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2009年11月21日 (土)

日光街道(粕壁宿→杉戸宿→幸手宿)

2009年11月18日

Img_0928_2 春日部駅(東武伊勢崎線)・・・新町橋(古利根川)・・・八坂香取稲荷合社・仲蔵院・・・小渕の一里塚跡碑・・・追分道標・・・小渕交差点・国道4号・・・観音院(こぶとり観音・芭蕉句碑)・・・杉戸町・北緯36度線モニュメント地球儀・・・稲荷社・・・旧道・・・九品寺(庚申塔道標)・・・国道4号・・・馬頭院・・・堤根交差点・旧道・・・(三本木一里塚跡)・・・関口酒造・・・南側用水路跡・近津神社・・・神明神社・・・明治天皇小休止跡碑・・・本陣跡地前交差点・・・杉戸宿本陣跡・・・脇本陣跡・・・愛宕神社・大六天神社・・・小島家住宅・・・宝性院・・・渡辺家住宅・・・国道4号・新左衛門橋(大膳堀)・・・厳島神社・・・大島交差点・心学の道・・・稲荷社・恭検社・・・国道4号・・・茨島の一里塚跡・・・旧道・東武日光線踏切・・・道路元標・南公民館・・・日光御成道合流点(岩槻幸手線)・・・神宮寺・・・(東武日光線)・・・志手橋(倉松川)・・・神明神社(たにし(螺)不動)・・・明治天皇行在所跡・・・(東さくら通り・陣屋道)・・・本陣知久家跡・・・聖福寺(勅使門)・・・幸手の一里塚跡・・・正福寺・・・(国道4号)・・・北側用水路・・・熊野権現社・・・清保堂(清浦堂?)・権現堂堤・順礼の碑・行幸堤碑・・・行幸橋(中川)・・・旧道・・・道標(筑波道分岐)・・・雷電神社・・・小右衛門下組八幡神社・真光寺・小右衛門の一里塚跡(弁財天祠)・・・済世会栗橋病院・・・平成橋・・・南栗橋駅(東武日光線)

 天気予報では冷たい北風の吹く日といっていたがそうでもなく、風も弱く後ろから陽を受けポカポカで気分がいい道中だ。新町橋を渡り粕壁宿を抜け、小渕の一里塚跡の先で国道4号に出て観音院に寄り、歩道に地球儀のモニュメントの立つ杉戸町に入る。しばらくすると左に九品寺前を通る旧道に入る。

 また国道に出て、馬頭院の先の堤根交差点から再び左に旧道へ入る。この先に三本木一里塚の説明板があるはずだが、見あたらないうちに杉戸宿に入ってしまった。本陣跡は門と松だけだが、所々に往時の宿場風情の漂う町並みが続いている。

 国道4号に合流して、茨島の一里塚跡の先で左に旧道に入り、東武線の踏切を渡って進むと左から来る日光御成道と合流する。右に行き、再び東武線を渡ると幸手宿の町並みとなるが、ここはあまり宿の面影は感じられない。正福寺前の幸手一里塚から直進して街道から離れ、熊野権現堂から権現堂堤に上り、花見の時は賑わう桜並木の間を行く。

 行幸橋を渡ると旧道は左に国道4号下の道となる。細い静かな道で、国道、車道歩きの疲れも癒される。荒れた弁財天の祠が上に立つ小右衛門の一里塚跡の先で今日の終点として、左に一直線にまぶしい西日と強い西風を受けながら南栗橋駅へと向った。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_0908 新町橋から古利根川(葛西用水

左から流れ込むのは古隅田川。中世以前は古利根川から流れ込んで元荒川へと通じていたそうだ。自然、人為的による川の流れの変遷は複雑だ。

Img_0921 仲蔵院(右)・八坂香取稲荷合社(左)

Img_0911 由緒(仲蔵院)

Img_0918 右の小堂が三体尊か。右から弘法大師?・庚申塔・地蔵が並んでいる。境内を掃除している中年男性に聞いてもはっきりした返事は聞かれなかった。中央は寛政4年(1792)の青面金剛庚申塔と文化10年(1813)の供養塔。

Img_0922 小渕の一里塚跡碑(左)・庚申塔  【ルート地図】の①

日光街道を右に曲がった所に立っていて見逃しそうだ。

Img_0925 正面の関宿往還との分岐点に大小2つ道標

関宿は利根川と江戸川の分岐に位置する利根川水運の要衝地で関宿藩が置かれていた。現在の千葉県野田市関宿。日光街道は左へ行く。右は村田家の塀。

Img_0929 道標(関宿往還分岐)

小さい方は宝永6年(1709)の建立の自然石で、「右方せきやど道、左方あふしう道」と刻まれている。大きい方は宝暦4年(1754)の建立で、正面には「青面金剛」、左面に「左日光道」と刻まれている。

Img_0935 観音院仁王門

京都聖護院の末寺で、小渕山正賢寺

本尊は、「いぼ」・「こぶ」・「あざ」にご利益があり、「こぶとり観音」と呼ばれている。

Img_0937 説明板

Img_0940 芭蕉句碑

「ものいへば 唇さむし 秋の風」

この寺には「奥の細道」の旅で芭蕉が泊まったとする言い伝えがある。

Img_0938 境内の「二十六夜塔」(左)

月待ち信仰の一つで、旧暦の正月または7月26日の夜に、精進供養して月の出を待ち、月が昇ればこれを拝し、共同飲食などをした。

Img_0941 北緯36度線モニュメント地球儀(正面)

Img_0942 説明板

Img_0956 九品寺(左)

Img_0949 庚申塔道標(九品寺内)

天明4年(1784)に地元堤根の村人の建立。「右江戸」・「左日光」、正面には「青面金剛」と刻まれている。台座の左側には水準点を表す「不」の字のような形の几号(きごう)刻印されている。この記号は草加市の富士浅間神社の水盤にもあった。この先でも出会う。

Img_0960 旧家

Img_0964 馬頭院

本尊は伝教大師作と伝える馬頭観音像。

明治6年から35年まで新知学校、堤郷尋常小学校の校舎として使われた。「杉戸七福神」の大黒天

Img_0962 説明板

Img_0961 説明板

Img_0965 旧道はこの先、堤根交差点で国道から分かれ左に入り、杉田宿へ向う。

旧道に入ってすぐ?に、三本木の一里塚の説明板があるはずだが見つからず。ゆっくり歩きかなりしつこく、キョロキョロと探したのだが。

Img_0974 関口酒造(杉戸町清戸2-1)

文政5年(1822)の創業の清酒「杉戸宿」の蔵元。

Img_0978 南側用水路跡(近津神社の参道前)

昭和36年まで葛西用水支流の農業用水路がここを流れていた。

Img_0976_2 説明板

Img_0977 当時の写真

Img_0985 近津神社

平成13年に不審火で焼失した社殿は再建された。もとはもっと大きな社殿だったのだろうか。

Img_0982 由緒

Img_0987 巴湯

一風呂浴びたくなるような銭湯だが、まだ営業時間前。

Img_0992 神明神社

小社だが杉戸宿の鎮守。左は神輿蔵のようだ。

Img_0993 明治天皇小休止跡碑

中央三井信託銀行前のポスト脇

Img_1001 本陣跡(長瀬家) 【ルート地図】の②

建坪166.5坪で、上段の間もある広大な屋敷だったが、明治初年の火事で建物は焼失。残るは門と松だけか。

Img_0998 脇本陣跡小林質店

Img_1003 質屋蔵が愛宕神社の方まで延びている。

今でもこの蔵には質物がぎっしり詰まっているのだろうか?「質屋通い」なんてのはもう死語に近いと思っていたが。

Img_1008 愛宕神社

神明神社・香取神社(上杉戸)とともに杉戸宿の鎮守

社殿の後ろの塚上には大六天社の祠が祀られている。

Img_1005 説明板

Img_1011 杉戸宿の町並み

Img_1012 旧家

Img_1016 小島家

 

Img_1018 宝性院

幸手城主一色氏ゆかりの寺で、明治になって杉戸学校が置かれた。「奥の細道関東三十三か所霊場」の第15番の石柱が立つが、この三十三霊場については調べても分からず。

Img_1022 門前の庚申塔

中央のは2mもの高さがあるか。

Img_1026 馬頭観音道標

新しそうに見えるが文化?年のもののようだ。かつては日光街道沿いにあったのが、邪魔になってこの寺の境内に移された(寺が引取った)のだろう。

Img_1023 由緒

Img_1028 杉戸七福神の毘沙門天

Img_1020 杉戸学校説明板

Img_1031 渡辺家

Img_1032 黒光りの土蔵がすごい。

Img_1034 正面から

Img_1040 心学の道

恭検社への道。ただの車道だが。

Img_1042 恭検社跡と稲荷社 《地図

地元出身の大島有隣が心学を説いた家。

Img_1043 説明碑

Img_1047 茨島の一里塚跡(高野台東1-15) 【ルート地図】の③

正面の「山田うどん」の駐車場前に説明板が立つ。ついでにここで、「冷しきつねうどん」で昼食とする。

Img_1045 説明板

Img_1056 道路元標(南公民館の前)

Img_1054 説明板

Img_1059日光御成街道合流点 《地図

もとは道路元標はこの橋のたもとに立っていたようだ。ベルグは道路元標の説明板の、石井酒造の敷地だ(だった?)そうだ。

Img_1057 説明板

Img_1063 神宮寺

源頼朝が奥州征伐の折に、戦勝を祈願して開基したとも伝えられる寺。

Img_1062 説明板

Img_1069神明神社

ここに高札場があったという。螺不動は境内の菅谷不動のこと。

Img_1066 説明板

Img_1071 「螺(たにし)不動」の菅谷不動

境内、菅谷不動内にも「たにし」の絵馬や、たにしに関するものは見あたらず。眼病に霊験あらたかという信仰もすたれたか。

Img_1070 ここにも「不」が。上部が壊れて残った石灯籠の基礎の部分に几号(きごう)が刻印されている

Img_1079 明治天皇行在所跡

石柱の後ろに木製の古い説明板。

Img_1075 説明板

Img_1076 木製の古い説明板の説明板

ややこしい

Img_1084 日光街道の看板が掛かっているが、宿場風情はあまり残らず。

Img_2073 本陣知久家跡

うなぎの「義語家」(幸手市中1-8)

Img_2072 説明板

Img_1091 聖福(しょうふく)寺勅使門

この寺には左甚五郎作の欄間や運慶の阿弥陀像などがあるというが、警戒の厳重な寺でなじめない。

Img_1090 説明板

Img_1092 説明板

Img_1093 芭蕉・曽良句碑

奥の細道の旅から帰って詠んだ句、曽良の句の「寺の門」は、この寺の勅使門と解している。

Img_1094 説明板

Img_1095 幸手の一里塚跡 【ルート地図】の④

右の電柱の前に説明板が立つ。正面の石灯籠は正福寺参道入口のもの。日光街道は右にカーブする。

Img_1096 説明板

Img_1099 正福(しょうふく)寺

Img_1097 説明板

Img_1100 義賑窮餓之碑

天明3年(1783)の飢饉の時に金品を出し合って難民を救った幸手宿の義民21名を讃えた顕彰碑。

Img_1105 ここにも日光道中の大きな道標

宝性院と同様、街道沿いにあったのだろう。

Img_1107 石太菓子店

「塩がま」が美味いそうだ。文久年間(1861~63)の創業。

Img_1110 熊野権現社

権現堂村、権現堂堤、権現堂川の名の由来となった神社。

Img_1112 説明板

Img_1114 説明板にある自然石の庚申塔か?

Img_1117 清保堂 《地図

権現堂堤へ上がる所。清浦堂かも?

Img_1119 権現堂堤の桜並木

昭和初期に廃川となった権現堂川(今は権現堂調節池)の堤。

Img_1128 説明板

Img_1124_2  順礼の碑

享和2年(1802)の長雨で利根川が決壊した時、自ら人柱になったのか、それとも川に投込まれたのか、哀れな順礼親子の姿が線刻されている。

Img_1126 説明板

Img_1120 行幸水門と?橋

向こう側は茨城県五霞町

Img_1133 行幸(みゆき)堤之碑

向うは行幸橋

Img_1131 説明板

Img_1132 日光街道は破線で直線的に描かれている。

Img_1135 行幸橋から中川

向うは東武日光線

Img_1137 国道4号下の細い静かな道となる。

Img_1138 筑波道(右)との分岐の道標

Img_1140 説明板

Img_1141 「左日光道」・「右つくば道」

つくば道は日光街道が整備される以前の奥州街道だったらしい。江戸時代には入り鉄砲、出女の取締まりの厳しい栗橋関所を避ける抜け道として利用され、「女廻り道」とも呼ばれていた。

Img_1146 昔ながらの酒屋さん

Img_1145 東武日光線が通る。のどかな風景だ。

Img_1147 雷電神社

Img_1152 境内の地蔵の小祠、庚申塔、十九夜塔、回国供養塔

月待ち信仰の十九夜塔は、安産、子育てなど女性の信仰が篤く、この先、栃木県に入ると女人講中で建立したものが多く見られる。

Img_1163_2小右衛門下組八幡神社

最近建てられた地元の小社。小右衛門はこのあたりの開発者の名で、村の名にもなっていた。

Img_1168 小右衛門の一里塚跡(左の木の茂っている所)・真光寺 【ルート地図】の⑤

Img_1169 説明板

Img_1170 塚上の弁財天社はこんな状態。中も壊れて荒れ果てている。いっそのこと、取り壊して(移設して)塚を復元したらどうか。

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