中山道(上尾宿→桶川宿→鴻巣宿)
2009年10月3日
上尾駅(JR高崎線)・・・旧中山道(県道164号)・・・遍照院(遊女お玉の墓)・・・上町庚申塔・・・上尾宿案内板・・・(北上尾駅)・・・紅花仲買問屋須田家・・・下の木戸跡碑(桶川宿)・・・武村旅館・・・浄念寺・・・(桶川駅)・・・島村茶舗・・・府川本陣跡・・・宿場館・・・稲荷神社・・・大雲寺(女郎買い地蔵)・・・一里塚跡あたり・・・上の木戸跡碑・・・二つ家交差点・・・北本宿案内板・石柱・・・多聞寺(ムクロジの木)・天神社・・・(北本駅)・・・東間浅間神社・勝林寺・・・東間踏切(JR高崎線)・・・原馬室の一里塚跡・・・馬頭観音・・・西東間踏切・・・鴻巣宿加宿神谷新田碑・・・八幡神社・・・雛屋歴史資料館跡・(吉見屋人形店)・・・勝願寺(権八地蔵①)・・・本陣跡・鴻巣宿の仲市場跡・・・(鴻巣駅)・・・法要寺・・・鴻神社・・・池元院・・・加美交差点・県道365号・・・(JR高崎線)・・・永林寺・・・箕田観音堂・・・宮前交差点・・・宮登神社・宮登古墳・・・龍昌寺・・・氷川八幡神社・・・中宿橋(武蔵水路)・・・箕田地蔵堂・箕田追分(立場茶屋跡)・館林道分岐・・北鴻巣駅(JR高崎線)
朝は晴れていたのに、電車に乗っている間に降りだした。この先、降ったり止んだりしながらの下を歩く。街道沿いには見所も多いが、渋滞しながら途切れなく行き交う車の音と、傘をさしての街道はけっこう疲れた。
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
境内で骨董市が開かれるようで、陶器などのガラクタ?が持ち込まれ準備中だった。
越後の貧しい農家の子お玉は、家を助けるために11歳の若さで身を売ることとなった。お玉は、文政3年(1820)、上尾宿の飯盛旅籠の大村楼に入る。 その後、美しくて気立てもよく宿場で評判の遊女となったお玉は、19歳の時、参勤交代で上尾宿を訪れた加賀前田家の小姓に見初められ、江戸行きとなった。 ところが、江戸で暮らすこと2年ばかりで悪病を患い、上尾に戻されてしまう。 病身のお玉は、それでも、生家を支えるためにと懸命に働き続ける。 しかし、その苦労が報われることもなく、25歳の若さでこの世を去った。 大村楼の主人は孝行な娘お玉の死を悼み哀れんで、遍照院に墓を建てて篤く弔ったという。 この時代にあって、一遊女のために立派な墓が建てられた例は数えるほどでしかない。 たいていの遊女は、死ねば無縁仏となって小さな石塔に名を刻まれるだけという扱いであった。 墓石に彫られた戒名「廊室妙顔信女」とともに、誰からも愛されたお玉の人柄が偲ばれる。『フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
右に上町庚申塔
案内板の屋根上の鍾馗様
鬼屋根瓦の家に対して鍾馗様で対峙する意味で置いた、火事除け、厄病払いの神。
紅花問屋須田家(久保西交差点右) 《地図》
街道の治安を維持するために、各宿場の出入り口に設置されていた木戸(桶川宿の南の木戸)がここにあった。
武村旅館(国指定登録文化財) 《地図》
江戸時代の旅籠「紙屋半次郎」だったもので、皇女和宮が中山道を下向した文久元年(1861)当時の間取りが現在も ほぼ引き継がれている。天保年間(1840年頃)の桶川宿には36軒の旅籠があったという。 現在もビジネス旅館として営業中。
元禄14年(1701)に再建されたと「新編武蔵風土記稿」に記されている朱塗りの仁王門。
江戸時代に紅花商人としても活躍していた、穀物問屋で、この建物は明治時代に建てられた。
江戸末期から明治時代の建築。
加賀前田家の宿所で、水戸藩主徳川斉昭も利用し、文久元年に皇女和宮も宿泊した。建物は非公開。
拝殿前には、安政4年(1857)、桶川宿周辺の紅花商人24名が、南蔵院へ寄進されたとされる2基の石灯籠が並ぶ。
重さ610kg、江戸一番の力持ちと評判の力士、三ノ宮卯之助がこれを持ち上げたという。
説明板によると仰向けに寝て足で持ち上げていたらしい(「足指し」という方法)。なぜかアントニオ猪木とモハメド・アリの試合を思い出した。古いね俺も。
遊び好きな地蔵さんで、夜な夜な女郎買いに出かけるので、住職が背中に鎹(かすがい)を打ち込み、鎖で縛ったという。
台座に正徳3年(1713)の銘がある。地蔵さんが遊びに行ったのは大宮宿の柳屋の千鳥さん(お女郎地蔵)や、上尾宿の大村楼の「お玉さん」なら、なお面白いのだが、この地蔵さんの方がちと時代が古い。そんなに話がうま過ぎるようにはいかないか。若い修行僧を戒めるための逸話か。
「地蔵虐待」のせいか説明板はない。
上の木戸跡(桶川市役所交差点右) 《地図》
左の小祠は薬師堂か。背後は「麺処今福屋」、その後ろのビルも。
北本宿案内板と石柱(本宿交差点左) 《地図》
鴻巣宿が開かれるまでは、ここ本鴻巣村に宿場があり、その後、本宿(元宿)村と呼ぶようになり、さらに北本宿村→北本町→北本市となった。
実は羽根つきの羽の先の玉に利用されていたそうだ。また石鹸としても使え、煎って食べることもできるという。
祭神は木花開耶姫命
社殿から周りの見晴らしがいいだろうと思ったが期待はずれだった。
もとはもう少し西側を通っていたのだろう。
東塚は明治16年(1883)の高崎線敷設の際に取り壊された。塚の上には石柱と稲荷の小祠がある。
前方に高崎線、中山道。
八幡神社 《地図》
ここも祭礼のようで出店も並んでいるが、境内は人影はまばらだった。
ここは人形町、人形店もけっこう残っている。
勝願寺 【ルート地図】の21
牧野家累代の墓所
石戸藩は、現在の上尾市北西部から桶川市南西部にあった藩。
権八とは白井(平井)権八のこと。鈴ケ森で権八が処刑されたのが、延宝7年(1679)という。この地蔵像には左側に延宝元年(1673)・久下村と刻まれていて、権八が処刑される以前に造立されたことになる。このためこの地蔵はニセ者とも、このような矛盾は民間伝承にはよくあることだともいう説もある。しかし、この地蔵が処刑された権八を供養するために造られたのなら生前の造立はありえないが、「権八の物言い地蔵」なら逆に処刑後の造立はありえない。ニセ者でも、年代の矛盾でも何でもない。「権八の物言い地蔵」は次回に訪れて記載する。
台座には享保14年(1729)と刻まれているから、ニセ者、本物はともかくとして、久下村(ここも旧中山道沿いで権八地蔵堂③がある。)からここに移された地蔵さんなのだろう。旧中山道の吹上から熊谷堤への上り口にも権八(延命)地蔵堂②がある。落語『白井権八』
「危険です 登らないでください」の掲示板が掛かっている。いくら熱心な(しつこい)私でもここには登れない。挑戦する人は尊敬に値するよ。
鴻巣宿本陣跡石柱 《地図》
正面は木村木材工業
猿田彦大神石塔(正面)と仲町会館建設記念碑
参勤交代の折、宿所の勝願寺の下馬札を見落とし馬に乗ったまま山門をくぐり、宿泊を断られた加賀前田家が、この寺に頼み込んで宿所として利用したことから、前田家は当寺に莫大な寄進をし、家紋の梅鉢の紋を寺紋とすることを許可したという。
台座に「市神街」とある。かつて中山道沿いに鎮座していた市神社の社前にあったもの。
明治6年、ここにあった雷電社と氷川神社、熊野社を合祀。
この地が武蔵国の国府が置かれたところ「国府の州」が「こうのす」と転じ、後に「鴻(こうのとり)伝説」から「鴻巣」の字を当てるようになったとする伝承がある。
観音像は箕田源氏で、頼光四天王の一人、渡辺綱の守り本尊という。
箕田源氏は、嵯峨天皇→源融(嵯峨源氏)→昇→仕→宛(箕田源氏の祖)→渡辺綱
享保9年(1724)の造立
社殿裏の少し高くなっている所が宮登古墳
永延2年(988)に渡辺綱の創建といい、北側に祖父の箕田武蔵守源仕以来の館があったと伝える。
宝暦9年(1759)に建立で、源経基(清和源氏の祖)の徳と、箕田源氏の活躍、この地が武蔵武士の本源地であったことが記されている。
左が旧中山道・右は館林道。正面に案内板、中山道石柱が立つ。
地蔵堂、立場茶屋の冨士屋、道標(中山道・館林道)が描かれている。
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