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2009年10月 6日 (火)

中山道(上尾宿→桶川宿→鴻巣宿)

2009年10月3日

上尾駅(JR高崎線)・・・旧中山道(県道164号)・・・遍照院(遊女お玉の墓)・・・上町庚申塔・・・上尾宿案内板・・・(北上尾駅)・・・紅花仲買問屋須田家・・・下の木戸跡碑(桶川宿)・・・武村旅館・・・浄念寺・・・(桶川駅)・・・島村茶舗・・・府川本陣跡・・・宿場館・・・稲荷神社・・・大雲寺(女郎買い地蔵)・・・一里塚跡あたり・・・上の木戸跡碑・・・二つ家交差点・・・北本宿案内板・石柱・・・多聞寺(ムクロジの木)・天神社・・・(北本駅)・・・東間浅間神社・勝林寺・・・東間踏切(JR高崎線)・・・原馬室の一里塚跡・・・馬頭観音・・・西東間踏切・・・鴻巣宿加宿神谷新田碑・・・八幡神社・・・雛屋歴史資料館跡・(吉見屋人形店)・・・勝願寺(権八地蔵①)・・・本陣跡・鴻巣宿の仲市場跡・・・(鴻巣駅)・・・法要寺・・・鴻神社・・・池元院・・・加美交差点・県道365号・・・(JR高崎線)・・・永林寺・・・箕田観音堂・・・宮前交差点・・・宮登神社・宮登古墳・・・龍昌寺・・・氷川八幡神社・・・中宿橋(武蔵水路)・・・箕田地蔵堂・箕田追分(立場茶屋跡)・館林道分岐・・北鴻巣駅(JR高崎線)

 朝は晴れていたのに、電車に乗っている間に降りだした。この先、降ったり止んだりしながらの下を歩く。街道沿いには見所も多いが、渋滞しながら途切れなく行き交う車の音と、傘をさしての街道はけっこう疲れた。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_9411 遍照院

境内で骨董市が開かれるようで、陶器などのガラクタ?が持ち込まれ準備中だった。

Img_9412遊女お玉の墓

越後の貧しい農家の子お玉は、家を助けるために11歳の若さで身を売ることとなった。お玉は、文政3年(1820)、上尾宿の飯盛旅籠の大村楼に入る。 その後、美しくて気立てもよく宿場で評判の遊女となったお玉は、19歳の時、参勤交代で上尾宿を訪れた加賀前田家の小姓に見初められ、江戸行きとなった。 ところが、江戸で暮らすこと2年ばかりで悪病を患い、上尾に戻されてしまう。 病身のお玉は、それでも、生家を支えるためにと懸命に働き続ける。 しかし、その苦労が報われることもなく、25歳の若さでこの世を去った。 大村楼の主人は孝行な娘お玉の死を悼み哀れんで、遍照院に墓を建てて篤く弔ったという。 この時代にあって、一遊女のために立派な墓が建てられた例は数えるほどでしかない。 たいていの遊女は、死ねば無縁仏となって小さな石塔に名を刻まれるだけという扱いであった。 墓石に彫られた戒名「廊室妙顔信女」とともに、誰からも愛されたお玉の人柄が偲ばれる。『フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

Img_9415 雨の中山道

右に上町庚申塔

Img_9417 上町庚申塔(図書館西交差点右)

Img_9420 上尾宿案内板(緑丘地下横断道交差点右)

Img_9424 案内板の屋根上の鍾馗

鬼屋根瓦の家に対して鍾馗様で対峙する意味で置いた、火事除け、厄病払いの神。

Img_9432 紅花問屋須田家(久保西交差点右) 《地図

Img_9428

Img_9435 旧家

Img_9436 桶川宿下木戸跡(県道川越栗橋線との交差点右)

街道の治安を維持するために、各宿場の出入り口に設置されていた木戸(桶川宿の南の木戸)がここにあった。

Img_9437 武村旅館(国指定登録文化財) 《地図

江戸時代の旅籠「紙屋半次郎」だったもので、皇女和宮が中山道を下向した文久元年(1861)当時の間取りが現在も ほぼ引き継がれている。天保年間(1840年頃)の桶川宿には36軒の旅籠があったという。 現在もビジネス旅館として営業中。

Img_9438 鮮魚 稲葉屋本店

Img_9441 浄念寺仁王門

元禄14年(1701)に再建されたと「新編武蔵風土記稿」に記されている朱塗りの仁王門。

Img_9442 説明板

Img_9443 べに花まんじゅう店

Img_9444 島村老茶舗

Img_9446 蔵造りの商家(矢部家)

江戸時代に紅花商人としても活躍していた、穀物問屋で、この建物は明治時代に建てられた。

Img_9448 旧旅籠小林家(現在は小林木材工業)

江戸末期から明治時代の建築。

Img_9449 桶川宿本陣跡

加賀前田家の宿所で、水戸藩主徳川斉昭も利用し、文久元年に皇女和宮も宿泊した。建物は非公開。

Img_9452 稲荷神社

拝殿前には、安政4年(1857)、桶川宿周辺の紅花商人24名が、南蔵院へ寄進されたとされる2基の石灯籠が並ぶ。

Img_9453 今日は祭礼日のようで、舞台が用意されている。

Img_9454 力石(大盤石)

重さ610kg、江戸一番の力持ちと評判の力士、三ノ宮卯之助がこれを持ち上げたという。

説明板によると仰向けに寝て足で持ち上げていたらしい(「足指し」という方法)。なぜかアントニオ猪木とモハメド・アリの試合を思い出した。古いね俺も。

Img_9455 説明板①

Img_9456 説明板②

Img_9463 大雲寺 【ルート地図】の19

Img_9467 女郎買い地蔵

遊び好きな地蔵さんで、夜な夜な女郎買いに出かけるので、住職が背中に鎹(かすがい)を打ち込み、鎖で縛ったという。

台座に正徳3年(1713)の銘がある。地蔵さんが遊びに行ったのは大宮宿の柳屋の千鳥さん(お女郎地蔵)や、上尾宿の大村楼の「お玉さん」なら、なお面白いのだが、この地蔵さんの方がちと時代が古い。そんなに話がうま過ぎるようにはいかないか。若い修行僧を戒めるための逸話か。

Img_9465 背中に鎹(かすがい)が残っている。

地蔵虐待」のせいか説明板はない。

Img_9470 上の木戸跡(桶川市役所交差点右) 《地図

左の小祠は薬師堂か。背後は「麺処今福屋」、その後ろのビルも。 

Img_9471 説明板

Img_9472 旧家

Img_9473 北本宿案内板と石柱(本宿交差点左) 《地図

鴻巣宿が開かれるまでは、ここ本鴻巣村に宿場があり、その後、本宿(元宿)村と呼ぶようになり、さらに北本宿村→北本町→北本市となった。

Img_9477 説明板

Img_9481 多聞寺

Img_9484 ムクロジの木だが写真は失敗。

実は羽根つきの羽の先の玉に利用されていたそうだ。また石鹸としても使え、煎って食べることもできるという。

Img_9491 東間浅間神社

祭神は木花開耶姫命

社殿から周りの見晴らしがいいだろうと思ったが期待はずれだった。

Img_9492 由来碑

Img_9499 原馬室の一里塚(左へ入る)近くの旧中山道

もとはもう少し西側を通っていたのだろう。

Img_9502 原馬室の一里塚跡(西塚) 【ルート地図】の20

東塚は明治16年(1883)の高崎線敷設の際に取り壊された。塚の上には石柱と稲荷の小祠がある。

Img_9500 説明板

Img_9503 一里塚の上から

前方に高崎線、中山道。

Img_9516 八幡神社 《地図

ここも祭礼のようで出店も並んでいるが、境内は人影はまばらだった。

ここは人形町、人形店もけっこう残っている。

Img_9531 吉見屋人形店・雛屋歴史資料館跡(閉館したようだ。)

Img_9530 煎餅屋

Img_9539 勝願寺 【ルート地図】の21

関東十八壇林の一つ。落語『鈴振り

境内には、牧野家の墓所、伊奈忠次・忠治、真田小松姫(信州上田の芳泉寺にもある。『善光寺街道(北国街道)②』)、真田信重とその妻、仙石秀久の墓がある。

Img_9538 牧野家累代の墓所

Img_9537 説明板

石戸藩は、現在の上尾市北西部から桶川市南西部にあった藩。

Img_9540 権八地蔵①(本堂と鐘楼の間)

権八とは白井(平井)権八のこと。鈴ケ森で権八が処刑されたのが、延宝7年(1679)という。この地蔵像には左側に延宝元年(1673)・久下村と刻まれていて、権八が処刑される以前に造立されたことになる。このためこの地蔵はニセ者とも、このような矛盾は民間伝承にはよくあることだともいう説もある。しかし、この地蔵が処刑された権八を供養するために造られたのなら生前の造立はありえないが、「権八の物言い地蔵」なら逆に処刑後の造立はありえない。ニセ者でも、年代の矛盾でも何でもない。「権八の物言い地蔵」は次回に訪れて記載する。

台座には享保14年(1729)と刻まれているから、ニセ者、本物はともかくとして、久下村(ここも旧中山道沿いで権八地蔵堂③がある。)からここに移された地蔵さんなのだろう。旧中山道の吹上から熊谷堤への上り口にも権八(延命)地蔵堂②がある。落語『白井権八

Img_9546「危険です 登らないでください」の掲示板が掛かっている。いくら熱心な(しつこい)私でもここには登れない。挑戦する人は尊敬に値するよ。

Img_9558 鴻巣宿本陣跡石柱 《地図

正面は木村木材工業

Img_9557 仲市場・番屋跡(本陣跡石柱から左に入った所)

猿田彦大神石塔(正面)と仲町会館建設記念碑

Img_9555 記念碑に六斉市・仲市場・番屋の記事がある。

Img_9561 法要寺

参勤交代の折、宿所の勝願寺の下馬札を見落とし馬に乗ったまま山門をくぐり、宿泊を断られた加賀前田家が、この寺に頼み込んで宿所として利用したことから、前田家は当寺に莫大な寄進をし、家紋の梅鉢の紋を寺紋とすることを許可したという。

Img_9564 狛犬(不動堂前)

台座に「市神街」とある。かつて中山道沿いに鎮座していた市神社の社前にあったもの。

Img_9566 説明板

Img_9567 旧家

Img_9568 鴻(こう)神社

明治6年、ここにあった雷電社と氷川神社、熊野社を合祀。

この地が武蔵国の国府が置かれたところ「国府の州」が「こうのす」と転じ、後に「鴻(こうのとり)伝説」から「鴻巣」の字を当てるようになったとする伝承がある。

Img_9570 由緒

Img_9574 旧家

Img_9584 箕田観音堂 【ルート地図】の22

観音像は箕田源氏で、頼光四天王の一人、渡辺綱の守り本尊という。

箕田源氏は、嵯峨天皇→源融(嵯峨源氏)→昇→仕→宛(箕田源氏の祖)→渡辺綱

Img_9588 石灯籠

享保9年(1724)の造立

Img_9591 宮登神社

社殿裏の少し高くなっている所が宮登古墳

Img_9593 銀杏だらけの境内で匂いが漂っている。

Img_9592 宮登古墳説明板

Img_9600氷川八幡神社

永延2年(988)に渡辺綱の創建といい、北側に祖父の箕田武蔵守源仕以来の館があったと伝える。

Img_9602 箕田碑

宝暦9年(1759)に建立で、源経基(清和源氏の祖)の徳と、箕田源氏の活躍、この地が武蔵武士の本源地であったことが記されている。

Img_9601 説明板

Img_9612 箕田追分・立場茶屋跡 【ルート地図】の23

左が旧中山道・右は館林道。正面に案内板、中山道石柱が立つ。

Img_9617 追分の図

地蔵堂、立場茶屋の冨士屋、道標(中山道・館林道)が描かれている。

Img_9613 箕田地蔵堂

Img_9619 箕田源氏説明板①

Img_9621

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