中山道(太田宿→鵜沼宿→加納宿)
2009年10月14日
美濃太田駅・・・太田宿・太田稲荷神社・祐泉寺・高札場跡・・・(弥勒寺跡)・・・(国道41号)・・・虚空蔵寺・・・尾張藩代官所跡(太田小学校)・・・芳春院・深田神社・・・国道21号・・・加茂川・・・酒倉交差点・・・ロマンティック街道・(日本ライン御幸巌)・・・勝山西交差点・国道21号・・・(巌屋坂)・観音坂・岩屋観音・・・カフェテラスゆらぎ・(国道21号・JR高山線)・・・長坂・・・うとう(謡)峠・うとう坂一里塚跡・・・うとう坂・・・合戸池・・・みどり坂上・・・天王坂・赤坂神社・・・地蔵堂・・・塞の神坂・・・見桃院・・・鵜沼宿・尾州領傍示石・高札場跡・安積門・鵜沼宿町屋館・・大安寺橋(大安寺川)・・稲置街道(犬山街道)合流地点・・・二宮神社・・・弘法堂・・・衣装塚古墳・空安寺・・・坊ノ塚古墳・・・津島神社・・・国道21号・・・(山の前一里塚跡・播隆上人碑)・(JR高山線)・・・(各務ヶ原駅)・・・(三柿野駅)・(名鉄各務ヶ原線)・・・三柿野町交差点・旧道・・・六軒一里塚跡・竹林寺・・・神明神社・・・市民公園・・・那加橋(新境川)・・・新加納町交差点・旧道・・・栄町秋葉神社・・・西那加稲荷神社・・・日吉神社・・・新加納一里塚跡・立場跡・・・善林寺・(少林寺)・・・西坂・西坂の松並木跡・・・(東海北陸自動車道)・・・高田橋(境川)・・・手力雄神社・・・市場山浄慶寺・・・切通観音堂・切通陣屋跡(長森城址)・・・伊豆神社・・・誓賢寺・・・細畑の一里塚跡・・・地蔵堂・道標・・・八幡宮・・・(東海道線)・・・茶所駅(名鉄線)・・岐阜街道(御鮨街道)合流地点・・・新荒田川・・・加納宿・加納八幡神社・加納大橋(新荒田川)・秋葉神社・東番所跡・善徳寺・柳町秋葉三尺坊・専福寺・水薬師・高札場跡・・・加納城大手門跡・・・加納城跡・・・旧加納町役場・・・加納天満宮・・・雲瑞寺・・・天満橋(清水川)・・・岐阜駅
太田宿の昔の面影の残る家並みを抜け深田神社の先で国道21号に出るが、車の往来の激しさに嫌気がさし、取組一里塚跡(碑)の手前の酒倉交差点から工場の敷地内?を通って木曽川の土手に上り、ロマンティック街道を歩く。勝山西交差点で国道に戻りしばらく進み、観音坂の石段で岩屋観音に上る。もっと手前に岩屋観音への道があるのだが、なぜか気づかず通り過ぎてしまったようだ。
この先、今の中山道はカフェテラス「ゆらぎ」のすぐ先で石段を下り、小さな流れ沿いに国道とJRをくぐり長坂の上り口に出る。この間はとても街道とは呼べない代物だ。ここから一登りで明るく開けた団地が広がるうとう峠へ出る。まったく往時の峠の趣きはない。うとう峠からうとう坂、赤坂、塞の神坂をくだると鵜沼宿へ入る。ここも古い家並に往時が偲ばれる。
津島神社の先で国道21号に合流して高山線を越える。このあたりに山の前一里塚跡碑があるはずだが見つからず。JRと名鉄の間をひたすら西へ向う。名鉄三柿野駅の先で名鉄の線路を越える。南側は航空自衛隊岐阜基地で、時折、頭上を轟音をあげて戦闘機?が飛んで行く。どこへ行くのか訓練なのか? 市民はよく我慢をしているよ。三柿野町交差点の先で右へ旧道に入ると竹林寺の前が六軒一里塚跡で碑だけが立っている。市民公園の前を通り、新境川を渡り、新加納一里塚からゆるやかな西坂を下り、東海北陸自動車道をくぐると、各務ヶ原市から岐阜市に入る。
平坦な所を歩いているのに山道よりも気分的に疲れを感じる。名鉄の茶所駅から加納宿の中心部へ入り、いくつもの枡形を曲がり、加納城の大手門跡に出た頃にはいい加減足の方も疲れてきた。もう一ふん張りで加納城跡まで行き、小休止して中山道に戻る。加納宿は本陣、脇本陣などの建物は残らず、碑のみがぽつんと立つだけで宿場風情は残っていない。加納天満宮から岐阜駅近くのビジネスホテルに向った。7時半過ぎに歩き始めたのにもう日がだいぶ傾いてきた。それほどの距離とは思ってなかったのだが今日もけっこう歩いたようだ。
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
逍遙は太田宿の代官所で生まれた。
【ル-ト地図】の26祐泉寺(左)の所の枡形
文明6年(1474)の創建の臨済宗の寺。火難水難守護の瀧場観音がある。本尊の聖観音菩薩は、7年ごとの開帳。美濃西国三十三観音霊場の第27番札所。
脇本陣林家 《地図》
虚空蔵寺・承久の乱の古戦場跡 《地図》
こちら(太田宿)側は朝廷軍、対岸(可児側)は幕府軍。
【ル-ト地図】の28坪内逍遥の父は代官所の役人だった。
大した景勝地でもないように見える。本場のライン川はこんなものではないだろう。行ったことはないが。
なんちゅうこともない、土手沿いの道だが車が通らないだけ歩きやすい。
「さるぶた」と勘違いした。
正面の城山(265m)に猿啄城跡がある。岩屋観音の上の方だろう。
この手前から岩屋観音の方へ上るのが中山道の「巌屋坂」だが、気づかずに通り過ぎたのか、今は崩落の危険があって通行不能となっているのか?
中山道は巌屋坂を上り、岩屋観音の前を通りここへ下りてくるようだ。
上流方向の眺めがいいらしのだが、ここからは見えず。
岩屋観音堂 《地図》
「ゆらぎ」の後ろから国道、JR高山線をくぐるのが今の旧中山道。
このあたりに「栗栖の渡し」があったらしい。
ここが中山道とは・・・・。
正面に案内板がある。
長坂からうとう峠を越え、赤坂、塞の神坂までを「うとう坂」と総称している。
峠上は新しい団地が広がる明るい所で、峠の雰囲気は全然ない。このあたりも地元の中高年のウオーキング道になっている。
「「うとう」とは疎(うとい・うとむ・うとう)で、「不案内・よそよそしい・気味の悪い」などの意味が考えられます。」と書かれている。何を「うとむ」のか、何が気味悪いのか、そういう伝承、由来話があるのか? これを書いた人は、うとう坂は各地にあることも、「うとう」の語源についても知らないのだろう。『うとう坂表』
、
池の南東側から「みどり坂」が下る。《地図》
坂の右手に赤坂神社(天王社)がある。
前掛けの下には、右側に「右ハさいしょ(在所)みち」・左側に「左ハ江戸井せんこうし(善光寺)みち」と書かれているそうで、道標も兼ねていた。このあたりが鵜沼宿の東の見付け跡。
【ル-ト地図】の33地蔵堂から下る坂としたが、塞の神(道祖神)は見当たらなかった。
東の見付けとの間に高札場があった。
大安寺橋を渡った所で『稲置街道(犬山街道)』が合流する。【ル-ト地図】の33-2 鵜沼宿町屋館 《地図》
江戸時代の旅籠「絹屋」で、明治から昭和30年代までは郵便局だった旧武藤家住宅。
遥拝で済ませたが、社殿前の石垣の一部に古墳の石室が使われているようで惜しいことをした。
4世紀末から5世紀前半の築造と推定される直径52mの県下最大規模の円墳。前方後円墳だった可能性もあるという。前方部は空安寺の建立で削平されてしまったようだ。
駐車場(空安寺)の所が鵜沼宿の西木戸跡
坊ノ塚古墳(後円部) 《地図》
昼飯大塚古墳に次ぐ、県下2番目の規模の前方後円墳。
手前が後円部
【ル-ト地図】の34細面のやさしい顔立ちをしている。三面八臂?の観音さん。
新加納一里塚・立場跡(正面に一里塚の木柱と説明板が立つ。) 《地図》
鵜沼宿と加納宿の間の宿。
名鉄各務ヶ原線・正面は東海北陸自動車道
【ル-ト地図】の36古い石灯籠と新しい社殿がミスマッチ風で面白い。
電柱右下に道標、ここは枡形になっている。神社まではけっこう距離がある。
右は書かれていないようだ。
岩戸南方一帯の滞留水を境川に落としていたことによる地名。
切通観音堂・切通陣屋跡 《地図》
ここは渋谷金王丸(土佐坊昌俊)が築城した長森城があった場所という。渋谷金王丸は東京渋谷の渋谷城址の金王八幡宮境内の「金王丸影堂」に祀られているが、同一人物だろうか?
幟に隠れて見にくい。
祭神は大山祗神の娘「石長姫命」で手力雄神社の祭神で男神の荒神「天手力雄命」をいさめる神。
長森細畑交差点を渡った所。
【ル-ト地図】の37中山道をはさんで榎が立つ2塚が並ぶ。
地蔵堂の左に道標 《地図》
左が「伊勢名古屋ちかみち」、右へ直進するのが「木曽路」(中山道)
ここは茶所駅
『岐阜街道(御鮨街道)』と合流して加納宿をしばらく進む。【ル-ト地図】の38踏切を渡った所。この先の交差点の「だんごや」の前を右に曲がる枡形になっている。ここからいくつもの枡形が続く。
ここを右に曲がる。正面の「だんごや」は中山道の案内所にもなっている。
後ろの木立は加納八幡神社
明治時代に建てられたので、京都方向は「西京」か。「谷汲」は西国三十三ヵ所観音霊場の満願寺の第33番札所の谷汲山華厳寺で、加納宿から赤坂宿までの中山道で北に向かう道標があれば、それはほとんどが谷汲参道だそうだ。
加納宿を抜けるまでにはいくつもの秋葉神社がある。よほど火事が多く、怖かったのだろう。
太田薬局前に道標「右 ぎふ道」・「左 中山道」で、「ぎふ道」は、『美濃路・岐阜街道(御鮨街道)』で、ここで分かれて行く。
ここも枡形だ。
慶長17年(1612)6月21日夏、清水川で泳いでいた伊三郎という若者が黄金の薬師像を拾い上げ、光国寺に奉納した。これを慶んだ藩主奥平忠政と亀姫(加納御前・加納の方)は清水川の川中に二間四方の浮見堂を建て安置した。以来、水薬師、乳薬師と呼ばれ乳の出る仏として親しまれている。亀姫は徳川家康の長女で、忠政は亀姫の3男の奥平忠政。
本丸北側の石垣
今は公園となり子どもの遊び場、中高年と犬の散歩道か。
松並木の向こう側に加納城が画かれている。
旧加納町役場(国登録有形文化財)《地図》
空襲を避けるため黒く塗られていたのがはげたそうだ。夜はちょっと薄気味悪そうだ。
もとは旅籠、今はうなぎで有名な料理屋。左甚五郎作「月夜に川原で餅をつくウサギ」の欄間がある。火事の時、欄間の「川原」から水が噴出し、一瞬のうちに火を消したという、まるでスプリンクラ-のような欄間だ。(建物が傾いているのではありません)
【ル-ト地図】の41文久3年(1863)から当分の間、補助的に置かれた本陣。本陣のまま幕末を迎えたのか。
万治元年(1658)松波清左衛門が開業。西は河渡宿から、東は鵜沼宿から出入りする人馬の継ぎ立てをした。
【ル-ト地図】の42
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