日光街道(千住宿→草加宿)
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冷たい北風が吹く中、日光街道沿いに千住宿から草加宿の先まで、黄葉を眺め落ち葉を踏みしめながらぶらりぶらりと歩く。
*参考:『あだち観光ネット』・『北千住宿場町商店街』・『そうか今昔』
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
北千住駅西側の「宿場町商店街」(サンロ-ド商店街) 今週の土・日は「蔵の街 とちぎ(栃木)」の街道まつり。
にぎやかなサンロ-ド商店街の100円ショップ前に小さく、場違いで申し訳なさそうに小さく立っている。路地を入った所に千住本陣跡の案内板がある。
この路地あたりだけの案内で、千住宿の情報量は少ない。
千寿七福神の大黒天。
江戸時代から絵馬をはじめ、口行燈や凧などを描いてきた際物問屋。
伝馬屋敷の面影を伝える商家。屋号を「松屋」という江戸時代からの紙問屋。
「槍かけだんご」とは、水戸街道を往来した水戸の黄門さん一行が近くの清亮寺の松の木に槍を立て掛けた。その松の木の前にあった団子屋なのでこの名にしたという。といっても創業は昭和27年だから江戸時代からある店ではない。
槍掛けの松(清亮寺) 《地図》
関東大震災(大正12年)以前に撮影された写真。枝の先端下が水戸街道。この松も昭和20年頃に枯れてしまったそうだ。
人情味ある粋な計らいは「黄門さま」らしい。
右の鬚題目碑(清亮寺石柱)は昔とは位置、向きが異なっている.
明治初年に日本の医学発展のために解剖された死刑囚11名の「解剖人墓」がある。
印鑑の店だろう。「ふくよかサイズ」は隣りの店か。
めやみ地蔵尊(長円寺山門左横)
子育地蔵だが、目の病いにご利益あり。「め」の絵馬が奉納されている。
氷川神社(長円寺の隣り)
日光街道は直進
東へ行くと清亮寺の先が荒川土手で、水戸街道の「小菅の渡し」跡。
主人に案内してもらい、苦労話などを伺う。夏は暑くて大変だそうだ。甘納豆一袋210円は安いと思うよ。
「奥の細道」の矢立の初めの有名な句。
かんかん地蔵(左・元禄12年(1699))・仲良し地蔵(左・寛文4年(1664)、右・寛文10年(1670))
かんかん地蔵は、叩くと金属製の音がするという。前の小石で試してみたが普通の石のような鈍い音だった。叩かれ過ぎて白骨化状態になって、金属音は出なくなったか。
旧下妻街道(直進)分岐
下妻街道は日光街道と水戸街道の中間に位置し、茨城県下妻方面への脇往還として利用された。
日光街道は左に曲がる。右に名倉医院
直進しても荒川土手で行き止まり。
江戸時代から続く「千住の名倉」は、骨接ぎの代名詞として全国に知られているそうだ。むろん今も整形外科として開業中。赤ひげ先生でも出てきそうな建物だ。
石不動尊堂・地蔵・子育八彦尊道道標(手前) 【ルート地図】の7
耳を患っている人は石不動尊堂の扉にぶら下がっている竹筒に願を掛け、治れば竹筒に酒を奉納するという。
道標に「是より2丁行く」とある子育八彦尊とは、ここを左に直進した赤不動(明王院)のこと。「咳の不動様のおけさ(袈)」として有名で、咳の出る人は寺から「おけさ」を借りて祈り、治ったら新しい「おけさ」を奉納する習わしという。
地蔵さんはかつては荒川の土手下にあったそうだ。だから南の荒川の方を向いているんだとか。
扉が閉ざされていて境内に入れず。朱塗りの不動堂(赤不動)に本尊の「感得不動明王」が祀られている寺ということか。
紅白幕は七五三用か。
室町時代に同僚の武士、高橋伴右衛門を討った新田開発の主長・渡部小右衛門が伴右衛門の慰霊のために建立したという。
石柱の右下に、「将軍家御成橋 御成道松並木跡」の標柱が立つ。
将軍秀忠、家光らは日光街道をここで曲がり、安穏寺へ向ったのだろう。
将軍秀忠、家光が巡遊の際の御膳所となった寺で、葵の紋の使用が許されていたという。
『五街道分間延絵図』に描かれている松という。樹齢400年近くになるのか。
赤羽家長屋門(足立区島根4-18) 《地図》
文政4年(1821)以前の建築物で、元島根村名主・通称「金武様」と呼ばれた牛込家の屋敷門といわれている。現在は赤羽氏の所有。
入口は山門と鳥居で分かれているが、境内に仕切りはなくつながっている。神仏習合の形だろう。
「炎天」とはこの寺を建立したという八幡太郎義家が名づけた名。小林一茶ともゆかりのある寺。
炎天寺の池では「やせ蛙」が一生懸命に大蛙と相撲を取っている。小錦と舞の海か?
「やせ蛙 負けるな 一茶これにあり」の句はこの寺で詠んだとされている。
八幡神社建立の由来が載る。
今日は「一の酉」
ここで「島根ばやし神楽」が奉納される。
左下隅の「不」の字は、水準点の「高低測量几号」
火あぶり地蔵堂 【ルート地図】の9
逢いたいばかりに放火して処刑されたという娘を慰霊する地蔵。「八百屋お七」の話と似ているが、逢いたいのは男(恋人)ではなく、母親だったという孝行娘の哀しい物語。昔はこのあたりは処刑場だったという。
文京区の大円寺には、八百屋お七の罪業を救うため、自ら「ほうろく」(素焼きのふちの浅い土鍋)をかぶり焦熱の苦しみを受けたという「ほうろく地蔵」がある。『文京区の坂-9』に記載。
別名を子育地蔵。かつて市役所も浅古家の土地だった。
八幡神社 《地図》
草加七福神の恵比寿。五つの社で七福神を祀っている。
茶屋といってもただの小公園で、茶店ではない。「草加せんべい」の創始者の「おせんさん」にちなむそうだ。この先に「おせん公園」もある。
慶長11年(1606)に草加宿の祖・大川図書(ずしょ)が創建したという寺。境内に墓もある。
東福寺本堂内外陣境彫刻欄間天保14年(1843)には日光道中では城下町を除くと、千住、越谷、幸手に次ぐ、宿場の規模だったという。正面は神明宮の鳥居。
六丁目橋(伝右川)から
正面の塔は札場公園の望楼
札場(ふだば)河岸公園・芭蕉像 《地図》
札場とは高札場のことではなく、野口甚左衛門家所有の河岸で、甚左衛門河岸のこと。野口家の屋号が「札場」で、後にこう呼ばれるようになった。ここの少し下流に「甚左衛門堰」がある。
百代橋上から草加松原松並木
向うは外環自動車道
外環自動車道をくぐった所。
昭和初期まで使用されていた綾瀬川の河岸場を復元。今は釣り場になっている。
「日本一汚れた川」とのお墨付きをもらった川だが、少しづつきれいになって魚も釣れるのだろう。『綾瀬川の生き物』
藤助酒店の左側
そばで見ても塚の感じはしない。小祠は愛宕神社。
道標は「是より・・・・・」読めず。小堂前は蒲生茶屋通り
不動明王の前の日光街道は蒲生茶屋通りで、日光街道を往来する人々、藤助河岸に集まる船頭を相手に商いをする家や、舟の荷を扱う店などが建ち並んで大変にぎわっていたという。(写真は蒲生一里塚方向)
夜な夜な山門から抜け出して田畑を荒らすので金網で囲ったという伝説の龍。説明板では日光東照宮建立に関わった工匠がこの山門を造ったと推測している。伝甚五郎作はあちこちにある。100%偽物と思えば間違い無しか。
開基、開創など不詳だが、寛文時代 ( 約340年前 ) には地蔵堂として開山、開基されたといわれ、『新編武蔵風土記稿』によると、享保10年 ( 1725 ) に入寂した宥敞和尚により寺格を整えたとされる真言宗の寺。左に「喜多向(北向)地蔵堂」
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