日光街道(間々田宿→小山宿→新田宿)
2009年11月23日
間々田駅(JR宇都宮線)・・・(国道4号)・・・乙女不動原瓦窯跡(乙女かわらの里公園)・・・泉龍寺(乙女不動)・・・国道4号・・・逢の榎・・・琴平神社・・・龍昌寺(寝起不動)・・・間々田宿問屋場跡(東京から72k地点)・・・宿本陣跡(間々田三郵便局前)・・・間々田八幡宮・・・間々田の一里塚跡あたり(間々田郵便局あたり)・・・千駄塚古墳(浅間神社)・・・長屋門・・・西堀酒造(栗宮南交差点)・・・安房神社・・・栗宮交差点・旧道(県道255号)・・・天満宮・・・小山の一里塚跡あたり(天神2-1)・・・千手観音堂・・・須賀神社(七つ石)・・・妙建寺・・・小山市役所・小山評定所跡・小山御殿跡・・・常光寺・・・明治天皇小休止所跡碑・小山宿脇本陣跡・・・本陣跡あたり(中央町2-10)・・・問屋場跡(常陽銀行あたり)・・・小山市まちの駅「思季彩館」・・・元須賀神社・・・結城街道合流地点・・・興法寺・・・愛宕神社・・・(JR両毛線)・・・日枝神社(大ケヤキ)・・・喜沢の追分・蛸屋菓子店・・・旧道・・・喜沢の一里塚跡・・・国道4号・・・新田宿本陣門・・・吉田神社跡石柱・羽川薬師堂(雨引観音・十九夜塔)・・・旧道・石仏群・・・国道4号・・・小金井駅(JR宇都宮線)
快晴の休日で紅葉狩りだろうか、東武日光線の快速急行は家族連れ、外人さんのグループなどで満席だ。こちらは東武動物公園駅から鈍行、久喜駅から宇都宮線に乗り継ぐ。どちらもガラガラだ。今時、街道歩きなんてのはマイナーな遊びなのよ。間々田駅から日光街道を突っ切り、小山市立博物館の隣りの乙女不動原瓦窯跡へ向う。公園風に思ったよりきれいに整備されていた。隣りの泉龍寺の門前には乙女不動像が立っている。所詮、乙女と不動明王とは結びつかず、不動像も中途半端で感心しない出来栄えに感じたが。
街道に戻り、逢の榎の先から左へ間々田八幡宮へ向う。八幡池や相撲の土俵もある境内は広い。説明板の前でメモを取るリュック姿の中年の女性がいた。デジカメで撮った方が楽で正確なので、「書くのは大変でしょう。」と余計なことを言ってしまった。彼女も日光街道を歩いているのだろうか。
安房神社の先で旧道は国道4号と分かれ、小山市街地へと直進して行く。歩道と車道の段差がなく、車がひっきりなしに通る道は見るべき所もなく飽きてくる。このあたりの地名「神鳥谷」の読み方が面白く、由来などを考えて退屈しのぎになったのがせめてもの救いか。街道を離れ、持宝寺、須賀神社から小山市役所の小山評定所跡に寄る。市役所前の小山御殿跡はちょうど発掘調査中で掘り起こされている。
小山駅近くのラーメン屋で盛りのいいラーメンを昼食とする。ライスも付くそうだが半日近く歩いているとはいえそうは食えない。脇本陣家の門と、商家風な思季彩館にしか宿場の感じが残っていない小山宿を抜け、ひたすら北上する。喜沢南交差点の先で右へ細い旧道に入る。右には東北新幹線が走る。しばらく行くと左の林の中に喜沢の一里塚跡が残り、右(東)塚は民家の前に少しこんもりした所か。(上の写真は通り越した所から振り返ったもの。)
その先は何も無く、国道4号に合流すると新田宿なのだが、宿場風情は残らず、本陣の門だけがぽつんと立つだけ。吉田神社跡の石柱の奥に薬師堂と墓地がある。墓地の大量な落葉を一人でかき集めて清掃しているおばさんとしばし雑談し小休止とする。銅市工業の前から左に入り、馬頭観音道標、青面金剛像などが並ぶ旧道に入る。青面金剛像には「新田宿下組講中」と刻まれていて、新田宿があったことを納得する。この先は行き止まりの標識が置かれ、雑草の生えた道となる。国道4号に戻って夕日を正面から浴びている小金井駅に向った。
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
古代、下野薬師寺、下野国分寺などの瓦を焼いた窯場。
右に乙女不動像
乙女とも不動ともつかない中途半端な像だと思うが。
江戸と日光の中間点(ほぼ18里)で「間の榎」呼ばれていたのが「逢の榎」に変わった。祖師堂が建てられ縁結びの榎とされた。間(あい)→逢い→会い→愛?
境内に面白い由来のある「寝起不動尊 」を祀っている。
慶安4年(1651)年、徳川家光の遺骸を日光廟に葬送の際に安置所が設けられた寺。
東京から72k地点の標柱の所
一般的な説明のみ。
【ル-ト地図】の26間々田宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠50軒だった。
これも一般的な説明だけ。
天平年間の勧請で、俵藤太(藤原秀郷)が平将門の乱平定を、源頼朝が奥州藤原氏征討の戦勝祈願をした社。
同時に建立された狛犬だろうか、年を経てずいぶんと顔つきが変わってしまったようだ。
5月に「蛇祭り」が行われる。池の畔には芭蕉の「古池や 蛙飛び込む 水の音」の句碑がある。むろんこの池のことではないが。
3人で友沼宿から持ち帰ったという、110kgの石。江戸時代の力持ち、あの三宮卯之助なら一人で持ち帰ったかも。友沼も宿と呼ばれていたのか。
千駄塚古墳 (浅間山古墳) 【ルート地図】の27
直径70m、高さ10mの円墳。6世紀代の築造と推定される。墳頂に浅間神社の社殿がちゃっかりと乗っている。
銘柄が「門外不出」・「奥座敷」、味はいざ知らずだが、あまり飲む気になれない名だ。出されれば何でも飲むくせに。
崇神天皇の時の創建という。ここも藤原秀郷が戦勝祈願した社。
この先の地名は「神鳥谷」で「ひととのや」、「しととのや」との説もあり、小山市の内部でも説が分かれていたそうだ。参照:『小山-歴史散歩』
神が人になったのは「人間天皇」を連想させる。
水戸の徳川斉昭を一喝したという、黄門さまも顔負けの青蓮寺の気骨ある住職の話が面白い。
山門に「弓削道鏡根本開基寺」とある。
「孝謙天皇」と天皇名を刻むことから戦時中の供出を免れたという運のいい?鐘。孝謙天皇は道鏡のパトロンで道鏡を寵愛し、皇位にまでつけようとした女帝。下世話にいうと愛人だったとも。
観音さんの顔を見ようとしたが、ブロック塀に囲まれていて入口がない。と思う。
天慶3年(940)、平将門の乱を平定した小山氏の祖、藤原秀郷が京都八坂神社から勧請。
結城の城内に運ばれ、哀れげに泣いたという石らしくない我がままで、弱虫な石が七つ。叩き割ってしまえばよかったものを。
【ル-ト地図】の28徳川家康が会津の上杉征討を中止し、西の石田光成との戦(関が原の戦)に方向転換した小山評定が行われた地。
徳川秀忠が日光社参用の休泊施設として造営。現在、発掘調査中。
戊辰戦争の弾痕が台座の後部に残るというが、見てもはっきり確認できず。
奥が脇本陣跡
唐破風の風格ある門だが下が隠されていて惜しい。小山宿に残るのはこれだけか。
いずれも説明板も痕跡もなし。小山宿は本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠74軒だった。
思季彩館(小山市まちの駅)
小山市が旧八百忠跡の敷地と古商家、石蔵を借り上げて作った観光交流センター。奥に石蔵が続いている。
須賀神社はもとは小山市中喜久にあったというから、この神社ではないだろう。では「元」は何か?
スーパーホテルの交差点で東から来た結城街道が合流する。もとは東京浅草の浅草寺に数百年間あったものだそうだ。
貞応2年(1223)城主小山朝政が山城国の愛宕神社を勧請して創建したという。
狛犬は天明5年(1785)の奉納。
ここを左へ曲がると、あの「小山遊園ちぃ~」があったのだ。今は「おやまゆうえんハーヴェストウォーク」になっている。「東京都知事選」後の桜金造はどうしているのか、最近テレビでは見かけないようだが。
樹齢400年以上のケヤキが3本。これは説明板の「イ」の木。
参道と社殿の間を国道4号が走っていて車がひっきりなしに通り横断が困難。横断歩道をつけてくれよ。
【ル-ト地図】の29飯塚宿・壬生宿を通り、楡木宿で日光例幣使街道と合流する壬生道(日光西街道)との分岐点で、茶屋があった。 横断歩道の向こう側に供養塔、馬頭観音が並ぶ。その上は蛸屋菓子店の看板。
創業元禄11年(1698)、発祥の地は宮城県仙台。「蛸」は、伊達の殿様が魚屋は魚屋らしくなく、菓子屋は菓子屋らしくない名前をつけよと命じたからともいうそうだ。
本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠11軒だった。
江戸時代中期の建立で、昭和60年に再建。堂内の薬師さんは厨子の中で見えず。
南側にこの地域の天領を支配した幕府代官陣屋があった。
坂東34ヵ所観音霊場の第24番に雨引観音(雨引山楽法寺・茨城県桜川市)がある。
ここを直進する。途中に行き止まりの標識が道路上に置かれている。
「ドーイチ」の倉庫の後ろに馬頭観音道標、庚申塔などが並んでいる。
側面に「左 おざく道」、鹿沼市石烈(おざく)への道のようだ。
中央の青面金剛庚申塔の側面に「新田宿下組講中」とある。数少ない新田宿の名残の一つだろう。左の宝暦2年(1752)の六十六部供養塔には「左おざく こくふんじ」と刻まれているそうだ。「こくふんじ」はここから北西に4kmほどの下野国分寺。
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