中山道(大井宿→大湫宿→細久手宿)
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今日は大井宿から十三峠を越えて大湫宿へ下り、琵琶峠を越えて細久手宿までの今回の中山道歩きの目玉、ハイライトコースだ。十三峠は峠の名前ではなく、「十三峠におまけが七つ」といい、いくつもの起伏を越えて行く山道だ。さほどの高さもなく、緩やかに登って下る、晴れていれば手頃のハイキングコースというところか。道標や案内板も数多く、道に迷うこともないだろう。といっても一ヶ所間違って車道をかなり下ってしまい、かなりのロスタイムだったが。
大井宿を抜け、西行硯水公園を過ぎ、中央線の踏切を渡って十三峠の登り口へ出る。この先、休日で好天のこともあり、中山道歩きの人やハイカーとも随分すれ違った。坂の名前をチェック、確認しながらゆっくり、ゆっくり進む。足は疲れないが多くの坂名で頭が疲れた。十三峠をクリアーして大湫宿へ下り、茶店で五平餅を食べる。香ばしい味噌をつけた熱々に焼けた餅が美味かった。
一休みして足、腹、頭の状態も良くなって琵琶峠を目指す。しばらく県道を歩き大湫病院前あたりから右へ琵琶峠への石畳に入る。大湫宿の標高は510m、琵琶峠(558m)へは石畳(上の写真)の登り口から一登りという感じだった。峠から下ると車道歩きとなるが車の往来は少なく歩きやすい。弁天池で一休みして細久手宿へ向う。バイクか車か、轟音がだんだん大きく聞こえ出した。右手のモーターランドとサーキット場からのものだ。近くに人家はないのだろうか。よく我慢していると思うよ。
細久手宿へ入ったあたりで外人の中年男性が中山道の旧道の道筋を教えてくれた。彼は地元の女性と結婚したオランダ人で、奥さんの里帰りで一緒に来ているのだと、後で大黒屋の女将さんから聞いた。日本語は上手く、中山道のこともよく知っているようで少し嬉しい気分になった。
7時半前に出発して、道を間違った所もあったが、ゆっくりペースで歩いてきてまだ3時前。宿に入るには早過ぎる。庚申堂前の手頃なベンチで、心地いい風と陽射しを浴びながら昼寝とした。うとうとしていると近所のご婦人が二人、石段を上ってお参りにきて、しばし雑談。4時をちょっと過ぎた頃今夜の宿、大黒屋に入る。ここは尾州尾張家本陣だった家だ。今日の泊まり客は我一人。昨日は外人さんのグループが泊まったそうだ。そう言えば十三峠で男女10人ほどの一団とすれ違ったっけ。かなりバテ気味の女性もいたようだったが。2階の二間を貸切で、早めに床についたが、殿様の気分にもなれずなかなか寝つけなかった。
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
屋号を「本酒屋」といい、和宮降嫁の際の熊崎新三郎事件の舞台ともなった。
右の石柱は溝に板をはめて、洪水の浸水防止用にしたという。
和宮の降嫁に伴う賄役の負担に苦しめられた野井村の話が載る。
中野観音堂 《地図》
本尊は阿弥陀如来像、石灯籠は寛政8年(1795)の建立。
坂の上石仏群 《地図》
隣りに豊玉稲荷神社がある。
西行硯水公園 《地図》
この地で3年間暮らした西行が、この泉の水で墨をすったという。
もとは中野坂といった。ここから西へ十三峠が始まる。
西行がこの地で入寂したという伝説による供養の五輪塔。定説では西行は文治6年(1190)に河内の弘川寺で死んだことになっている。
西行ゆかりの地は、落語『西行』で。 恵那山(2189m)その右が焼山(1709m)、二つの山の前が保古山(969m)
雪の日、雨の日、夏の盛りの難渋さが偲ばれる。
西行塚から槙ケ根一里塚への坂。
槙ケ根一里塚跡 《地図》
北と南に2基残る。
この先で車道に出る。
車道に出て右の未舗装の道に入る。道標プレートにも気づいたが、なぜか車道を下ってしまい、新槙ケ根トンネル(JR中央線)の上を越え、中央自動車道をくぐり、国道19号へ出てしまった。
江戸時代の末頃にはここに茶屋が9軒もあったという。
下街道追分の所
下街道追分
道標に「伊勢名古屋道」とある。正面の木製の案内板の所から左に名古屋、伊勢神宮へと向う道。直進するのが中山道。
ここには松かさ(松の子)が多くつく子持松があり、枝越しに馬籠(孫目)が見えて、子と孫が続き縁起のいい場所とされた。和宮降嫁の際にもここに仮御殿を建てて休憩所とした。
二人連れの中間(ちゅうげん)が道中、ここで休憩し眠ってしまった。一人が眼を覚ますと、もう一人の首が切られていた。怒った中間は「黙ってみているとは何事だ。」と地蔵の首を刀で切り落としてしまった。それ以来、首をつけようとしてもどうしてもつかないという。
乱れ橋へ下る坂。急坂で、旅人の息が乱れ、大名行列も、女人の裾も乱れたという坂。
「みたらし坂」・「祝い上げ坂」ともいう。
街道を通る役人を、地元の役人が長袴で土下座で迎えた所だとか。
宝暦年間(1751~63)に飛脚たちが出資して架けた橋。乱れ川は石も流されるほどの急流だったという。今はほんの小さな流れだ。
右に入った所に「石州さま」が祀られているそうだ。「石州さま」とは何なのか分からず。
妻(塞)の神が道から少しはずれて隠れるようにひっそりと。妻の神は道祖神の一つで、良縁、夫婦和合、子授け、安産、子育ての神として婦人の信仰が篤いという。
紅坂一里塚跡 《地図》
紅坂へと続いて行く。
黒すくも坂へと続く。
右に権現山(606m)が望める。
黒すくも坂の坂下。北の神明社に芭蕉の句碑群があるようだ。
佐倉宗五郎大明神碑(石灯籠の左側の石柱)
元禄年間(1700年頃)に岩村藩で農民騒動が起きた。竹折村庄屋の田中氏は将軍に直訴して農民達を救ったが、定めで打ち首になった。当時有名になっていた佐倉惣五郎事件に似ているので、村人達が密かに田中氏を宗五郎大明神として祀ったという説あり。
佐倉惣五郎ゆかりの『宗吾街道』 【ル-ト地図】の8 小石で台石をたたくと「ちんちん」と音がするというだけのようだ。しょちゅう叩かれては墓の中の仏の眠りの妨げとなるだろうから、一礼して立ち去ったが。
『瑞浪市の中山道ハンドブック』によれば、墓ではなく、「読誦塔」(経文を声を出して読んだ方法 回数を記録)だそうだ。確かに石塔には「大乗経六千部・・・・」とあるようだ。そんなら、派手にちんちん叩けばよかったものを。
石垣が三城の城跡の石垣?
ばばが茶屋跡
舗装道路に出て振り返る。右奥から出て来たのが中山道。ここから瑞浪市になる。
ここの平坦地を「茶屋が原」という。
坂上で合流する。どちらもかなりの急坂だ。
新しく開かれた坂という意だろうが、太田南畝は『壬戌紀行』でこの坂を下っているから、さほど新しい坂ではない。
坂の途中の右上の大岩の上に馬頭観音が立っているのだが、見逃した。木立に覆われているのか?
西国、四国、秩父、板東の霊場を巡拝した記念碑。
説明板には「天保2年(1841)」の建立とあるが、天保2年は1831年、天保12年が1841年だ。どちらだろうか?
小生は四国と秩父のみで、記念碑には程遠い。
「直(じか)焼き」の餅が名物だったという。
手前が休憩所になっている。
このあたりは権現山の直下
権現山山頂の社殿まではここからかなり上るので遥拝で済ます。
太田南畝の「壬戌紀行」は西から東へ書かれている。
石畳が残る坂
西→東の記述
権現山一里塚跡 《地図》
ここで病気になった巡礼の母娘が念仏を唱えると目の前の大岩から湧き出したというお助け水。8月1日には必ず湧き出るというが、真夏の盛りに来るわけにもいかないよな。
宝暦7年(1757)の建立
「批杷湯糖」という批杷の葉に薬草を加えて煎じた茶で、旅の疲れをとる出茶屋があったという。
「おつる」は娘さんかと思っていたが、「おつる婆」さんだった。こんな山中に若い娘は危なっかしい。やっぱり茶店は婆さんに限るか。
『壬戌紀行』では、地蔵坂の別名を「おつるが茶屋の坂」といっている。観音坂②を地蔵坂とは別の坂とすれば、この坂が「おつるが茶屋の坂」となる。観音坂②を地蔵坂に含めれば、「おつるが茶屋の坂」は地蔵坂の別名となる。(『瑞浪市の中山道ハンドブック』では、この坂を観音坂と呼んでいる。)
【ル-ト地図】の10宝永8年(1711)、伊勢の豪商熊野屋の夫人が十三峠で急病になった時、この湧き水で助かった。それを感謝して地蔵を建立したという。それ以来、「お助け清水」と呼ばれ、旅人はもちろん、大名行列等も愛飲したそうだ。お地蔵さんの後ろから泉が湧き、まるでお尻を冷やしているように見えるのでこう呼ばれるようになったという。湧き水は地蔵の尻の後ろでなく右脇にあるのだが・・・。
「尻冷やし地蔵」前の坂
昔はここから恵那山が見えたのか。
道標も兼ねていて「右ハざいみち」と刻むそうだ。
斜面の茶畑が陽射しを浴びている。「牛かほら」とはどういう意味か? 「牛カ洞か?
昔は右上の上段に山之神の小祠があったそうだ。寺坂へ続き下って行く。
西から寺坂を上ってきた旅人は、平坦地のここで一息入れ、屏風山(794m)方向の眺望を楽しんだという。
宗昌寺、大湫(おおくて)宿へ下る十三峠の最後の坂。
大湫宿の東の鬼門除けで、馬頭観音、地蔵、名号碑などが並ぶ。
太田南畝の『壬戌紀行』の文が刻まれている。
宗昌寺(美濃瑞浪三十三霊場第五番札所)
天正年間(1573~91)に大湫村を開いた保々宗昌が、慶長5年(1600年)に開基。本陣、脇本陣に次ぐ控え本陣としても利用された。
正面奥の大湫小学校の所が本陣跡
湫(くて)とは湿地帯のこと。
五平さんが作った餅とも、形が御幣に似ているからともいわれる。小判形(御幣形か)と団子形、味も醤油味、味噌味があるそうだ。
神明神社とともに宿時代からの産土神。
もとは旅籠だった家か?
樹齢1300年以上
天井絵が描かれている堂。
寛政7年(1795)の芭蕉の百年忌に建立。境内にはさまざまな石造物が並んでいる。
大湫宿の西の出口
嘉永7年(1854)土橋から石橋に替えた。和宮もここから紅葉を愛でたという。
道の両側に石の欄干がある。流れは暗渠になっているようだ。
文政8年(1825)建立
陰石(女性)、ご覧の通り。
「弁慶の置き忘れ石」・「お手玉石」・「男岩、女岩」・「女男(めおと)岩」などとも呼ばれている。
こっちは陽石
柴を背負い峠道を登る夫婦。二つ岩の巨岩の描き方が迫力ある。(広重画)
文化11年(1814)建立の身代り十一面観音(左端だろう)や馬頭観音などの石造物が並ぶ。
「琵琶峰碑」・「琵琶峠碑」・「琵琶坂碑」が並ぶ。この上に見晴台はあるのか?眺望はきくのか?
琵琶峠の由来は、①琵琶修行の法師がこの峠の松風の音で奥儀を悟った。②西から見る峠の姿が琵琶に似ている。③近江の琵琶湖に近い伊吹山が正面に望まれる。など
「住み馴れし 都路いでてけふいくひ いそぐとつらき 東路のたび」
八瀬沢一里塚 《地図》
右が西
日本全国66カ国を巡礼し、1国1カ所の霊場に法華経を1部ずつ納める宗教者「六十六部」(六部)の廻国記念塔。安永6年(1777)の建立
株式会社だ。
競馬場にある馬霊塔のようなもの。
享保13年(1728)の建立
【ル-ト地図】の13天保7年(1836)の石祠に天文5年(1740)の弁財天が祀られている。
一本は男根、一本は女陰の異形で、夫婦円満・下の病いにご利益の珍木で中山道の名物だったという。残念ながら昭和初年に枯れてしまった。
【ル-ト地図】の14「切山辻の見晴台跡」で、今は見晴らしがきく所ではない。馬頭観音は元治元年(1864)の建立。
クリスタルクレイ工場の方へ直進していたのが旧道(細久手宿の方から振り返って見ている。)
工場の前は中学校(中学校ではなく日吉第二小学校?)があったそうだ。
行き止まりだが右下の花の前(電柱下)に「中山道」の標示板がある。
美濃瑞浪三十三霊場の一つ。観音像でなく、青面金剛の庚申塔(享和2年(1802)建立)の霊場は珍しいのでは。堂前のベンチで昼寝をして寝ぼけていたのか、庚申堂の写真を撮るのを忘れた。
庚申堂の右後ろ
【ル-ト地図】の16ここが今日の宿。本陣、脇本陣が他宿に比べて手狭だったため尾州藩はここを定本陣とした。本陣、脇本陣は取り壊されて跡のみ。
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