« 中山道(中津川宿→大井宿) | トップページ | 中山道(細久手宿→御嵩宿→伏見宿→太田宿) »

2009年10月24日 (土)

中山道(大井宿→大湫宿→細久手宿)

2009年10月12日

Img_0601 恵那プラザホテル・・・大井橋(阿木川)・・・中野村庄屋家・・・長島橋(永田川)・・・中野観音堂・・・坂の上交差点・坂の上石仏群・豊玉稲荷神社・・・上町観音堂・・・西行硯水公園・・・西行塚道標・(JR中央線)・・・十三峠道標・・・西行坂・・・西行塚・・・五本松坂・・・槙ケ根一里塚跡・・・七本松坂・・・茶屋槙本屋跡・・・茶屋水戸屋敷跡・・・(槙ケ根石仏群)・旧道分岐・・・茶屋松本屋跡・・・槙ケ根立場の茶屋跡・伊勢神宮遥拝所・下街道追分・・・馬頭観音・・・姫御殿跡(祝峠)・子持松跡・・・首なし地蔵・・・乱れ坂・・・下座切場跡・・・乱れ橋・・・お継原坂・・・竹折村高札場跡・・・かくれ神坂(妻(塞)の神坂)・・・平六坂・平六茶屋跡・・・夫婦岩跡・・・紅坂一里塚跡・・・ぼたん岩・・・でん坂・・紅坂・・・うばが茶屋跡・・・念仏坂・・・黒すくも坂・・・三社灯篭・佐倉宗五郎大明神・・・藤村高札場跡・・・深萱高札場跡・・・西坂・・・ちんちん石・・・みつじ坂(三城坂)・・・三城峠・ばばが茶屋跡・・・茶屋坂・・・中山道道標・(瑞浪市)・(向い)茶屋の坂・大久後の向茶屋跡・・・観音坂①・新道坂分岐・観音坂霊場巡拝碑・・・灰くべ餅の出茶屋跡・・・大久後立場跡)・大久後観音堂・蚕養弘法大師堂・・・権現坂・・・鞍骨坂・(刈安神社参道)・・・炭焼立場跡・・・吾郎(五郎)坂・出茶屋跡・・・樫ノ木坂・・・権現山一里塚跡・・・巡礼水の坂・巡礼水・馬頭観音・・・びあいと坂・・・曽根松坂・・・阿波屋の茶屋跡・三十三所観音石窟・観音坂②(おつるが茶屋の坂)・・・尻冷やし地蔵・地蔵坂・・・しゃれこ坂・・・牛かほら坂・・・山之神坂・・・童子ケ根・・・寺坂・石仏群・・・宗昌寺・・・大湫(おおくて)宿・本陣跡・問屋場跡・白山神社・神明神社・大湫観音堂・高札場跡・・・紅葉洞の石橋跡・・・小坂の馬頭観音・・・大洞の馬頭観音・・・二つ岩(母衣岩・烏帽子岩)・・・琵琶坂・・・琵琶峠(558m)・峠の文学碑・峠の馬頭観音・・・八瀬沢一里塚跡・・・北野坂・廻国塔・・・警察犬訓練所・・・一つ屋茶屋跡・・・天神辻の地蔵・・・焼坂・馬頭観音・・・天神坂・・・弁天池・・・女男松跡・・・奥之田一里塚跡・・・三国見晴台(跡)・馬頭観音・・・細久手宿・高札場跡・庚申堂・・大黒屋(尾州尾張家本陣)

 今日は大井宿から十三峠を越えて大湫宿へ下り、琵琶峠を越えて細久手宿までの今回の中山道歩きの目玉、ハイライトコースだ。十三峠は峠の名前ではなく、「十三峠におまけが七つ」といい、いくつもの起伏を越えて行く山道だ。さほどの高さもなく、緩やかに登って下る、晴れていれば手頃のハイキングコースというところか。道標や案内板も数多く、道に迷うこともないだろう。といっても一ヶ所間違って車道をかなり下ってしまい、かなりのロスタイムだったが。

 大井宿を抜け、西行硯水公園を過ぎ、中央線の踏切を渡って十三峠の登り口へ出る。この先、休日で好天のこともあり、中山道歩きの人やハイカーとも随分すれ違った。坂の名前をチェック、確認しながらゆっくり、ゆっくり進む。足は疲れないが多くの坂名で頭が疲れた。十三峠をクリアーして大湫宿へ下り、茶店で五平餅を食べる。香ばしい味噌をつけた熱々に焼けた餅が美味かった。

 一休みして足、腹、頭の状態も良くなって琵琶峠を目指す。しばらく県道を歩き大湫病院前あたりから右へ琵琶峠への石畳に入る。大湫宿の標高は510m、琵琶峠(558m)へは石畳(上の写真)の登り口から一登りという感じだった。峠から下ると車道歩きとなるが車の往来は少なく歩きやすい。弁天池で一休みして細久手宿へ向う。バイクか車か、轟音がだんだん大きく聞こえ出した。右手のモーターランドとサーキット場からのものだ。近くに人家はないのだろうか。よく我慢していると思うよ。

 細久手宿へ入ったあたりで外人の中年男性が中山道の旧道の道筋を教えてくれた。彼は地元の女性と結婚したオランダ人で、奥さんの里帰りで一緒に来ているのだと、後で大黒屋の女将さんから聞いた。日本語は上手く、中山道のこともよく知っているようで少し嬉しい気分になった。

 7時半前に出発して、道を間違った所もあったが、ゆっくりペースで歩いてきてまだ3時前。宿に入るには早過ぎる。庚申堂前の手頃なベンチで、心地いい風と陽射しを浴びながら昼寝とした。うとうとしていると近所のご婦人が二人、石段を上ってお参りにきて、しばし雑談。4時をちょっと過ぎた頃今夜の宿、大黒屋に入る。ここは尾州尾張家本陣だった家だ。今日の泊まり客は我一人。昨日は外人さんのグループが泊まったそうだ。そう言えば十三峠で男女10人ほどの一団とすれ違ったっけ。かなりバテ気味の女性もいたようだったが。2階の二間を貸切で、早めに床についたが、殿様の気分にもなれずなかなか寝つけなかった。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_0169 中野村庄屋家

屋号を「本酒屋」といい、和宮降嫁の際の熊崎新三郎事件の舞台ともなった。

右の石柱は溝に板をはめて、洪水の浸水防止用にしたという。

Img_0165 説明板

和宮の降嫁に伴う賄役の負担に苦しめられた野井村の話が載る。

Img_0167 浸水防止壁説明板

Img_0172 中野観音堂 《地図

本尊は阿弥陀如来像、石灯籠は寛政8年(1795)の建立。

Img_0173 説明板

Img_0176 坂の上石仏群 《地図

隣りに豊玉稲荷神社がある。

Img_0182 上町観音堂

Img_0185 西行硯水公園 《地図

この地で3年間暮らした西行が、この泉の水で墨をすったという。

Img_0184 説明板

Img_0187 西行塚道標

Img_0196 西行坂 【ルート地図】の①

もとは中野坂といった。ここから西へ十三峠が始まる。

Img_0200 西行塚

西行がこの地で入寂したという伝説による供養の五輪塔。定説では西行は文治6年(1190)に河内の弘川寺で死んだことになっている。

Img_0201 説明板①

Img_0206 説明板②

Img_0203 恵那山(2189m)その右が焼山(1709m)、二つの山の前が保古山(969m)

Photo 十三峠を行く旅人(広重画)

雪の日、雨の日、夏の盛りの難渋さが偲ばれる。

Img_0209 五本松坂

西行塚から槙ケ根一里塚への坂。

Img_0215 槙ケ根一里塚跡 《地図

北と南に2基残る。

Img_0214 説明板

Img_0216 緩やかな道

Img_0221 七本松坂

この先で車道に出る。

Img_0233車道に出て右の未舗装の道に入る。道標プレートにも気づいたが、なぜか車道を下ってしまい、新槙ケ根トンネル(JR中央線)の上を越え、中央自動車道をくぐり、国道19号へ出てしまった。

Img_0238 槙ケ根立場の茶屋跡

江戸時代の末頃にはここに茶屋が9軒もあったという。

Img_0236 説明板

Img_0240 説明板①

Img_0241 説明板②

Img_0242 説明板③

Img_0237 伊勢遥拝所

下街道追分の所

Img_0244下街道追分

道標に「伊勢名古屋道」とある。正面の木製の案内板の所から左に名古屋、伊勢神宮へと向う道。直進するのが中山道。

Img_0245 説明板

Img_0249 気分のいい道を行く。

Img_0253 馬頭観音が旅人を見守る。

Img_0255 姫御殿跡(祝峠)

ここには松かさ(松の子)が多くつく子持松があり、枝越しに馬籠(孫目)が見えて、子と孫が続き縁起のいい場所とされた。和宮降嫁の際にもここに仮御殿を建てて休憩所とした。

Img_0254 説明板

Img_0257 首なし地蔵

二人連れの中間(ちゅうげん)が道中、ここで休憩し眠ってしまった。一人が眼を覚ますと、もう一人の首が切られていた。怒った中間は「黙ってみているとは何事だ。」と地蔵の首を刀で切り落としてしまった。それ以来、首をつけようとしてもどうしてもつかないという。

Img_0258 由来

Img_0265 乱れ坂

乱れ橋へ下る坂。急坂で、旅人の息が乱れ、大名行列も、女人の裾も乱れたという坂。

「みたらし坂」・「祝い上げ坂」ともいう。

Img_0261 坂標

Img_0263 下座切場跡

街道を通る役人を、地元の役人が長袴で土下座で迎えた所だとか。

Img_0268 乱れ橋(祝橋)

宝暦年間(1751~63)に飛脚たちが出資して架けた橋。乱れ川は石も流されるほどの急流だったという。今はほんの小さな流れだ。

Img_0269 説明板

Img_0271 開けた所へ出る。

Img_0273 右に入った所に「石州さま」が祀られているそうだ。「石州さま」とは何なのか分からず。

Img_0275 お継原坂(うつ木が原坂)

Img_0274 坂標

Img_0277 振り返るとこんな風景。

Img_0284 かくれ神坂(妻(塞)の神坂)

Img_0285 坂標

Img_0288 妻(塞)の神が道から少しはずれて隠れるようにひっそりと。妻の神は道祖神の一つで、良縁、夫婦和合、子授け、安産、子育ての神として婦人の信仰が篤いという。

Img_0289 さらに平六坂へと続く

Img_0295 平六坂

Img_0294 坂標

Img_0296 平六茶屋跡

Img_0298明るく開けた道となる。

Img_0302 紅坂一里塚跡 《地図

Img_0305 道標

Img_03072基の 一里塚の間を抜けて振り返る。

Img_0315 でん坂

紅坂へと続いて行く。

Img_0314 坂標

Img_0317 紅坂

Img_0316 坂標

Img_0321 念仏坂

黒すくも坂へと続く。

Img_0325 黒すくも坂 【ルート地図】の②

右に権現山(606m)が望める。

Img_0324 坂標

Img_0327 三社灯籠

黒すくも坂の坂下。北の神明社に芭蕉の句碑群があるようだ。

Img_0331 佐倉宗五郎大明神碑(石灯籠の左側の石柱)

元禄年間(1700年頃)に岩村藩で農民騒動が起きた。竹折村庄屋の田中氏は将軍に直訴して農民達を救ったが、定めで打ち首になった。当時有名になっていた佐倉宗五郎事件に似ているので、村人達が密かに田中氏を宗五郎大明神として祀ったという説あり。

Img_0336 藤村高札場跡(正面奥)

Img_0339 説明板

Img_0340 深萱立場跡説明板

Img_0358 西坂

Img_0359 坂標

Img_0361 ちんちん石

Img_0363 小石で台石をたたくと「ちんちん」と音がするというだけのようだ。しょちゅう叩かれては墓の中の仏の眠りの妨げとなるだろうから、一礼して立ち去ったが。

『瑞浪市の中山道ハンドブック』によれば、墓ではなく、「読誦塔」(経文を声を出して読んだ方法 回数を記録)だそうだ。確かに石塔には「大乗経六千部・・・・」とあるようだ。そんなら、派手にちんちん叩けばよかったものを。

Img_0367 湧き水?

Img_0371 みつじ坂(三城坂)

石垣が三城の城跡の石垣?

Img_0373 坂標

Img_0375 三城峠は近い

Img_0376三城峠

ばばが茶屋跡

Img_0378 茶屋坂

Img_0377 坂標

Img_0382 茶屋坂を下って恵那市から瑞浪市へ

Img_0385舗装道路に出て振り返る。右奥から出て来たのが中山道。ここから瑞浪市になる。

Img_0391(向い)茶屋の坂

Img_0392 大久後の向茶屋跡

ここの平坦地を「茶屋が原」という。

Img_0396 平らな道となる。

Img_0397 新道坂(右)・観音坂(直進して右へカーブして上る。)

坂上で合流する。どちらもかなりの急坂だ。

Img_0398 新道坂(左に坂標)

新しく開かれた坂という意だろうが、太田南畝は『壬戌紀行』でこの坂を下っているから、さほど新しい坂ではない。

Img_0405 観音坂①

坂の途中の右上の大岩の上に馬頭観音が立っているのだが、見逃した。木立に覆われているのか?

Img_0406 坂標

Img_0408 説明板

Img_0409 地図

Img_0411 霊場巡拝記念碑

西国、四国、秩父、板東の霊場を巡拝した記念碑。

説明板には「天保2年(1841)」の建立とあるが、天保2年は1831年、天保12年が1841年だ。どちらだろうか?

小生は四国と秩父のみで、記念碑には程遠い。

Img_0415 灰くべ餅の出茶屋跡(この先)

「直(じか)焼き」の餅が名物だったという。

Img_0419 このあたりは大久後立場跡

手前が休憩所になっている。

Img_0424 大久後観音堂(右)・蚕養弘法大師堂(左)

このあたりは権現山の直下

Img_0429 権現坂

Img_0426 坂標

Img_0431 鞍骨坂

Img_0433 刈安神社参道

権現山山頂の社殿まではここからかなり上るので遥拝で済ます。

Img_0435 炭焼き立場跡

Img_0436 説明板

太田南畝の「壬戌紀行」は西から東へ書かれている。

Img_0440_2 炭焼立場を抜けて振り返る。

Img_0443 吾郎坂((炭焼きの)五郎坂)

Img_0442 坂標

Img_0446 樫ノ木坂

石畳が残る坂

Img_0447 坂標

西→東の記述

Img_0448_2 権現山一里塚跡 《地図

Img_0456 巡礼水の坂

Img_0455 坂標

Img_0461 説明板

Img_0463 地図

Img_0467 巡礼水は枯れていたが

ここで病気になった巡礼の母娘が念仏を唱えると目の前の大岩から湧き出したというお助け水。8月1日には必ず湧き出るというが、真夏の盛りに来るわけにもいかないよな。

Img_0469 巡礼水の上の馬頭観音は健在

宝暦7年(1757)の建立

Img_0465 巡(順)礼水の由来

Img_0473 両側はゴルフ場

Img_0475 びあいと坂

「批杷湯糖」という批杷の葉に薬草を加えて煎じた茶で、旅の疲れをとる出茶屋があったという。

Img_0474 坂標

Img_0480 曽根松坂

Img_0479 坂標

Img_0482 阿波屋の(おつるの)茶屋跡・三十三所観音石窟(正面奥)

「おつる」は娘さんかと思っていたが、「おつる婆」さんだった。こんな山中に若い娘は危なっかしい。やっぱり茶店は婆さんに限るか。

Img_0483 説明板

Img_0490天保11年(1840)建立の33体の馬頭観音石窟

Img_0491 観音坂②(おつるが茶屋の坂)を下る。

『壬戌紀行』では、地蔵坂の別名を「おつるが茶屋の坂」といっている。観音坂②を地蔵坂とは別の坂とすれば、この坂が「おつるが茶屋の坂」となる。観音坂②を地蔵坂に含めれば、「おつるが茶屋の坂」は地蔵坂の別名となる。(『瑞浪市の中山道ハンドブック』では、この坂を観音坂と呼んでいる。)

Img_0497 尻冷やし地蔵

宝永8年(1711)、伊勢の豪商熊野屋の夫人が十三峠で急病になった時、この湧き水で助かった。それを感謝して地蔵を建立したという。それ以来、「お助け清水と呼ばれ、旅人はもちろん、大名行列等も愛飲したそうだ。お地蔵さんの後ろから泉が湧き、まるでお尻を冷やしているように見えるのでこう呼ばれるようになったという。湧き水は地蔵の尻の後ろでなく右脇にあるのだが・・・。

Img_0495 「尻冷やし地蔵」石碑

Img_0500 地蔵坂

「尻冷やし地蔵」前の坂

Img_0509 しゃれこ坂(八丁・八町坂)

Img_0506 坂標

昔はここから恵那山が見えたのか。

Img_0508 「南無観世音菩薩」の名号碑

道標も兼ねていて「右ハざいみち」と刻むそうだ。

Img_0512 牛かほら坂

斜面の茶畑が陽射しを浴びている。「牛かほら」とはどういう意味か? 「牛カ洞か?

Img_0516山之神坂(右に坂標)

昔は右上の上段に山之神の小祠があったそうだ。寺坂へ続き下って行く。

Img_0517 ここにも茶畑が

Img_0518 童子ガ根

西から寺坂を上ってきた旅人は、平坦地のここで一息入れ、屏風山(794m)方向の眺望を楽しんだという。

Img_0522 寺坂 【ルート地図】の③

宗昌寺、大湫(おおくて)宿へ下る十三峠の最後の坂。

Img_0524 寺坂の石仏群

大湫宿の東の鬼門除けで、馬頭観音、地蔵、名号碑などが並ぶ。

Img_0525 十三峠石碑

太田南畝の『壬戌紀行』の文が刻まれている。

Img_0527 寺坂の坂下近くの道標

Img_0532 宗昌寺(美濃瑞浪三十三霊場第五番札所)

天正年間(1573~91)湫村を開いた保々宗昌が、慶長5年(1600年)に開基。本陣、脇本陣に次ぐ控え本陣としても利用された。

Img_0533宗昌寺から大湫宿

正面奥の大湫小学校の所が本陣跡

Img_0530_2 地図

Img_0536 大湫宿の家並み

湫(くて)とは湿地帯のこと。

Img_0537 説明板

Img_0541 本陣跡の和宮の碑(大湫小学校の校庭)

Img_0545 説明板

Img_0544 五平餅屋

Img_0543 焼きたての五平餅(味噌味)一本180円也。

五平さんが作った餅とも、形が御幣に似ているからともいわれる。小判形(御幣形か)と団子形、味も醤油味、味噌味があるそうだ。

Img_0547 問屋場跡説明板

Img_0548 白山神社

神明神社とともに宿時代からの産土神。

Img_0552 脇本陣跡保々家

Img_0551 説明板

Img_0557 旧家(国登録文化財)

もとは旅籠だった家か?

Img_0562 神明社の大杉(神門の後ろ)

樹齢1300年以上

Img_0564 旧家

Img_0568 観音堂

天井絵が描かれている堂。

Img_0573 説明板

Img_0570 縁起

Img_0572 芭蕉歌碑(観音堂境内)

寛政7年(1795)の芭蕉の百年忌に建立。境内にはさまざまな石造物が並んでいる。

Img_0571 説明板

Img_0579 高札場跡

大湫宿の西の出口

Img_0580 説明板

Img_0581 紅葉洞(もみじぼら)の石橋

嘉永7年(1854)土橋から石橋に替えた。和宮もここから紅葉を愛でたという。

道の両側に石の欄干がある。流れは暗渠になっているようだ。

Img_0583 小坂の馬頭観音(明治2年建立)

Img_0588 大洞(おおぼら)の馬頭観音

文政8年(1825)建立

Img_0589 二つ岩の母衣岩

陰石(女性)、ご覧の通り。

「弁慶の置き忘れ石」・「お手玉石」・「男岩、女岩」・「女男(めおと)岩」などとも呼ばれている。

Img_0592 烏帽子岩

こっちは陽石

Img_0591「 二つ岩」石碑

Photo_2 柴を背負い峠道を登る夫婦。二つ岩の巨岩の描き方が迫力ある。(広重画)

Img_0595 琵琶峠へ

Img_0596 琵琶坂 【ルート地図】の④

文化11年(1814)建立の身代り十一面観音(左端だろう)や馬頭観音などの石造物が並ぶ。

Img_0609 琵琶峠の文学碑

「琵琶峰碑」・「琵琶峠碑」・「琵琶坂碑」が並ぶ。この上に見晴台はあるのか?眺望はきくのか?

Img_0612 琵琶峠頂上(558m)

琵琶峠の由来は、①琵琶修行の法師がこの峠の松風の音で奥儀を悟った。②西から見る峠の姿が琵琶に似ている。③近江の琵琶湖に近い伊吹山が正面に望まれる。など

Img_0611 琵琶峠の馬頭観音と和宮歌碑

「住み馴れし 都路いでてけふいくひ いそぐとつらき 東路のたび」

Img_0616 八瀬沢一里塚 《地図

Img_0619 説明板

Img_0622 地図

右が西

Img_0628 下って集落へ

Img_0629 西上り口

Img_0634 北野坂

Img_0638北野坂の廻国塔

日本全国66カ国を巡礼し、1国1カ所の霊場に法華経を1部ずつ納める宗教者「六十六部」(六部)の廻国記念塔。安永6年(1777)の建立

Img_0642 警察犬訓練所

株式会社だ。

Img_0640 犬霊塔(警察犬訓練所)

競馬場にある馬霊塔のようなもの。

Img_0645 車も少ない県道

Img_0648 天神辻の地蔵

享保13年(1728)の建立

Img_0652 焼坂

Img_0650 焼坂の馬頭観音

Img_0657 天神坂 【ルート地図】の⑤

Img_0655 坂標

Img_0663 弁天池・弁財天堂

天保7年(1836)の石祠に天文5年(1740)の弁財天が祀られている。

Img_0660 説明板

Img_0662 地図

Img_0667 女男松の跡

一本は男根、一本は女陰の異形で、夫婦円満・下の病いにご利益の珍木で中山道の名物だったという。残念ながら昭和初年に枯れてしまった。

Img_0671 奥之田一里塚跡

Img_0673 説明板

Img_0677 三国見晴台と馬頭観音

「切山辻の見晴台跡」で、今は見晴らしがきく所ではない。馬頭観音は元治元年(1864)の建立。

Img_0680 細久手宿へ

Img_0681 クリスタルクレイ工場の方へ直進していたのが旧道(細久手宿の方から振り返って見ている。)

工場の前は中学校(中学校ではなく日吉第二小学校?)があったそうだ。

Img_0682 行き止まりだが右下の花の前(電柱下)に「中山道」の標示板がある。

Img_0683標識

Img_0687 右上に庚申堂

Img_0688 高札場跡を上って庚申堂へ

美濃瑞浪三十三霊場の一つ。観音像でなく、青面金剛の庚申塔(享和2年(1802)建立)の霊場は珍しいのでは。堂前のベンチで昼寝をして寝ぼけていたのか、庚申堂の写真を撮るのを忘れた。

Img_0693穴観音

庚申堂の右後ろ

Img_0700 庚申堂から細久手宿

Img_0705 細久手宿説明板

Img_0712 大黒屋(尾州尾張家定本陣)

ここが今日の宿。本陣、脇本陣が他宿に比べて手狭だったため尾州藩はここを定本陣とした。本陣、脇本陣は取り壊されて跡のみ。

Img_0710 2階の部屋

|

« 中山道(中津川宿→大井宿) | トップページ | 中山道(細久手宿→御嵩宿→伏見宿→太田宿) »

「旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/161343/46568232

この記事へのトラックバック一覧です: 中山道(大井宿→大湫宿→細久手宿):

« 中山道(中津川宿→大井宿) | トップページ | 中山道(細久手宿→御嵩宿→伏見宿→太田宿) »