日光街道(越谷宿→粕壁宿)
2009年11月16日
南越谷駅(JR武蔵野線)・・・国道4号・・・照蓮院・・・旧道・日光街道越谷宿・・八幡神社・・有瀧家住宅(タブの木の家)・・浅間神社・・木下半助商店・・塗師屋・・鍛冶忠商店・金田金物店・・市神社・・・大沢橋(元荒川)・・・越ケ谷御殿跡・・建長元年の板碑・稲荷社・・・宮前橋(元荒川)・・・久伊豆(ひさいず)神社・天嶽寺・・・地蔵堂・地蔵橋(葛西用水路)・・・(古峰神社?)・・・大沢1交差点(県道3号)・・・旧道・・・照光院・・・香取神社・・・北越谷第5公園・・・宮内庁埼玉鴨場・・・大林寺・・・東武伊勢崎線踏切・・・阿弥陀堂・・・(国道4号)・・・下間久里香取神社・・・国道4号(陸橋入口交差点)・・・戸井橋(新方川)・・・大枝香取神社・歓喜院(武里観音)・・・武里駅入口交差点・会之堀川・・・女帝神社・・・雷電神社(建御雷神社)・・・称名寺・・・備後一里塚跡碑・・・善巧寺・・・藤塚橋(大落古利根川)・・・(東武野田線)・・・東町大下稲荷社・・・八坂神社・・・一宮交差点・・・東八幡神社・・・東陽寺・・・かすかべ大通り・・・源徳寺・・・郷土資料館・・・本陣脇・本陣跡あたり(ロビンソンデパート前)・・・田村家・・・粕壁宿説明板・・・永嶋商店・・・(寺町)・普門院・最勝院・・・妙楽院・・・玉蔵院・・・春日部駅(東武伊勢崎線)
時々陽が射す曇り空の下、風がなく暑くも寒くもなく歩くのには手頃の日だ。照蓮院から左に旧道に入ると宿場風情の家並みが残っているが、越谷宿の案内板、説明板などはない。市神社の先、大沢橋の手前から街道からはずれ越谷御殿から宮前橋を渡り、長い参道の久伊豆神社、隣りの天嶽寺に寄り、地蔵橋から旧日光街道に戻る。旧道といっても車の往来が多く、歩道も分離していない歩きにくい道だ。
下間久里香取神社の先で国道4号に出る。ちゃんと歩道はついているが単調な車道歩きが続き飽きてきて街道から離れ、武里駅入口交差点から会之堀川を渡り東に入り、女帝神社、雷電神社、称名寺へと国道の東側を歩く。国道に戻り、見落としそうになった備後一里塚を過ぎ、右に入り藤塚橋で古利根川を眺め、一宮交差点先の東八幡神社と向いの芭蕉ゆかりの寺、東陽寺に寄る。芭蕉は1日で千住からここまで来たのだ。昔の人の健脚ぶりには脱帽だ。
旧日光街道は一宮交差点から西(左)に曲がって「かすかべ大通り」の粕壁宿に入って行く。本陣や脇本陣などは跡形もないが、古くからの商家に宿場の面影が感じられる。街道は寺町の手前で右に曲がり新町橋を渡るが、直進して春日部の名にちなむ墓のある最勝寺など寺町をざっと回って春日部駅に向った。
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
武田勝頼の遺児、千徳丸の供養塔がある。
供養塔の写真は、『越谷市内の史跡』の中にある。
越谷宿に入る。
(2019年2月14日撮影)
このあたりから古い商家の家並みや旧家が残っていて宿場の面影を感じさせるが、説明板、案内板などは見当たらない。越谷市は日光街道、越谷宿には無関心のようだ。
有瀧家の黒板塀 《地図》
「タブの木の家」と標示されている。この道は「赤山街道」で赤山陣屋(城址・川口市赤山)から北東に進み、この先は久伊豆神社脇を通り、県道越谷野田線に出て、新方橋、古利根川を渡り、松伏町の大川戸の杉浦陣屋跡へと続いている。
日光街道は直進 浅間神社 《地図》
ケヤキ、懸仏(かなえぼとけ)(富士山と大日如来を型取った円形銅板の仏)は越谷市の有形文化財
(2019年2月14日撮影)
小泉市右衛門宅。漆を扱っていた店で屋号を塗師屋。かつては呉服店だったが、 今は閉店している。
ここは開業している。
越谷宿は元荒川、古利根川多くの用水に囲まれた湿地帯で、農産品よりも工芸品の達磨、雛人形、桐たんす作りで発展した。 宿の街道沿いには六斎市が立ち賑わっていたのだろう。
家康の時に建てられ、秀忠も鷹狩の際に立ち寄った御殿。明暦の大火で全焼した江戸城の再築のため、御殿は解体され資材として運ばれてしまった。
御殿跡前の元荒川
近世以前の荒川は利根川の支流で、寛永6年(1629)の荒川の瀬替えによって、荒川が入間川に付け替えられるまでは、元荒川は荒川の本流だった。このあたりは『葛西用水⑥』でも歩いている。
「弥陀一仏」の種子(梵字)が彫られた越谷市内で最大、最古の板碑。
「くいず」と読んで、クイズ番組参加者の信奉があるとか。
出店はたたまれず残っているが参拝者はまばら。(散歩人は多い。)昨日は七五三で賑やかだったか。
鷹狩りの時に徳川将軍家が参拝したという。社紋「立葵」はその際に将軍家より奉納されたと伝える。
庚申塔道標(寛政12年(1800)の建立・久伊豆神社参道左側)
「はしの方江戸 川かみかすかべ みや乃方さしま 川志も二がう半」
敷石建立供養塔道標(寛政9年(1797)建立) 参道の右側。前の庚申塔道標の斜め前。
右側面に「是より野田道」
狛犬の足を結ぶ「足止め」をすると、家出をしたり悪所通いをする者が家に必ず帰ってくるという。
延宝元年(1673)の文字庚申塔や元禄8年(1695)の青面金剛庚申塔がある。
天嶽寺参道側にも道標を兼ねた猿田彦大神塔(左端)や六十六部供養塔(右端)が並ぶ。
正面下にに「南こしがや 北のじま いわつき」、右側面に「東志めきり まくり かすかべ」
「かハしもニがう半 川かみかすかべ」 ニがう(郷)半は今の吉川市、三郷市のこと。
開山は太田道灌の伯父の源照。後北条氏の城砦だったこともあったという。
二階建てだが鐘楼門ではないようだ。鐘楼は右に。
由来が書いてあると思ったがそうではない。地蔵堂を建てた人たちの中の一人が書いたもののようだ。
「昔、地蔵にゆかりのある子孫が石仏の下に宝物を埋めたら雲か霞のように消え失せた。・・・」とある。そりゃあそうだろうよ。
右奥に貼ってある紙には、「・・・元文2年(1737)の建立で安産、子育の地蔵・・・」と書かれているようだが、はっきり見えず。中央の板碑のような石板に浮彫りされた地蔵のことをいうのだろうか。
香取神社 《地図》
下々の者は寄せ付けない、市民とは隔絶された空間への冷たい門だ。鴨猟は行っているが、捕った鴨は食べずに放鳥しているというが・・・・。
ここのはちゃんと屋根付の祠内だが。
踏切を渡った左側にいくつもの石仏、庚申塔などまとめられている。というより捨てられているという方が当たっているか。
下間久里香取神社 《地図》
例大祭に奉納される獅子舞は埼玉県の無形民俗文化財。
左は「石橋建・・・」?
往古から平方南の里神社として祀られてきた神社という。
雷電神社から称名寺への道。日光街道(国道4号)の東側の道。祠内には石造地蔵が2体。
日本橋から8つ目の一里塚。ぽつんと立っていてうっかりして通り過ぎそうになった。
弘法大師が備後国(広島県)に安置した観音像が関東に移る際に行方不明になった。それがこのあたりで見つかったのが地名の由来という。観音像は今は勝林寺にあるそうだ。
江戸時代初期の利根川東遷事業で利根川が東京湾から太平洋に注ぐ河川に付け替えられる以前の利根川の流路。。「大落」(おおおとし)とは農業排水を落とすとの意。
境内には「松の樹稲荷大明神」をはじめ、8つもの小社がある。ゲートボール場もある。
左から65貫目・60貫目・100貫目(375kg)・?貫目
中山道桶川宿の稲荷神社には三之宮卯之助が持ち上げたという610kgの大石がある。ただし仰向けに寝て足で持ち上げていたらしい(「足指し」という方法)。『中山道(上尾宿→鴻巣宿)』(2009年10月3日)に記載。ここの100貫目の石は手で持ち上げたのだろうか?
奥の細道で芭蕉が泊まったとされる寺。山門右脇に「伝芭蕉宿泊の寺」碑が立つ。泊まったのはこの先の観音院との言い伝えもある。
「曽良の随行日記」の碑
「廿七日夜、カスカべニ泊ル 江戸ヨリ九里余」
何の標示もない。
今日月曜は休館日。
右前に大きな道標が立つ。
大きく彫られた文字で、「西南いハつき」・「東 江戸」・「北 日光」のようだ。
表の街道から裏の古利根川まで延びている。
粕壁宿説明板(問屋場跡あたり) 《地図》
本陣1軒、名主3軒、向屋場1軒、旅籠45軒、寺院8軒、商家、農家など159軒の宿規模。(「向屋場」は「問屋場」の間違い。郷土資料館に確認した。春日部市ではなく、町内会で立てた案内板らしい。) 問屋場は田村家が勤めていた。
慶長年間(1596~1614)創業という米屋。屋根上に鍾馗像
最勝院の前には、明治26年に千住馬車鉄道の始発駅が設けられていた。
鎌倉時代のこの地方の領主だった春日部重行は南朝の忠臣で足利尊氏との戦いに敗れ、京都で自刃したという。重行の子の家縄が遺骨を持ち帰り葬ったのがこの塚と伝わっている。
この地は、春日部→粕壁→春日部に戻った
成就院先の小社 《地図》
何を祀ってあるのか分からず。
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