日光街道(粕壁宿→杉戸宿→幸手宿)
2009年11月18日
春日部駅(東武伊勢崎線)・・・新町橋(古利根川)・・・八坂香取稲荷合社・仲蔵院・・・小渕の一里塚跡碑・・・追分道標・・・小渕交差点・国道4号・・・観音院(こぶとり観音・芭蕉句碑)・・・杉戸町・北緯36度線モニュメント地球儀・・・稲荷社・・・旧道・・・九品寺(庚申塔道標)・・・国道4号・・・馬頭院・・・堤根交差点・旧道・・・(三本木一里塚跡)・・・関口酒造・・・南側用水路跡・近津神社・・・神明神社・・・明治天皇小休止跡碑・・・本陣跡地前交差点・・・杉戸宿本陣跡・・・脇本陣跡・・・愛宕神社・大六天神社・・・小島家住宅・・・宝性院・・・渡辺家住宅・・・国道4号・新左衛門橋(大膳堀)・・・厳島神社・・・大島交差点・心学の道・・・稲荷社・恭検社・・・国道4号・・・茨島の一里塚跡・・・旧道・東武日光線踏切・・・道路元標・南公民館・・・日光御成道合流点(岩槻幸手線)・・・神宮寺・・・(東武日光線)・・・志手橋(倉松川)・・・神明神社(たにし(螺)不動)・・・明治天皇行在所跡・・・(東さくら通り・陣屋道)・・・本陣知久家跡・・・聖福寺(勅使門)・・・幸手の一里塚跡・・・正福寺・・・(国道4号)・・・北側用水路・・・熊野権現社・・・清保堂(清浦堂?)・権現堂堤・順礼の碑・行幸堤碑・・・行幸橋(中川)・・・旧道・・・道標(筑波道分岐)・・・雷電神社・・・小右衛門下組八幡神社・真光寺・小右衛門の一里塚跡(弁財天祠)・・・済世会栗橋病院・・・平成橋・・・南栗橋駅(東武日光線)
天気予報では冷たい北風の吹く日といっていたがそうでもなく、風も弱く後ろから陽を受けポカポカで気分がいい道中だ。新町橋を渡り粕壁宿を抜け、小渕の一里塚跡の先で国道4号に出て観音院に寄り、歩道に地球儀のモニュメントの立つ杉戸町に入る。しばらくすると左に九品寺前を通る旧道に入る。
また国道に出て、馬頭院の先の堤根交差点から再び左に旧道へ入る。この先に三本木一里塚の説明板があるはずだが、見あたらないうちに杉戸宿に入ってしまった。本陣跡は門と松だけだが、所々に往時の宿場風情の漂う町並みが続いている。
国道4号に合流して、茨島の一里塚跡の先で左に旧道に入り、東武線の踏切を渡って進むと左から来る日光御成道と合流する。右に行き、再び東武線を渡ると幸手宿の町並みとなるが、ここはあまり宿の面影は感じられない。正福寺前の幸手一里塚から直進して街道から離れ、熊野権現堂から権現堂堤に上り、花見の時は賑わう桜並木の間を行く。
行幸橋を渡ると旧道は左に国道4号下の道となる。細い静かな道で、国道、車道歩きの疲れも癒される。荒れた弁財天の祠が上に立つ小右衛門の一里塚跡の先で今日の終点として、左に一直線にまぶしい西日と強い西風を受けながら南栗橋駅へと向った。
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
新町橋から古利根川(葛西用水)
左から流れ込むのは古隅田川。中世以前は古利根川から流れ込んで元荒川へと通じていたそうだ。自然、人為的による川の流れの変遷は複雑だ。
右の小堂が三体尊か。右から弘法大師?・庚申塔・地蔵が並んでいる。境内を掃除している中年男性に聞いてもはっきりした返事は聞かれなかった。中央は寛政4年(1792)の青面金剛庚申塔と文化10年(1813)の供養塔。
日光街道を右に曲がった所に立っていて見逃しそうだ。
関宿は利根川と江戸川の分岐に位置する利根川水運の要衝地で関宿藩が置かれていた。現在の千葉県野田市関宿。日光街道は左へ行く。右は村田家の塀。
小さい方は宝永6年(1709)の建立の自然石で、「右方せきやど道、左方あふしう道」と刻まれている。大きい方は宝暦4年(1754)の建立で、正面には「青面金剛」、左面に「左日光道」と刻まれている。
京都聖護院の末寺で、小渕山正賢寺
本尊は、「いぼ」・「こぶ」・「あざ」にご利益があり、「こぶとり観音」と呼ばれている。
「ものいへば 唇さむし 秋の風」
この寺には「奥の細道」の旅で芭蕉が泊まったとする言い伝えがある。
月待ち信仰の一つで、旧暦の正月または7月26日の夜に、精進供養して月の出を待ち、月が昇ればこれを拝し、共同飲食などをした。
天明4年(1784)に地元堤根の村人の建立。「右江戸」・「左日光」、正面には「青面金剛」と刻まれている。台座の左側には水準点を表す「不」の字のような形の几号(きごう)が刻印されている。この記号は草加市の富士浅間神社の水盤にもあった。この先でも出会う。
本尊は伝教大師作と伝える馬頭観音像。
明治6年から35年まで新知学校、堤郷尋常小学校の校舎として使われた。「杉戸七福神」の大黒天
旧道はこの先、堤根交差点で国道から分かれ左に入り、杉田宿へ向う。
旧道に入ってすぐ?に、三本木の一里塚の説明板があるはずだが見つからず。ゆっくり歩きかなりしつこく、キョロキョロと探したのだが。
【ル-ト地図】の17文政5年(1822)の創業の清酒「杉戸宿」の蔵元。
昭和36年まで葛西用水支流の農業用水路がここを流れていた。
平成13年に不審火で焼失した社殿は再建された。もとはもっと大きな社殿だったのだろうか。
一風呂浴びたくなるような銭湯だが、まだ営業時間前。
小社だが杉戸宿の鎮守。左は神輿蔵のようだ。
中央三井信託銀行前のポスト脇
建坪166.5坪で、上段の間もある広大な屋敷だったが、明治初年の火事で建物は焼失。残るは門と松だけか。
今でもこの蔵には質物がぎっしり詰まっているのだろうか?「質屋通い」なんてのはもう死語に近いと思っていたが。
神明神社・香取神社(上杉戸)とともに杉戸宿の鎮守
社殿の後ろの塚上には大六天社の祠が祀られている。
幸手城主一色氏ゆかりの寺で、明治になって杉戸学校が置かれた。「奥の細道関東三十三か所霊場」の第15番の石柱が立つが、この三十三霊場については調べても分からず。
中央のは2mもの高さがあるか。
新しそうに見えるが文化?年のもののようだ。かつては日光街道沿いにあったのが、邪魔になってこの寺の境内に移された(寺が引取った)のだろう。
恭検社への道。ただの車道だが。
恭検社跡と稲荷社 《地図》
地元出身の大島有隣が心学を説いた家。
正面の「山田うどん」の駐車場前に説明板が立つ。ついでにここで、「冷しきつねうどん」で昼食とする。
もとは道路元標はこの橋のたもとに立っていたようだ。ベルグは道路元標の説明板の、石井酒造の敷地だ(だった?)そうだ。
源頼朝が奥州征伐の折に、戦勝を祈願して開基したとも伝えられる寺。
ここに高札場があったという。螺不動は境内の菅谷不動のこと。
境内、菅谷不動内にも「たにし」の絵馬や、たにしに関するものは見あたらず。眼病に霊験あらたかという信仰もすたれたか。
ここにも「不」が。上部が壊れて残った石灯籠の基礎の部分に几号(きごう)が刻印されている
石柱の後ろに木製の古い説明板。
ややこしい
うなぎの「義語家」(幸手市中1-8)
この寺には左甚五郎作の欄間や運慶の阿弥陀像などがあるというが、警戒の厳重な寺でなじめない。
奥の細道の旅から帰って詠んだ句、曽良の句の「寺の門」は、この寺の勅使門と解している。
右の電柱の前に説明板が立つ。正面の石灯籠は正福寺参道入口のもの。日光街道は右にカーブする。
天明3年(1783)の飢饉の時に金品を出し合って難民を救った幸手宿の義民21名を讃えた顕彰碑。
宝性院と同様、街道沿いにあったのだろう。
「塩がま」が美味いそうだ。文久年間(1861~63)の創業。
権現堂村、権現堂堤、権現堂川の名の由来となった神社。
清保堂 《地図》
権現堂堤へ上がる所。清浦堂かも?
昭和初期に廃川となった権現堂川(今は権現堂調節池)の堤。
享和2年(1802)の長雨で利根川が決壊した時、自ら人柱になったのか、それとも川に投込まれたのか、哀れな順礼親子の姿が線刻されている。
向こう側は茨城県五霞町
向うは行幸橋
向うは東武日光線
つくば道は日光街道が整備される以前の奥州街道だったらしい。江戸時代には入り鉄砲、出女の取締まりの厳しい栗橋関所を避ける抜け道として利用され、「女廻り道」とも呼ばれていた。
月待ち信仰の十九夜塔は、安産、子育てなど女性の信仰が篤く、この先、栃木県に入ると女人講中で建立したものが多く見られる。
最近建てられた地元の小社。小右衛門はこのあたりの開発者の名で、村の名にもなっていた。
| 固定リンク
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 結城街道⑥(下館駅→日光街道合流地点)(2020.07.02)
- 結城街道⑤(岩瀬駅→下館駅)(2020.06.29)
- 結城街道④(稲田駅→岩瀬駅)(2020.06.23)
- 結城街道③(内原駅→稲田駅)(2020.06.19)
コメント