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2009年11月14日 (土)

日光街道(千住宿→草加宿)

2009年11月12日

北千住駅(つくばエクスプレス)・・・千住2交差点・旧日光街道(宿場町商店街・サンロ-ド)・・・千住宿本陣跡碑・・・千住本氷川神社・・・ほんちょう公園・・・千住絵馬屋吉田家・横山家住宅(紙問屋松屋)・・・長円寺・・・氷川神社・・・旧水戸街道分岐・・・安養院・・・旧下妻街道分岐・名倉医院・・・国道4号・・・千住新橋(荒川)・・・真福寺・・・善立寺・・・旧道・・・石不動尊堂・・・明王院(赤不動)・・・梅田神明宮・・・梅島駅(東武伊勢崎線)・・・小右衛門稲荷神社・・・(環七通り)・・・将軍御成橋碑(島根2交差点)・・・国土安穏寺・・・赤羽家長屋門・・・栗原氷川神社・・・炎天寺・八幡神社・・・鷲神社・・・(国道4号)・・・県道49号・・・水神橋(毛長川)・・・富士浅間神社・・・火あぶり地蔵堂(吉町5交差点)・・・旧道・・・草加宿・浅古地蔵堂・草加市役所・八幡神社・おせん茶屋・東福寺・神明神社・草加せんべい発祥の地碑・・・6丁目橋(伝右川)・・札場河岸公園(綾瀬川)・・・草加松原松並木・・・矢立橋・・・百代橋・・・(外環自動車道)・・・愛宕神社・・・蒲生大橋(綾瀬川)・・・藤助河岸・藤助酒店・・・蒲生の一里塚跡・愛宕神社・・・蒲生茶屋通り・・・不動明王道標・馬頭観音・・・清蔵院・・・国道4号・・・地蔵院・・・南越谷駅(武蔵野線)

 冷たい北風が吹く中、日光街道沿いに千住宿から草加宿の先まで、黄葉を眺め落ち葉を踏みしめながらぶらりぶらりと歩く。

  *参考:『あだち観光ネット』・『北千住宿場町商店街』・『そうか今昔

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_0667 旧日光街道

北千住駅西側の「宿場町商店街」(サンロ-ド商店街) 今週の土・日は「蔵の街 とちぎ(栃木)」の街道まつり。

Img_0676 千住宿本陣跡碑 【ルート地図】の①

にぎやかなサンロ-ド商店街の100円ショップ前に小さく、場違いで申し訳なさそうに小さく立っている。路地を入った所に千住本陣跡の案内板がある。

Img_8646 案内板

この路地あたりだけの案内で、千住宿の情報量は少ない。

Img_0672 千住本氷川神社

Img_0671 旧社殿

千寿七福神の大黒天。

Img_0668 商店街には古い造りの店も多い。

Img_0656千住絵馬屋吉田家 《地図

江戸時代から絵馬をはじめ、口行燈や凧などを描いてきた際物問屋。

Img_0651説明板

Img_0652横山家住宅(絵馬屋の向い側)

伝馬屋敷の面影を伝える商家。屋号を「松屋」という江戸時代からの紙問屋。

Img_0654 説明板

Img_0657槍かけだんご」とは、水戸街道を往来した水戸の黄門さん一行が近くの清亮寺の松の木に槍を立て掛けた。その松の木の前にあった団子屋なのでこの名にしたという。といっても創業は昭和27年だから江戸時代からある店ではない。

Img_8642 槍掛けの松(清亮寺) 《地図

関東大震災(大正12年)以前に撮影された写真。枝の先端下が水戸街道。この松も昭和20年頃に枯れてしまったそうだ。

Img_8641 説明板

人情味ある粋な計らいは「黄門さま」らしい。

Img_8639 清亮寺

右の鬚題目碑(清亮寺石柱)は昔とは位置、向きが異なっている.

明治初年に日本の医学発展のために解剖された死刑囚11名の「解剖人墓」がある。

Img_8643 説明板

Img_0658 五福堂

印鑑の店だろう。「ふくよかサイズ」は隣りの店か。

Img_0647 長円寺

Img_0645 めやみ地蔵尊(長円寺山門左横)

子育地蔵だが、目の病いにご利益あり。「め」の絵馬が奉納されている。

Img_0649境内には隣りの氷川神社の本地仏だった魚籃観音堂がある。

Img_0644 氷川神社(長円寺の隣り)

Img_0642旧水戸街道分岐(右へ) 《地図

日光街道は直進

Img_0640 道標

東へ行くと清亮寺の先が荒川土手で、水戸街道の「小菅の渡し」跡。

Img_0637 大塚製菓の店の奥の甘納豆の製造場

主人に案内してもらい、苦労話などを伺う。夏は暑くて大変だそうだ。甘納豆一袋210円は安いと思うよ。

Img_0631 安養院

Img_0629 芭蕉句碑

「奥の細道」の矢立の初めの有名な句。

Img_0303 かんかん地蔵(左・元禄12年(1699))・仲良し地蔵(左・寛文4年(1664)、右・寛文10年(1670))

かんかん地蔵は、叩くと金属製の音がするという。前の小石で試してみたが普通の石のような鈍い音だった。叩かれ過ぎて白骨化状態になって、金属音は出なくなったか。

Img_0635下妻街道(直進)分岐

下妻街道は日光街道と水戸街道の中間に位置し、茨城県下妻方面への脇往還として利用された。

日光街道は左に曲がる。右に名倉医院

Img_0634 道標

直進しても荒川土手で行き止まり。

Img_0661名倉医院

江戸時代から続く「千住の名倉」は、骨接ぎの代名詞として全国に知られているそうだ。むろん今も整形外科として開業中。赤ひげ先生でも出てきそうな建物だ。

Img_0626 強風の千住新橋を渡る。

Img_0621 千住新橋から北千住方向を振り返る。

Img_0612 石不動尊堂・地蔵・子育八彦尊道道標(手前) 【ルート地図】の②

耳を患っている人は石不動尊堂の扉にぶら下がっている竹筒に願を掛け、治れば竹筒に酒を奉納するという。
道標に「是より2丁行く」とある子育八彦尊とは、ここを左に直進した赤不動(明王院)のこと。「咳の不動様のおけさ(袈)」として有名で、咳の出る人は寺から「おけさ」を借りて祈り、治ったら新しい「おけさ」を奉納する習わしという。

地蔵さんはかつては荒川の土手下にあったそうだ。だから南の荒川の方を向いているんだとか。

Img_0607 赤不動の明王院

扉が閉ざされていて境内に入れず。朱塗りの不動堂(赤不動)に本尊の「感得不動明王」が祀られている寺ということか。

Img_0605 梅田神明宮

紅白幕は七五三用か。

Img_0603 梅島駅(正面)をくぐる日光街道

Img_0599 小右衛門稲荷神社

室町時代に同僚の武士、高橋伴右衛門を討った新田開発の主長・渡部小右衛門が伴右衛門の慰霊のために建立したという。

Img_0597 国土安穏寺へ

石柱の右下に、「将軍家御成橋 御成道松並木跡」の標柱が立つ。

Img_0591 標柱

将軍秀忠、家光らは日光街道をここで曲がり、安穏寺へ向ったのだろう。

Img_0588 国土安穏寺仁王門

将軍秀忠、家光が巡遊の際の御膳所となった寺で、葵の紋の使用が許されていたという。

Img_0587 仁王の裏には大ワラジ

Img_0589 説明板

Img_0585 家光手植えの松

『五街道分間延絵図』に描かれている松という。樹齢400年近くになるのか。

Img_0583 赤羽家長屋門(足立区島根4-18) 《地図

文政4年(1821)以前の建築物で、元島根村名主・通称「金武様」と呼ばれた牛込家の屋敷門といわれている。現在は赤羽氏の所有。

Img_0579 氷川神社

Img_0577 炎天寺(左)・八幡神社(右) 【ルート地図】の③

入口は山門と鳥居で分かれているが、境内に仕切りはなくつながっている。神仏習合の形だろう。

Img_0574炎天寺

「炎天」とはこの寺を建立したという八幡太郎義家が名づけた名。小林一茶ともゆかりのある寺。

Img_0570 説明板①

Img_0571 説明板②

Img_0575炎天寺の池では「やせ蛙」が一生懸命に大蛙と相撲を取っている。小錦と舞の海か?

「やせ蛙 負けるな 一茶これにあり」の句はこの寺で詠んだとされている。

Img_0576 八幡神社

Img_0572 説明板③

八幡神社建立の由来が載る。

Img_0593鷲神社

今日は「一の酉」

Img_0594 神楽殿

ここで「島根ばやし神楽」が奉納される。

Img_0559 富士浅間神社

Img_0558 説明板

Img_0554 水盤

左下隅の「不」の字は、水準点の「高低測量几号」

Img_0553 説明板

Img_0548火あぶり地蔵堂 【ルート地図】の④

逢いたいばかりに放火して処刑されたという娘を慰霊する地蔵。「八百屋お七」の話と似ているが、逢いたいのは男(恋人)ではなく、母親だったという孝行娘の哀しい物語。昔はこのあたりは処刑場だったという。

文京区の大円寺には、八百屋お七の罪業を救うため、自ら「ほうろく」(素焼きのふちの浅い土鍋)をかぶり焦熱の苦しみを受けたという「ほうろく地蔵」がある。『文京区の坂-9』に記載。

Img_0546 左に旧道へ入る。

Img_0545浅古地蔵堂(右は草加市役所) 《地図

別名を子育地蔵。かつて市役所も浅古家の土地だった。

Img_0543浅古家

Img_0541 八幡神社 《地図

草加七福神の恵比寿。五つの社で七福神を祀っている。 

Img_0539 おせん茶屋

茶屋といってもただの小公園で、茶店ではない。「草加せんべい」の創始者の「おせんさん」にちなむそうだ。この先に「おせん公園」もある。

Img_0538 説明板

Img_0533 東福寺

慶長11年(1606)に草加宿の祖・大川図書(ずしょ)が創建したという寺。境内に墓もある。

Img_0535 欄間の龍

Img_0534_2 説明板

上の写真の彫刻ではない。『草加宿を歩く』に写真を掲載。

Img_0530 草加宿の家並み

天保14年(1843)には日光道中では城下町を除くと、千住、越谷、幸手に次ぐ、宿場の規模だったという。正面は神明宮の鳥居。

Img_0518_2 草加宿説明板

Img_0523 草加せんべい発祥地碑

Img_0522 六丁目橋(伝右川)から

正面の塔は札場公園の望楼

Img_0519 説明板

Img_0515札場(ふだば)河岸公園・芭蕉像 《地図

札場とは高札場のことではなく、野口甚左衛門家所有の河岸で、甚左衛門河岸のこと。野口家の屋号が「札場」で、後にこう呼ばれるようになった。ここの少し下流に「甚左衛門堰」がある。

Img_0524説明板

Img_0503 百代橋上から草加松原松並木

Img_0498 右は綾瀬川

Img_0495 必死に頑張る一枝

向うは外環自動車道

Img_0489 水神と馬頭観音(外環道近くの左)

Img_0487 「奥の細道」の壁画

外環自動車道をくぐった所。

Img_0485_2 愛宕神社

Img_0484藤助河岸跡・藤助酒店(後ろ) 《地図

昭和初期まで使用されていた綾瀬川の河岸場を復元。今は釣り場になっている。

「日本一汚れた川」とのお墨付きをもらった川だが、少しづつきれいになって魚も釣れるのだろう。『綾瀬川の生き物

Img_0479 説明板

Img_0480 藤助酒店の蔵

Img_0478 鈴木米穀店?

藤助酒店の左側

Img_0471 蒲生の一里塚跡 【ルート地図】の⑤

そばで見ても塚の感じはしない。小祠は愛宕神社。

Img_0469 説明板

Img_0468 少し離れると木々の高さのおかげで塚があるようにも見える。

Img_0464 不動明王道標(左)・馬頭観音(右)

道標は「是より・・・・・」読めず。小堂前は蒲生茶屋通り

Img_0467 不動明王の前の日光街道は蒲生茶屋通りで、日光街道を往来する人々、藤助河岸に集まる船頭を相手に商いをする家や、舟の荷を扱う店などが建ち並んで大変にぎわっていたという。(写真は蒲生一里塚方向)

Img_0462 清蔵院山門

Img_0459 説明板

Img_0463 伝左甚五郎作という欄間の龍

夜な夜な山門から抜け出して田畑を荒らすので金網で囲ったという伝説の龍。説明板では日光東照宮建立に関わった工匠がこの山門を造ったと推測している。伝甚五郎作はあちこちにある。100%偽物と思えば間違い無しか。

Img_0458 地蔵院

開基、開創など不詳だが、寛文時代 ( 約340年前 ) には地蔵堂として開山、開基されたといわれ、『新編武蔵風土記稿』によると、享保10年 ( 1725 ) に入寂した宥敞和尚により寺格を整えたとされる真言宗の寺。左に「喜多向(北向)地蔵堂」

Img_0454 六角地蔵堂(地蔵院)

Img_0451 武蔵野線南越谷駅へ

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