屋跡・・・大久後立場跡)・大久後観音堂・蚕養弘法大師堂・・・権現坂・・・鞍骨坂・(刈安神社参道)・・・炭焼立場跡・・・吾郎(五郎)坂・出茶屋跡・・・樫ノ木坂・・・権現山一里塚跡・・・巡礼水の坂・巡礼水・馬頭観音・・・びあいと坂・・・曽根松坂・・・阿波屋の茶屋跡・三十三所観音石窟・観音坂②(おつるが茶屋の坂)・・・尻冷やし地蔵・地蔵坂・・・しゃれこ坂・・・牛かほら坂・・・山之神坂・・・童子ケ根・・・寺坂・石仏群・・・宗昌寺・・・大湫(おおくて)宿・本陣跡・問屋場跡・白山神社・神明神社・大湫観音堂・高札場跡・・・紅葉洞の石橋跡・・・小坂の馬頭観音・・・大洞の馬頭観音・・・二つ岩(母衣岩・烏帽子岩)・・・琵琶坂・・・琵琶峠(558m)・峠の文学碑・峠の馬頭観音・・・八瀬沢一里塚跡・・・北野坂・廻国塔・・・警察犬訓練所・・・一つ屋茶屋跡・・・天神辻の地蔵・・・焼坂・馬頭観音・・・天神坂・・・弁天池・・・女男松跡・・・奥之田一里塚跡・・・三国見晴台(跡)・馬頭観音・・・細久手宿・高札場跡・庚申堂・・大黒屋(尾州尾張家本陣)

 今日は大井宿から十三峠を越えて大湫宿へ下り、琵琶峠を越えて細久手宿までの今回の中山道歩きの目玉、ハイライトコースだ。十三峠は峠の名前ではなく、「十三峠におまけが七つ」といい、いくつもの起伏を越えて行く山道だ。さほどの高さもなく、緩やかに登って下る、晴れていれば手頃のハイキングコースというところか。道標や案内板も数多く、道に迷うこともないだろう。といっても一ヶ所間違って車道をかなり下ってしまい、かなりのロスタイムだったが。

 大井宿を抜け、西行硯水公園を過ぎ、中央線の踏切を渡って十三峠の登り口へ出る。この先、休日で好天のこともあり、中山道歩きの人やハイカーとも随分すれ違った。坂の名前をチェック、確認しながらゆっくり、ゆっくり進む。足は疲れないが多くの坂名で頭が疲れた。十三峠をクリアーして大湫宿へ下り、茶店で五平餅を食べる。香ばしい味噌をつけた熱々に焼けた餅が美味かった。

 一休みして足、腹、頭の状態も良くなって琵琶峠を目指す。しばらく県道を歩き大湫病院前あたりから右へ琵琶峠への石畳に入る。大湫宿の標高は510m、琵琶峠(558m)へは石畳(上の写真)の登り口から一登りという感じだった。峠から下ると車道歩きとなるが車の往来は少なく歩きやすい。弁天池で一休みして細久手宿へ向う。バイクか車か、轟音がだんだん大きく聞こえ出した。右手のモーターランドとサーキット場からのものだ。近くに人家はないのだろうか。よく我慢していると思うよ。

 細久手宿へ入ったあたりで外人の中年男性が中山道の旧道の道筋を教えてくれた。彼は地元の女性と結婚したオランダ人で、奥さんの里帰りで一緒に来ているのだと、後で大黒屋の女将さんから聞いた。日本語は上手く、中山道のこともよく知っているようで少し嬉しい気分になった。

 7時半前に出発して、道を間違った所もあったが、ゆっくりペースで歩いてきてまだ3時前。宿に入るには早過ぎる。庚申堂前の手頃なベンチで、心地いい風と陽射しを浴びながら昼寝とした。うとうとしていると近所のご婦人が二人、石段を上ってお参りにきて、しばし雑談。4時をちょっと過ぎた頃今夜の宿、大黒屋に入る。ここは尾州尾張家本陣だった家だ。今日の泊まり客は我一人。昨日は外人さんのグループが泊まったそうだ。そう言えば十三峠で男女10人ほどの一団とすれ違ったっけ。かなりバテ気味の女性もいたようだったが。2階の二間を貸切で、早めに床についたが、殿様の気分にもなれずなかなか寝つけなかった。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_0169 中野村庄屋家

屋号を「本酒屋」といい、和宮降嫁の際の熊崎新三郎事件の舞台ともなった。

右の石柱は溝に板をはめて、洪水の浸水防止用にしたという。

Img_0165 説明板

和宮の降嫁に伴う賄役の負担に苦しめられた野井村の話が載る。

Img_0167 浸水防止壁説明板

Img_0172 中野観音堂 《地図

本尊は阿弥陀如来像、石灯籠は寛政8年(1795)の建立。

Img_0173 説明板

Img_0176 坂の上石仏群 《地図

隣りに豊玉稲荷神社がある。

Img_0182 上町観音堂

Img_0185 西行硯水公園 《地図

この地で3年間暮らした西行が、この泉の水で墨をすったという。

Img_0184 説明板

Img_0187 西行塚道標

Img_0196 西行坂 【ルート地図】の①

もとは中野坂といった。ここから西へ十三峠が始まる。

Img_0200 西行塚

西行がこの地で入寂したという伝説による供養の五輪塔。定説では西行は文治6年(1190)に河内の弘川寺で死んだことになっている。

Img_0201 説明板①

Img_0206 説明板②

Img_0203 恵那山(2189m)その右が焼山(1709m)、二つの山の前が保古山(969m)

Photo 十三峠を行く旅人(広重画)

雪の日、雨の日、夏の盛りの難渋さが偲ばれる。

Img_0209 五本松坂

西行塚から槙ケ根一里塚への坂。

Img_0215 槙ケ根一里塚跡 《地図

北と南に2基残る。

Img_0214 説明板

Img_0216 緩やかな道

Img_0221 七本松坂

この先で車道に出る。

Img_0233車道に出て右の未舗装の道に入る。道標プレートにも気づいたが、なぜか車道を下ってしまい、新槙ケ根トンネル(JR中央線)の上を越え、中央自動車道をくぐり、国道19号へ出てしまった。

Img_0238 槙ケ根立場の茶屋跡

江戸時代の末頃にはここに茶屋が9軒もあったという。

Img_0236 説明板

Img_0240 説明板①

Img_0241 説明板②

Img_0242 説明板③

Img_0237 伊勢遥拝所

下街道追分の所

Img_0244下街道追分

道標に「伊勢名古屋道」とある。正面の木製の案内板の所から左に名古屋、伊勢神宮へと向う道。直進するのが中山道。

Img_0245 説明板

Img_0249 気分のいい道を行く。

Img_0253 馬頭観音が旅人を見守る。

Img_0255 姫御殿跡(祝峠)

ここには松かさ(松の子)が多くつく子持松があり、枝越しに馬籠(孫目)が見えて、子と孫が続き縁起のいい場所とされた。和宮降嫁の際にもここに仮御殿を建てて休憩所とした。

Img_0254 説明板

Img_0257 首なし地蔵

二人連れの中間(ちゅうげん)が道中、ここで休憩し眠ってしまった。一人が眼を覚ますと、もう一人の首が切られていた。怒った中間は「黙ってみているとは何事だ。」と地蔵の首を刀で切り落としてしまった。それ以来、首をつけようとしてもどうしてもつかないという。

Img_0258 由来

Img_0265 乱れ坂

乱れ橋へ下る坂。急坂で、旅人の息が乱れ、大名行列も、女人の裾も乱れたという坂。

「みたらし坂」・「祝い上げ坂」ともいう。

Img_0261 坂標

Img_0263 下座切場跡

街道を通る役人を、地元の役人が長袴で土下座で迎えた所だとか。

Img_0268 乱れ橋(祝橋)

宝暦年間(1751~63)に飛脚たちが出資して架けた橋。乱れ川は石も流されるほどの急流だったという。今はほんの小さな流れだ。

Img_0269 説明板

Img_0271 開けた所へ出る。

Img_0273 右に入った所に「石州さま」が祀られているそうだ。「石州さま」とは何なのか分からず。

Img_0275 お継原坂(うつ木が原坂)

Img_0274 坂標

Img_0277 振り返るとこんな風景。

Img_0284 かくれ神坂(妻(塞)の神坂)

Img_0285 坂標

Img_0288 妻(塞)の神が道から少しはずれて隠れるようにひっそりと。妻の神は道祖神の一つで、良縁、夫婦和合、子授け、安産、子育ての神として婦人の信仰が篤いという。

Img_0289 さらに平六坂へと続く

Img_0295 平六坂

Img_0294 坂標

Img_0296 平六茶屋跡

Img_0298明るく開けた道となる。

Img_0302 紅坂一里塚跡 《地図

Img_0305 道標

Img_03072基の 一里塚の間を抜けて振り返る。

Img_0315 でん坂

紅坂へと続いて行く。

Img_0314 坂標

Img_0317 紅坂

Img_0316 坂標

Img_0321 念仏坂

黒すくも坂へと続く。

Img_0325 黒すくも坂 【ルート地図】の②

右に権現山(606m)が望める。

Img_0324 坂標

Img_0327 三社灯籠

黒すくも坂の坂下。北の神明社に芭蕉の句碑群があるようだ。

Img_0331 佐倉宗五郎大明神碑(石灯籠の左側の石柱)

元禄年間(1700年頃)に岩村藩で農民騒動が起きた。竹折村庄屋の田中氏は将軍に直訴して農民達を救ったが、定めで打ち首になった。当時有名になっていた佐倉宗五郎事件に似ているので、村人達が密かに田中氏を宗五郎大明神として祀ったという説あり。

Img_0336 藤村高札場跡(正面奥)

Img_0339 説明板

Img_0340 深萱立場跡説明板

Img_0358 西坂

Img_0359 坂標

Img_0361 ちんちん石

Img_0363 小石で台石をたたくと「ちんちん」と音がするというだけのようだ。しょちゅう叩かれては墓の中の仏の眠りの妨げとなるだろうから、一礼して立ち去ったが。

『瑞浪市の中山道ハンドブック』によれば、墓ではなく、「読誦塔」(経文を声を出して読んだ方法 回数を記録)だそうだ。確かに石塔には「大乗経六千部・・・・」とあるようだ。そんなら、派手にちんちん叩けばよかったものを。

Img_0367 湧き水?

Img_0371 みつじ坂(三城坂)

石垣が三城の城跡の石垣?

Img_0373 坂標

Img_0375 三城峠は近い

Img_0376三城峠

ばばが茶屋跡

Img_0378 茶屋坂

Img_0377 坂標

Img_0382 茶屋坂を下って恵那市から瑞浪市へ

Img_0385舗装道路に出て振り返る。右奥から出て来たのが中山道。ここから瑞浪市になる。

Img_0391(向い)茶屋の坂

Img_0392 大久後の向茶屋跡

ここの平坦地を「茶屋が原」という。

Img_0396 平らな道となる。

Img_0397 新道坂(右)・観音坂(直進して右へカーブして上る。)

坂上で合流する。どちらもかなりの急坂だ。

Img_0398 新道坂(左に坂標)

新しく開かれた坂という意だろうが、太田南畝は『壬戌紀行』でこの坂を下っているから、さほど新しい坂ではない。

Img_0405 観音坂①

坂の途中の右上の大岩の上に馬頭観音が立っているのだが、見逃した。木立に覆われているのか?

Img_0406 坂標

Img_0408 説明板

Img_0409 地図

Img_0411 霊場巡拝記念碑

西国、四国、秩父、板東の霊場を巡拝した記念碑。

説明板には「天保2年(1841)」の建立とあるが、天保2年は1831年、天保12年が1841年だ。どちらだろうか?

小生は四国と秩父のみで、記念碑には程遠い。

Img_0415 灰くべ餅の出茶屋跡(この先)

「直(じか)焼き」の餅が名物だったという。

Img_0419 このあたりは大久後立場跡

手前が休憩所になっている。

Img_0424 大久後観音堂(右)・蚕養弘法大師堂(左)

このあたりは権現山の直下

Img_0429 権現坂

Img_0426 坂標

Img_0431 鞍骨坂

Img_0433 刈安神社参道

権現山山頂の社殿まではここからかなり上るので遥拝で済ます。

Img_0435 炭焼き立場跡

Img_0436 説明板

太田南畝の「壬戌紀行」は西から東へ書かれている。

Img_0440_2 炭焼立場を抜けて振り返る。

Img_0443 吾郎坂((炭焼きの)五郎坂)

Img_0442 坂標

Img_0446 樫ノ木坂

石畳が残る坂

Img_0447 坂標

西→東の記述

Img_0448_2 権現山一里塚跡 《地図

Img_0456 巡礼水の坂

Img_0455 坂標

Img_0461 説明板

Img_0463 地図

Img_0467 巡礼水は枯れていたが

ここで病気になった巡礼の母娘が念仏を唱えると目の前の大岩から湧き出したというお助け水。8月1日には必ず湧き出るというが、真夏の盛りに来るわけにもいかないよな。

Img_0469 巡礼水の上の馬頭観音は健在

宝暦7年(1757)の建立

Img_0465 巡(順)礼水の由来

Img_0473 両側はゴルフ場

Img_0475 びあいと坂

「批杷湯糖」という批杷の葉に薬草を加えて煎じた茶で、旅の疲れをとる出茶屋があったという。

Img_0474 坂標

Img_0480 曽根松坂

Img_0479 坂標

Img_0482 阿波屋の(おつるの)茶屋跡・三十三所観音石窟(正面奥)

「おつる」は娘さんかと思っていたが、「おつる婆」さんだった。こんな山中に若い娘は危なっかしい。やっぱり茶店は婆さんに限るか。

Img_0483 説明板

Img_0490天保11年(1840)建立の33体の馬頭観音石窟

Img_0491 観音坂②(おつるが茶屋の坂)を下る。

『壬戌紀行』では、地蔵坂の別名を「おつるが茶屋の坂」といっている。観音坂②を地蔵坂とは別の坂とすれば、この坂が「おつるが茶屋の坂」となる。観音坂②を地蔵坂に含めれば、「おつるが茶屋の坂」は地蔵坂の別名となる。(『瑞浪市の中山道ハンドブック』では、この坂を観音坂と呼んでいる。)

Img_0497 尻冷やし地蔵

宝永8年(1711)、伊勢の豪商熊野屋の夫人が十三峠で急病になった時、この湧き水で助かった。それを感謝して地蔵を建立したという。それ以来、「お助け清水と呼ばれ、旅人はもちろん、大名行列等も愛飲したそうだ。お地蔵さんの後ろから泉が湧き、まるでお尻を冷やしているように見えるのでこう呼ばれるようになったという。湧き水は地蔵の尻の後ろでなく右脇にあるのだが・・・。

Img_0495 「尻冷やし地蔵」石碑

Img_0500 地蔵坂

「尻冷やし地蔵」前の坂

Img_0509 しゃれこ坂(八丁・八町坂)

Img_0506 坂標

昔はここから恵那山が見えたのか。

Img_0508 「南無観世音菩薩」の名号碑

道標も兼ねていて「右ハざいみち」と刻むそうだ。

Img_0512 牛かほら坂

斜面の茶畑が陽射しを浴びている。「牛かほら」とはどういう意味か? 「牛カ洞か?

Img_0516山之神坂(右に坂標)

昔は右上の上段に山之神の小祠があったそうだ。寺坂へ続き下って行く。

Img_0517 ここにも茶畑が

Img_0518 童子ガ根

西から寺坂を上ってきた旅人は、平坦地のここで一息入れ、屏風山(794m)方向の眺望を楽しんだという。

Img_0522 寺坂 【ルート地図】の③

宗昌寺、大湫(おおくて)宿へ下る十三峠の最後の坂。

Img_0524 寺坂の石仏群

大湫宿の東の鬼門除けで、馬頭観音、地蔵、名号碑などが並ぶ。

Img_0525 十三峠石碑

太田南畝の『壬戌紀行』の文が刻まれている。

Img_0527 寺坂の坂下近くの道標

Img_0532 宗昌寺(美濃瑞浪三十三霊場第五番札所)

天正年間(1573~91)湫村を開いた保々宗昌が、慶長5年(1600年)に開基。本陣、脇本陣に次ぐ控え本陣としても利用された。

Img_0533宗昌寺から大湫宿

正面奥の大湫小学校の所が本陣跡

Img_0530_2 地図

Img_0536 大湫宿の家並み

湫(くて)とは湿地帯のこと。

Img_0537 説明板

Img_0541 本陣跡の和宮の碑(大湫小学校の校庭)

Img_0545 説明板

Img_0544 五平餅屋

Img_0543 焼きたての五平餅(味噌味)一本180円也。

五平さんが作った餅とも、形が御幣に似ているからともいわれる。小判形(御幣形か)と団子形、味も醤油味、味噌味があるそうだ。

Img_0547 問屋場跡説明板

Img_0548 白山神社

神明神社とともに宿時代からの産土神。

Img_0552 脇本陣跡保々家

Img_0551 説明板

Img_0557 旧家(国登録文化財)

もとは旅籠だった家か?

Img_0562 神明社の大杉(神門の後ろ)

樹齢1300年以上

Img_0564 旧家

Img_0568 観音堂

天井絵が描かれている堂。

Img_0573 説明板

Img_0570 縁起

Img_0572 芭蕉歌碑(観音堂境内)

寛政7年(1795)の芭蕉の百年忌に建立。境内にはさまざまな石造物が並んでいる。

Img_0571 説明板

Img_0579 高札場跡

大湫宿の西の出口

Img_0580 説明板

Img_0581 紅葉洞(もみじぼら)の石橋

嘉永7年(1854)土橋から石橋に替えた。和宮もここから紅葉を愛でたという。

道の両側に石の欄干がある。流れは暗渠になっているようだ。

Img_0583 小坂の馬頭観音(明治2年建立)

Img_0588 大洞(おおぼら)の馬頭観音

文政8年(1825)建立

Img_0589 二つ岩の母衣岩

陰石(女性)、ご覧の通り。

「弁慶の置き忘れ石」・「お手玉石」・「男岩、女岩」・「女男(めおと)岩」などとも呼ばれている。

Img_0592 烏帽子岩

こっちは陽石

Img_0591「 二つ岩」石碑

Photo_2 柴を背負い峠道を登る夫婦。二つ岩の巨岩の描き方が迫力ある。(広重画)

Img_0595 琵琶峠へ

Img_0596 琵琶坂 【ルート地図】の④

文化11年(1814)建立の身代り十一面観音(左端だろう)や馬頭観音などの石造物が並ぶ。

Img_0609 琵琶峠の文学碑

「琵琶峰碑」・「琵琶峠碑」・「琵琶坂碑」が並ぶ。この上に見晴台はあるのか?眺望はきくのか?

Img_0612 琵琶峠頂上(558m)

琵琶峠の由来は、①琵琶修行の法師がこの峠の松風の音で奥儀を悟った。②西から見る峠の姿が琵琶に似ている。③近江の琵琶湖に近い伊吹山が正面に望まれる。など

Img_0611 琵琶峠の馬頭観音と和宮歌碑

「住み馴れし 都路いでてけふいくひ いそぐとつらき 東路のたび」

Img_0616 八瀬沢一里塚 《地図

Img_0619 説明板

Img_0622 地図

右が西

Img_0628 下って集落へ

Img_0629 西上り口

Img_0634 北野坂

Img_0638北野坂の廻国塔

日本全国66カ国を巡礼し、1国1カ所の霊場に法華経を1部ずつ納める宗教者「六十六部」(六部)の廻国記念塔。安永6年(1777)の建立

Img_0642 警察犬訓練所

株式会社だ。

Img_0640 犬霊塔(警察犬訓練所)

競馬場にある馬霊塔のようなもの。

Img_0645 車も少ない県道

Img_0648 天神辻の地蔵

享保13年(1728)の建立

Img_0652 焼坂

Img_0650 焼坂の馬頭観音

Img_0657 天神坂 【ルート地図】の⑤

Img_0655 坂標

Img_0663 弁天池・弁財天堂

天保7年(1836)の石祠に天文5年(1740)の弁財天が祀られている。

Img_0660 説明板

Img_0662 地図

Img_0667 女男松の跡

一本は男根、一本は女陰の異形で、夫婦円満・下の病いにご利益の珍木で中山道の名物だったという。残念ながら昭和初年に枯れてしまった。

Img_0671 奥之田一里塚跡

Img_0673 説明板

Img_0677 三国見晴台と馬頭観音

「切山辻の見晴台跡」で、今は見晴らしがきく所ではない。馬頭観音は元治元年(1864)の建立。

Img_0680 細久手宿へ

Img_0681 クリスタルクレイ工場の方へ直進していたのが旧道(細久手宿の方から振り返って見ている。)

工場の前は中学校(中学校ではなく日吉第二小学校?)があったそうだ。

Img_0682 行き止まりだが右下の花の前(電柱下)に「中山道」の標示板がある。

Img_0683標識

Img_0687 右上に庚申堂

Img_0688 高札場跡を上って庚申堂へ

美濃瑞浪三十三霊場の一つ。観音像でなく、青面金剛の庚申塔(享和2年(1802)建立)の霊場は珍しいのでは。堂前のベンチで昼寝をして寝ぼけていたのか、庚申堂の写真を撮るのを忘れた。

Img_0693穴観音

庚申堂の右後ろ

Img_0700 庚申堂から細久手宿

Img_0705 細久手宿説明板

Img_0712 大黒屋(尾州尾張家定本陣)

ここが今日の宿。本陣、脇本陣が他宿に比べて手狭だったため尾州藩はここを定本陣とした。本陣、脇本陣は取り壊されて跡のみ。

Img_0710 2階の部屋

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2009年10月18日 (日)

中山道(中津川宿→大井宿)

2009年10月11日

Img_9981 中津川駅(JR中央線)・・・旧中山道・・・茶屋坂・・・中津川宿・・・四ツ目川橋・・・中津川橋・・・石屋坂・・・駒場村の高札場跡・・・東山道道標・・・米田川石柱・・・中山道道標・・・上宿橋(前川)・・・小手ノ木坂・東山道坂本駅あたり・双頭一身道祖神・・上宿(中津)の一里塚跡・・・中山道上宿休憩所・・・会所沢の石仏群・・・小石塚の立場跡・嵐讃岐供養塔・・国道257号・19号合流点・・・六地蔵川・六地蔵石憧・・・坂本八幡宮参道・千旦林学校跡・・・千旦林村の高札場跡・・・東巣橋・・東巣橋馬頭観音・・・弘法大師堂・・・中平神明社・・・将監塚・・・三ツ家の一里塚跡・・・馬頭観音・・・馬の水飲み池・・・坂本立場跡・坂本坂・・・坂本橋(坂本川)・・・坂本観音堂・・・尾州白木改番所跡・・・茄子川小休止所篠原家(茶屋本陣)・秋葉道常夜灯・・・石拾坂・茶屋跡・茄子川焼跡・・・中山道碑・・・(恵那市)・広久手坂・馬頭観音・・・岡瀬澤の永代燈・・・筋違橋(濁川)・・・庚申塔・・・甚平坂・馬塚・犬塚・甚平坂公園・根津神社・・・関戸一里塚跡・・・正善寺前・県道401号・・石塔坂・長石塔・・・寺坂・(中央自動車道)・菅原神社・旧道・・・上宿石仏群(痰切地蔵・徳本碑)・・・山本用水・・・(明智鉄道線)・・・南無阿弥陀仏の碑・・・五妙坂大井宿・高札場跡・・・上横橋・・・延寿院(横薬師)・・・大井宿本陣跡・・・市神神社・・・白木番所跡・・・阿木川(大井橋)・・・恵那プラザホテル

 熊谷宿から37の宿場を中抜きして、中津川宿から美濃の中山道を歩く。なぜか、坂が多いからだけの話。名古屋から中央線に乗り換え、ちょうど昼頃に中津川駅に着く。快晴で気持ちのいい日だ。茶屋坂を下って新町交差点を渡ると、古い造りの店の中に人だかりができている。日曜で中山道歩きの人たちかと思いきや、「すや」で栗きんとんを買う客たちだった。そういえば駅前には、「栗きんとん発祥の地」碑が立っていたっけ。

 四ツ目川を渡り中津川宿の中心部に入る。中山道歴史資料館に寄ってみたが、310円の入場料の割には展示の内容は物足りなく感じた。古い家並みの残る宿を抜け、中津川を渡り、名号碑や馬頭観音が並ぶ石屋坂を上る。高札場や道標を見ながら上宿橋を渡ると小手ノ木坂の上りとなる。坂上の石造物群の中に、双頭一身道祖神がある。双体は珍しくないが、双頭を見るのは初めてだ。すぐ先の小公園が上宿一里塚跡で子どもの遊び場になっている。

 1kmほど行くと左に小石塚の立場跡と右に嵐讃岐の供養塔がある。そのすぐ先の国道257号と19号の合流点を抜け、六地蔵石憧が立つ集落の間の静かな道を進み、坂本八幡宮の参道の先で左に旧道へ入る。陽射しを正面方向から浴びで半袖でも暑いくらいだ。坂本立場跡からちょっといい雰囲気の坂本坂を下る。(上の写真) 茶屋本陣の篠原家を過ぎて石拾坂を上ると、中山道の碑が立つ先で広久手坂となり恵那市に入る。筋違(すじかい)橋を渡り、根津甚平ゆかりの甚平坂を上る。坂上に小さな根津神社があり、ここからは大井宿へと下って行く。

 石塔坂を下り途中で県道から離れ、菅原神社の前の石段坂の寺坂を下り、明智鉄道のガードをくぐって五妙坂を下ると横薬師の延寿院に出る。ここを左へ曲がると本陣跡で、大井宿の中心部へ入って行く。古い家並みの間を枡形を右へ左へ進み、広重の中山道の絵の掛かる大井橋の所で今日の終点とした。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_9793 中津川駅前の「栗きんとん発祥の地」碑

Img_9799 茶屋坂(坂上、落合宿方向) 【ルート地図】の①

高札場、常夜灯、庚申塔、二十三夜塔、成田不動尊の小祠が並ぶ。

Img_9805 左から右へカーブして旭ケ丘公園の方へ上って行く。中津川宿へは淀川町へと下る。

Img_9803 高札場説明板

Img_9816 栗きんとんの「すや

もとは元禄年間に江戸から下ってきた武士が始めた酢の店、「十八屋」だったそうだ。9月から2月の限定販売。

Img_9819 間(はざま)家大正の蔵

従来の土蔵づくりと明治以来のコンクリ-ト工法が混在した珍しい建物。大正3年の建築。

間家は尾張徳川家の御用商人で、白木、白木製品、塩の販売で当時東濃随一の豪商といわれた。

Img_9820 往来庭

小休憩所になっている。

Img_9826 四ツ目川橋から

左奥は恵那山(2189m)だろう。

Img_9829 秋葉神社(左の小祠)

ここあたりが中津川宿の中心部

Img_9828 説明板

Img_9830 隣りの旧商家は廃屋か?

Img_9831 中山道歴史資料館(本陣跡向い側)

ここは脇本陣森家跡

Img_9833 中津川宿説明板

Img_9834 本陣跡

建物は残らず駐車場になっている。

Img_9835 説明板

Img_9836 本陣間取り

Img_9839 脇本陣森家土蔵(復元)

奥の「上段の間」が「明治天皇行在所跡」だろう。

Img_9843 庄屋・脇本陣肥田家

現在は曽我家住宅

Img_9842 正面奥が中山道・本陣跡

Img_9847 説明板

Img_9853 十八屋(間家)

隣りは栗きんとんの「川上屋」。柿の美きんとんもある。店の右脇に「右 木曽路」の道標が立っている。

Img_9852 説明板

Img_9856 太田薬局(吉本屋)

屋根に卯建(うだつ)が上がる商家。

Img_9855 説明板

Img_9858 はざま酒造(地酒「恵那山」の蔵元)

ここは中津川宿の西口の下町で、中津川を渡り宿を抜けて行く。

Img_9860 説明板

Img_9866 中津川橋から

歌川広重の『中津川の情景)』

Img_9868 追分

石屋坂(正面左へ上る)・右は津島神社参道(駒場(こまんば)道)

正面に「津島神社参道」の石柱が立つ。

Img_9871石屋坂 【ルート地図】の②

右に名号碑と馬頭観音(3)が並んでいる。

Img_9875名号碑、馬頭観音

Img_9882 駒場村の高札場跡

Img_9883 東山道道標

東山道は古代、近江と陸奥を結ぶ官道で、駅は四里ごとに置かれる官用の人馬の継ぎ立て場。東山道は土岐駅から大井駅を経て坂本駅に入り、神坂峠を越えて信州阿智駅へ向った。

Img_9887 中山道道標

Img_9893 小手ノ木(こでのき)坂 《地図

正面の石段、左から回り込む未舗装の道、右にも車道あり。

Img_9892 小手ノ木坂

Img_9895 坂本駅説明板

Img_9899道標

苗木道は苗木城跡へ通ずる道

Img_9898 小手ノ木坂上の石造物群

Img_9903 双頭一身道祖神

右肩に「是より苗木道」とある。もとは苗木道との分岐に置かれていたのだろう。

Img_9902 説明板

Img_9908 上宿の一里塚跡

塚上には、「中津一里塚址」の石柱が立っている。

Img_9906 説明板

Img_9911 中山道上宿休憩所

四国遍路道の「お遍路休憩所」を思い出させる。

Img_9914 会所沢の石仏群

Img_9915 祠内

Img_9923 小石塚の立場跡 《地図

Img_9926 嵐讃岐の供養碑

この先で国道257号が国道19号に合流する。

Img_9925 説明板

Img_9928 説明板

Img_9929 JRと国道の間を抜けて行く。

Img_9936 六地蔵石憧

Img_9937 説明板

Img_9931 付近の案内図

Img_9944 坂本八幡宮参道 《地図

千旦林学校跡(左)

Img_9943説明板

Img_9945 千旦林村の高札場跡

Img_9951 東巣橋馬頭観音

Img_9957 弘法大師堂

Img_9960 中平神明神社説明板

Img_9963 けっこう急な参道

Img_9962 こんなに小さな社とは

旧道に戻ったらズボンに何かの植物のとげのような種子?がビッシリ刺さって取るのに一苦労した。

Img_9964 三津屋の石仏群

Img_9932 付近の案内図

Img_9969 将監塚跡(左)

写真は中津川宿方向

Img_9966 説明板

Img_9970 三ツ家の一里塚跡

Img_9974 三津屋の馬頭観音

Img_9976 馬の水飲み池

Img_9977_2 坂本坂・坂本立場跡(右) 【ルート地図】の③

Img_9984 坂の途中の石仏群

Img_9990 坂本観音堂(坂本坂の坂下)

地元や中山道の往来人の信仰が篤かった延享2年(1745)建立の馬頭観音が祀られている。

Img_9992 由来

「坂本坂」が載っている。

Img_9996 尾州白木改番所跡

Img_9997 説明板

Img_0008 茶屋本陣篠原家(茄子川小休所)

Img_0006 説明板

Img_0012 茄子川村説明板

Img_0010 秋葉山道常夜灯(安永5年(1776))建立

遠州秋葉道の分岐点

Img_0019 石拾坂

いしひろい坂?・せきじゅう坂?

Img_0022 地図に「石拾坂」がある。

Img_0023 坂上近く

左に馬頭観音と地蔵

Img_0026 茄子川焼説明板

Img_0031 中山道碑

「是より大井」とある。

Img_0033 広久手坂 《地図

「くて」とは湿地帯のこと。大井宿→大湫(おおくて)宿→細久手宿と続く。

右に馬頭観音

Img_0036【坂標】

Img_0035 坂下方向(中津川宿方向)

Img_0044 永代燈(左)・中山道岡瀬沢碑(右)

Img_0043 説明板

Img_0053 庚申塔

Img_0052 説明板

Img_0055 甚平坂 【ルート地図】の④

源頼朝の家臣、根津甚平に由来する坂で、①子授け「妊(はらみ)観音 ②「八重羽のきじ」退治伝説がある。

Img_0058 馬塚

Img_0062 甚平坂説明板①

Img_0063

ここには子授けの「妊(はらみ)観音」(長国寺)伝説が記載されている。

Img_0065 犬塚?

Img_0064 説明板

根津甚平の「八重羽のきじ」退治伝説で、馬と鷹と犬を供に、化け鳥のきじを追いつめたが犬と馬は力つき倒れた。その後、甚平と鷹はどうなったのか、桃太郎の鬼退治ようにめでたく、きじ退治とはならなかったようで、伝説、昔話としては変わっている結末だ。怪鳥のきじは今も飛び続けているのかも。

Img_0066 坂上方向

右は甚平坂公園

Img_0068 坂上近く

左に根津神社

Img_0073 根津神社

右が関戸宝篋印塔で、根津甚平の墓、供養塔という。

Img_0071 説明板

「八重羽のきじ」伝説が記載されている。ここでは鷹も倒れたと書かれている。馬は出てこない。

Img_0074 関戸の一里塚跡

Img_0080 長石塔(右・寺坂の坂上あたり)

長国寺の住職が建てた平和祈願の石柱

Img_0084 石塔坂(県道401) 《地図

正善寺前を下る県道401号。

Img_0086 菅原神社

Img_0091 寺坂

菅原神社前から下る旧道の石段坂。

Img_0097【坂標】

Img_0094 馬頭観音

上宿の8人の女講中が建てたもの。

Img_0101 上宿の石仏群(寺坂の途中)

痰切(たんきり)地蔵や徳本の碑などが並ぶ。

Img_0098 説明板

Img_0100 痰切地蔵

Img_0104 山本用水

Img_0103 説明板

Img_0108 南無阿弥陀仏碑

Img_0107 説明板

Img_0111 五妙坂 【ルート地図】の⑤

寺坂から続いて大井宿の中心部へ下る坂。

Img_0112【坂標】

Img_0114 坂上方向

大井宿高札場(左)

Img_0113 説明板

Img_0118 延寿院横薬師

Img_0123大井宿本陣跡 《地図

Img_0124

Img_0122 説明板

Img_0130 中山道ひし屋資料館(庄屋古山家)

屋号が「菱屋」だった。

Img_0129 説明板

Img_0131 大井宿の家並み

奥に本陣・右が中山道ひし屋資料館

Img_0134 宿役人の林家

Img_0133 説明板

Img_0136 下問屋場跡

Img_0143 庄屋古屋家

Img_0141_2 説明板

Img_0154 長屋門

もとは本陣の脇門で、明治になって庄屋の古屋家に移された。

Img_0146 市神神社

Img_0147 由緒

Img_0150 白木番所跡あたり

Img_0149 説明板

Img_0151 恵那峡弘法大師八十八所霊場

戦争で八十八ヵ所は未完成とは・・・。

Img_0158 大井橋から

欄干に広重の中山道の絵が掛けられている。

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2009年10月 7日 (水)

中山道(鴻巣宿→熊谷宿)

2009年10月4日

北鴻巣駅(JR高崎線)・・・箕田追分・・・旧中山道(県道365号)・・・庚申塔・・・前砂村碑・・・前砂の一里塚跡・・・観音堂・・・(中山道第4踏切・JR高崎線)・・・妙徳地蔵堂・・・吹上駅前交差点・・・明治天皇御駐輦址碑・・・吹上本町交差点・・・いぼ地蔵堂・東曜寺・・・吹上神社・・・中山道間の宿石柱・(JR高崎線)・・榎戸堰公園(元荒川)・・・権八地蔵堂②・・・熊谷堤(荒川)・・・決壊の跡碑・・久下の長土手・輪型の坂・・・久下堤の碑・・・久下神社・・・不動堂跡・・・権八地蔵堂③・久下権八公園・・・熊谷堤・・・久下冠水橋跡あたり・・・みかりや跡・・・東竹院(達磨石)・・・仏説寺・・・八丁の一里塚跡・・・(秩父鉄道)・(JR高崎線)・・・(熊谷駅)・・・国道17号・・・高城神社・・・千年神社・・・奴稲荷神社・・・熊谷寺・・・本陣跡・・・高札場跡・・・八木橋デパート(旧中山道)・・・松厳禅寺・・・八坂神社・・・国道17号・・・警察署前交差点・・・旧道・・・新島の一里塚跡・・・忍領石標・・・国道17号・・・旧道(県道264号)・・・(玉井堀)・・・不動堂・・・観音堂・・・市右衛門橋(奈良堰用水)・・・籠原駅(JR高崎線)

 秋の長雨の間の貴重な晴れ間を歩く。やっと坂に出会えた。坂といっても荒川堤から久下の集落へ下る緩やかな坂だが、浦和宿手前の焼米坂以来の坂で、なんとか坂道散歩の看板を下ろさなくても済んだというところか。今日歩いた距離は昨日と同じ位だったが、天気も良く坂もあって軽快、快調だった。

  【ルート地図

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Img_9624 苗木バス停脇

庚申塔(正徳2年(1712))・右の石柱は「岡象女之神」とある。イザナミ命の小便から生まれた、岡象女(みずはのめ)か。

Img_9631 前砂村の石柱

池田英泉の「鴻巣・吹上冨士」はこのあたりで描かれた」とある。

Photo鴻巣・吹上冨士

Img_9632 前砂の一里塚跡

西塚跡だろう。トラックの向こう側に標柱と説明板が立つ。

Img_9633 前砂の一里塚跡石柱

説明板は字がかすれて消えかかっていて判読不能。塚跡も全然なし。

Img_9636 観音堂 《地図

Img_9644 妙徳地蔵堂(正面の小堂) 【ルート地図】の①

天保14年(1843)頃、17歳の娘が眼病を患い、夢枕に立った亡き母のお告げで、観音菩薩像を背負い六十六部となって旅立った。娘の眼は4年後の満願の日に全快し、喜び家路を急ぐが途中で盗賊に襲われ命を落とす。無念さに娘は大蛇となって近隣の人々を苦しめ怨みを晴らしていくが、ついには法華経に出会い、得道成仏し、妙徳地蔵尊として後世に仕えることを約したという。

Img_9645 地蔵さん

開運、子育て、安産、眼病に霊験あらたかとか。

Img_9647 縁起

Img_9648 明治天皇御駐輦址碑(吹上駅前交差点の先の右)

小休止した所

Img_9649 旧家

Img_9653 いぼ地蔵堂 【ルート地図】の②

別名を「仲町のいぼ神様」といい、宝暦年間(1751~63)の造立で、毎年8月24日に地蔵講例大祭が行われるという。馬頭観音は文政2年(1819)の造立。

Img_9657 いぼ地蔵

「いぼとり」地蔵なのだろう。

Img_9661 吹上神社 《地図

Img_9662 由緒

Img_9666 中山道 間の宿(高崎線を越える陸橋の下)

「間の宿」とは「吹上宿」のこと。中山道の案内板と思いきや、避難場所案内図だった。右に案内図があったのだろうか。それとも裏(表)にあるのかも。

Img_9665 高崎線を越える。

Img_9670 左が旧中山道

Img_9672 榎戸堰公園から元荒川 《地図

元荒川は寛永6年(1629)に関東郡代伊奈忠治によって、荒川が入間川に付け替えられるまでは荒川の本流だった。

Img_9673 権八地蔵堂 【ルート地図】の③

Img_9675 権八延命地蔵

地蔵の銘文に火防のため元禄11年(1698)の建立とあるそうだ。

延宝7年(1679)に鈴ケ森で処刑された平井(白井)権八を「延命」地蔵しているのが面白いか。権八が処刑された後の造立だから、これは「権八の物言い地蔵」(後述)ではないだろう。

Img_9678 熊谷堤

Img_9679 田畑が広がる荒川の河川敷

流れが全然見えない。

Img_9684 決壊跡の碑

昭和22年9月のカスリーン台風の時、この地点の堤防が決壊した。

Img_9680 説明板

Img_9685 輪型の坂 久下の長土手から久下の集落へ下る坂。 【ルート地図】の④ 

荒川の江川河岸へと通じていた。河岸が栄えていた頃には、大八車の轍(わだち)の跡がいっぱいついていたという。

昔はこのあたりで、狐の嫁入り、おとかっぴ(狐火)が見られたとか。

Img_9688 坂下方向

左に明治45年(1912)に建立された、「久下堤の碑」が立つ。碑文には約4Kmにわたり、久下堤を修復したと記されているそうだ。明治43年の大洪水で堤防が決壊寸前となったため。

Img_9686 郷土カルタ

「輪型の碑」とある。碑文の中に、「輪型の坂」の記載があるのだろうか?

Img_9691 久下神社

Img_9692 旧家

Img_9696 不動堂跡

「流灯会 今は昔の不動さま」の郷土かるたが風に揺れていた。

Img_9701 中山道道標

Img_9699 右の道標

Img_9700 左は「此の街道 旧中山道」

「屋号 大鍛冶屋」はこの家の屋号だろう。

Img_9702 権八地蔵堂(正面奥)・久下権八公園(手前) 【ルート地図】の⑤

Img_9707 権八地蔵(物言い地蔵・疣とり地蔵)

鳥取藩士の平井権八は父の同僚を殺し、逐電して江戸に出る途中、金に困り上州の絹商人を殺し金を奪った。それを見ていた地蔵に、「このことを誰にも言うな」と言うと、地蔵は「わしは言わぬが お前も言うな」と答えた。

江戸へ出た権八は吉原三浦屋の遊女小紫のなじみとなり、人殺し、追剥ぎなどを重ねたあげくの果て、延宝7年(1679)鈴ケ森で磔(はりつけ)で処刑された。石の地蔵が喋ったので、「物言い」地蔵なのか。捕まった時に権八は、ここでの辻斬り強盗や地蔵とのやりとりを自白したという。「言うな」と言われると言いたくなるのが人情か。そして地蔵は権八が先々「言う」のを見通していたということか。

 標柱によるとこの地蔵は元禄11年(1698)に建てられたとある。さっきの権八延命地蔵も元禄11年の造立という。どうもおかしい。ちゃんと銘を確認すれば済むことだが、露座の地蔵でないので無理というもの。いずれにせよ由来話によれば権八がここを通った時には地蔵はあったのだから年代が矛盾する。とすれば昨日訪れた鴻巣宿の勝願寺の地蔵が本物らしくなるか。何かの理由でここ久下村から勝願寺へ移されたのだろう。

まあ、虚実入り混じった由来話、伝承だからあまり詮索しない方がよいのかも。三体の「権八地蔵さん」からも、「何も言うな」と言われたが、約束を破り少し喋り過ぎたようだ。「どうか権八地蔵さんご勘弁を」

Img_9705久下小学校の生徒らが作った「郷土かるた」が堂前に立つ。「疣とり 物言い 権八地蔵」

「いぼとり」のいわれはどこからきているのか?

Img_9708 「江戸時代の平井権八の物語と結びつけられた「物言い地蔵」として有名であり、元禄11年に建てられた石地蔵である」

Img_9714 久下(冠水)橋の碑

Img_9718 車一台が通れる橋で、「あうんの呼吸」で渡ったそうだ。

Img_9720 今は橋の痕跡もない。

久下の渡し→久下(冠水)橋(昭和30年~平成15年)→平成15年6月に500m下流に新らしい久下橋が完成し撤去された。

橋の存続運動もあった。歩行者、自転車専用の橋として残しておけばよかったものを。

Img_9721 みかりや跡へ(右奥に説明板)

中山道を往来する旅人相手の茶店で、「柚餅子」(ゆべし)が名物だった。忍藩の殿様の鷹狩りの時の休憩所で「御狩屋」(みかりや)。英泉の「八丁堤の景」に出てくる茶屋はここだという。 「名物は ゆべし 焼餅 鮎うるか」(郷土かるた)

Img_9722 説明板

Img_9724 旧家

みかりや跡の隣り

Img_9726 東竹院

Img_9727 達磨石

寛文年間(1661~72)に忍城主が、禅宗の祖・達磨大師に似たこの巨石を秩父から城中へ、荒川を筏(いかだ)で運ばせようとしたが川に落ちてしまった。何度か引き上げようとしたが、度重なる荒川の洪水で行方が分からなくなってしまった。一説によると、当時の農民の苦労を思って石が自ら沈んだとも、故郷の秩父へ帰ろうとしたともいわれている。それから250年ほど経った大正14年、この巨石が東竹院のすぐ前の荒川で偶然に発見された。当時の青年団など有志により川底から引き上げられ、東竹院に安置されたそうだ。

Img_9732 八丁の一里塚跡(曙万平自治会館の所)

Img_9733 説明板

Img_9737 高城神社

大里郡の総鎮守で熊谷直実の氏神だった。

Img_9736 略記

Img_9738 千年神社

Img_9739 奴稲荷神社

Img_9741熊谷寺ゆうこくじ

熊谷直実くまがいなおざね)が晩年仏門に入り、故郷熊谷(くまがや)の館跡に草庵を結び、蓮生庵と号したのを始まりとする浄土宗の寺。

Img_9750 熊谷宿本陣跡(鎌倉町交差点東側)

本陣竹井家は明治17年の火災と昭和20年の戦災で焼失し跡形もない。右奥は八木橋デパートで中山道は館内を通っていた。

Img_9743 説明板

Img_9747 高札場跡(市営駐車場交差点左)

Img_9746 説明板

Img_9754 松厳禅寺

Img_9755 八坂神社

Img_9761 新島の一里塚跡(東塚)

宝暦6年(1756)の『道中絵図』では「榎二本」とあるが、今立っているのは、樹齢300年以上の「ケヤキの木」

Img_9763 説明板

Img_9766 忍(おし)領石標

「従是南忍領」と彫られた忍藩の石標

Img_9765 説明板

Img_9769 不動堂

宅地の造成でどこかに引越すのか?

Img_9772 旧家

Img_9775 観音堂 《地図

Img_9786 顔が撮れてなかったが、観音像だろう。

扉の隙間から写真を撮ろうとしたがなかなかうまく撮れず。この様子を隣家のおじいさんがずっと見ていたらしい。顔を会わせたら、不審そうな眼差しで私をずっと見ていた。

Img_9776 右の覆家内

右と中央は地蔵さんだろう。左は観音さん?

Img_9791 籠原駅(正面)

日曜だというのに人通りもなく、ぼやけた感じの駅前通りだ。

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2009年10月 6日 (火)

中山道(上尾宿→桶川宿→鴻巣宿)

2009年10月3日

上尾駅(JR高崎線)・・・旧中山道(県道164号)・・・遍照院(遊女お玉の墓)・・・上町庚申塔・・・上尾宿案内板・・・(北上尾駅)・・・紅花仲買問屋須田家・・・下の木戸跡碑(桶川宿)・・・武村旅館・・・浄念寺・・・(桶川駅)・・・島村茶舗・・・府川本陣跡・・・宿場館・・・稲荷神社・・・大雲寺(女郎買い地蔵)・・・一里塚跡あたり・・・上の木戸跡碑・・・二つ家交差点・・・北本宿案内板・石柱・・・多聞寺(ムクロジの木)・天神社・・・(北本駅)・・・東間浅間神社・勝林寺・・・東間踏切(JR高崎線)・・・原馬室の一里塚跡・・・馬頭観音・・・西東間踏切・・・鴻巣宿加宿神谷新田碑・・・八幡神社・・・雛屋歴史資料館跡・(吉見屋人形店)・・・勝願寺(権八地蔵①)・・・本陣跡・鴻巣宿の仲市場跡・・・(鴻巣駅)・・・法要寺・・・鴻神社・・・池元院・・・加美交差点・県道365号・・・(JR高崎線)・・・永林寺・・・箕田観音堂・・・宮前交差点・・・宮登神社・宮登古墳・・・龍昌寺・・・氷川八幡神社・・・中宿橋(武蔵水路)・・・箕田地蔵堂・箕田追分(立場茶屋跡)・館林道分岐・・北鴻巣駅(JR高崎線)

 朝は晴れていたのに、電車に乗っている間に降りだした。この先、降ったり止んだりしながらの下を歩く。街道沿いには見所も多いが、渋滞しながら途切れなく行き交う車の音と、傘をさしての街道はけっこう疲れた。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_9411 遍照院

境内で骨董市が開かれるようで、陶器などのガラクタ?が持ち込まれ準備中だった。

Img_9412遊女お玉の墓

越後の貧しい農家の子お玉は、家を助けるために11歳の若さで身を売ることとなった。お玉は、文政3年(1820)、上尾宿の飯盛旅籠の大村楼に入る。 その後、美しくて気立てもよく宿場で評判の遊女となったお玉は、19歳の時、参勤交代で上尾宿を訪れた加賀前田家の小姓に見初められ、江戸行きとなった。 ところが、江戸で暮らすこと2年ばかりで悪病を患い、上尾に戻されてしまう。 病身のお玉は、それでも、生家を支えるためにと懸命に働き続ける。 しかし、その苦労が報われることもなく、25歳の若さでこの世を去った。 大村楼の主人は孝行な娘お玉の死を悼み哀れんで、遍照院に墓を建てて篤く弔ったという。 この時代にあって、一遊女のために立派な墓が建てられた例は数えるほどでしかない。 たいていの遊女は、死ねば無縁仏となって小さな石塔に名を刻まれるだけという扱いであった。 墓石に彫られた戒名「廊室妙顔信女」とともに、誰からも愛されたお玉の人柄が偲ばれる。『フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

Img_9415 雨の中山道

右に上町庚申塔

Img_9417 上町庚申塔(図書館西交差点右)

Img_9420 上尾宿案内板(緑丘地下横断道交差点右)

Img_9424 案内板の屋根上の鍾馗

鬼屋根瓦の家に対して鍾馗様で対峙する意味で置いた、火事除け、厄病払いの神。

Img_9432 紅花問屋須田家(久保西交差点右) 《地図

Img_9428

Img_9435 旧家

Img_9436 桶川宿下木戸跡(県道川越栗橋線との交差点右)

街道の治安を維持するために、各宿場の出入り口に設置されていた木戸(桶川宿の南の木戸)がここにあった。

Img_9437 武村旅館(国指定登録文化財) 《地図

江戸時代の旅籠「紙屋半次郎」だったもので、皇女和宮が中山道を下向した文久元年(1861)当時の間取りが現在も ほぼ引き継がれている。天保年間(1840年頃)の桶川宿には36軒の旅籠があったという。 現在もビジネス旅館として営業中。

Img_9438 鮮魚 稲葉屋本店

Img_9441 浄念寺仁王門

元禄14年(1701)に再建されたと「新編武蔵風土記稿」に記されている朱塗りの仁王門。

Img_9442 説明板

Img_9443 べに花まんじゅう店

Img_9444 島村老茶舗

Img_9446 蔵造りの商家(矢部家)

江戸時代に紅花商人としても活躍していた、穀物問屋で、この建物は明治時代に建てられた。

Img_9448 旧旅籠小林家(現在は小林木材工業)

江戸末期から明治時代の建築。

Img_9449 桶川宿本陣跡

加賀前田家の宿所で、水戸藩主徳川斉昭も利用し、文久元年に皇女和宮も宿泊した。建物は非公開。

Img_9452 稲荷神社

拝殿前には、安政4年(1857)、桶川宿周辺の紅花商人24名が、南蔵院へ寄進されたとされる2基の石灯籠が並ぶ。

Img_9453 今日は祭礼日のようで、舞台が用意されている。

Img_9454 力石(大盤石)

重さ610kg、江戸一番の力持ちと評判の力士、三ノ宮卯之助がこれを持ち上げたという。

説明板によると仰向けに寝て足で持ち上げていたらしい(「足指し」という方法)。なぜかアントニオ猪木とモハメド・アリの試合を思い出した。古いね俺も。

Img_9455 説明板①

Img_9456 説明板②

Img_9463 大雲寺 【ルート地図】の①

Img_9467 女郎買い地蔵

遊び好きな地蔵さんで、夜な夜な女郎買いに出かけるので、住職が背中に鎹(かすがい)を打ち込み、鎖で縛ったという。

台座に正徳3年(1713)の銘がある。地蔵さんが遊びに行ったのは大宮宿の柳屋の千鳥さん(お女郎地蔵)や、上尾宿の大村楼の「お玉さん」なら、なお面白いのだが、この地蔵さんの方がちと時代が古い。そんなに話がうま過ぎるようにはいかないか。若い修行僧を戒めるための逸話か。

Img_9465 背中に鎹(かすがい)が残っている。

地蔵虐待」のせいか説明板はない。

Img_9470 上の木戸跡(桶川市役所交差点右) 《地図

左の小祠は薬師堂か。背後は「麺処今福屋」、その後ろのビルも。 

Img_9471 説明板

Img_9472 旧家

Img_9473 北本宿案内板と石柱(本宿交差点左) 《地図

鴻巣宿が開かれるまでは、ここ本鴻巣村に宿場があり、その後、本宿(元宿)村と呼ぶようになり、さらに北本宿村→北本町→北本市となった。

Img_9477 説明板

Img_9481 多聞寺

Img_9484 ムクロジの木だが写真は失敗。

実は羽根つきの羽の先の玉に利用されていたそうだ。また石鹸としても使え、煎って食べることもできるという。

Img_9491 東間浅間神社

祭神は木花開耶姫命

社殿から周りの見晴らしがいいだろうと思ったが期待はずれだった。

Img_9492 由来碑

Img_9499 原馬室の一里塚(左へ入る)近くの旧中山道

もとはもう少し西側を通っていたのだろう。

Img_9502 原馬室の一里塚跡(西塚) 【ルート地図】の②

東塚は明治16年(1883)の高崎線敷設の際に取り壊された。塚の上には石柱と稲荷の小祠がある。

Img_9500 説明板

Img_9503 一里塚の上から

前方に高崎線、中山道。

Img_9516 八幡神社 《地図

ここも祭礼のようで出店も並んでいるが、境内は人影はまばらだった。

ここは人形町、人形店もけっこう残っている。

Img_9531 吉見屋人形店・雛屋歴史資料館跡(閉館したようだ。)

Img_9530 煎餅屋

Img_9539 勝願寺 【ルート地図】の③

関東十八壇林の一つ。境内には、牧野家の墓所、伊奈忠次・忠治、真田小松姫、真田信重とその妻、仙石秀久の墓がある。

Img_9538 牧野家累代の墓所

Img_9537 説明板

石戸藩は、現在の上尾市北西部から桶川市南西部にあった藩。

Img_9540 権八地蔵①(本堂と鐘楼の間)

権八とは白井(平井)権八のこと。鈴ケ森で権八が処刑されたのが、延宝7年(1679)という。この地蔵像には左側に延宝元年(1673)・久下村と刻まれていて、権八が処刑される以前に造立されたことになる。このためこの地蔵はニセ者とも、このような矛盾は民間伝承にはよくあることだともいう説もある。しかし、この地蔵が処刑された権八を供養するために造られたのなら生前の造立はありえないが、「権八の物言い地蔵」なら逆に処刑後の造立はありえない。ニセ者でも、年代の矛盾でも何でもない。「権八の物言い地蔵」は次回に訪れて記載する。

台座には享保14年(1729)と刻まれているから、ニセ者、本物はともかくとして、久下村(ここも旧中山道沿いで権八地蔵堂③がある。)からここに移された地蔵さんなのだろう。旧中山道の吹上から熊谷堤への上り口にも権八(延命)地蔵堂②がある。

Img_9546「危険です 登らないでください」の掲示板が掛かっている。いくら熱心な(しつこい)私でもここには登れない。挑戦する人は尊敬に値するよ。

Img_9558 鴻巣宿本陣跡石柱 《地図

正面は木村木材工業

Img_9557 仲市場・番屋跡(本陣跡石柱から左に入った所)

猿田彦大神石塔(正面)と仲町会館建設記念碑

Img_9555 記念碑に六斉市・仲市場・番屋の記事がある。

Img_9561 法要寺

参勤交代の折、宿所の勝願寺の下馬札を見落とし馬に乗ったまま山門をくぐり、宿泊を断られた加賀前田家が、この寺に頼み込んで宿所として利用したことから、前田家は当寺に莫大な寄進をし、家紋の梅鉢の紋を寺紋とすることを許可したという。

Img_9564 狛犬(不動堂前)

台座に「市神街」とある。かつて中山道沿いに鎮座していた市神社の社前にあったもの。

Img_9566 説明板

Img_9567 旧家

Img_9568 鴻(こう)神社

明治6年、ここにあった雷電社と氷川神社、熊野社を合祀。

この地が武蔵国の国府が置かれたところ「国府の州」が「こうのす」と転じ、後に「鴻(こうのとり)伝説」から「鴻巣」の字を当てるようになったとする伝承がある。

Img_9570 由緒

Img_9574 旧家

Img_9584 箕田観音堂 【ルート地図】の④

観音像は箕田源氏で、頼光四天王の一人、渡辺綱の守り本尊という。

箕田源氏は、嵯峨天皇→源融(嵯峨源氏)→昇→仕→宛(箕田源氏の祖)→渡辺綱

Img_9588 石灯籠

享保9年(1724)の造立

Img_9591 宮登神社

社殿裏の少し高くなっている所が宮登古墳

Img_9593 銀杏だらけの境内で匂いが漂っている。

Img_9592 宮登古墳説明板

Img_9600氷川八幡神社

永延2年(988)に渡辺綱の創建といい、北側に祖父の箕田武蔵守源仕以来の館があったと伝える。

Img_9602 箕田碑

宝暦9年(1759)に建立で、源経基(清和源氏の祖)の徳と、箕田源氏の活躍、この地が武蔵武士の本源地であったことが記されている。

Img_9601 説明板

Img_9612 箕田追分・立場茶屋跡 【ルート地図】の⑤

左が旧中山道・右は館林道。正面に案内板、中山道石柱が立つ。

Img_9617 追分の図

地蔵堂、立場茶屋の冨士屋、道標(中山道・館林道)が描かれている。

Img_9613 箕田地蔵堂

Img_9619 箕田源氏説明板①

Img_9621

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2009年10月 3日 (土)

中山道(浦和宿→大宮宿→上尾宿)

2009年9月28日

JR浦和駅・・・旧中山道(県道64号)・・・成就院・・・(新浦和橋)・・・浦和橋(JR京浜東北線)・笹岡稲荷・・・浦和宿石橋跡・供養仏(国道17号常盤9交差点)・・・(JR京浜東北線)・・・薬師堂・・・(北浦和駅)・・・廓信寺・・・針ケ谷陣屋跡あたり・・・旧中山道(県道164号)・庚申塔・・・一本杉仇討ち跡・・・半里塚跡(大ケヤキ・与野駅東口交差点)・・・ケヤキ並木・・・お女郎地蔵・火の玉不動・高台橋・下原刑場跡あたり・・・(さいたま新都心駅)・・・氷川神社一の鳥居・・・塩地蔵・子育地蔵・・・涙橋跡・・・大宮宿紀州鷹場本陣北沢家跡(高島屋)・・・大栄橋交差点・・・東光寺・・・氷川神社表参道・・・天満神社・・・氷川神社・宗像神社・・・多子稲荷・・・四恩寺・・・(東武野田線北大宮駅)・・・旧中山道・・・大山道道標・・・八百姫大明神・・・石上神社・・・馬頭観音・三界万霊塔・・・東大成の庚申塔・・・(東北・上越新幹線)・・・(宮原駅)・・・天神社・天神橋跡・・・加茂神社・・・(国道17号)・・・宮原小学校のセンダン(栴檀)の木・・・南方神社・・・庚申塔・・・上尾陸橋・・・愛宕神社・・・上尾宿脇本陣井上家・本陣林家跡・・・氷川鍬神社・・・上尾駅(JR高崎線)

 中山道を浦和宿から上尾宿まで、埼玉県の中心部で昔の街道風情など望むべくもないが、街道沿いを右へ左へ見所も多く、坂のない坂道散歩を楽しんだ。

  【ルート地図

   写真をクリックすると拡大します。

Img_9247 笹岡稲荷(浦和橋の手前から・下はJR京浜東北線)

榎の大木(鳥居の左側か)は浦和の一里塚にあった榎を移植したものか、その子孫という。「浦和の一里塚」は昭和初期までは、浦和橋より少し南のにあり、街道の両端の五間四方の塚に榎木が植えられていた。浦和橋を架ける際、取り払われ跡形もないようだ。

Img_9249笹岡稲荷神社

Img_9253 浦和宿石橋跡・供養仏 【ルート地図】の①

浦和橋の南側で中山道から分岐し、浦和宿から与野に通じる与野道で、この付近に宝暦12年(1762)に道普請で悪水を渡る石橋が架けられた。石橋は大正末期の悪水埋立てにより、取り払われた。

Img_9251 「道普請供養仏」

左側面に「是よ里 与の川越道」とあり道標を兼ねていた。

Img_9250 説明板

Img_9254 元町薬師堂

Img_9258 庚申塔(廓信寺境内角)

もとは中山道の北浦和東口交差点にあったもの。右は明和2年(1765)、左は元分3年(1738)の造立。

Img_9257 移設碑

Img_9267 廓信寺仁王門

「一本杉の仇討ち」(後述)で討たれた元丸亀藩・河西祐之助の墓がある。

カヤの木」は市の天然記念物。

Img_9259 阿弥陀像

Img_9264 元亨の板石塔婆

元亨4年(1324)の銘があるという。

Img_9260 説明板

Img_9268 針ケ谷陣屋跡あたり(針ケ谷1丁目)

岩槻城主高力清長の浦和領1万石の代官で、廓信寺を開いた中村弥右衛門吉照の陣屋がこのあたりにあった。

Img_9275 庚申塔(大原陸橋東交差点南側脇)

正徳4年(1714)の造立

Img_9279 「一本杉の仇討ち」跡(正面に「一本杉」と彫られた小さな石柱が立つ。) 【ルート地図】の② 

文久4年(1864)1月23日の朝に、水戸藩家臣・宮本鹿太郎とその後見人3名が、千葉周作門下の元讃岐丸亀藩の浪人河西祐之助を父の仇として討ち、4年越しの本懐を遂げたという仇討ちの現場。 河西は乗り合わせた舟中で宮本の父と口論となり、その命を奪ってしまい、その後、僧となるために江戸へ下る途中であった。 河西を哀れんだ村人が供養塔を建てたが、今はそれも失われ、「一本杉」と刻まれた石柱と小さな杉の木?が残るのみ。

Img_9281 大ケヤキ(与野駅東口交差点)

樹齢300年以上で、浦和宿と大宮宿の間の半里塚の役目を果たしてきた。
2010年5月19日に倒木の危険があるとして、伐採されてしまった。

*与野駅の改札口前に大ケヤキの幹の輪切りが保存され、西口広場には後継樹が植えられている。

Img_2287大ケヤキの幹の輪切り

Img_2285後継樹

大ケヤキの種から育てたものだそうだ。『朝日新聞の記事

Img_9286 さいたま新都心を行く中山道

旧道の面影は皆無。

Img_9289 ケヤキ並木

このケヤキは昭和42年の埼玉国体の際に植えられたもの。

Img_9291お女郎地蔵と火の玉不動(高台橋の手前) 【ルート地図】の③

面白い由来話があるが近くに下原刑場があり、処刑者供養のために建立されたものか。

Img_9292「火の玉不動」(左)は寛政12年(1800)、「お女郎地蔵」は天保6年(1835)の建立。由来話がつながっているのが面白い。かなり風化しているが火の玉不動はちゃんと剣を持っているようだ。

Img_9297 由来話①

Img_9295 由来話②

Img_9299 高台橋説明板

お女郎地蔵、火の玉不動ゆかりの橋だが、今は用水が暗渠になっていて橋とは気づかずに通り過ぎてしまう。

Img_9305 氷川神社表参道の一の鳥居 《地図

社殿までは2kmほどある。ここが元の中山道だった。街道が神域を通るのは不敬とのことで、寛永5年(1628)に関東郡代伊奈忠次により現在の中山道がつくられ、その両側に宿民を移転させて大宮宿をつくったという。

Img_9306 「武蔵国一宮」の石柱が立つ。

Img_9309 塩地蔵(左)・子育地蔵(右) 《地図

Img_9312 塩地蔵

この地蔵さんの親孝行娘二人の由来話はハッピーエンドとなっている。塩が供えられている。

Img_9310_2 由来話

Img_9314 子育地蔵

Img_9316ご利益があればどこにでも、賽銭でも塩でも置くのが日本人か。

Img_9318 ここは大宮駅近くの目抜き通り、よく持ちこたえて頑張っているよ。

Img_9319 旧家

Img_9320 紀州鷹場本陣北沢家跡(向いの高島屋の所)

高島屋の屋上に北沢稲荷、向い側のすずらん通りに内倉本陣跡が残っているようだ。

Img_9321東光寺

もと大宮黒塚にあり、平安末期、京都鞍馬寺の東光坊宥慶が黒塚の鬼婆を法力で退散させ、鬼婆に殺された人々を葬る為に、この地に庵を結んだと伝える。黒塚は福島県二本松の「安達ケ原の鬼婆」伝説地で、登場する僧も「東光坊祐慶」とそっくり。地名が同じなので寺伝に鬼婆伝説を加えたのだろう。

Img_9322 境内の地蔵さん

鬼婆よりもずっと親しみがわく顔だ。

Img_9326氷川神社表参道

お宮参りの家族、外人の参拝者、散歩、ジョギングを楽しむ人などが行き交っている。

Img_9329 由緒

Img_9331 楼門

Img_9332 舞殿から拝殿

Img_9340 多子稲荷大明神

祭神は倉稲魂命

Img_9343 四恩寺

閻魔堂は「お女郎地蔵」に登場した大泥棒の神道徳次郎(真刀徳次郎)の隠れ家だったとか。徳次郎を捕まえたのが「鬼平」こと長谷川平蔵で、処刑されたのが高台橋近くの下原刑場という。

Img_9346 安政7年(1860)の道標 《地図

隣り(北側の赤柴魚店)の間に古道が通じていた。

Img_9345_2説明板

Img_9347 大山、御獄山と昔の人は健脚だった。

Img_9350 八百姫大明神 【ルート地図】の④

人肉を食べて800歳まで生きたという八百比丘尼がここにしばらく滞在し、松を植えたという。

これじゃ犬小屋と間違えそうだ。

Img_9351 若い人形は八百比丘尼の生まれ変わりか。

Img_9352 石上神社

疱瘡の神で、戦前までは露店が出るほどの賑わいだったという。

Img_9353 説明板

Img_9357 右側手前に馬頭観音、その先に三界万霊塔 《地図

道標と道中安全祈願、道中での死んだ旅人、牛馬の供養塔を兼ねていただろう。

Img_9355 馬頭観音(天保3年(1832)造立)

「此方 せいふ(菖蒲)四り半 きさい(騎西)五り半」とあり、菖蒲、騎西方面への道標を兼ねていた。

Img_9359 三界万霊塔(安永6年(1777)の造立)

「右 原市道」

Img_9363 東大成の庚申塔(猿田彦の小祠) 《地図

道の神、旅人の神で、道祖神とも同一視される猿田彦と庚申信仰が一緒になったのか。

Img_9365 庚申塔(元禄10年(1697)建立)

地元では耳と眼の神様。22名の女性の名が刻まれているという。

Img_9364 説明板

Img_9367 天神社(バス停「天神橋」の所)

ここには川が流れ(今は暗渠)、天神橋と呼ぶ石橋があった。立場茶屋が置かれ、「天神橋の立場」と呼ばれていた。 茶屋は島屋と福島屋の2軒が有名で、特に島屋は参勤交代時の加賀前田家の休憩所に使われた。

Img_9374 加茂神社

京都の上賀茂神社を勧請したと伝える旧加茂宮村の鎮守。

Img_9371 由緒

Img_9377宮原小学校のセンダン(栴檀)

開校(明治6年)当時の教師が郷里の高知から苗を持ってきて植えた木。樹齢は130年くらいか、それより開校から今年で136年の方がすごいよ。校歌にもこのセンダンが歌い込まれている。生徒全員「栴檀は双葉より芳し」だろうよ。

Img_9376 説明板

Img_9378 南方神社

吉野村の鎮守で、地元では「お諏訪さま」の名で親しまれている。

Img_9380 こじんまりした社殿

境内は広く子どもの遊び場になっている。

Img_9385 魂霊社?

Img_9384 堂内

何の神像?

Img_9387 庚申塔(寛政12年(1800))

上尾市に入った所

Img_9390 旧家

Img_9396 愛宕神社

南角に庚申塔(享保7年(1722))がある。

Img_9399 旧家

Img_9406 上尾宿脇本陣井上家

屋根瓦を塀に使っているようだ。

上尾宿には本陣が1軒、脇本陣が3軒あった。

Img_9401 氷川鍬神社 【ルート地図】の⑤

Img_9400 由緒

Img_9403 ニ賢堂(じけんどう)跡(氷川鍬神社境内)

南宋の朱子と菅原道真から名づけられた「郷学」の学舎跡

Img_9402 ニ賢堂説明板

Img_9404 神社の前の上尾宿本陣林家跡はコンビニなどのビルになっていて跡形もない。

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2009年10月 1日 (木)

中山道(浦和宿→蕨宿→戸田の渡し跡)

2009年9月25日

浦和駅(JR京浜東北線)・・・旧中山道・慈恵稲荷(浦和宿二・七市場跡)・・・常盤公園(御殿跡)・・・浦和宿本陣星野家跡・・・玉蔵院・・・調(つき)神社・・・焼米坂・・・六辻交差点(国道17号)・・・六辻水辺公園・・・(東京外環自動車道)・辻の一里塚跡・・・宝蔵寺・・・錦町3交差点(国道17号)・・・蕨宿・(中山道ふれあい広場・稲荷越通り・三学院・地蔵の小径・本陣跡・歴史民俗資料館・和楽備神社・蕨城址公園・長泉院・歴史民俗資料館別館・観音堂・玄蕃稲荷・蕨町道路元標・天王社跡・下の木戸跡)・・・国道17号・・・旧道(下前公団通り)・・・オリンピック通り・一里塚跡?・・・国道17号・・・曲尺手橋(菖蒲川)・旧道・・・川岸ミニパーク・・・地蔵堂・・・水神社・・・戸田の渡し場跡(荒川)・・・戸田公園駅(JR埼京線)

 中山道浦和宿から南に江戸方向に歩く。快晴で暑いのは覚悟していたが、たいした距離ではないのに、ずっと正面方向から陽射しを受け眩しくて疲れた。

  【ルート地図

  参考:『蕨市HP文化財(中央地区・北町地区)』 

  写真をクリックすると拡大します。

Img_9048 慈恵稲荷神社 《地図

浦和宿二・七市場跡で、月6回の六斎市が開かれていた。右の石祠は市神で、左下に天正18年(1590)銘の「御免毎月二七市場定杭」の石杭がある。

Img_9047 説明板

Img_9044 常盤公園

ここは江戸時代には、「御殿」、「御林」と呼ばれ、家康や秀忠が鷹狩りに来た時の宿泊所があったという。

Img_9051 本陣星野家跡(仲町公園) 【ルート地図】の①

本陣表門は明治初年に大間木の大熊家に移されている。

浦和宿は北から、上・中・下に分かれ、現在の常盤町、仲町、高砂地区に相当する。天保年間(1830~44)の浦和宿は、本陣1、脇本陣3、旅籠15の比較的小さな宿場で、隣りの蕨宿の方が大きく繁盛していた。「明治天皇行在所址」碑(明治3年の大宮氷川神社行幸)が立つ。

Img_9049 説明板

Img_9040 玉蔵院山門

奥に地蔵堂

Img_9039 地蔵堂(市重文)

平安末期の一木造の木造地蔵菩薩像(県重文)が安置されている。

Img_9034 説明板

地蔵菩薩像の説明がないのは、県と市(現在はさいたま市)の縦割り行政、相変わらずのお役所仕事。

Img_9035 地蔵堂前の地蔵さん

左が元禄9年(1696)、右が正徳6年(1716・享保元年)の造立。

Img_9052 原田表具店(文寿堂)

浦和駅前の雑踏から県庁通りを渡り、調神社への途中。

Img_9055 お茶屋

Img_9056 米屋

Img_9062 調(つき)神社参道入口の狛兎

朝廷に納める調物(みつぎもの)を集めるところで、荷物の出し入れの妨げとならないように鳥居、門はない。百姓が作った物をごっそり巻き上げる”がめつさ”だけは神技だ。

中世以来、二十三夜の月待ち信仰と結びつき、月宮殿ともいわれた。調(つき)→月→兎の連想ゲーム。

Img_9059 調神社本殿

Img_9057 由緒

Img_9061 旧本殿(現在は稲荷社)

享保18年(1733)の建立で、安政年間まで本殿だった。

Img_9060 説明板

Dsc08552 旧本殿の兎の彫刻

Img_9065 焼米坂(坂下方向) 白幡1-1の南浦和小学校の東側を北に上る旧中山道。 【ルート地図】の②

「新編武蔵風土記稿」の根岸村のところに「焼米坂 村の北の街道の内にあり、上り一町半許の坂なり、此所にて古来より焼米をひさぐゆえに名づけり」とあり、中山道を通る旅人に焼米を売る店があった。

Img_9068 坂上方向

Img_9074 六辻水辺公園

見沼代用水西縁支線を整備してできた公園で全長は約2.4km。ここは水の流れは少なく、清流でもない。

Img_9078 このあたりからカーブが多くなる(浦和方向)。

Img_9085 辻の一里塚跡 【ルート地図】の③

右に「一里塚跡の碑」が立ち、その左に「辻一里塚弁財天」が祀られている。上は東京外環自動車道

Img_9081 由来碑

Img_9088 宝蔵寺

Img_9094 旧家(錦町3交差点の所)

Img_9096 旧道は交差点を横切り直進し、正面の交番の左の蕨宿へ入る。

Img_9106 中山道ふれあい広場

天保14年(1843)の蕨宿は本陣2、脇本陣1、旅籠23軒で、中山道67宿中(草津、大津を除く)、5指に入る宿場だった。(説明板による) 

蕨では江戸時代の終わり頃から、綿織物業が盛んになり、明治時代初期には、埼玉県内で第1位の生産額があった。「蕨」の地名の由来:①藁を焚く火を遠望して「藁火村」と名付けたのが「蕨村」になった。 ②近辺に芝・笹目・青木・美女木など植物に関する地名が多いことから植物名の「蕨」から名付けた。①②とも疑問点が多く、確かなことは不明。『歴史民族館のパンフ』より 

Img_9100 蕨宿説明板①

Img_9101

Img_9102

Img_9113 旧家(ふれあい広場の向い)

昔は街道裏の用水路(現在は暗渠)に田畑への出入用の「はね橋」を架けていた。防火、防犯と遊女(飯盛女)や機織の女工たちの夜逃げ防止のためだったとも。

Img_9115西山仏具店

Img_9116 蕨宿の通り

Img_9134 三学院

関東七ヵ寺の役寺の格式のある金亀山(こんきさん)極楽寺三学院という真言宗の寺。天正19年(1591)に徳川家康から寺領20石を拝領し朱印状を受けている。足立坂東三十三ケ寺の20番、北足立八十八ケ所の30番にあたる札所でもある。

Img_9124 地蔵堂

正面が子育地蔵・手前が目疾地蔵

子育地蔵は元禄7年(1694)の造立で、高さ2.4m。市内最大の地蔵さん。ちなみに蕨市は全国の市の中で一番面積が狭い。

Img_9128 目に味噌がこってり塗られた目疾地蔵さん

これでは地蔵さんが目の病いになってしまうよ。身代り信仰の一つだろう。

Img_9123_2 「目疾地蔵」説明板

Img_9121 「子育地蔵」説明板

Img_9122 「六地蔵」説明板

Img_9118 新しく立派な仁王門?

Img_9120 本堂、三重塔も新しい

Img_9132 馬頭観音

梵字で彫られている。基礎には馬の全形が線刻されている。

Img_9131 説明板

Img_9136 旧家

Img_9141 鈴木薬局

Img_9145 右が本陣岡田(加兵衛)家のモニュメント、左が歴史民俗資料館 【ルート地図】の④

本陣は、岡田加兵衛家と五郎兵衛家の2家が代々勤め、蕨宿の中央部に向かい合うようにして建っていた。加兵衛本陣には、老中水野忠邦や松平加賀守、皇女和宮などが休泊し、明治元年(1868)と同3年(1870)には明治天皇も大宮氷川神社行幸の途中に休憩した。

Img_9147 和楽備神社

明治44年(1911)に蕨町内にあった18の鎮守社を合祀した際に名づけられた。「蕨」の一字では重みがないので当時の東宮侍講に依頼して、この名にしたという。合祀以前は、「上の宮」と呼ばれた「八幡社」が鎮座し、蕨を所領とした渋川氏が蕨城の守護神として勧請したと伝える。

Img_9149 水盤

江戸時代初期の造立で、上野の寛永寺にあったとものいう。大きくがっしり、どっしりとしていて風格がある。

Img_9148 説明板

Img_9150 本殿

Img_9152 旧本殿(元の八幡社)

今は稲荷社

Img_9151 説明板

Img_9153 蕨城跡公園

南北朝時代に渋川氏が居を構え、長禄元年(1457)足利義政により、関東管領上杉氏支援のため渋川義鏡(よしかね)がこの蕨城によって古河公方足利成氏と対したという。大永4年(1524)に北条氏綱により、攻撃され破壊された。江戸時代初期には、徳川将軍家の鷹狩用の休憩地の「御殿」として利用された。

Img_9157 説明板

Img_9158 御殿堀跡

城跡公園の池として整備されている。

Img_9154 蕨城址碑

Img_9160 長泉院の梵鐘(おしゃみの鐘)

蕨宿の時の鐘として親しまれてきた。乳がない鐘(いぼなし鐘)は奥州街道白河宿の龍蔵寺、郡山宿の如宝寺にもあった。それほど珍しくはないようだ。

Img_9159 説明板

Img_9164_2 蕨町道路元標(右)

Img_9165 歴史民俗資料館分館

明治時代の織物買継商の家

Img_9177 観音堂 《地図

Img_9176_2 すき間から顔だけ失礼

左に、元禄と見える。

Img_9178 玄蕃稲荷 《地図

Img_9179 狐が遊ぶ扁額

Img_9184 蕨宿下の木戸あたり

中央ポケットパークという小さな一画になっている。

Img_9189 国道17号との合流点 《地図

右が旧道で蕨宿方向

Img_9193 小堂があるが何の堂か分からず。

Img_9194 国道から離れ、左の木陰の道(下前公団通り)に入る。

Img_9240 国道17号とオリンピック通りの交差点あたりに一里塚があったらしい。(川岸パークの説明板による。)

Img_9238 国道から離れ左へ入り、菖蒲川を渡る。

Img_9236 菖蒲川(曲尺手橋から) 《地図

Img_9233戸田の渡しへ一直線

正面に荒川の土手

Img_9231 川岸ミニパークの案内図。

今は失われた旧中山道の道筋。

Img_9230_2この付近の旧中山道の道筋の記載がある。

Img_9228 地蔵堂 《地図

市内(戸田市)最古の木造建築物と推定される。(創立は不詳) 「中山道分間延絵図」にも記載されている。

左は享保16年(1631)銘のある庚申塔。

Img_9226 説明板

Img_9208 水神社

古くは荒川の端にあったもので、創建は不詳だが、正面の「水神宮」の碑には寛政8年(1796)の銘がある。川岸に住む人たちの氏神さまのようになっている。

Img_9207 説明板

Img_9218 戸田の渡し跡から対岸の板橋区(右はJR埼京線・東北・上越新幹線) 【ルート地図】の⑤

板橋宿と蕨宿を結ぶ交通の要衝で、明治8年(1875)木橋の戸田橋が架けられるまで、渡し船で渡っていた。

Img_9216 土手下に「戸田渡船場跡」の碑と説明板が立つ。その右方の車道沿いに水神社がある。

Img_9214戸田渡船場跡碑

Dsc01284 説明板

Img_9221 荒川下流方向

ここから約25kmで東京湾

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