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2009年10月 1日 (木)

中山道(浦和宿→蕨宿→戸田の渡し跡)

2009年9月25日

浦和駅(JR京浜東北線)・・・旧中山道・慈恵稲荷(浦和宿二・七市場跡)・・・常盤公園(御殿跡)・・・浦和宿本陣星野家跡・・・玉蔵院・・・調(つき)神社・・・焼米坂・・・六辻交差点(国道17号)・・・六辻水辺公園・・・(東京外環自動車道)・辻の一里塚跡・・・宝蔵寺・・・錦町3交差点(国道17号)・・・蕨宿・(中山道ふれあい広場・稲荷越通り・三学院・地蔵の小径・本陣跡・歴史民俗資料館・和楽備神社・蕨城址公園・長泉院・歴史民俗資料館別館・観音堂・玄蕃稲荷・蕨町道路元標・天王社跡・下の木戸跡)・・・国道17号・・・旧道(下前公団通り)・・・オリンピック通り・一里塚跡?・・・国道17号・・・曲尺手橋(菖蒲川)・旧道・・・川岸ミニパーク・・・地蔵堂・・・水神社・・・戸田の渡し場跡(荒川)・・・戸田公園駅(JR埼京線)

 中山道浦和宿から南に江戸方向に歩く。快晴で暑いのは覚悟していたが、たいした距離ではないのに、ずっと正面方向から陽射しを受け眩しくて疲れた。

  【ルート地図

  参考:『蕨市HP文化財(中央地区・北町地区)』

      『中山道日本橋→戸田の渡し跡)』

  写真をクリックすると拡大します。

Img_9048 慈恵稲荷神社 《地図

浦和宿二・七市場跡で、月6回の六斎市が開かれていた。右の石祠は市神で、左下に天正18年(1590)銘の「御免毎月二七市場定杭」の石杭がある。

Img_9047 説明板

Img_9044 常盤公園

ここは江戸時代には、「御殿」、「御林」と呼ばれ、家康や秀忠が鷹狩りに来た時の宿泊所があったという。

Img_9051 本陣星野家跡(仲町公園) 【ルート地図】の12

本陣表門は明治初年に大間木の大熊家に移されている。

浦和宿は北から、上・中・下に分かれ、現在の常盤町、仲町、高砂地区に相当する。天保年間(1830~44)の浦和宿は、本陣1、脇本陣3、旅籠15の比較的小さな宿場で、隣りの蕨宿の方が大きく繁盛していた。「明治天皇行在所址」碑(明治3年の大宮氷川神社行幸)が立つ。

Img_9049 説明板

Img_9040 玉蔵院山門

奥に地蔵堂

Img_9039 地蔵堂(市重文)

平安末期の一木造の木造地蔵菩薩像(県重文)が安置されている。

Img_9034 説明板

地蔵菩薩像の説明がないのは、県と市(現在はさいたま市)の縦割り行政、相変わらずのお役所仕事。

Img_9035 地蔵堂前の地蔵さん

左が元禄9年(1696)、右が正徳6年(1716・享保元年)の造立。

Img_9052 原田表具店(文寿堂)

浦和駅前の雑踏から県庁通りを渡り、調神社への途中。

Img_9055 お茶屋

Img_9056 米屋

Img_9062 調(つき)神社参道入口の狛兎

朝廷に納める調物(みつぎもの)を集めるところで、荷物の出し入れの妨げとならないように鳥居、門はない。百姓が作った物をごっそり巻き上げる”がめつさ”だけは神技だ。

中世以来、二十三夜の月待ち信仰と結びつき、月宮殿ともいわれた。調(つき)→月→兎の連想ゲーム。

Img_9059 調神社本殿

Img_9057 由緒

Img_9061 旧本殿(現在は稲荷社)

享保18年(1733)の建立で、安政年間まで本殿だった。

Img_9060 説明板

Dsc08552 旧本殿の兎の彫刻

Img_9065 焼米坂(坂下方向) 白幡1-1の南浦和小学校の東側を北に上る旧中山道。 【ルート地図】の11

「新編武蔵風土記稿」の根岸村のところに「焼米坂 村の北の街道の内にあり、上り一町半許の坂なり、此所にて古来より焼米をひさぐゆえに名づけり」とあり、中山道を通る旅人に焼米を売る店があった。

Img_9068 坂上方向

Img_9074 六辻水辺公園

見沼代用水西縁支線を整備してできた公園で全長は約2.4km。ここは水の流れは少なく、清流でもない。

Img_9078 このあたりからカーブが多くなる(浦和方向)。

Img_9085 辻の一里塚跡 【ルート地図】の10

右に「一里塚跡の碑」が立ち、その左に「辻一里塚弁財天」が祀られている。上は東京外環自動車道

Img_9081 由来碑

Img_9088 宝蔵寺

Img_9094 旧家(錦町3交差点の所)

Img_9096 旧道は交差点を横切り直進し、正面の交番の左の蕨宿へ入る。

Img_9106 中山道ふれあい広場

天保14年(1843)の蕨宿は本陣2、脇本陣1、旅籠23軒で、中山道67宿中(草津、大津を除く)、5指に入る宿場だった。(説明板による) 

蕨では江戸時代の終わり頃から、綿織物業が盛んになり、明治時代初期には、埼玉県内で第1位の生産額があった。「蕨」の地名の由来:①藁を焚く火を遠望して「藁火村」と名付けたのが「蕨村」になった。 ②近辺に芝・笹目・青木・美女木など植物に関する地名が多いことから植物名の「蕨」から名付けた。①②とも疑問点が多く、確かなことは不明。『歴史民族館のパンフ』より 

Img_9100 蕨宿説明板①

Img_9101

Img_9102

Img_9113 旧家(ふれあい広場の向い)

昔は街道裏の用水路(現在は暗渠)に田畑への出入用の「はね橋」を架けていた。防火、防犯と遊女(飯盛女)や機織の女工たちの夜逃げ防止のためだったとも。

Img_9115西山仏具店

Img_9116 蕨宿の通り

Img_9134 三学院

関東七ヵ寺の役寺の格式のある金亀山(こんきさん)極楽寺三学院という真言宗の寺。天正19年(1591)に徳川家康から寺領20石を拝領し朱印状を受けている。足立坂東三十三ケ寺の20番、北足立八十八ケ所の30番にあたる札所でもある。

Img_9124 地蔵堂

正面が子育地蔵・手前が目疾地蔵

子育地蔵は元禄7年(1694)の造立で、高さ2.4m。市内最大の地蔵さん。ちなみに蕨市は全国の市の中で一番面積が狭い。

Img_9128 目に味噌がこってり塗られた目疾地蔵さん

これでは地蔵さんが目の病いになってしまうよ。身代り信仰の一つだろう。

Img_9123_2 「目疾地蔵」説明板

Img_9121 「子育地蔵」説明板

Img_9122 「六地蔵」説明板

Img_9118 新しく立派な仁王門?

Img_9120 本堂、三重塔も新しい

Img_9132 馬頭観音

梵字で彫られている。基礎には馬の全形が線刻されている。

Img_9131 説明板

Img_9136 旧家

Img_9141 鈴木薬局

Img_9145 右が本陣岡田(加兵衛)家のモニュメント、左が歴史民俗資料館 【ルート地図】の9

本陣は、岡田加兵衛家と五郎兵衛家の2家が代々勤め、蕨宿の中央部に向かい合うようにして建っていた。加兵衛本陣には、老中水野忠邦や松平加賀守、皇女和宮などが休泊し、明治元年(1868)と同3年(1870)には明治天皇も大宮氷川神社行幸の途中に休憩した。

Img_9147 和楽備神社

明治44年(1911)に蕨町内にあった18の鎮守社を合祀した際に名づけられた。「蕨」の一字では重みがないので当時の東宮侍講に依頼して、この名にしたという。合祀以前は、「上の宮」と呼ばれた「八幡社」が鎮座し、蕨を所領とした渋川氏が蕨城の守護神として勧請したと伝える。

Img_9149 水盤

江戸時代初期の造立で、上野の寛永寺にあったとものいう。大きくがっしり、どっしりとしていて風格がある。

Img_9148 説明板

Img_9150 本殿

Img_9152 旧本殿(元の八幡社)

今は稲荷社

Img_9151 説明板

Img_9153 蕨城跡公園

【ル-ト地図】の8

南北朝時代に渋川氏が居を構え、長禄元年(1457)足利義政により、関東管領上杉氏支援のため渋川義鏡(よしかね)がこの蕨城によって古河公方足利成氏と対したという。大永4年(1524)に北条氏綱により、攻撃され破壊された。江戸時代初期には、徳川将軍家の鷹狩用の休憩地の「御殿」として利用された。

Img_9157 説明板

Img_9158 御殿堀跡

城跡公園の池として整備されている。

Img_9154 蕨城址碑

Img_9160 長泉院の梵鐘(おしゃみの鐘)

蕨宿の時の鐘として親しまれてきた。乳がない鐘(いぼなし鐘)は奥州街道白河宿の龍蔵寺、郡山宿の如宝寺にもあった。それほど珍しくはないようだ。

Img_9159 説明板

Img_9164_2 蕨町道路元標(右)

Img_9165 歴史民俗資料館分館

明治時代の織物買継商の家

Img_9177 観音堂 《地図

Img_9176_2 すき間から顔だけ失礼

左に、元禄と見える。

Img_9178 玄蕃稲荷 《地図

Img_9179 狐が遊ぶ扁額

Img_9184 蕨宿下の木戸あたり

中央ポケットパークという小さな一画になっている。

Img_9189 国道17号との合流点 《地図

右が旧道で蕨宿方向

Img_9193 小堂があるが何の堂か分からず。

Img_9194 国道から離れ、左の木陰の道(下前公団通り)に入る。

Img_9240 国道17号とオリンピック通りの交差点あたりに一里塚があったらしい。(川岸パークの説明板による。)

Img_9238 国道から離れ左へ入り、菖蒲川を渡る。

Img_9236 菖蒲川(曲尺手橋から) 《地図

Img_9233戸田の渡しへ一直線

正面に荒川の土手

Img_9231 川岸ミニパークの案内図。

今は失われた旧中山道の道筋。

Img_9230_2この付近の旧中山道の道筋の記載がある。

Img_9228 地蔵堂 《地図

市内(戸田市)最古の木造建築物と推定される。(創立は不詳) 「中山道分間延絵図」にも記載されている。

左は享保16年(1631)銘のある庚申塔。

Img_9226 説明板

Img_9208 水神社

古くは荒川の端にあったもので、創建は不詳だが、正面の「水神宮」の碑には寛政8年(1796)の銘がある。川岸に住む人たちの氏神さまのようになっている。

Img_9207 説明板

Img_9218 戸田の渡し跡から対岸の板橋区(右はJR埼京線・東北・上越新幹線) 

板橋宿と蕨宿を結ぶ交通の要衝で、明治8年(1875)木橋の戸田橋が架けられるまで、渡し船で渡っていた。

Img_9216 土手下に「戸田渡船場跡」の碑と説明板が立つ。その右方の車道沿いに水神社がある。

Img_9214戸田渡船場跡碑

Dsc01284 説明板

Img_9221 荒川下流方向

ここから約25kmで東京湾

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