日光街道(栗橋宿→中田宿→野木宿)
2009年11月20日
南栗橋駅(東武日光線)・・・旧道・・・(東北新幹線)・・・(国道4号)・栗橋大一劇場・旧道・・・上通神社・・・会津見送り稲荷・・・(国道125号)・・・ほうろく(焙烙)地蔵・・・顕正寺(池田鴨之助の墓)・・・浄信寺・・・深廣寺(六角名号塔)・・・福寿寺・・・静御前の墓・・・栗橋宿本陣跡池田家・・・栗橋関所跡・・・八坂神社・・・関所番所屋敷跡・・・利根川橋・茨城県古河市・・・房川渡しと中田関所跡説明板・・・中田宿説明板・・・鶴峯神社・・・光了寺・・・円光寺・・・本願寺・・・中田の松並木跡・・・(JR宇都宮線踏切)・・・茶屋松原跡・茶屋新田・香取神社・・・原町の一里塚跡(古河二高)・・・台町三叉路・・・肴町通り・・・古河宿本陣跡・高札場跡・・・・二丁目曲(かね)の手通り・・・よこまち柳通り・・・国道4号・・・野木神社・・・(野木宿説明板・野木の一里塚跡)・・・満願寺・・・浄明寺・・・観音堂①・・・愛宕神社・・・観音堂②・・・法音寺・・・友沼八幡神社・・・馬頭観音道標・・・乙女の一里塚跡あたり・・・若宮八幡神社・・・乙女八幡宮・・・仏光寺・・・間々田駅(JR宇都宮線)
東武線の車内では前の座席の7人中6人がマスクをしている。予防接種の順番はいつ回って来ることやら。流行も下火になってからのことか。時代遅れの青年?にはお似合いか。そんなつまらないことを考えながら南栗橋駅を降りる。
昨日の冷たい雨の真冬並みの寒さとはうって変わっての好天だ。国道4号の左下を進み、国道4号の合流点の栗橋大一劇場の前から旧道に入る。会津見送り稲荷を過ぎ、国道125号をくぐり栗橋の町中に入ると、右側にほうろく地蔵が出迎えてくれる。栗橋駅前の小公園風の静御前の墓へ寄り、旧道へ戻りちょっとは昔の面影がある栗橋宿を行く。狛鯉の八坂神社から長い利根川橋を渡ると古河市に入り中田宿となるが、かつての宿場の家並みは移転し、利根川の河原と土手の下になって跡形もない。
真っ直ぐな単調な道を古河宿を目指す。古河二高の校庭隅に残る原町の一里塚跡を過ぎ、台町三叉路から古河宿、古河城下となる。ここは今年の6月に1日かけて回っているので、街道を足早に進む。よこまち柳通り(上の写真)から古河宿を抜けるまでは快調だったが、この先、思い違いなどでいくつかのポイントを通り過ぎたり見逃してしまってどっと疲れが出た。
野木神社の参道先の国道沿いが野木宿だが宿場の痕跡すら残っていない。(野木宿案内板・野木一里塚説明板があるらしいが見落とす。) ここからは長い国道4号歩きとなって見るべき物も少なく、何か見つけて右へ左へと広い車道を横切りながら進むのは疲れる。(横断歩道も所々にはあるのだが先へ行ったり、戻ったりで大変だ。) このあたりの街道沿いは小さな石柱の文字馬頭観音(道標)と女人講中が建てた十九夜塔が多い。
友沼の八幡神社を過ぎると小山市の乙女に入る。乙女八幡宮の社殿前をちょうど下校時間で、乙女小学校の児童がにぎやかに帰って行く。少し遠回りに感じるが車道を避けて神社の境内を通学路としているのか。まあ正真正銘、紛れもない乙女と童子たちだろう。小山駅まで行ける時間だが、こちとらもこのあたりで切り上げて帰ることとして間々田駅に向った。
*参照:「坂道散歩・古河市」(2009年6月29日)
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
栗橋大一劇場 《地図》
「祝オープン」の花輪が並ぶストリップ場。半年ほど休店して10月に再開したようだ。栗橋駅からはかなり離れているのでタクシーで来るのか、国道4号で車で来る客が多いのか。 まあどうでもいいこった。開演は11時から、まだだいぶ時間があるので客らしき人物、踊り子、劇場関係者らしき姿はなしか。
江戸時代に江戸に向う会津藩士が道に迷った。するとどこからともなく白髪の老人が現れて道案内をして助けてくれた。後日、この老人が狐の化身と分かり、ここに稲荷社を祀ったという。本尊は女性らしき人物が狐にまたがるというものらしいが、 民家の庭の中なので、ここからで遠慮する。
昔はこのあたりの土手に狐が多く棲み、「土手の狐穴は、そこから漏水して土手が切れるから埋めるように」との幕府役人が命じていたという。
関所(栗橋関所、中田関所)破りで、火あぶりの刑に処せられた者を供養するために祀られたという。ここは処刑場跡という。
東京文京区の大円寺には、「八百屋お七」を供養する焙烙地蔵が(『文京区の坂⑨』)、日光街道草加には、「火あぶり地蔵」がある。
「炮烙」の字を使っている。
「エボ地蔵」ともいわれ、エボ取りにもご利益があるそうだ。イボ(疣)のことだろう。
栗橋宿を開き、代々本陣役をつとめた池田鴨之助の墓がある。
「くりはし八福神」の毘沙門天。七福神に吉祥天を加えているのだ。唯一の女性神だった弁財天が怒るかも。
高さ3.6mの供養塔。「南無阿弥陀仏」と刻まれている。二代住職が伊豆大島から大石を持ち帰り、承応から明暦の間に千人供養塔を20基建立した。明和3年(1766)には九代住職が三千人供養塔を1基建立した。
「くりはし八福神」の恵比寿
「くりはし八福神」の寿老人
「くりはし八福神」の福禄寿
静御前の墓(栗橋駅前)
享和3年(1803)に関東郡代中川飛騨守忠英が「静女之墳」を建立したとされる。正面は新しい石塔。もとの石塔は左の石祠に入っている。静御前の遺骸を葬ったという高柳寺は中田宿の光了寺へ移転した。
右脇には文化3年(1806)に村人が建てた江戸の歌人の座泉の歌碑もある。
静御前はこの地で死んだとするが、捕らえられて鎌倉に送られ、源頼朝の前で舞いを命じられ、京に帰されたという話が一般的か? その後は母の故郷の大和高田の磯野の里に帰り余生を過ごしたとも。『横大路』・『下街道①』
今は不動産店
本陣跡池田家(栗橋町北2-7) 《地図》
利根川対岸の中田の関所から移された日光街道唯一の関所だった。
船渡しだったが、将軍の日光社参の際には舟橋が架けられた。51艘の舟を並べて利根川を渡っている。栗橋と対岸の中田の間の利根川を房川と呼んだ。その訳は諸説あって不明という。
栗橋宿の総鎮守。神体は慶長年間(1596~1614)に利根川の洪水の時に鯉と亀とが運んできたものと伝えられている。亀の像は見当たらなかった。狛亀があってもいいだろうよ。
撫でると除災、招福の霊験あらたかとか。
関所番士屋敷跡(北2-17) 《地図》
栗橋関所の番人の足立家の屋敷。現在も足立家の住居。
牡丹灯籠の「栗橋宿」で、伴蔵がお峰を殺したのはどのあたりか。
「房川渡・中田関所説明板」が左の電柱の向う立つ。街道は真っ直ぐに古河宿へと伸びているが見所は少ない。
もとの栗橋の渡し場前に法華坊があったことから、「坊前の渡し」と呼ばれていたが、渡し場の移転で、「坊川渡し」となったという。
中田宿は栗橋宿と15日交代で継ぎ立て業務を行っていた合宿。宿場の商家はほとんどが農家と兼業だった。
今は宿の面影は皆無。宿場の名物は鮒の甘露煮だったそうだ。
源頼朝が奥州征討の際に立ち寄り、戦勝を祈願した地。
静御前ゆかりの寺で、静御前が後鳥羽上皇から賜ったという 「蛙螟龍(あまりりゅう)の舞衣など遺品が保存されている。静御前の遺骸を葬ったという栗橋宿の高柳寺が、利根川改修のため当地に移転した。
若い松が茶屋新田から古河宿まで所々に植えられている。
将軍徳川秀忠が日光参詣の折に仮設の茶屋を設けた所という。
テレビの「水戸黄門」に出てきそうな光景だ。昭和になって道路拡張や戦時中の松根油の製造などで伐採されてしまった。
いくら石油が無いからといって、松根油でアメリカと戦っては所詮勝ち目はないよ。
日本橋から16番目の一里塚
肴町通り 《地図》
右が「米銀」の蔵、左奥に「坂長」
仁徳天皇の時代の創建と伝わる。延暦年間(782~805)に征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷平定の帰途に社殿を建立したという。
坂上田村麻呂の植樹と伝える、「とちぎ名木100選」の木。
乳がよく出て、子が元気に育つようにと米糠(ぬか)と白布で型どった乳房が大イチョウの前に奉納されている。
「たらちねイチョウ」だろう。
墳は墓と思ってしまうが。
算額とは和算の問題と解答を額にして神社に奉納したもの。問題を読んでいるだけで頭が痛くなりそうで、答えを考える所まではほど遠い。
野木神社の先に、野木宿本陣跡(野木宿説明板の所)、脇本陣跡(痕跡無し)、野木の一里塚跡(17番目の一里塚・小さな説明板のみ?)があるようだが、通り過ぎてしまった。古河宿からあまり離れていないので、もっと先と思っていたようだ。
江戸時代までは野木神社の別当寺だった。門前に「十九夜塔」が立つ。栃木県には、女性の守り神の十九夜塔が多く、街道筋にいくつも見かける。「十九夜さま」と呼ばれて信仰が厚い(かった)ようだ。
「是より太平山」らしい。
栃木市の太平山(345m)への道標だ。ここからは北西でかなり離れているが。去年、大中寺から太平山に登っている。『栃木市の坂』に記載
右は女人講中の「十九夜塔」(嘉永3年の建立)
ここにも「十九夜塔」が2つと「二十三夜塔」
友沼八幡神社の別当寺だった。
「道ばたの むくげは馬に 喰われけり」
貞享元年(1684)の「野ざらし紀行」の旅で詠んだ句。諸本では、「道のべの・・・」となっている。
疲れているというより、充足感に満ちた表情に見える。
友沼村の鎮守。徳川将軍の日光社参の時は、将軍御休所となった。このあたりからは正面に筑波山が見え、景勝の地になっていたという。
乙女河岸、網戸(あじと)方面に向かう網戸渡船場道の道標を兼ねた文化10年(1813)のもの。台座には「これより左 乙女河岸 あじと さのみち」と刻まれているというが、はっきり見えず。
歩道に「東京から69km」の標柱が立つ。江戸から18番目の一里塚。
左の覆屋の中に大日如来像が鎮座する。
露座の石仏で「濡れ仏」と呼ばれ親しまれていた。「覆屋建立記念碑」によると、「宝永6年(1709)建立で満福寺の寺宝」とある。満福寺はどこにあるのか? 若宮八幡神社の別当寺で廃寺となってしまったのだろうか?
2代将軍秀忠から10石の寺領を与えられた寺。
元禄16年(1703)に建立された現存する鳥居では小山市で5番目に古い石造鳥居。
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