中山道(鴻巣宿→熊谷宿)
2009年10月4日
北鴻巣駅(JR高崎線)・・・箕田追分・・・旧中山道(県道365号)・・・庚申塔・・・前砂村碑・・・前砂の一里塚跡・・・観音堂・・・(中山道第4踏切・JR高崎線)・・・妙徳地蔵堂・・・吹上駅前交差点・・・明治天皇御駐輦址碑・・・千人同心日光道合流地点(吹上本町交差点)・・いぼ地蔵堂・東曜寺・・千人同心日光道分岐地点・・・吹上神社・・・中山道間の宿石柱・(JR高崎線)・・榎戸堰公園(元荒川)・・・権八地蔵堂②・・・熊谷堤(荒川)・・・決壊の跡碑・・久下の長土手・輪型の坂・・・久下堤の碑・・・久下神社・・・不動堂跡・・・権八地蔵堂③・久下権八公園・・・熊谷堤・・・久下冠水橋跡あたり・・・みかりや跡・・・東竹院(達磨石)・・・仏説寺・・・八丁の一里塚跡・・・(秩父鉄道)・(JR高崎線)・・・(熊谷駅)・・・国道17号・・・高城神社・・・千年神社・・・奴稲荷神社・・・熊谷寺・・・本陣跡・・・高札場跡・・・八木橋デパート(旧中山道)・・・松厳禅寺・・・八坂神社・・・国道17号・・・警察署前交差点・・・旧道・・・新島の一里塚跡・・・忍領石標・・・国道17号・・・旧道(県道264号)・・・(玉井堀)・・・不動堂・・・観音堂・・・市右衛門橋(奈良堰用水)・・・籠原駅(JR高崎線)
秋の長雨の間の貴重な晴れ間を歩く。やっと坂に出会えた。坂といっても荒川堤から久下の集落へ下る緩やかな坂だが、浦和宿手前の焼米坂以来の坂で、なんとか坂道散歩の看板を下ろさなくても済んだというところか。今日歩いた距離は昨日と同じ位だったが、天気も良く坂もあって軽快、快調だった。
【ルート地図】
*『中山道(熊谷宿→本庄宿)』へ続く。写真をクリックすると拡大します。
庚申塔(正徳2年(1712))・右の石柱は「岡象女之神」とある。イザナミ命の小便から生まれた、岡象女(みずはのめ)か。
池田英泉の「鴻巣・吹上冨士」はこのあたりで描かれた」とある。
【ル-ト地図】の24西塚跡だろう。トラックの向こう側に標柱と説明板が立つ。
説明板は字がかすれて消えかかっていて判読不能。塚跡も全然なし。
観音堂 《地図》
天保14年(1843)頃、17歳の娘が眼病を患い、夢枕に立った亡き母のお告げで、観音菩薩像を背負い六十六部となって旅立った。娘の眼は4年後の満願の日に全快し、喜び家路を急ぐが途中で盗賊に襲われ命を落とす。無念さに娘は大蛇となって近隣の人々を苦しめ怨みを晴らしていくが、ついには法華経に出会い、得道成仏し、妙徳地蔵尊として後世に仕えることを約したという。
開運、子育て、安産、眼病に霊験あらたかとか。
小休止した所
吹上本町交差点で千人同心日光道と合流し、すぐに分かれて行く。【ル-ト地図】の25・26別名を「仲町のいぼ神様」といい、宝暦年間(1751~63)の造立で、毎年8月24日に地蔵講例大祭が行われるという。馬頭観音は文政2年(1819)の造立。
「いぼとり」地蔵なのだろう。
吹上神社 《地図》
「間の宿」とは「吹上宿」のこと。中山道の案内板と思いきや、避難場所案内図だった。右に案内図があったのだろうか。それとも裏(表)にあるのかも。
榎戸堰公園から元荒川 《地図》
元荒川は寛永6年(1629)に関東郡代伊奈忠治によって、荒川が入間川に付け替えられるまでは荒川の本流だった。
地蔵の銘文に火防のため元禄11年(1698)の建立とあるそうだ。
延宝7年(1679)に鈴ケ森で処刑された平井(白井)権八を「延命」地蔵しているのが面白いか。権八が処刑された後の造立だから、これは「権八の物言い地蔵」(後述)ではないだろう。
流れが全然見えない。
昭和22年9月のカスリーン台風の時、この地点の堤防が決壊した。
輪型の坂 久下の長土手から久下の集落へ下る坂。 【ルート地図】の28
荒川の江川河岸へと通じていた。河岸が栄えていた頃には、大八車の轍(わだち)の跡がいっぱいついていたという。
昔はこのあたりで、狐の嫁入り、おとかっぴ(狐火)が見られたとか。
左に明治45年(1912)に建立された、「久下堤の碑」が立つ。碑文には約4Kmにわたり、久下堤を修復したと記されているそうだ。明治43年の大洪水で堤防が決壊寸前となったため。
「輪型の碑」とある。碑文の中に、「輪型の坂」の記載があるのだろうか?
「流灯会 今は昔の不動さま」の郷土かるたが風に揺れていた。
「屋号 大鍛冶屋」はこの家の屋号だろう。
権八地蔵堂(正面奥)・久下権八公園(手前) 【ルート地図】の29
鳥取藩士の平井権八は父の同僚を殺し、逐電して江戸に出る途中、金に困り上州の絹商人を殺し金を奪った。それを見ていた地蔵に、「このことを誰にも言うな」と言うと、地蔵は「わしは言わぬが お前も言うな」と答えた。
江戸へ出た権八は吉原三浦屋の遊女小紫のなじみとなり、人殺し、追剥ぎなどを重ねたあげくの果て、延宝7年(1679)鈴ケ森で磔(はりつけ)で処刑された。石の地蔵が喋ったので、「物言い」地蔵なのか。捕まった時に権八は、ここでの辻斬り強盗や地蔵とのやりとりを自白したという。「言うな」と言われると言いたくなるのが人情か。そして地蔵は権八が先々「言う」のを見通していたということか。
標柱によるとこの地蔵は元禄11年(1698)に建てられたとある。さっきの権八延命地蔵も元禄11年の造立という。どうもおかしい。ちゃんと銘を確認すれば済むことだが、露座の地蔵でないので無理というもの。いずれにせよ由来話によれば権八がここを通った時には地蔵はあったのだから年代が矛盾する。とすれば昨日訪れた鴻巣宿の勝願寺の地蔵が本物らしくなるか。何かの理由でここ久下村から勝願寺へ移されたのだろう。
まあ、虚実入り混じった由来話、伝承だからあまり詮索しない方がよいのかも。三体の「権八地蔵さん」からも、「何も言うな」と言われたが、約束を破り少し喋り過ぎたようだ。「どうか権八地蔵さんご勘弁を」
久下小学校の生徒らが作った「郷土かるた」が堂前に立つ。「疣とり 物言い 権八地蔵」
「いぼとり」のいわれはどこからきているのか?
「江戸時代の平井権八の物語と結びつけられた「物言い地蔵」として有名であり、元禄11年に建てられた石地蔵である」
久下(冠水)橋の碑
久下の渡し→久下(冠水)橋(昭和30年~平成15年)→平成15年6月に500m下流に新らしい久下橋が完成し撤去された。
橋の存続運動もあった。歩行者、自転車専用の橋として残しておけばよかったものを。
中山道を往来する旅人相手の茶店で、「柚餅子」(ゆべし)が名物だった。忍藩の殿様の鷹狩りの時の休憩所で「御狩屋」(みかりや)。英泉の「八丁堤の景」に出てくる茶屋はここだという。 「名物は ゆべし 焼餅 鮎うるか」(郷土かるた)
みかりや跡の隣り
寛文年間(1661~72)に忍城主が、禅宗の祖・達磨大師に似たこの巨石を秩父から城中へ、荒川を筏(いかだ)で運ばせようとしたが川に落ちてしまった。何度か引き上げようとしたが、度重なる荒川の洪水で行方が分からなくなってしまった。一説によると、当時の農民の苦労を思って石が自ら沈んだとも、故郷の秩父へ帰ろうとしたともいわれている。それから250年ほど経った大正14年、この巨石が東竹院のすぐ前の荒川で偶然に発見された。当時の青年団など有志により川底から引き上げられ、東竹院に安置されたそうだ。
大里郡の総鎮守で熊谷直実の氏神だった。
熊谷寺(ゆうこくじ)
熊谷直実(くまがいなおざね)が晩年仏門に入り、故郷熊谷(くまがや)の館跡に草庵を結び、蓮生庵と号したのを始まりとする浄土宗の寺。
本陣竹井家は明治17年の火災と昭和20年の戦災で焼失し跡形もない。右奥は八木橋デパートで中山道は館内を通っていた。
宝暦6年(1756)の『道中絵図』では「榎二本」とあるが、今立っているのは、樹齢300年以上の「ケヤキの木」
「従是南忍領」と彫られた忍藩の石標
宅地の造成でどこかに引越すのか?
観音堂 《地図》
扉の隙間から写真を撮ろうとしたがなかなかうまく撮れず。この様子を隣家のおじいさんがずっと見ていたらしい。顔を会わせたら、不審そうな眼差しで私をずっと見ていた。
右と中央は地蔵さんだろう。左は観音さん?
日曜だというのに人通りもなく、ぼやけた感じの駅前通りだ。
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