中山道(新町宿→高崎宿)
2009年11月3日
新町駅(JR高崎線)・・・旅籠高瀬屋跡・・・宝勝寺・・・小林本陣家跡碑・・・弁財天公園・弁財天神社・スリーデーマーチ発祥地碑・弁天橋(温井川)・・・旧道・・・川端家住宅・・・信迎庵・・・(関越自動車道)・・・(薬師堂)・・・宝昌寺・・・柳瀬橋(烏川)・・・北向子育観音堂・・・観音寺・岩鼻代官所跡・天満天神社・・・(高崎線・八高線)・・・閻魔堂・追分(日光例幣使街道)・・・(下の木戸跡)・・・(大鼓橋跡)・・・本陣跡碑・・・御伝場人馬継立場跡碑・・・脇本陣跡碑・脇本陣跡須賀家・・・高札場跡・・・雁公園・倉賀野城址・・・(大杉神社跡)・井戸八幡宮・・・倉賀野河岸跡・・・牛街道・・・倉賀野神社・・・(上の木戸跡)・・安楽寺(安楽寺古墳・異形板碑・勝軍地蔵尊)・・・(一里塚跡あたり)・松並木・・・正六観音堂・・・大鶴巻古墳・・・小鶴巻古墳・・・浅間山(せんげんやま)古墳・・・(国道17号)・・・(上越新幹線)・・・(上信電鉄)・・・愛宕神社・・・光明寺・・・高崎公園・頼政神社・・城址公園・史跡公園・高崎城址・・・大信寺・・・高崎駅
昨日までの暖かさとはがらり一変、寒波の到来で上州名物のからっ風に向って高崎宿まで歩く。柳瀬橋を渡っていると左前方に雪を被った山が見え始める。岩鼻町交差点を左折すると今度は正面右に見える。通りがかったおばさんに聞くと、妙義山という返事。そうかなあとは思いつつも一応納得。日光例幣使街道との追分を過ぎたあたりで、十六騎武者行列とすれ違った。倉賀野城十六騎とは、戦国時代に幼い倉賀野城主の代わりに城を守った十六人の武将のことらしいが詳細は分からず。
倉賀野城址そばの井戸八幡宮で自転車で散歩中の地元の(郷土研究家)の方に倉賀野河岸の場所を聞き、ついでにさっきの(雪景色の)山のことを聞くと浅間山という答え。方向からいってもこちらの方が正解だろう。昨日までは白くはなかったという。おまけに自宅まで戻って持ってこられた「倉賀野マップ」で、近辺を詳しく説明していただく。控えめだが地元を愛する熱心さが感じられた。
安楽寺から宿を抜け、街道から離れ大鶴巻、小鶴巻古墳に寄り、浅間山古墳から中山道に戻る。ここから高崎市街地までは何もない車道歩きで北風が冷たく疲れが増す。高崎公園から高崎城址、大信寺に寄り高崎駅に向った。ここまでが日帰りで行ける中山道だろう。この先、碓氷峠を越え軽井沢から諏訪、木曽路歩きは来年とするか。
*参考:『高崎市の文化財』
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
文化7年(1810)に一茶が宿泊した旅籠。前日からの雨で烏川が川留めになりここに泊まる。雨の疲れですやすや寝ていると、明け方に突然起こされ石灯籠(神流川の新町側の常夜灯)の寄進をしつこくせがまれ、根負けして十二文寄付したという逸話が残る宿。寄進をせがんだ男を蛍に見立てて句を詠んだ。
「手枕や 小言いふても 来る蛍」
一茶の「七番日記」の一部が記載されている。(光線の具合で自分が写り込んで、文章がよく見えず。)
小林本陣跡碑(ブロック塀の前) 《地図》
天明3年(1783)の建立という。鳥居の両側に芭蕉句碑、道祖神、庚申塔が並ぶ。
句碑には、「むすぶよりはや歯にひびく泉かな」と刻まれているそうだがよく見えず。説明板にある旅人の喉を潤した清水を詠んだ句。
今日は東松山で行われている「日本スリーデーマーチ」の3日めだ。長い列を連ねて、だらだらぞろぞろと歩いていることだろう。
弁天橋を上流から見ている。左は赤城山
伊勢島神社 《地図》
広い敷地に立派できれいな家。
旧本庄警察所(現在の本庄市歴史民俗資料館)と似た感じのレトロな建物。
解体されつつあるのか。
赤城山か?
北向子育観音堂 《地図》
昔は中山道は、「柳瀬の渡し」からこの前を通っていた。
高崎線を越えたあたりから。
追分(下町交差点の所)・閻魔堂・道標・常夜灯が立つ。 【ルート地図】の42
中山道を倉賀野宿で分かれ日光へ至る日光例幣使街道(左・日光方面)との追分。日光東照宮の毎年の例祭に合わせて、京の朝廷から金の御幣を託された例幣使の日光への参拝道。
閻魔堂は江戸時代には阿弥陀堂と呼ばれていた。堂内には閻魔さんが座っている。明治時代になって阿弥陀如来から閻魔に変わった。
屋号が叶屋の造り酒屋だった。
仲町山車倉の前に「中町御傳馬人馬継立場跡」碑があるが、立場は北側にあったという。天保14年(1843)には3箇所に継立場があったそうだ。
倉賀野宿には脇本陣は2軒あった。
脇本陣須賀家 《地図》
河岸問屋で脇本陣。明治時代の建物で連子格子の主屋、付属屋(番人小屋)、白壁の塀が目を引く。裏手には江戸期の薬医門、土蔵、味噌蔵などが残るそうだ。
鎌倉時代、武州児玉党の流れを汲む一族が倉賀野氏を名のり、14世紀末にその子孫が築城。戦国期には上杉、武田、後北条の勢力の挟間で、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に陥落した。『倉賀野マップ』より
『倉賀野マップ』をくれた郷土研究家の方が書いたもの。
正保3年(1646)、倉賀野城三の廓に一夜に出現した井戸が起源と伝える。井戸は残っているというが気づかなかった。
今はこのあたりの流れは急だ。
倉賀野宿と近隣七ケ郷の総鎮守。旧社名を「飯玉宮」
社殿前の常夜灯は文久3年(1863)「三国屋つね」の寄進したもの。
旅籠、飯盛女たちも高崎より多く、繁盛した宿だった。
狂歌「乗りこころよさそふにこそ・・・・」を見ると「十返舎一九」も相当な好き者だったようだ。
けっこう「おどろおどしい」縁起。
もとは太鼓橋近くにあり、旅籠や飯盛女の信仰を集めた神社。明治42年に倉賀野神社に合祀された。
「七仏薬師さま」の古刹。薬師の開帳は12年毎の巳年。
古墳時代末期の7世紀後半に築造された直径30m近い円墳。安楽寺により一部が削られている。墓の主は安楽ではないだろう。
将棋の駒形の板碑。南北朝以前の物という。
正六観音 《地図》
観音は堂内の小祠内で見えず。
なぜ「正六」なのか? 正は正座観音か、正源からだろう。六は「約六センチ」ではなかろう??
大鶴巻古墳(後円部から)
4世紀末から5世紀初頭築造の全長123mの前方後円墳
5世紀後半築造の全長87mの前方後円墳。南東部分で大鶴巻古墳と周濠を共有する。墳丘はかなり荒らされているそうで、前方部の形がはっきりしない。(ように見えた)
全長171mの前方後円墳で群馬県では太田天神山古墳(210m)に次ぐ2番目の大きさ。築造は大鶴巻山古墳と同時期。
ノッポのビルは高崎市役所
高崎藩主松平輝貞が祖とする源頼政(源三位(げんざんみ)頼政)を祀る神社
はじめに「上州無智亦無才」とある。上州人なら怒りそうな出だしだが、もっと深い意味があるようだ。私も高崎生まれだが、上州人とは思っていない(上州生まれの意識がない)のでどうでもいいことだが。
【ル-ト地図】の46
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