中山道(細久手宿→御嵩宿→伏見宿→太田宿)
2009年10月13日
大黒屋・・・県道65号・・・細久手坂(西坂)・穴観音・・・津島神社・・・くじ場跡・・・平岩橋・・・旧道・西の坂・・秋葉坂・秋葉坂三尊石窟・・・鴻之巣道の馬頭観音・・・鴻之巣辻の道祖神・・・切られケ洞・・・鴻之巣一里塚跡・・・御嵩町・くじあげ坂・・・藤上坂・藤上坂の馬頭観音・山内嘉助屋敷跡・・・(津橋薬師堂)・・・諸ノ木坂・・・諸ノ木峠・馬の水呑み場・御殿場・・・唄清水・・・一呑清水・・・(謡坂)十本木立場跡・・・地蔵の清水・・・(謡坂)十本木一里塚跡・十本木の洗い場跡・木賃宿跡・茶屋跡・・・謡坂石畳・・・キリシタン遺跡・・・謡坂石畳・・・耳神社・・・寒念仏供養塔・牛の鼻欠け坂(西洞坂)・・・西洞の馬頭観音・・・和泉式部の墓・・・国道21号・・・(津島神社)・・・旧道(県道341号)・・・御嵩宿・秋葉神社・中山道みたけ館・願興寺(蟹薬師)・御嵩駅・神明神社・・・国道21号・・・鬼の首塚・・・(顔戸八幡神社)・・・顔戸(ごうと)城跡・・・旧道・比衣一里塚跡・・・土橋(比衣川)・・・(国道475号)・・・国道21号・・・高倉山古墳・・・旧道・・・国道21号・・・伏見宿・本陣跡碑・尾州領碑・浄覚寺・西坂・・神明神社・・・中恵土一里塚跡・中恵土交差点・・・愛知用水・・・(JR太多線)・・・今渡神社・・・浅間神社・・・弘法堂・今渡の渡し跡・・・渡し場公園・太田橋(木曽川)・・・(化石林公園)・・・文化会館・(古井の一里塚跡あたり)・・岡本一平終焉の地・・・太田宿・神明水神公園・新町木戸門跡・・・美濃太田駅(JR高山線)
【ルート地図】
大黒屋を7時半前に出発する。今日もいい天気だ。県道65号を西に進み、緩やかに下って平岩橋を渡り、ちょっと急な西の坂を上り、途中から左に秋葉坂の山道の旧道へ入る。少し上るともう暑くなってきて半袖姿になる。鴻之巣一里塚跡を過ぎると下りとなり、藤上坂から津橋の集落へ出る。薬師堂の位置がはっきりせず民家で老人に聞くと、薬師堂が見える所へ案内してくれた。もうかなり行き過ぎてしまっているので遥拝で済ます。
車道の間の旧道をしばらく行くと、山道となって諸ノ木坂の急な上りとなる。諸ノ木峠は、和宮一行が休憩した所で御殿場と呼ばれている。ここから下って車道へ出ると唄清水、一呑み清水へと続く。両方とも今は飲めないようだ。車道の広い坂(これも謡坂か)を少し下り途中で左に入り、(謡坂)十本木一里塚跡、木賃宿跡から謡坂の石畳を下る。途中で右に入り、マリア像の立つキリシタン遺跡へ寄ってみる。ここにも隠れキリシタンの信仰があったのだ。戻って謡坂の石畳(上の写真)から車道に出てさらに下ると右上に耳神社がある。今の所、耳はまだ大丈夫だが、近い将来のことを思って手を合わせた。
耳神社の先で右へ旧道に入り、寒念仏供養塔から牛の鼻欠け坂を下る。下りは楽だが上りは苦労する急坂だろう。畑の広がる道に出て、小さな馬頭観音を右下に見て進み、国道21号に出る。国道の手前には和泉式部の墓がある。小野小町などと同様、各地にある伝承の墓の一つだ。ここからは車がブンブン通る国道歩きとなる。今回の中山道歩きもここからは坂も少なく、平坦な車道歩きが多くなり面白味も半減以上、惰性で垂井宿まで行くようなものだ。
津島神社が前方右上に見える交差点から左へ旧道(県道341号)に入ると御嵩宿となる。細久手宿、次ぎの伏見宿と違い古い家並みも残り、往時の宿場の雰囲気も感じさせる所だ。「中山道みたけ館」は無料で、二階の郷土館は展示品も資料も充実している。310円払っていまいちだった中津川宿の「中山道歴史資料館」とは大違いだ。蟹薬師の願興寺から御嵩駅前を通り、宿を抜け国道に出て、鬼の首塚、顔戸城址を過ぎ、比衣一里塚跡から国道と平行するように旧道を進み、共和中学校の前から国道に下ると伏見宿だが、宿場の面影は残らず足早に通り過ぎる。
「伏見宿本陣之跡碑」の前あたりから西へ下るのが西坂だろうが、今は傾斜はないようだ。この先つらい国道歩きとなる。上恵土交差点あたりが工事中で道なりに進んだらバイパスの方へ入ってしまい。しばし方向が分からなくなった。疲れてきた証拠だろう。バイパスを西に進むとすぐに国道21号に合流する。中恵土交差点の手前に新しい「中山道一里塚の跡」の石標が立っていた。中恵土一里塚跡のことだろう。もう2時近くで腹が空いてきて、道路沿いの中華店で遅い昼食休憩とした。愛知用水を越え、JR太多線をくぐり、今渡神社に寄り太田橋の先の弘法堂下の今渡の渡し跡まで行き、引き返して太田橋を渡り、川沿いに太田宿へ向う。文化会館の手前に古井の一里塚跡碑があるらしいが見逃したか。川沿いの道から太田宿の家並みに入り、祐泉寺の手前で今日の終わりとし、美濃太田駅に向った。
写真をクリックすると拡大します。
九万九千日観音とも呼ばれ、縁日の日に拝むと九万九千回のご利益があるという、寛政13年(1801)建立の馬頭観音。
「蘇民将来」の説話が載っている。
かつては出茶屋があり、日稼ぎの人足や駕篭かきたちが、大湫宿や御嵩宿への荷の順番を決めて、たむろしていた場所という。「くじ」で荷の順番を決めていたのだろう。
平岩橋を渡り上る。
道標は西の坂で、一つの坂としているようだ。
右から馬頭観音、(千手)観音、秋葉様の前仏。
牛を追ってきた人がここで強盗に斬られたとか。
【ル-ト地図】の18鴻之巣一里塚から下る坂。藤上坂へ続く。
三面六臂の馬頭観音で、「津島村上下女人念仏講中」と刻まれているそうだ。
江戸時代に酒造業を営んでいた山内嘉助の屋敷跡で城郭のような石垣が残っている。諸大名の休憩所となり、旅人も泊めたとも伝える。
通り過ぎてしまい遥拝のみ。堂前の宝暦3年(1753)の石灯籠は何代目かの山内嘉助が勧進したものという。
和宮降嫁の際の4千~5千もの大行列。「姫街道」とは聞こえがいいが、近隣の村民、旅人も迷惑、苦労したことだろう。
【ル-ト地図】の21正面に笠置山(1128)がぼんやり見えるだけ。左の御嶽山(3068)、右の恵那山(2191)は見えず。
左はラ・プロバンス。ケーキが美味いそうだ。
尾張藩の千村平右衛門源征重(五歩)の「馬子唄の響きに浪立つ清水かな」の歌から由来するという。今は飲用不可。
和宮が気に入った清水だそうで、柄杓が置いてあるがここも飲用不可。
共同の洗い場跡
説明板には、「明治41年にこの塚は2円50銭で払い下げられ、その後取り壊されました。」とある。江戸幕府から明治維新はやっぱり、革命だったのか、少なくとも「文化大革命」だったことは間違いなしか。
広重の浮世絵のモデル地。
説明板には、急坂で苦しさを紛らわすために唄いながら上ったとあるが、各地にある「うとう坂」と同じで、「烏頭坂」・「善知鳥坂」・「歌坂」・「有藤坂」・「御塔」・「宇土坂」・「音坂」・「宇都布坂」・「鵜頭坂」など、様々な字を当てている。『うとう坂表』
太田南畝は『壬戌紀行』で、「善知鳥村の善知鳥坂」と書いている。また、滝沢馬琴は、『烹雑(にまぜ)の記』で、「美濃の御嶽駅(御嵩宿のこと)の東に、うとふ村あり。」と記す。「謡」は「うとう」の当て字で、「唄いながら上った」というのも、後世の創作に過ぎない。(うとう坂については、『江戸の坂東京の坂』(横関英一)に詳しい。)
右は三面六臂、左は一面二臂で「村中安全」と刻むという。
発見された「隠れキリシタン遺跡」の十字架を刻んだ自然石は、この先の「中山道みたけ館」の「御嵩町郷土館」に確かに展示されていた。
武田耕雲斎率いる水戸の天狗党がここを通った時、耳神社の祭礼の大幟を敵軍の布陣と勘違いし、刀を抜いて通ったという逸話がある。
西国、四国、板東、秩父の霊場巡拝記念碑。十三峠の観音坂の坂上にもあった。
三面六臂の馬頭観音で、台座正面に「寒念仏供養塔」・左側に「維持明和二酉年」・右側に「八月彼岸珠日」と刻まれているそうだ。寒念仏は一年で最も寒い時期に、村人が白装束で集まり、鉦を叩いて念仏を唱えながら村中を練り歩く修行のことで、心身を鍛え願いを祈念した。
左の石垣は何なのか?
浮世絵は牛でなく馬だが??
右の電柱の下に小さな馬頭観音が佇む。
ひっそり目立たず往来する旅人、牛馬を見守ってきた小仏さん。
和泉式部廟所 《地図》
各地にある和泉式部の墓の一つ。
石柱だけかと思ったが、右奥に社殿があるようだ。
津島神社(正面上)の手前で国道から離れ左へ旧道(県道341号)に入る。
上町の用心井戸。飲料用、防火用でもあり、火除け、火伏せの秋葉様が祀られている。
【ル-ト地図】の24江戸末期に本陣野呂家から分家した商家。明治10年頃の建築。
2階の郷土館に「キリシタン遺跡」から発見された十字架を彫った自然石などが展示されている。
願興寺(可児大寺・蟹薬師)
蟹薬師の由来は、近くの池から1寸8分の薬師如来が無数の蟹の背に乗って現れたという言い伝えによるとか。
鬼の首塚(国道21号沿い) 《地図》
遥拝のみ
顔戸城址 《地図》
応仁の乱の頃に斉藤妙椿が築いた平城。
比衣一里塚跡 《地図》
標柱がなければ一里塚跡とは分からないほど小さくなってしまっている。
高倉山古墳 《地図》
この地域では最も古い4世紀後半に築造された前方後方墳。
伏見宿本陣跡碑・「是よ里東尾州領」の傍示杭(公民館前) 《地図》
一ヶ所にまとめて並べられているだけという感じ。宿場の面影は残らず。
宿場の西方にあった「伏見大杉」と呼ばれた杉の大木だが、これも今はない。
中恵土一里塚跡 《地図》
国道21号の中恵土交差点近く、ラッキープラザ店前に最近立てられたもの。
【ル-ト地図】の25これはちゃんと飲めて美味い水だ。
今渡の渡し跡(弘法堂の下) 《地図》
対岸が「木曽で桟橋(かけはし)、太田で渡し、碓氷峠がなくばよい」と馬子唄で唄われた中山道の難所だった「太田の渡し」。
名古屋城下からの木曽街道の終点でもある。
広重の絵は木曽川を急流のようには描いていない。
太田橋のたもと
上流方向だったか、このあたりの流れは広く、穏やかだ。
新町木戸門あたり
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