中山道(本庄宿→新町宿)
2009年10月30日
本庄駅(JR高崎線)・・・旧中山道(県道392号)・・・本庄宿・本陣跡あたり・開善寺・慈恩寺・(本陣門)・歴史民俗資料館・・・泉林寺・・・(国道462号)・・・金鑚(かなさな)神社・・・浅間山古墳・泪橋由来碑・・・楠森橋(御陣場川)・・・庚申塔・・・薬師小堂・・・金窪八幡神社・・・金窪山法西寺・・・南雲稲荷大明神・・・金窪城址・・・陽雲寺・・・中山道案内板・・・賀美村道路元標(賀美小学校)・・・庚申塔・勝場一里塚跡・・・国道17号・・・(高崎線)・・・大光(だいこう)寺・・・神流川(かんながわ)橋(神流川)・・・県道131号・・・神流川合戦跡碑・・・常夜灯・・新町宿・八坂神社(柳茶屋の芭蕉句碑)・・・諏訪神社・・・専福寺・浄泉寺・・・佐渡奉行街道分岐地点(新町郵便局交差点)・・・高札場跡碑・・・明治天皇行在所跡・・・於菊稲荷神社・・・新町駅(JR高崎線)
宿場風の家並みではなく、レトロな建物が残る本庄宿から神流川を越えて上州路に入り、新町宿までの中山道歩き。晴れてもう11月だというのに夏日となって暑い日だった。
【ルート地図】
*参考:『上里町歴史・文化財』・『高崎市の文化財』・『本庄市の坂』
写真をクリックすると拡大します。
本陣跡あたり(中央1-6) 《地図》
創業永禄3年(1560)は「桶狭間の戦い」のあった年だ。中山道もまだ整備されていなかった頃からの店だ。
天正19年(1591)年、本庄城主小笠原信嶺が開基し、球山宗温和尚の開山。本庄七福神の布袋尊。
明治16年建築の本庄警察署の建物。
「本庄七福神」の寿老人
旧本庄商業銀行の建物
医院名は右書きだが、まだ新らしそう見える。
樹齢350年以上
7世紀後半に築造された直径38mの円墳。
胴張両袖型。
大名行列などの際に苦役を課せられた農民たちが身のはかなさを嘆いては泪を流した所という。碑の前の2つの石は橋の遺物か。川はどのあたりを流れていたのか?
長屋門風で、敷地内には他の建物跡もある。昔はこのあたりの名家だったのか。雑草のとげがズボンにびっしりついてしまった取るのに苦労した。
道の両側にある。
庚申塔や二十三夜塔が小さな参道代わり風に置かれている。
金窪八幡神社 《地図》
雨乞いの獅子舞で有名という。
この先に金窪城址、城址公園がある。
治承年間(1177~80)に加治屋治が築城し、天正10年(1582)の神流川の合戦で落城後、川窪氏が城主となり、丹波に転封する元禄11年(1698)に廃城となる。
うまそうな子豚で賑やかだ。
武田信玄夫人の法号の陽雲院からの寺名。陽雲寺の墓もある。
銅鐘の竜頭は朝鮮式の上向き。撞屋上の四方たすきに仏像を彫刻し、駒爪には蓮弁をあらわす。朝鮮式の銅鐘は県下でもまれなものという。
畑児塚と銅鐘
武蔵国最後の一里塚だった。
神流川の本庄側にあった常夜灯。文化12年(1815)み本庄宿の商人の戸谷半兵衛が両岸に建立。
大光寺は建保3年(1215)武蔵七党の一人、勅使河原権三郎有直が創建。開山には栄西禅師が迎えられた臨済宗の古刹。毎年4月23日の蚕影山大祭には植木市などが立つ。
神流川合戦で焼失し、明治時代には高崎線の灰煙を被り全焼したそうだ。国鉄はちゃんと弁償したのだろうか?
左の親子地蔵(不背碑)は、忠臣勅使河原直重の父子の墓。地蔵の浮彫りのようだ。頭部が欠けている。
勅使河原氏は武蔵七党の一つである丹党に属し、直重父子は南朝方として足利尊氏と戦って敗れたらしいが、詳しいことは分からず。
六地蔵石憧(右)は勅使藤原信雄の墓。
「勅使山」の扁額が架かる。
賀美村農協で醤油造りに使っていたもの。
本庄側の土手にある。
神流川には二筋の流れがあり、その中央の中州まで板橋が架けられ、中州からは対岸の新町には舟で渡っている。
本物(本庄側と同じ文化12年に造られたもの。)は高崎市大八木の諏訪神社にある。新町では常夜灯を元に戻す交渉をしたがうまくいかず、昭和53年にこの常夜灯を復元したという。
柳の大木があり、「柳の茶屋」があったという。
鳥居の右に芭蕉句碑「傘(からかさ)におしわけ見たる柳かな)
笠木の曲線が美しい明神鳥居。1基に元禄12年(1702)の銘があるという。
地中に埋まっているのではない。上部だけ保存されている。
玉石垣を盗むとは。
新町郵便局交差点で、佐渡奉行街道が北方向(右折)に分岐する。【ル-ト地図】の39
民家の玄関先に立っている。ここまでが笛木新宿で、ここから先が落合新宿。
明治天皇行在所跡 《地図》
於菊稲荷 【ルート地図】の40
宝暦年間のこと。新町で売れっ子の飯盛女のお菊さん。ある日突然。医者にも見放される病にかかった。お菊さんは普段からお稲荷さんの信心が篤く、境内に小屋を作って養生させたらすっかり元気になった。その後、お菊さんは稲荷のお告げで巫女になり、何事も言い当てた。そしてこの稲荷を「於菊稲荷」、「おたすけ稲荷」と呼ぶようになったという由来話。
「冰香」(ひょうこう)の筆跡は蜀山人の狂歌にも詠まれた、寛政の4大詩人の大窪詩仏のもの。
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