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2009年12月29日 (火)

赤山街道-5(千住道)

2009年12月28日

新井宿駅(埼玉高速鉄道)・・・赤山陣屋鳩ヶ谷口・・・慈林薬師(宝厳院)・・・慈林神社・・・宝厳院墓地・・・(金明町鳩ヶ谷線)・・・川口養護学校・・福寿院・・・赤井氷川神社・・・(首都高速川口線)・・・傑伝寺・・・見沼代用水東縁・・・普門寺・・・昌福寺・・・本郷橋・・・砂小橋(毛長川)・・見沼代親水公園・神領堀親水緑道・・・舎人二つ橋(毛長川)・・毛長緑道・・・二ツ橋稲荷大社・・・見沼代親水公園駅(日暮里・舎人ライナー)・・・舎人氷川神社・・・西門寺・・・古千谷氷川神社・・・(竹ノ塚駅・東武伊勢崎線)・・・増田橋交差点・旧日光街道合流点・・・竹ノ塚駅

 赤山街道歩きの最後は赤山陣屋の四ツ門の一つ鳩ヶ谷口から南東に、足立区の旧日光街道との合流点、増田橋までの道のりです。

 *参考:『赤山街道総合調査報告書Ⅲ(千住道をたどる)』(川口市教育委員会)

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_4293 赤山街道は左へカーブ、慈林薬師は直進。

 

Img_4294 慈林薬師手前の庚申塔(貞享?年の銘)

 

Img_4299 慈林薬師仁王門 

文政9年(1826)再建の八脚門で、背面には風神、雷神を配する。三勅山慈林寺宝厳(ほうごん)院と号し、地元では慈林薬師の名で親しまれている。武蔵国新四国八十八所霊場の最終札所。不動堂は足立百不動尊の第31番札所。

 

Img_4298 説明板

 

Img_4296 慈林薬師堂

 

Img_4297 説明板

 

Img_4302 慈林神社(赤山街道沿い)

 

Img_4303 宝厳院墓地へ緩やかに上る坂。

 

Img_4304 墓地内の供養塔道標(享和3年(1803)銘)

右側面に「北 岩槻道 東 草加道」、左側面に「南 千住道 西 鳩ヶ谷道」

元は墓地手前の十字路にあったと思われる。

 

Img_4305 川口養護学校(右)に沿って福寿院へ下る。

赤山街道は草加道と合流して左へ曲がる。

 

Img_4306 福寿院 《地図

 

Img_4308 庚申塔道標(福寿院境内)

右は文政3年(1820)銘で、右側面に「是よりいわつき道四里」、左側面に「是よりはとがや道三丁」。左は天保13年(1842)銘で、右側面に「右 せんじ三里」、左側面に「左 草加宿一里半」 元は川口養護学校前の路傍にあったもの。

 

Img_4313 草加道分岐 《地図

草加道は直進、赤山街道は右へカーブする。分岐手前に不動塔道標があるというが見つからず。

 

Img_4315 赤井氷川神社 

狛犬は首に正月用の新しい注連縄ネックレスを架けてご機嫌のようだ。
神社裏手の路傍にあるという供養塔道標も見つからず。

 

Img_4314 由緒

 

Img_4321 傑伝寺

寛文4年(1664)に高国禅師が開山。かつては太田道灌の谷古田城跡(本郷城)の地だったともいう。このあたりは起伏の多い所で、ここも周囲を崖が取り巻く微高地で、中世の城郭としては防御性に優れていたようだ。
武州川口七福神」の恵比寿。

 

Img_4322 傑伝寺から下る坂

見沼代用水の低地の方へ下って行く。

 

Img_4327 普門寺前の庚申塔

伊奈家の家臣で、江戸川開削に尽力した小嶋庄右衛門正重の墓がある。

山門右側の庚申塔は意識的に背の高い順に並べたのだろうか? 

 

Img_4332砂小橋 《地図

見沼代用水が下の毛長川を懸樋(かけひ)で越えている地点だが河岸工事中ではっきりしない。

 

Img_4335 神領堀緑道 《地図

見沼代用水の支流の用水。

 

Img_4336 説明板

 

Img_4337 舎人二つ橋

 

以前は見沼代用水に沿って毛長川が流れていて、橋が二つ続いていたので二つ橋と呼ばれていた。現在は毛長川は改修で北側に水路を移したため橋は一つになり、この新しい橋を「舎人」二つ橋と命名した。

 

Img_4339「二つ橋」の由来

文中に「赤山街道」が見える。

 

Img_4340 毛長緑道 《地図

元の毛長川の水路

 

Img_4344 周辺地図

 

Img_4343 二ツ橋稲荷大社

「大社」を名乗るとはいい度胸をしている。それとも昔は文字通りの「大社」だったのか。

 

Img_4346 舎人氷川神社 

説明板に、「舎人は江戸時代には赤山街道の宿場として栄え・・・」とある。

 

Img_4345 説明板

 

Img_4347 日暮里・舎人ライナーが上を走る。

2008年3月に開業した日暮里駅~見沼代親水公園駅間のモノレール式の高架電車。

ここは終点の見沼代親水公園近く。まだ一度しか乗ったことがない。

 

Img_4352 西門寺

南北朝の永和3年(1377)の創建という。右の仁王の右後ろの石柱には、「八十八所第二十三番西門寺」とある。

 

Img_4350 説明板

 

Img_4353 古千谷氷川神社 

 

Img_4354 東武伊勢崎線を渡り増田橋交差点へ

 

Img_4355 増田橋バス停

 

Img_4356 増田橋(竹の塚三丁目)交差点 【ルート地図】の⑤

車の進行方向が旧日光街道草加宿方向。

今は橋は残っていないが、千住宿と草加宿の中間点で「竹塚ノ立場」と呼ばれ、茶店などがあり賑わった所。増田橋は『新編武蔵風土記稿』によれば、「長さ9尺幅2間の石橋」というから「竹之塚堀」か「千住堀」の用水に架る小さな橋だったようだ。追記(2011年12月14日):「増田橋として使用されていた石橋は我が家の庭にあります」というコメント(下記)を「ゆうた」様からいただきました。

 

Img_4357 日光街道千住宿方向

左の植え込み前に「北へ旧日光街道 西へ旧赤山街道」の石柱碑が立つ。

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旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

 増田橋の記事にコメントの内容を追記させていただきました。
 きっと広々とした、見事なお庭なのでしょうね。羨ましいかぎりです。

投稿: ゆうた様へ(坂道散歩) | 2011年12月14日 (水) 08:00

フラフラと地元のワードを検索していましたらここにたどり着きました♪
古い記事にコメントしてしまい申し訳ございません。

実は増田橋として使用されていた石橋は我が家の庭にあります。いまでも欠けることなく存在していますよ。
交差点内に複数あるマンホールの下が暗渠化された用水路です。

投稿: ゆうた | 2011年12月12日 (月) 01:26

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