中山道(浦和宿→蕨宿→戸田の渡し跡)
浦和駅(JR京浜東北線)・・・旧中山道・慈恵稲荷(浦和宿二・七市場跡)・・・常盤公園(御殿跡)・・・浦和宿本陣星野家跡・・・玉蔵院・・・調(つき)神社・・・焼米坂・・・六辻交差点(国道17号)・・・六辻水辺公園・・・(東京外環自動車道)・辻の一里塚跡・・・宝蔵寺・・・錦町3交差点(国道17号)・・・蕨宿・(中山道ふれあい広場・稲荷越通り・三学院・地蔵の小径・本陣跡・歴史民俗資料館・和楽備神社・蕨城址公園・長泉院・歴史民俗資料館別館・観音堂・玄蕃稲荷・蕨町道路元標・天王社跡・下の木戸跡)・・・国道17号・・・旧道(下前公団通り)・・・オリンピック通り・一里塚跡?・・・国道17号・・・曲尺手橋(菖蒲川)・旧道・・・川岸ミニパーク・・・地蔵堂・・・水神社・・・戸田の渡し場跡(荒川)・・・戸田公園駅(JR埼京線)
中山道浦和宿から南に江戸方向に歩く。快晴で暑いのは覚悟していたが、たいした距離ではないのに、ずっと正面方向から陽射しを受け眩しくて疲れた。
【ルート地図】
参考:『蕨市HP文化財(中央地区・北町地区)』
『中山道(日本橋→戸田の渡し跡)』
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慈恵稲荷神社 《地図》
浦和宿二・七市場跡で、月6回の六斎市が開かれていた。右の石祠は市神で、左下に天正18年(1590)銘の「御免毎月二七市場定杭」の石杭がある。
ここは江戸時代には、「御殿」、「御林」と呼ばれ、家康や秀忠が鷹狩りに来た時の宿泊所があったという。
本陣表門は明治初年に大間木の大熊家に移されている。
浦和宿は北から、上・中・下に分かれ、現在の常盤町、仲町、高砂地区に相当する。天保年間(1830~44)の浦和宿は、本陣1、脇本陣3、旅籠15の比較的小さな宿場で、隣りの蕨宿の方が大きく繁盛していた。「明治天皇行在所址」碑(明治3年の大宮氷川神社行幸)が立つ。
奥に地蔵堂
平安末期の一木造の木造地蔵菩薩像(県重文)が安置されている。
地蔵菩薩像の説明がないのは、県と市(現在はさいたま市)の縦割り行政、相変わらずのお役所仕事。
左が元禄9年(1696)、右が正徳6年(1716・享保元年)の造立。
浦和駅前の雑踏から県庁通りを渡り、調神社への途中。
朝廷に納める調物(みつぎもの)を集めるところで、荷物の出し入れの妨げとならないように鳥居、門はない。百姓が作った物をごっそり巻き上げる”がめつさ”だけは神技だ。
中世以来、二十三夜の月待ち信仰と結びつき、月宮殿ともいわれた。調(つき)→月→兎の連想ゲーム。
調神社本殿
享保18年(1733)の建立で、安政年間まで本殿だった。
焼米坂(坂下方向) 白幡1-1の南浦和小学校の東側を北に上る旧中山道。 【ルート地図】の11
「新編武蔵風土記稿」の根岸村のところに「焼米坂 村の北の街道の内にあり、上り一町半許の坂なり、此所にて古来より焼米をひさぐゆえに名づけり」とあり、中山道を通る旅人に焼米を売る店があった。
見沼代用水西縁支線を整備してできた公園で全長は約2.4km。ここは水の流れは少なく、清流でもない。
右に「一里塚跡の碑」が立ち、その左に「辻一里塚弁財天」が祀られている。上は東京外環自動車道
天保14年(1843)の蕨宿は本陣2、脇本陣1、旅籠23軒で、中山道67宿中(草津、大津を除く)、5指に入る宿場だった。(説明板による)
蕨では江戸時代の終わり頃から、綿織物業が盛んになり、明治時代初期には、埼玉県内で第1位の生産額があった。「蕨」の地名の由来:①藁を焚く火を遠望して「藁火村」と名付けたのが「蕨村」になった。 ②近辺に芝・笹目・青木・美女木など植物に関する地名が多いことから植物名の「蕨」から名付けた。①②とも疑問点が多く、確かなことは不明。『歴史民族館のパンフ』より
昔は街道裏の用水路(現在は暗渠)に田畑への出入用の「はね橋」を架けていた。防火、防犯と遊女(飯盛女)や機織の女工たちの夜逃げ防止のためだったとも。
関東七ヵ寺の役寺の格式のある金亀山(こんきさん)極楽寺三学院という真言宗の寺。天正19年(1591)に徳川家康から寺領20石を拝領し朱印状を受けている。足立坂東三十三ケ寺の20番、北足立八十八ケ所の30番にあたる札所でもある。
正面が子育地蔵・手前が目疾地蔵
子育地蔵は元禄7年(1694)の造立で、高さ2.4m。市内最大の地蔵さん。ちなみに蕨市は全国の市の中で一番面積が狭い。
これでは地蔵さんが目の病いになってしまうよ。身代り信仰の一つだろう。
梵字で彫られている。基礎には馬の全形が線刻されている。
右が本陣岡田(加兵衛)家のモニュメント、左が歴史民俗資料館 【ルート地図】の9
本陣は、岡田加兵衛家と五郎兵衛家の2家が代々勤め、蕨宿の中央部に向かい合うようにして建っていた。加兵衛本陣には、老中水野忠邦や松平加賀守、皇女和宮などが休泊し、明治元年(1868)と同3年(1870)には明治天皇も大宮氷川神社行幸の途中に休憩した。
明治44年(1911)に蕨町内にあった18の鎮守社を合祀した際に名づけられた。「蕨」の一字では重みがないので当時の東宮侍講に依頼して、この名にしたという。合祀以前は、「上の宮」と呼ばれた「八幡社」が鎮座し、蕨を所領とした渋川氏が蕨城の守護神として勧請したと伝える。
江戸時代初期の造立で、上野の寛永寺にあったとものいう。大きくがっしり、どっしりとしていて風格がある。
今は稲荷社
【ル-ト地図】の8南北朝時代に渋川氏が居を構え、長禄元年(1457)足利義政により、関東管領上杉氏支援のため渋川義鏡(よしかね)がこの蕨城によって古河公方足利成氏と対したという。大永4年(1524)に北条氏綱により、攻撃され破壊された。江戸時代初期には、徳川将軍家の鷹狩用の休憩地の「御殿」として利用された。
城跡公園の池として整備されている。
蕨宿の時の鐘として親しまれてきた。乳がない鐘(いぼなし鐘)は奥州街道白河宿の龍蔵寺、郡山宿の如宝寺にもあった。それほど珍しくはないようだ。
明治時代の織物買継商の家
観音堂 《地図》
左に、元禄と見える。
玄蕃稲荷 《地図》
中央ポケットパークという小さな一画になっている。
国道17号との合流点 《地図》
右が旧道で蕨宿方向
国道17号とオリンピック通りの交差点あたりに一里塚があったらしい。(川岸パークの説明板による。)
菖蒲川(曲尺手橋から) 《地図》
正面に荒川の土手
今は失われた旧中山道の道筋。
地蔵堂 《地図》
市内(戸田市)最古の木造建築物と推定される。(創立は不詳) 「中山道分間延絵図」にも記載されている。
左は享保16年(1631)銘のある庚申塔。
古くは荒川の端にあったもので、創建は不詳だが、正面の「水神宮」の碑には寛政8年(1796)の銘がある。川岸に住む人たちの氏神さまのようになっている。
戸田の渡し跡から対岸の板橋区(右はJR埼京線・東北・上越新幹線)
板橋宿と蕨宿を結ぶ交通の要衝で、明治8年(1875)木橋の戸田橋が架けられるまで、渡し船で渡っていた。
土手下に「戸田渡船場跡」の碑と説明板が立つ。その右方の車道沿いに水神社がある。
ここから約25kmで東京湾
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