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2009年12月30日 (水)

日光例幣使街道①(倉賀野宿→玉村宿→五料宿→柴宿)

2009年12月22日

倉賀野駅(JR高崎線)・・・養報寺・・・九品寺・・・旧中山道(県道121号)・・・追分(下町交差点)・日光例幣使街道(県道136号)・・・(高崎線)・・・(国道17号)・・・白銀橋(粕川)・・・日本原子力開発機構・・・国道354号・・・不動山古墳・・・(群馬の森)・・・鎌倉橋(井野川)・・・旧道・・・国道354号・・・(関越自動車道)・・・大橋(滝川)・佐渡奉行街道合流地点・・・万福寺・稲荷神社・・・玉村宿(泉屋井田酒造(上の問屋跡)・玉村八幡宮・家鴨塚(称念寺)・下の問屋(大黒屋)跡・木島本陣跡の歌碑)・・・佐渡奉行街道分岐地点(下新田交差点)・・・工業団地・・・川井厄除薬師・・・旧道・・・常楽寺・・・五料宿・五料関所跡・・・五料橋(利根川)・・・柴町八幡神社・・・柴宿本陣跡・雷電神社・満善寺)・・・観音堂(夜泣き地蔵)・・・八郎神社・・・那波城址碑(名和小学校)・・・飯玉神社・・・名和小学校前 バス→伊勢崎駅・・・サンホテル伊勢崎

  参考:『玉村町の歴史』・倉賀野宿は『中山道(新町宿→高崎宿)』に記載。

  【ルート地図

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Img_3568 日光例幣使街道の由来(柴宿本陣跡の近くにある説明板)

分かりやすい説明文だ。

Img_3414 養報寺

Img_3410 五体石仏

鎌倉時代末期の地蔵菩薩などの石仏。だいぶ風化しているが素朴で荒々しい力強さを感じさせる彫り方に見える。

Img_3409 説明板

Img_3416 九品寺

倉賀野五郎善行の開基で、倉賀野氏ゆかりの寺。南北朝後期の作という善光寺式三尊像がある。中山道との追分にある閻魔堂は元は阿弥陀堂で、その阿弥陀像はこの寺に安置されているそうだ。

Img_3417 説明板

Img_3422 追分 《地図

右は中山道の江戸方向、左が日光例幣使街道。分岐点に閻魔堂、道標が立つ。

Img_3432 不動山古墳 【ルート地図】の①

後円部上に不動堂がある。墳形はかなり崩されている。

Img_3434 説明板

Img_3436 舟形石棺の身の部分

不動堂の後ろにある。蓋はどこへ持ち去られたやら。

Img_3437 堂内の不動明王

Img_3442 鎌倉橋で井野川を渡る。

雪を被った上毛の山が見える。

Img_3443少し下流の旧鎌倉橋の橋脚の一部。ここから旧道が少しだけ残っている。《地図

Img_3446 旧道と国道の合流地点あたりに一里塚があったらしい。

大橋(滝川)を渡った所で北から佐渡奉行街道が合流し、玉村宿を東進し下新田交差点で南に右折して行く。

Img_3454 万福寺(左)と稲荷神社が並んでいる。

ここはもう玉村宿だ。

Img_3455 井田酒造泉屋酒店 《地図

玉村宿の上の問屋の和泉屋。玉村宿は例幣使街道中で最も規模が大きく、旅籠は50軒ほどで飯盛女も多くいた。

例幣使の一行は、毎年4月11日の夕方玉村宿に到着し、翌朝、次ぎの宿泊地の天明(てんみょう)宿(栃木県佐野市)に向け出発した。

Img_3457玉村八幡宮随神門

建久6年(1195)、源頼朝が鎌倉鶴岡八幡宮より勧請建立という。本殿は国の重文だが、この門の方が気に入った。

Img_3471 家鴨(あひる)塚 【ルート地図】の②

中風の国定忠治に生血を飲まれた不運なアヒルを供養するための塚。有名人の忠治でなかったなら、わざわざアヒル一羽のために供養塚も立てなかったろうに。幸運なアヒルかも。でもアヒルの生血は中風に効くのだろうか? 効かなければやっぱり不運なアヒルだ。

Img_3472 由来

Img_3476 下の問屋跡の加賀美家宅

Img_3478 町田酒造

「太平人」の蔵元

Img_3483 玉村町道路元標(町田酒造の前)

Img_3481 木島本陣跡歌碑 《地図

帰路も東海道でなく中山道を通った例幣使の歌碑。よほどいいこと、うまい話でもあって中山道が気に入ったのだろうか。例幣使にはいい加減な者も多く、商人をにわか作りの家来に仕立てて商売をしてピンはねをしたり、宿場で入魂料(じっこんりょう)といって多額の心付け金をせびったりしたという。「お主もワルよのぉ-」の悪代官ならね悪例幣使が横行していたようだ。この歌碑の参議有長はどうだったかはいざ知らずだが。徳川将軍の江戸から日光社参は19回だが、京からの日光例幣使は正保4年(1647)から慶応3年(1867)まで、221年間一度の中断もなく続けられた。例幣使は日光東照宮に祀られている徳川家康なんかはどうでもよく、道中の旨み、楽しみ、金儲けが目当ての道行きだったようだ。ちなみに「ゆすり」の語源も例幣使からという。詳しくは『独りしゃべりで

Img_3482 説明板

Img_3485 原本屋商店

Img_3487 高札場跡(左)

例幣使街道の説明が書かれている。

Img_3489 説明板

Img_3495 街道沿いの旧家の蔵

Img_3502 石仏群(上飯島交差点の手前の民家の前) 《地図

このあたりに玉村宿の下の木戸があった。

Img_3512 川井厄除薬師 《地図

Img_3517 工業団地の間を抜けていく旧道

Img_3520国道との交差点の案内標識

Img_3530 常楽寺

左の常楽寺の石柱の左下に小さな道標。

Img_3525 道標

「利根川渡船 玉村町小泉道」・「烏川渡船 神保原本庄町道」

Img_3532 五料宿は短い宿で、家並みにも往時の姿はとどめていない。「五料」は、柴渡船の転覆で死んだ西光寺の稚児千代寿丸の御霊の供養からといい、新田義貞の子の義興の御霊から由来するともいわれている。

Img_3539 五料関所跡 【ルート地図】の③

例幣使街道で唯一の関所だった。左右に関所門跡の沓石が残る。(白いガードパイプの下) ここを通って正面の河原に出て、渡し船で利根川を渡った。

Img_3537 説明板

Img_3543 五料の渡し跡あたり

今は左の五料橋を渡って伊勢崎市へ入る。

Img_3551 振り返ると左後方に雪化粧した浅間山が見える。一瞬富士山かと思った。天明の噴火では五料宿、柴宿とも大きな被害を受けた。利根川を火砕流が流れ下ったという。

Img_3554 柴町八幡神社 《地図

Img_3555 説明板

Img_3571 柴宿周辺図

天明地蔵は夜泣き地蔵のこと。

Img_3558 柴宿の旧家の蔵

Img_3565 柴宿本陣跡

一本松がせり出していて本陣を主張しているので見逃すことはないだろう。

Img_3563説明板

Img_3574 雷電神社 《地図

右は天明3年(1783)の浅間山の噴火の熔岩の塚

Img_3577 民家の蔵

だいぶ傾きかけているが、いつまでもこのままでいて欲しい。

Img_3580 満善寺

平成17年に建立された新しい山門と本堂。伊勢崎佐波観音霊場の第9番。

Img_3581 説明板

Img_3582 説明板

Img_3590 観音堂

Img_3587 夜泣き地蔵(天明地蔵・天明4年の建立)・鎌原地蔵(左) 【ルート地図】の④

天明3年の浅間山噴火の犠牲者を供養する地蔵。鎌原は噴火で一瞬のうちに埋めつくされた吾妻郡鎌原(かんばら)村のこと。

Img_3585 夜泣き地蔵の由来

Img_3589 鎌原地蔵の由来(地蔵の台座)

Img_3592 長屋門

Img_3594八郎神社 《地図

八郎とは祭神の群馬八郎満胤命(ぐんまはちろうみつたねのみこと)。鎮西八郎為朝ではなかった。

Img_3600那波(なわ)城址碑 【ルート地図】の⑤

名和小学校の校庭脇に立っている。城主の子の縄(那波)無理之助は上杉勢に城を囲まれ脱出し、武田信玄に仕え長篠の戦いで討ち死したとか。

Img_3599 説明板

Img_3602 飯玉神社

この先の社殿前に細い注連縄が張られていて通行禁止になっていた。

Img_3601 説明板

Img_3606 クイーンズヒル迎賓館フォレストキャッスル 《地図

まだ開業して1年ほどの教会風の結婚式場のようだ。(日光例幣使街道とは全く無関係)

Img_3607 朝はこんな感じ。

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2009年12月29日 (火)

赤山街道-5(千住道)

2009年12月28日

新井宿駅(埼玉高速鉄道)・・・赤山陣屋鳩ヶ谷口・・・慈林薬師(宝厳院)・・・慈林神社・・・宝厳院墓地・・・(金明町鳩ヶ谷線)・・・川口養護学校・・福寿院・・・赤井氷川神社・・・(首都高速川口線)・・・傑伝寺・・・見沼代用水東縁・・・普門寺・・・昌福寺・・・本郷橋・・・砂小橋(毛長川)・・見沼代親水公園・神領堀親水緑道・・・舎人二つ橋(毛長川)・・毛長緑道・・・二ツ橋稲荷大社・・・見沼代親水公園駅(日暮里・舎人ライナー)・・・舎人氷川神社・・・西門寺・・・古千谷氷川神社・・・(竹ノ塚駅・東武伊勢崎線)・・・増田橋交差点・旧日光街道合流点・・・竹ノ塚駅

 赤山街道歩きの最後は赤山陣屋の四ツ門の一つ鳩ヶ谷口から南東に、足立区の旧日光街道との合流点、増田橋までの道のりです。

 *参考:『赤山街道総合調査報告書Ⅲ(千住道をたどる)』(川口市教育委員会)

  【ルート地図

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Img_4293 赤山街道は左へカーブ、慈林薬師は直進。

Img_4294 慈林薬師手前の庚申塔(貞享?年の銘)

Img_4299 慈林薬師仁王門 【ルート地図】の①

文政9年(1826)再建の八脚門で、背面には風神、雷神を配する。三勅山慈林寺宝厳(ほうごん)院と号し、地元では慈林薬師の名で親しまれている。武蔵国新四国八十八所霊場の最終札所。不動堂は足立百不動尊の第31番札所。

Img_4298 説明板

Img_4296 慈林薬師堂

Img_4297 説明板

Img_4302 慈林神社(赤山街道沿い)

Img_4303 宝厳院墓地へ緩やかに上る坂。

Img_4304 墓地内の供養塔道標(享和3年(1803)銘)

右側面に「北 岩槻道 東 草加道」、左側面に「南 千住道 西 鳩ヶ谷道」

元は墓地手前の十字路にあったと思われる。

Img_4305 川口養護学校(右)に沿って福寿院へ下る。

赤山街道は草加道と合流して左へ曲がる。

Img_4306 福寿院 《地図

Img_4308 庚申塔道標(福寿院境内)

右は文政3年(1820)銘で、右側面に「是よりいわつき道四里」、左側面に「是よりはとがや道三丁」。左は天保13年(1842)銘で、右側面に「右 せんじ三里」、左側面に「左 草加宿一里半」 元は川口養護学校前の路傍にあったもの。

Img_4313 草加道分岐 《地図

草加道は直進、赤山街道は右へカーブする。分岐手前に不動塔道標があるというが見つからず。

Img_4315 赤井氷川神社 【ルート地図】の②

狛犬は首に正月用の新しい注連縄ネックレスを架けてご機嫌のようだ。
神社裏手の路傍にあるという供養塔道標も見つからず。

Img_4314 由緒

Img_4321 傑伝寺

寛文4年(1664)に高国禅師が開山。かつては太田道灌の谷古田城跡(本郷城)の地だったともいう。このあたりは起伏の多い所で、ここも周囲を崖が取り巻く微高地で、中世の城郭としては防御性に優れていたようだ。
武州川口七福神」の恵比寿。

Img_4322 傑伝寺から下る坂

見沼代用水の低地の方へ下って行く。

Img_4327 普門寺前の庚申塔

伊奈家の家臣で、江戸川開削に尽力した小嶋庄右衛門正重の墓がある。

山門右側の庚申塔は意識的に背の高い順に並べたのだろうか? 

Img_4332砂小橋 《地図

見沼代用水が下の毛長川を懸樋(かけひ)で越えている地点だが河岸工事中ではっきりしない。

Img_4335 神領堀緑道 《地図

見沼代用水の支流の用水。

Img_4336 説明板

Img_4337 舎人二つ橋

以前は見沼代用水に沿って毛長川が流れていて、橋が二つ続いていたので二つ橋と呼ばれていた。現在は毛長川は改修で北側に水路を移したため橋は一つになり、この新しい橋を「舎人」二つ橋と命名した。

Img_4339「二つ橋」の由来

文中に「赤山街道」が見える。

Img_4340 毛長緑道 《地図

元の毛長川の水路

Img_4344 周辺地図

Img_4343 二ツ橋稲荷大社

「大社」を名乗るとはいい度胸をしている。それとも昔は文字通りの「大社」だったのか。

Img_4346 舎人氷川神社 【ルート地図】の③

説明板に、「舎人は江戸時代には赤山街道の宿場として栄え・・・」とある。

Img_4345 説明板

Img_4347 日暮里・舎人ライナーが上を走る。

2008年3月に開業した日暮里駅~見沼代親水公園駅間のモノレール式の高架電車。

ここは終点の見沼代親水公園近く。まだ一度しか乗ったことがない。

Img_4352 西門寺

南北朝の永和3年(1377)の創建という。右の仁王の右後ろの石柱には、「八十八所第二十三番西門寺」とある。

Img_4350 説明板

Img_4353 古千谷氷川神社 【ルート地図】の④

Img_4354 東武伊勢崎線を渡り増田橋交差点へ

Img_4355 増田橋バス停

Img_4356 増田橋(竹の塚三丁目)交差点 【ルート地図】の⑤

車の進行方向が旧日光街道草加宿方向。

今は橋は残っていないが、千住宿と草加宿の中間点で「竹塚ノ立場」と呼ばれ、茶店などがあり賑わった所。増田橋は『新編武蔵風土記稿』によれば、「長さ9尺幅2間の石橋」というから「竹之塚堀」か「千住堀」の用水に架る小さな橋だったようだ。追記(2011年12月14日):「増田橋として使用されていた石橋は我が家の庭にあります」というコメント(下記)を「ゆうた」様からいただきました。

Img_4357 日光街道千住宿方向

左の植え込み前に「北へ旧日光街道 西へ旧赤山街道」の石柱碑が立つ。

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2009年12月25日 (金)

赤山街道-4(越谷道②)

2009年12月17日

越谷駅(東武伊勢崎線)・・・赤山街道・・・(日光街道)・・・観音横丁・観音堂・・・新橋(逆川)・・・宮前橋(元荒川)・・久伊豆神社・・・久伊豆通り・・・県道19号(越谷野田線)・・・定使野橋(新方橋)・・・寿橋(大落古利根川)・・・松伏交差点・県道10号・・・松伏町役場・・・かかり火公園交差点・・・地蔵堂・・・大川戸神明社(天照皇大神宮)・・・まつぶし緑の丘公園・・・八幡神社・・・大川戸杉浦陣屋跡あたり

 赤山街道の越谷道を分岐点の観音堂前から杉浦陣屋跡までたどる。車の通行の多い県道歩きで、最終地点の杉浦陣屋跡も跡形もなく、くたびれ儲けの街道歩きとなった。

  *参考:『赤山街道総合調査報告書 Ⅱ(越谷道をたどる)』(川口市教育委員会)

  【ルート地図

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Img_3344 久伊豆神社参道 【ルート地図】の②

左の灯籠前に①庚申塔道標(寛政12年(1800))、右の灯籠の後ろに②敷石建立供養塔道標(寛政9年(1797))が立つ。

①の右側面、「はしの方江戸 川かみかすかべ」・「みやの方さしま 川しも二がうはん」で、「ニがうはん」は「二郷半」で吉川市、三郷市。

②の右側面、「是より野田道」

参道入口の庚申塚と、隣りの天嶽寺参道前にも道標を兼ねた庚申塔などが並んでいる。『日光街道(越谷宿→粕壁宿)』に記載。

Img_3343 説明板

Img_3355 県道から右に入った用水路そばの2基の庚申塔道標の小祠(正面右) 《地図

Img_3356 右の庚申塔道標(嘉永7年(1854))

右側面に「左ふどう道」、右側面に「右乃だ道」

左は元禄17年(1704)の庚申塔

Img_3362 水神宮

このあたりは『葛西用水⑤』でも歩いた。

Img_3364 新方橋から逆川

Img_3368 寿橋から古利根堰(大落古利根川) 【ルート地図】の③

Img_3374 古利根川に現れた「ネッシー」ならぬ「トッシー」か。

Img_3377 堂面橋あたりから大落古利根川

Img_3382 かがり火公園予定地内の道標(堂面橋交差点の左側) 《地図

写真の右下の小さな石柱。もとは県道越谷野田線と春日部松伏線の分岐の間の路傍にあったもの。公園の工事が始まるとこの道標はどうなるのだろうか。

Img_3381 右側面、「右 かなすぎ」 松伏町金杉か。

『赤山街道総合調査報告書 Ⅱ(越谷道をたどる)』では、「右 かなす[  ]」となっている。

Img_3380 左側面

「左 うおぬま」 庄和町魚沼か。

『赤山街道総合調査報告書 Ⅱ(越谷道をたどる)』では、「左 ふと[  ] 」となっている。

Img_3384 道沿いの地蔵さん

Img_3387 大広戸神明社

「天照皇大神宮」の扁額が掛かっている。

Img_3391 まつぶし緑の丘公園 《地図

一部分開園した整備中の公園。平成10年度に26.5haの総合公園として計画されたというからもう10年以上も経っているのにまだ完成しないのか。

Img_3397 八幡神社 【ルート地図】の④

Img_3395 大イチョウ

何本もの幹が束なっているように見える。

Img_3398 地蔵菩薩道標(右下・明和2年(1765)) 《地図

これを見つけるのに行ったり来たり苦労した。さらにここを左に入った所に杉浦陣屋跡があると思ってウロウロしていたら、赤ん坊をおんぶしたお母さんから、怪しまれたのか、「何かお探しですか」と声を掛けられ、杉浦陣屋跡はカインズホームの所にあったが今は面影はないと教わった。

Img_3400 地蔵の頭は欠けている。

正面に「むかふ かすかへ」、右側面に「むかふ こしがや」、左側面に「むかふ ほう志花」

春日部、越谷、宝珠花、のこと。

Img_3404 カインズホームが杉浦陣屋の敷地だった。

Img_3407 正面が杉浦陣屋跡の陣屋門があった所 【ルート地図】の⑤

杉浦陣屋は慶長5年(1600)の構築。会津の上杉討伐の途中、小山評定で引き返した徳川家康が大川戸に立ち寄り、この地に陣屋を構築するように命じたものを、杉浦定政が直接造成し拝領したという。

今も杉浦家があるかは確認しなかった。

杉浦家の菩提寺は古利根川反対側(越谷市大松)清浄院にあり。」とのコメントをいただきました。(2011年2月12日)

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2009年12月21日 (月)

赤山街道-3(越谷道①)

2009年12月16日

新井宿駅(埼玉高速鉄道)・・・県道161号・・・源長寺・・・県道161号・・・赤山交差点(首都高速川口線)・・・赤山陣屋跡・山王社・・・赤芝東横断ボックス(東京外環自動車道)・・・安行植物園・西立野道標・・・西福寺・・・県道161号(越谷鳩ヶ谷線)・・・花山下東交差点・旧道・・・県道161号・・・天満宮・・・伝右橋(伝右川)・・・二つ橋交差点・旧道・・・一ノ橋(綾瀬川)・・・県道161号・・・大沼大明神・・・県道324号(蒲生岩槻線)・・・辰ノ口橋交差点・・・県道161号・・・(草加バイパス)・・・(JR武蔵野線)・・・三ツ谷地蔵・・・越谷駅西口・(東武伊勢崎線)・・・(日光街道)・・・観音堂・・・越谷市役所・中央市民会館・・・観音寺?・・・八幡宮・・・稲荷神社・・・庚申塔道標・・・しらこばと橋(元荒川・葛西用水)・・・不動橋・・・大聖寺・・・日枝神社・・・県道52号(越谷流山線)・・・大相模久伊豆神社・・・浄音寺・・・(東埼玉通り)・・・水神社跡・・・下妻街道合流地点・・吉川橋(中川)・・・延命寺・・吉川交番前交差点・下妻街道分岐地点・吉川道(岩槻慈恩寺道)合流点・・・吉川道・・・鷲神社・・・吉川駅(JR武蔵野線)

 赤山陣屋の四ツ門の一つ越ケ谷口から赤山街道の越谷道を行く。日光街道を越えた観音堂先の分岐点からは、①北東へ久伊豆神社から大広戸の杉浦陣屋跡へ向う道筋と、②東方向に元荒川の南側を吉川へと向う道筋があるが、今日は吉川へのルートをたどった。出発が遅く、迷ったり間違ったりしたので思ったより距離があり時間がかかった。吉川駅に着いたのは5時近くであたりはすっかり暗くなっていた。

*参考:『赤山街道総合調査報告書 Ⅱ(越谷道をたどる)』(川口市教育委員会)

  【ルート地図

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Img_3134 源長寺

伊奈家の菩提寺

Img_3127 説明板

Img_3140 水車が回っている。

赤山陣屋本丸跡前の農家

Img_3144 御陣山稲荷

意外と小さな祠だった。

Img_3150 東堀跡

Img_3155 山王社 【ルート地図】の① (地図では日枝神社となっている)

Img_3157 説明板

Img_3161 あかしば保育園

幼稚園、保育園と広い敷地と立派な建物。ここが今の赤山城か。

Img_3165 外環自動車道をくぐる。

Img_3189 西立野道標(正面の石塀の前) 《地図

Img_3190 正面に「百堂母○道是より二丁」、右側面に「こしケ谷道」、左側面に「いしがみ道」

「百堂」は百観音の西福寺のこと、「いしがみ」は石神。

Img_3172 西福寺百観音堂 【ルート地図】の②

西国、坂東、秩父の百観音信仰の寺。

Img_3171 説明板

Img_3187 三重塔

元禄6年(1693)に完成した県下で一番高い木造の建造物。

Img_3173 説明板

Img_3196 天満宮 《地図

ここ安行藤八では、「夏祈祷」の獅子舞が行われる。

Img_3197 説明板

Img_3212 一ノ橋(綾瀬川) 《地図

二つ橋の手前から県道を離れ大きく東方向に迂回する。それは新栄団地付近が大沼と呼ばれる沼地で、綾瀬川氾濫時の遊水地の役割を果たしていた場所だったから。

Img_3219 大沼大明神 《地図

武主大名神、兵(もののふ)神社ともいう。①戦国時代に戦に敗れ落ち延びた戸塚の城主がこのあたりで没した。里人はこれを憐れんで武主大名神として祀った。②戦国時代に築城の荷物を積んだ船が、大沼を渡る際に大風で難破し沼底に沈んだ。里人は兵神社を勧請し供養した。

このあたりは大沼と呼ばれた沼地だった。

Img_3223_2 三ツ谷地蔵 【ルート地図】の③

谷中村三ツ谷集落西川家の覚心法師が諸国を遊行中、元文2年(1737)に悪人に襲われ死去した。西川家では供養塔墓石を屋敷内に建立したが、以来不幸が重なったため当地へ移したという。地元ではこれを「三ツ谷地蔵」と呼び、娘が嫁ぐ時、赤子が生まれた時、子どもの帯解祝いには必ず参拝をしたという。

Img_3229 東武伊勢崎線をくぐる。右は越谷駅でこのあたりは「赤山1丁目」。

Img_3233 日光街道との合流点手前の有瀧家の黒板塀

Img_3234日光街道合流点 《地図

Img_3239 観音堂 【ルート地図】の④(地図には金毘羅神社になっている)

Img_3238 正観音菩薩の石柱が立つ。

Img_3240 馬頭観音道標(左・文化10年(1813))・徳本供養塔(右・文政5年(1822)) 観音堂境内

右側面に「大さがミ道」、左側面に「のだ せうない道」

「大さがみ」は大相模不動の大聖寺、「のだ せうない」は野田、庄内。かつては観音横丁の突当たりの分岐点に立っていたのだろう。今日は「大さがみ道」を通り吉川の延命寺まで行く。

Img_3813越ヶ谷御殿跡 《地図

逆川(葛西用水)が元荒川を伏越でくぐった所。

Img_3814説明板

Img_3816板碑(建長元年(1249))

越ヶ谷御殿跡の50mほど東側の稲荷神社の隣。

Img_3817説明板

Img_3247 分岐点から越谷市民会館前を通って元荒川の土手沿いの方へ。

Img_3250 観音寺?(右側)

Img_3251 八幡宮(右側を少し入った所)

Img_3253 稲荷神社(右側)

Img_3261 庚申塔道標 《地図

右側面に「これより上じおんじ迄三里半」、左側面に「これより左吉川へ壱里 大さがみ門 これより右市川まで五里」

「じおんじ」は岩槻の慈恩寺で、この道も江戸川区、葛飾区、三郷市、吉川市から続く、(岩槻)慈恩寺道のルートの一つ。『岩槻慈恩寺道』参照。

Img_3902正面

Img_3901説明板

Img_3266 しらこばと橋と瓦曽根堰

Img_3264 説明板①

Img_3265 説明板②

Img_3279 大聖寺(だいしょうじ)山門

小山評定の後、関ケ原へ向う家康は当寺に立ち寄り太刀一振を寄進したそうだ。

Img_3278山額の「真大山」は松平定信の筆という。

Img_3271 説明板

Img_3280境内の茶店

虹だんご」とはしゃれた名だ。時間に余裕があれば食べたかったが。

Img_3282 タブの木

正面の東門から続くのが旧道

Img_3287 庚申塔

もとは本堂裏手の元荒川の土手上にあったという。

Img_3288 日枝神社 《地図

Img_3294大相模久伊豆神社

この地は武蔵七党の一つ野与党の大相模次郎能高の本拠地という。ここでも与野党逆転か??

Img_3293 説明板

Img_3298塞神塔道標(享和3年(1803)) 《地図

正面の生垣の下

Img_3299 塞神塔

右側面に「野道」、左側面に「吉川道」

これはずっとここにあるのだろう。

Img_3303 浄音寺

Img_3309_2吉川橋手前の堂

左下中央のが庚申塔道標(万延元年(1860))か?

それなら、右側面に「江戸みち こしがや道」、左側面に「よしかわ成田十五里」とあるはずだが摩滅しているのと、薄暗くなりかけてきて判然とせず。

Img_3307 ここに水神社があったのだが。 《地図》にも載っている。ここは元荒川と中川の合流点。水神の祟りは恐いぞ。

Img_3316 吉川橋から中川下流方向

Img_3318 延命寺 【ルート地図】の⑤

武蔵国新四国三十三霊場の第一番札所

Img_3320 説明板

Img_3321庚申塔道標(右端・文化2年(1805))

右側面に「右松ぶし ほうし花道」、左側面「左こしがや 江戸道」 「松ぶし」は松伏町、「ほうし花」は江戸川沿いの春日部市宝珠花のことか。

もとは吉川橋を渡って80mの所を左折して20mの所に東を向いて置かれていたそうだ。この先の吉川交番前交差点の先で左折し、北に向う道は下妻街道で、吉川交番前交差点で右折し、南に向かう道は吉川道(岩槻慈恩寺道)で、三郷市、葛飾区、江戸川区へと続く。

Img_3332 鷲神社

Img_3335 吉川駅

バスの行き先の「エローラ」は松伏町にある音楽ホール。

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2009年12月20日 (日)

赤山街道-2(大宮道②)

2009年12月15日

Img_3124 与野駅(JR京浜東北線)・・・中山道・・・新都心大橋・・・赤山通り・・・石橋供養塔道標・・・(国道17号)・・・(JR埼京線)・・・赤山橋(鴻沼川)・・・稲荷社・薬師堂・・子育地蔵尊・甲子塔道標・(県道165号)・・・赤山通交差点(新大宮バイパス)・・・御屋敷山(円阿弥陣屋)跡・やしき坂跡あたり・円阿弥雑木林跡・・円阿弥竹林跡・・・八幡通り・・・(新大宮バイパス)・・・県道165号・・・上町氷川神社・・・(県道56号)・・・庚申塔道標(三橋T字路)・・・供養塔道標(老人憩の家前)・明法不動尊神・・・(国道17号)・・・県道56号・・・茶堂(観音堂)・・・旧道・・・並木橋(鴨川)・・・鳶(とんび)坂・庚申塔道標・・・県道56号・・・慈眼寺(水判土観音)・県道57号・・・第六天神社・・・金山堂・金山神社・代官堀(備前堀)跡・・・永田陣屋跡(上の写真)・・・コミュニティセンターバス停→大宮駅  

  【ルート地図

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Img_3002 与野駅から中山道を少し北に進み新都心大橋を渡る。

車道、歩道、エレベーター付き

Img_3004 説明板

Img_3006 「赤山通り」に入る。

Img_3007 右は下落合小学校

Img_3008 石橋供養塔(与野東中学校の正門前)

宝暦6年(1756)の高沼導水路に石橋(旧高谷橋)が架かったことを記念して建てられたものをここに移設。今も前を鴻沼排水路が流れている。

Img_3009 説明板

Img_3024 赤山橋(鴻沼川) 【ルート地図】の①

石橋供養塔(享保11年(1726))の建立

Img_3027 稲荷社と薬師堂

Img_3031 薬師堂

堂内の薬師像は見えず。

Img_3033 ①子育地蔵・②甲子供養塔道標(右の高い石柱)・③道標(手前の低い石柱) 《地図

②甲子塔(天保13年(1842)) 正面に「引又二里」・「川越四里」、右側面に「おおみや十五丁」・「原市三里」・「一ノ宮鳥居前十丁」・「岩槻三里」、背面に「中山道七丁」。
「一ノ宮鳥居」は大宮の氷川神社、「引又、川越」とあり、このあたりからは川越道と呼ばれていたようだ。引又は現在の志木市あたり。
③道標(寛政年(1796)) 正面に「右秋葉大○」、「左石尊大○」 大権現で「権現」が下に埋まっているのか? 

 このあたりまでが一般に赤山街道と呼ばれているが、その延長上の御屋敷山、永田陣屋への道を行く。

Img_3041 赤山通交差点(新大宮バイパス)

ドンキホーテなどの安売り量販店が並び、怪獣が出迎えてくれる。

Img_3042 やしき坂・御屋敷山跡あたり 【ルート地図】の②

Img_3045 同じような新しい家が建ち並ぶ御屋敷山跡

伊奈半左衛門の円阿弥陣屋跡で、以前は円阿弥の雑木林、ずっと昔は縄文時代の住居があった御屋敷山遺跡。

Img_3017 案内板

「武蔵野の面影を良く残しています」とある。今は「武蔵野の面影」なんて全くありゃしないただの住宅街。絶え間なく自然を破壊していく人間の開発力?は空恐ろしい。

Img_3047 円阿弥の竹林跡

正面右は淑徳与野高校。

ここから八幡通りを進み、円阿弥通りを横切り、県道165号まで戻る。途中左に曲がり円阿弥通りを進み、茶堂へ出る近道も赤山街道の一つだろう。

Img_3050 氷川神社 《地図

本殿は宝永6年(1709)の再建。

Img_3054 神輿

宝永7年(1710)に寄進、奉納されたもの。

Img_3055 供養塔道標(氷川神社境内)

もとは神社前の三叉路にあったもので、左側面に「従是左川越」、右側面に「従是右大宮道奥州道」 享保4年(1719)の建立。

Img_3057 右側面

Img_3061 青面金剛庚申供養塔(正徳6年(1716))

氷川神社前の道沿い

Img_3064 庚申塔道標(三橋T字路) 《地図

右側面「これより東 大ミヤ道」、左側面「これより南 与乃道」

Img_3065 説明板

西へは並木橋(鴨川)→水判土観音(慈眼寺)→佐知川→川越で、永田陣屋前を通る川越道。

Img_3067敷石供養塔道標(老人憩の家前)

右側面「西 川ごへ 南引又大山 道」、左側面「南 与の 江戸」・「東 大ミや いわつき」

Img_3070 説明板

Img_3072 明法不動尊(善?)神の扁額が(老人憩の家の左隣)

不動は神?

Img_3074 歩道橋を渡り県道56号に入る。

Img_3079 茶堂 【ルート地図】の③

これはひどい。境内は荒れ放題でお堂は壊れかけている。

満福寺持ちの観音堂で千手観音像を祀る。徳川家康がここで小休止した時に里人が茶をふるまったことから家康が茶堂と名づけたという。

満福寺はこんな状態で放っておくのか、それとも今は満福寺とは関係がないのか。千手観音は今でも堂内に安置されているのだろうか。

Img_3075 説明板

Img_3077 敷石供養塔(茶堂前)

通行量の多い川越道に敷石をした記念に寛政12年(1800)に建てられたもの。

Img_3080 説明板

Img_3082 旧道へ入り並木橋へ

Img_3084 並木橋から鴨川

京の鴨川とは比べようもないが・・・。

Img_3085 鳶(とんび)坂(坂下から) 【ルート地図】の④

北へ清河寺(せいがんじ)、上尾、平方へと続く古道の坂。

Img_3089 坂上方向(赤山街道(川越道)は左(自動車の手前から)に曲がる)

このあたりを鳶貝戸(とんびがいと)と呼ぶそうだが、鳶貝戸の由来は説明板には記載がない。説明板の石橋供養塔道標は撤去されたようで見当たらず。

Img_3087 説明板

Img_3091 庚申塔は正徳5年(1715)の建立。

Img_3097 慈眼寺(水判土(みずはた)千手観音)

慈覚大師円仁が東国布教の折に開山、天長3年(826)創建の天台宗の古刹。古くから観音霊場「水判土観音」として信仰を集めた。自然上の要塞の地形に位置し、戦国時代は軍事的拠点としての役割を担ったため幾度も戦火に焼かれ、また復興した。江戸時代は徳川家康の民心安定策の一環として寺領十石を安堵された。

Img_3099 第六天神社

Img_3109 金山堂(右)・金山神社(左) 《地図

Img_3101 金山堂説明板

Img_3105 金山神社説明板

Img_3107 代官堀(備前堀)跡

金山神社の北側

Img_3116 永田陣屋跡 【ルート地図】の⑤

伊奈半左衛門忠次が荒川の河川改修の際に構築したものを、重臣の永田家が拝領した。土屋陣屋、伊奈陣屋とも呼ぶ。

今でも水堀が廻っている。

Img_3112 説明板①

Img_3121 陣屋門

Img_3119 説明板②

Img_3123 陣屋前の松並木と水堀

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2009年12月19日 (土)

赤山街道-1(大宮道①)

2009年12月14日

新井宿駅(埼玉高速鉄道)・・・日光御成道(県道105号)・・・花見地蔵・・・県道161号(越谷鳩ヶ谷線)・・・赤山交差点(県道239号・首都高速川口線)・・・曲輪バス停・・・赤山陣屋跡(赤山城跡)・・・東京外環自動車道・・・日光御成道・真乗院・・・東北自動車道跨線橋・・・県道103号・・・木曽呂阿弥陀堂・・・山口橋(見沼代用水東縁)・稲荷神社①・・・水神社・八丁橋(芝川)・・・見沼通船堀・・・鈴木家住宅・・・大聖不動尊・・・稲荷神社②・・・附島氷川女体神社・附島橋(見沼代用水西縁)・稲荷神社③・・・県道235号・・・東浦和駅(JR武蔵野線)・・・旧道・・・大間木氷川神社・・・清泰寺・・・(県道235号・国道463号)・・・庚申塔・・・高野家離座敷・・・(国道463号)・・・報徳院・・・三室南宿庚申塔・・・馬頭観音道標・富士塚(大東北公園)・・・(県道64号(さいたま岩槻線))・・産業道路(県道35号)・・・旧道・赤山通商店街・・・中山道合流点・・・与野駅(JR京浜東北線)

 赤山街道は関東郡代伊奈氏の赤山陣屋敷(川口市赤山)から、それぞれの支配地、治水・利水等の事業地まで延びていた道のこと。『赤山街道調査報告書Ⅰ~Ⅲ』に従い、大宮道、越谷道、千住道の3つの道筋をたどる。大宮道は赤山陣屋から北西方向に中山道を越えて永田陣屋までの道のりで、今日は中山道との合流点の与野駅までの行程。新井宿駅から少し遠回りして日光御成道沿いの花見地蔵に挨拶をしてから赤山陣屋跡へ向う。広大な赤山陣屋跡の西半分をざっと回り、日光御成道から赤山街道の大宮道を歩く。

  *参考:『赤山街道総合調査報告書Ⅰ(大宮道をたどる)』(川口市教育委員会) 

  【ルート地図

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Img_2852 花見地蔵 《地図

Img_2853 地蔵の右側に「花見堂」とある。

大きい地蔵さんは宝永3年(1706)の銘がある。

Img_2859 赤山陣屋(赤山城跡) 【ルート地図】の①

Img_2862 国道298号(建設中)は、今の東京外環自動車道

今日は北堀から西堀、北西堀あたりを通り、外環道をくぐり日光御成道から赤山街道の大宮道をたどる。

Img_2873 本丸跡あたり

Img_2860 説明板①

こちらは城跡

Img_2861 説明板

こっちは陣屋

Img_2871 北堀跡

Img_2883 水神の小祠(北堀と西堀の交差するあたり)

伊奈家の姫と龍にまつわる伝説があるという。

Img_2888 真乗院

Img_2893 地蔵菩薩道標(元文2年(1737)建立)

台石正面に「南 江戸本郷道」、右側面に、「東 江戸あさ草道」、左側面に「北 いわつき道」

Img_2896 御嶽山(御成街道沿いの右側)

堂内には三体の石像が並ぶ。何の像なのか? このあたりの石神という地名と縁があるのか?

Img_2900 中央

Img_2898_2

Img_2899

Img_2901 東北自動車道を越える 《地図》(跨線橋あり)

Img_2909 木曽呂阿弥陀堂

六地蔵の向う隣に猿田彦大神道標がある。

Img_2906 猿田彦大神塔道標

正面に「北 大門江二十八丁 岩つき江三里 秋葉江六里」・「東 新町江八丁 創価江ニ里 千住江四里 こしかや江ニ里」・「西 かねさきふしへ壱丁 浦和江ニり 大宮江三リ」

右側面に、「南 前川観世音へ三十丁 はとがやへ三十丁」

左側面に、「日本はしへ六里」

大門は日光御成道の大門宿、新町は御成道の新町交差点あたり、創価は日光街道の草加宿、「かねさきふし」は通称「木曽呂の富士塚」、前川観世音は川口市前川の観福寺のことだろう。

Img_2912 稲荷神社①

手前は見沼代用水東縁。境内に不動明王塔道標があるというが見当たらず。

Img_2919 見沼通船堀 【ルート地図】の②

「一の関」から「ニの関方向」

Img_2920 説明板①

Img_2921 説明板②

Img_2923 水神社(八丁橋手前)

Img_2925 説明板

Img_2926 芝川(八丁橋から)

Img_2931 鈴木家住宅

Img_2929 説明板

Img_2934 大聖不動堂(八丁集会の前)

不動像は見えず。

Img_2938 庚申塔、地蔵らが並ぶ境内。

Img_2940 稲荷神社②

Img_2941 附島氷川女体神社 《地図

Img_2944 説明板

Img_2948 大間木氷川神社 《地図

左が赤山街道

Img_2949 赤山街道説明板

Img_2952 社殿は修理して新しい。

Img_2951 説明板

Img_2959 清泰寺

武田信玄の娘、見性院の墓と351基の庚申塔がある。

Img_2953 説明板①

Img_2954 説明板②

Img_2960 庚申塔351基

垣根のように並ぶ349基の文字庚申塔。青面金剛庚申塔1基、自然石の庚申塔1基。

Img_2958 見性院の墓

Img_2957 説明板

Img_2962 庚申塔(会梅自治会館前あたり)

Img_2970高野家離座敷 【ルート地図】の③

高野長英をかくまった所という。

Img_2969 説明板

Img_2967 長屋門(高野家離座敷のすぐ先)

農家のようだ。

Img_2975 松葉山報徳院

本堂は別の所にあるのだろうか?

Img_2976 三室南宿庚申塔 【ルート地図】の④

「さるまん塚」と呼ばれる上に立つ。

Img_2978 説明板

Img_29772童子、4夜叉を従えている青面金剛庚申塔。

Img_2979 「東 赤山道」

赤山陣屋へ向う方

Img_2981 「西 大宮道」

与野、大宮方向

Img_2986 馬頭観音道標 《地図

右側面「右江戸はとがや 左大宮与野」、左側面「左宮本 なんぶ」

宮本は芝川の見沼大橋近く、「なんぶ」は見沼代用水東縁と日光御成道の間の総持院のある南部領辻のことだろう。

Img_2985 富士塚(大東北公園)

Img_2991 庚申塔(富士塚の上)

文化14年(1817)建立。

Img_2994 赤山通商店街へ左に入る。 【ルート地図】の⑤

今はあまりぱっとしない商店街だ。

Img_2995 下が破れかかった赤山通商店会の旗が寒空にはためいている。

Img_2997 浦和レッズの旗も破れている。

Img_3000 中山道にぶつかる

Img_3001 中山道の与野駅入口交差点

右に浦和宿と大宮宿の間の半里塚跡といわれる大ケヤキが立つ。(2010年5月19日に倒木の危険があるとして、伐採されてしまった。与野駅の改札口前に大ケヤキの幹の輪切りが保存され、西口広場には後継樹が植えられている) 中山道(浦和宿→上尾宿』に記載。

今日はここまで。

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2009年12月13日 (日)

日光御廻り道②

2009年12月10日

鷲宮駅(東武伊勢崎線)・・・新道橋(青毛堀川)・・・鷲宮駅入口交差点・・・県道410号・・・鷲宮町郷土資料館・・・金山橋(葛西用水路)・・・宝泉寺池・日光御廻り道・・・稲荷神社・・・馬頭観音・甲子供養塔・・・(加須市)・川口前橋(葛西用水)・・・洗磯神社・・・川口橋(葛西用水)・・・古門樋橋(中川)・国道125号・(栗橋町)・・・天満宮・・・宝聚寺・旧道・・・香取神社・・・(国道125号)・・・八幡神社・定福院・・・県道316号・・・大日如来堂・・・(国道125号)・・・宝蔵院・・・松永神社・・・島中領用水路・・・(東武日光線)・(JR宇都宮線)・・・仲一地蔵・・・栗橋宿・日光街道合流点(県道60号)・・・栗橋駅(東武日光線)

 前回の続きを歩く。鷲宮神社門前通りの県道410号の電柱には青テープが巻かれている。昭和22年のカスリーン台風の時の水位だ。郷土資料館ではその時の利根川の氾濫による被害状況のフィルム映像が見られる。宝泉寺池の西側から左へ日光御廻り道に入る。葛西用水と中川が接近する川口橋あたりで、やっと北西から北東、東へと進路を変えて栗橋宿へと向って行く。

 古門樋橋からの国道125号は、大型車が切れ目なく続く爆音酷道だ。北へ南へと除けながら進み、大日如来堂の先で国道をくぐり、宝蔵院の前を通り、東武日光線をくぐり、宇都宮線の踏切を渡ると栗橋の町並みに入る。駅前入口の交差点を直進し、少し細い道に入ると仲一地蔵尊の先で日光街道とぶつかる。ここが日光御廻り道ならぬ大回りの遠回り道の終点だ。この先、栗橋宿の中心部を通り、利根川を渡る日光街道は先月の20日に歩いたばかりだが、もう随分たったようでなんだか懐かしい。北へ延びていく街道をしばし眺めて栗橋駅へ向った。

  【ルート地図

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Img_2736 カスリーン台風(昭和22年9月)の時の水位

利根川の堤防の決壊で電柱の青テープの所まで浸水した。栗橋町では2mにも達した所もあるそうだ。鷲宮町では死者96人、農作物は全滅した。

Img_2734 電柱に張られているシール

Img_2737 鷲宮町郷土資料館(町立図書館の2階)

カスリーン台風の時の利根川の堤防決壊による洪水、濁流のフィルム映像は一見の価値あり。

Img_2739 宝泉寺池から日光御廻り道に入る。【ルート地図】の①

ここはかつては中島堤と呼ばれた堤上の道。右奥の茂みは稲荷社。

Img_2741 稲荷神社 

お狐さんがちゃんと出迎えてくれる。

Img_2744 馬頭観音と甲子(かっし・きのえね)供養塔(右・文化13年(1816)の建立) 《地図

甲子供養塔は、甲子または子の日に夜遅くまで起きていて精進供養(祭祀)をする子待の行事、甲子待ともいい、礼拝本尊は大黒天(大国主神)だそうだ。

Img_2752 葛西用水沿いを北に向う。ここは加須市川口で、昔は川口の渡しがあり、対岸の高柳を経て奥州へ向う古道の道筋と推定されている。

Img_2754 洗磯神社 【ルート地図】の②

川口村の鎮守。由緒碑によれば、川口の地名は平安末期の武蔵七党の一つの横山党の河口八郎の名とともに歴史に現れるという。

Img_2756 由緒碑

Img_2761 葛西加用水與八圦(よはちいり)之碑(川口橋を渡った右側)

ここは中川と葛西用水が最も接近する所で、中川に設けた圦樋(いりひ・取水、排水の水門)で取水し、その水を葛西用水路に加えて下流でも使えるようにしていた。この圦樋は與八圦と呼ばれ、天保12年(1841)から昭和2年の中川改修まで設置されていたそうだ。「與八」は人の名か?

Img_2763 すぐ右を中川が流れる。

Img_2768 天満宮

古門樋橋を渡って国道125号沿いの右側

Img_2775 宝聚寺の鐘楼門の山門

物見櫓として建てられていたものを慶安2年(1649)に移築したとの伝えがある。幸手城主一色直朝の開基で、古河公方ともゆかりの寺。

Img_2774栗橋八福神の吉祥天

一般の七福神に吉祥天を加えて八福神としている。

Img_2781 羅漢入口

羅漢とは定福院のこと。

Img_2784 八幡神社 《地図

Img_2783 説明板

Img_2798 定福院 【ルート地図】の③

参道から境内まで一般の人が彫った羅漢がぎっしり、500体近くあるそうだ。11月3日には羅漢祭りがある。栗橋八福神の布袋尊。門前の提灯に八幡山とあるから隣りの八幡神社の別当寺だったのだろう。

Img_2786 子どもを抱いた女人の羅漢?もいる。

Img_2797 ふくべから酒をついでもらってご機嫌なおっちゃんもいる。

Img_2789 これは正真正銘の「いぼ(取り)地蔵」なのだ。

「境内はえせ羅漢だらけで、これじゃ存在感が薄れてしまうよ」

Img_2790_2はずれて下に立て掛けてある。昨今は「いぼ取り」はもう古く、はやらないか。

Img_2809_2大日如来堂 《地図

左に十九夜塔(文化14年(1817))、庚申塔などが並ぶ。

Img_2811 国道125号をくぐる。

Img_2813 宝蔵院

左に庚申塔などの石造物が並ぶ。

Img_2816 この庚申塔は青面金剛の脇に2人の若い女人のような童子を従え、邪鬼の下にも2人の夜叉がいて、その下に三猿を配している珍しいもの。正徳4年(1714)の銘がある。

Img_2814 やさしい顔立ちの若そうな地蔵さん

Img_2824 聖如意輪観自在菩薩(文化8年(1811))の建立。

Img_2827 松永神社

社殿は新しい。

Img_2832 東武日光線をくぐり、JR宇都宮線の踏切を渡る。

Img_2833 直進して栗橋宿の日光街道との合流点に向う。

Img_2835 仲一地蔵尊(右) 【ルート地図】の④

この道は通称「野ら道」というそうだが、今でもそう呼んでいるのだろうか。

Img_2840 民家の玄関脇に仲一地蔵の堂があり、ちょっと入りづらい。

寛延3年(1750)の洪水で流れてきた地蔵を祀っている。「仲一」は人の名ではなく、ここの以前の町名の仲町一丁目からきているのだろう。

Img_2837 地蔵堂新築記念碑

Img_2843 正面が日光街道との合流点 【ルート地図】の⑤

その向うに利根川の土手が見える。

Img_2846 日光街道栗橋宿

先月の20日にここを通って利根川を渡り、中田宿、古河宿、野木宿へ向った。

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2009年12月11日 (金)

日光御廻り道①

2009年12月8日

幸手駅(東武日光線)・・・陣屋道(駅前通り)・・・裏町(通り)・・・裏町天神神社・・・満福寺・・・幸宮神社・・・妙観横町・・・日光街道分岐点・・・妙観院・・・雷電神社・・・庚申塔・・・宝持寺・・・(東武日光線)・・・県道152号・・・真乗院・・・千塚神社・・・宝性院・馬頭観音道標・・・(東北新幹線)・・・八甫鷲宮神社・宮裏橋(北側用水路)・・・中川土手・・・(JR宇都宮線)・・・愛宕山神社・・・光厳寺・・・浅間神社・・・県道3号・・・宝泉寺池(ここまで日光御廻り道)・・・金山橋(葛西用水路)・・・霊樹寺・・・新宿橋(六郷堀川)・・・鷲宮神社・・・新道橋(青毛堀川)・・・鷲宮駅(東武伊勢崎線)

 徳川将軍の日光社参の「幻のルート」、日光御廻り道を2回に分けて歩く。この道筋は幸手宿と栗橋宿の間の権現堂川による洪水被害の危険地帯を避けるために、11代家斉の文政の社参の延期から12代家慶の天保14年(1843)の社参の準備の間に整備されたものという。歩いて見ると日光街道からは随分と離れ、迂回路、遠回り道というより別のルートという感じだ。

 天保の社参を最後とし明治維新を迎えたので、結局この道筋は一度も使われなかったのだが、洪水を恐れ堤防も造れず大きく回り道する将軍の行列を見れば、地元の村々から笑われ将軍家の権威もさらに落ちたことだろう。

 幸手駅前から日光街道に向う陣屋道を少し進み、陣屋稲荷の手前で左に裏町通りに入る。香ばしい匂いの漂う、手焼せんべい店と手作り豆腐屋が道を挟んで並ぶ妙観横町の辻を右に行くと日光街道にぶつかる。ここが日光御廻り道との分岐点だ。

 日光御廻り道は宝持寺の先で左に曲がり北西へと向い、どんどん日光街道からは離れて行く。よほど権現堂川の氾濫による洪水が怖かったと見える。東武日光線、東北新幹線、宇都宮線、県道3号を横切り、宝泉寺池を過ぎて葛西用水沿いに進み、やっと北東から東方向に向い、再び東武日光線をくぐり、宇都宮線を渡り栗橋宿へと入って行き日光街道と合流する。

 今は車の多い県道歩きが多く、あまり面白味のある道ではない。途中、県道から離れ北側用水路や中川の土手歩きを混ぜながら、今日の御廻り道歩きは宝泉寺池までとし鷲宮神社へ寄り鷲宮駅へ向った。

  *参考:『埼玉ふるさと散歩(日光街道・古利根流域編』(さきたま出版会)

  【ルート地図

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Img_2610 幸手(さって)駅

幸手の語源は、①アイヌ語で乾いた土地を意味する「サッ」とする説。 ②日本武尊(ヤマトタケル)が東国遠征の時に立ち寄った島の名前の「薩手(さって)が島」からという説。

①は「テ」は何か? ここは乾いた土地だったのか? ②はここは島だったのか? などの疑問が残り、どっちもいまいちの説で説得力が乏しく思うが。

駅の付近は戦国時代に当地を支配した一色氏の城跡だったらしい。

Img_2611 裏町の通り

東側の日光街道が表通り。周囲が水路や沼地で浦をなし、本来は浦町であったともいう。

Img_2613 裏町天神神社

一色宮内大輔が建立したという、「一色五天神」の一つで、幸手城の鬼門「艮(うしとら)」除けの守り神。「一色五天神」は源頼朝が鎌倉二階堂に鬼門守護として祀った江柄天神社から勧請した、幸手宿、平須賀村、神扇村、天神島村、上高野村の天神社。

Img_2612 由緒

Img_2622 満福寺

荏柄山と称し、裏町天神神社、八幡香社の別当寺だった。本尊の観世音菩薩は安産子育てにご利益があり。満福→満腹か。

左手前は延命地蔵堂で、当時は東京に住んでいて日頃からこの延命地蔵への信仰が篤かった女性が、関東大震災の前夜に地蔵が夢枕に立ち導かれ、当地へ戻り震災の難を逃れたのを感謝して建てたという。(今の堂は昭和48年の再建)

Img_2620 説明板

Img_2627 幸宮神社

幸手の総鎮守で、もとは八幡香取社といった。

Img_2626 説明板

Img_2630 妙観横町

突当たりの中山家具の前が日光街道と日光御廻り道との分岐点 【ルート地図】の①

Img_2632 妙観院

Img_2633 雷電神社

江戸時代には「幸手領総社」ともいわれた。垂仁天皇の時代に黄金の雷電像が田の中に降臨して創建したとか。

Img_2635 庚申塔(北1-7前)

宝持寺前にも庚申塔・地蔵などが並ぶ。

Img_2639 宝持寺

雷電神社の別当寺だった。

Img_2642 三面地蔵石塔?(宝持境内)

一面に2体の地蔵が三面に彫られている。

Img_2643 宝持寺の北で左に曲がり東武日光線(正面)を渡り、県道へ152号へ。

Img_2645 県道を離れると静かな空間が広がる。

右端は真乗院

Img_2647 真乗院

Img_2646 説明板

Img_2649 千塚神社 【ルート地図】の②

社殿前は落葉と沢山の銀杏で埋まっている。靴で踏んづけて匂いがついてしまった。かなり前に落ちたもののようだ。もったいない。

Img_2650 説明板

前の「ささら獅子舞」の標柱が説明板にピッタリとくっつけて立っているので、説明板の後半が見えない。何を考えていることやら、いい加減なことをするよ。

Img_2657 宝性院

「新四国弘法大師埼東八十八ヵ所の第7番札所」「関東、坂東、埼東」、○○ヵ所、ややこしい札所があちこちにあるなあ。
右が不動堂

Img_2651 説明板

Img_2660 宝性院の塀の前の馬頭観音道標(文政6年(1823)建立)

「北 新井ふなとみち」・「東 ごんげんどうみち」

東は幕府が恐れた権現堂堤への道。今の県道152号で日光御廻り道。

Img_2662 東北新幹線をくぐる。

右は葛西用水の支流の北側用水路で、中郷用水、南側用水とともに、幸手領三用水の一つ。

Img_2665 そば屋「元禄」の手前で県道から離れ右へ、北側用水路沿いに進む。

Img_2668 静かでのんびりする道。

Img_2672 八甫鷲宮神社 【ルート地図】の③

Img_2676 宮裏橋を渡り、ここで左に曲がって車道を行くのだが、直進して中川土手に向う。

Img_2677 土手の手前の小祠

Img_2679 中川の土手道

Img_2683 宇都宮線で行き止り、車道へ戻る。

Img_2687 愛宕山神社

宇都宮線を越えた左側

Img_2689 古墳のような塚が前方に

Img_2691

浅間神社だった。

長いすべり台が塚上から下りている。

Img_2694 光厳寺

瑠璃山薬王院と号す曹洞宗の寺で、鷲宮の霊樹寺の末寺。

Img_2695 宝泉寺池 【ルート地図】の④

かつては利根川流路の一部だった。宝永元年(1704)の利根川水系の洪水の濁流で窪んだ所にできた池) 池の脇にあった宝泉寺はいつ頃まであったのだろうか?

Img_2699 説明板

Img_2696 日光御廻り道は右へ曲がり、池から離れて行く。《地図

この先、栗橋宿の日光街道との合流点までは次回に歩く。

Img_2700 地蔵堂 《地図

Img_2701 地蔵さん

右は頭部を新しくしたようだ。

Img_2710 レトロ風な床屋

Img_2712 古風な造りの家

Img_2713 霊樹寺前

中央のは何か?下部は「第一ばん」か?

Img_2715 霊樹寺門前の松並木は鷲宮町の天然記念物。並木というほどでもないが。

白鶴が運んできた松の枝から、松が伸びて繁ったという伝えがある。それで山号が「鶴松山」なのだろう。

Img_2717 霊樹寺

鷲宮山(じゅぐうざん)鶴松院(かくしょういん)と号する曹洞宗の寺で、陸奥国白川関川寺の末寺。

参道両側に並ぶ羅漢には番号札がつけられている。何かの霊場の札所になっているのか? 

Img_2724 鷲宮神社参道 【ルート地図】の⑤

境内は広く、参詣人も多い。

Img_2725 銅製の御神火燈

Img_2727 拝殿

Img_2728 本殿の堅魚木(かつおぎ)(鰹木)に日があたり、光を放っている。

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2009年12月 9日 (水)

岩槻慈恩寺道(葛飾区)

2009年12月7日

新柴又駅(北総開発鉄道)・・・医王寺・・・佐倉道分岐・上小岩親水緑道(公園)・・・(北総開発鉄道)・・・寅さん記念館・・・山本亭・・・柴又帝釈天(題経寺)・・・柴又駅・おりつ地蔵・・・(京成線)・・・柴又八幡神社・・・真勝寺・・・川甚・・・矢切の渡し・・・新葛西橋(水戸街道)・(JR常磐線)・・・葛西神社・・・光増寺①・・・金蓮院・・・しばられ地蔵(南蔵院)・・・松浦の鐘・・・水元公園・・・蓮蔵院・・・内溜・・・岩槻橋・・・長伝寺・・・延命寺・・・小合不動堂・・・地蔵堂・・・薬師堂・・・日枝神社・・・熊野神社・・・光増寺②・・・遍照院・・・閘門橋

 坂東三十三ヵ所観音霊場第12番慈恩寺への道が岩槻慈恩寺道だ。佐倉道との分岐の、江戸川区の上小岩親水緑道公園にある慈恩寺道の地蔵道標から北へ、葛飾区の岩槻慈恩寺道を行く。かつて道沿いにあった道標が移設されている寺などを訪ねて歩くので、慈恩寺道からはずれている所もある。

 少し冷たい北風に向って、「男はつらいよ」の柴又の帝釈天、矢切りの渡し、大岡裁きの「しばられ地蔵」。水元公園などに寄りながら、埼玉県三郷市との境の閘門橋まで歩く。三郷市の慈恩寺道は、「三郷七福神①」で歩いた中川沿いの旧道の道筋と重なるようだ。その先、慈恩寺道は、吉川市に入り、武蔵野線を越えて中川を渡り、元荒川沿い?を進み、越谷市で日光街道を横切り、慈恩寺へと通じていると思うが、詳しい道筋は調べていなので分からず。(元荒川と葛西用水が併流する越谷市のしらこばと橋手前の葛西用水分岐地点あたりに岩槻慈恩寺への庚申塔道標がある。『赤山街道③』に記載)・足立区を通るルートもあった(ある)ようだがこれも未調査)

 参考:『かつしかの道(岩槻慈恩寺道)』(葛飾区教育委員会)

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_2444

医王寺

足利義満の時代の建立で、眼病に霊験あらたかな薬師瑠璃光如来が本尊。それで「医王」寺か。

Img_2448 庚申塔道標(左端)

邪鬼の下に「ぢおんじ道 是より七里」と刻まれているそうだが、磨り減っていて読めず。

以前は医王寺は北東約300mの柴又6-22(今は寅さん記念館がある)の岩槻道に面した柴又堤上に建っていて、大正4年に現在地に移転した。

Img_2446 医王寺由来

Img_2454親水さくらかいどう(佐倉街道(成田街道))

小さな流れは昔の農業用水路、右の小屋はお堂ではなく、清掃用具などの格納庫か?

Img_2453 説明板

Img_2456 巡拝塔道標・地蔵・馬頭観音の小堂(江戸川区の上小岩親水緑道公園内) 【ルート地図】の①

左に小堂、正面は江戸川の土手

Img_2457 巡拝塔道標(右端)

右側面に「是より右岩付慈恩寺道」と深く刻まれている。 この巡拝塔は正徳3年(1713)に坂東西国秩父の百札所の巡礼記念に建てられたもの。この道標も昔は慈恩寺道沿いの路傍にあったのだろう。中央は地蔵?で左は馬頭観音。

Img_2464 寅さん記念館

Img_2465 山本亭の洋風長屋門

大正末期から昭和初期に建てられた和洋折衷の建物と純和風の庭園。門をくぐって亭内を通り帝釈天の方へ抜けられる。もちろん無料。

Img_2467 ステンドガラスのしゃれた長屋門両側の袖部屋

以前は番人が常駐していたそうだ。

Img_2471 説明板①

Img_2472 説明板②

Img_2473 柴又帝釈天

記念撮影しているのは福島県から来た団体さん。バスガイドさんが訛っていた。正面がニ天門、その右奥が鐘楼。

Img_2479 平日でも参道は賑わっている。

Img_2480 「男はつらいよ」によく出てきた柴又駅。以前来た時には寅さんの像は立っていなかったと思うが。

Img_2481 おりつ地蔵尊 (上の写真の左隣) 【ルート地図】の②

実の親に殺された幼い娘の哀れで、悲痛な由来話の地蔵尊が祀られている。寅さんはこの地蔵のことを知っていただろうか。

Img_2482 由来

Img_2483 顔がはがれてきているようだ。これも律子の恨み、悲しみのなせる業か。新しくするか、修復して供養してあげたい気がする。

Img_2486 柴又八幡神社

社殿は帽子を被った「寅さん埴輪」が出土した古墳の上。6世紀後半築造の直径20~30mの円墳。

Img_2489 古墳石室説明板

神社の裏手をしつこく探したが、石室の名残りのようなもの見当たらず。

Img_2490 真勝寺

Img_2492 五智如来像

万治3年(1660)に建てられたもので、全国的に見ても五仏がそろっているのは数少ないという。

Img_2491 説明板

Img_2495 川魚料理「川甚

寅さんがよく口にしていた店だが、立派なビルになりすぎていて、あまり情緒がないと思うが。今日は「はとバス」の団体さんなどの予約が入っている。昔は矢切りの渡しの北の江戸川の河川敷にあったという。

Img_2497矢切の渡しあたりの江戸川 《地図

12月から3月初旬は土・日・祝日の運航。

♪「矢切の渡し」♪を口ずさみながら江戸川の土手を遡る。

Img_2501 葛西神社

境内は工事中だった。初詣のかき入れ時までに整備するのだろう。

境内の南角に「じおんじ道」の道標があるというが見逃した。もとは慈恩寺道沿いにあったそうだ。

Img_2504 葛西神社前の慈恩寺道沿いに立つ、文政2年(1819)建立の庚申塔。風雨にさらされ風化・摩滅が激しい。ずっと昔から慈恩寺へ向う人たちを見送ってきたのだろう。

Img_2505 光増寺①

Img_2506 舟形地蔵道標(右) 光増寺境内左手

右に「ミキいわつきしおんじミち」、蓮台正面に「金町村 道行弐百三十五人」とあるそうだ。慈恩寺は多くの信仰を集めていたようだ。これも以前は街道沿いにあったもの。元禄7年(1694)の建立で、刻銘のある道標では葛飾区内で2番目に古いもの。

Img_2508 説明板

Img_2510 地蔵道標(右) 光増寺境内右手

元文6年(1741)建立の地蔵の左側に「これより左いわつき志”おんじ道」、これは何とか見える。

Img_2517 金蓮院

Img_2515 愛染明王石像

二十六夜待講中が宝永7年(1710)に建立したもの。愛染明王の石像は全国的にも少ないそうだ。染色業者の信仰が篤いという。愛染→藍染か。

Img_2514 説明板

Img_2521 南蔵院(しばられ地蔵) 【ルート地図】の③

地蔵を召し捕り縛った大岡越前の登場する『由来話』。やさしい顔立ちの地蔵さんだ。顔にまで縄を巻くのは可哀そうだよ。

大岡政談の由来話は戦前の教科書にも載っていたそうだ。

Img_2525 縄でぐるぐる巻きにされた地蔵さん。

せちがらい、不況の昨今、願い事が多いせいか顔にまで縄が巻かれている。これじゃあ窒息死してしまいそうだが、「おりつ地蔵」と違って虐待されているわけではなく、自ら望んで?縛られているのだ。縛り縄(1本100円)、願いが叶った時の「解き縄入れ」も置かれている。

Img_2520 宣伝

元旦に初詣に行けば、テレビに映るかもよ。映ってもカメラの前でVサインだけは勘弁してよ。

Img_2529 野菜直売所(南蔵院の隣り)

Img_2531 松浦の鐘(水元公園の遊歩道沿い) 《地図

「松浦の小夜姫伝説」とはゆかりはない。

Img_2533 説明板

Img_2537 水元公園の小合溜

風が強くさざなみが立っている。水鳥は気持ちよさそうに波にちゃっぷちゃっぷ浮かんでいる。

Img_2542 蓮蔵院

Img_2544 聖観世音菩薩道標(宝暦6年(1756)の建立)

観音像の下に「右いわつきぢおんじ道」と刻む。これははっきり見える。もとは慈恩寺道の岩槻橋交差点(南水元4-27)にあったもの。岩槻橋はもとは観音橋と呼ばれていた。

Img_2548 料亭すずき

Img_2549 成田道道標(左・元治元年(1864)の建立)

正面上部に左方面を指す「手指」の線刻と「成田道 是より十四里」とあるそうだが、料亭の敷地内の玄関前なのであまり長居はできず、文字もよく見えずあきらめた。これも岩槻橋交差点にあったもの。成田道は佐倉道から成田不動尊へ通ずる道。

Img_2555 水元公園小合溜の内溜

Img_2559 釣り人がずらっと並んでいる。

内溜は正面奥の岩槻橋交差点近くまで伸びている。

Img_2558 水元桜大滝は水を循環、ろ過して内溜をきれいに保ち釣り天国にしているそうだ。

Img_2563 小合不動堂 【ルート地図】の④

Img_2565 石灯籠

寛永7年(1630)の建立で、紀年銘のある石灯籠では区内最古のもの。

Img_2564 説明板

Img_2566 この観音像?は元禄6年(1693)の銘のあるが、風化、摩滅も少ないしっかりした石像だ。(不動堂境内)

Img_2573 石灯籠・地蔵堂・石仏の並ぶ辻

石灯籠の台座には享保4年(1719)の銘がある。

Img_2571 堂内の般若心経の布を着ている地蔵。

Img_2574 旧家

Img_2576 参道は雑草で覆われお堂は荒れている。廃社か。

Img_2578 薬師堂

薬師像は拝めず。

Img_2580 日枝神社

Img_2587 阿弥陀三尊月待板碑はこの堂内か?(日枝神社境内の右奥)

扉の中は、また扉で見えず。左は天明4年(1784)の観音像?、右は天明?年の六面地蔵石憧。

Img_2582 説明板

Img_2590 熊野神社 《地図

右はタブの木

Img_2591 光増寺②

Img_2592 秩父西国坂東百番供養塔道標(本堂右手の墓地入口左手)

右面に「此方志おんじ道」だが、はっきり見えず。嘉永3年(1850)の建立。以前は光増寺南西100mほどの東水元5-10に立っていた道標。

Img_2594 遍照院

Img_2598 異形板碑(本堂手前の右側)

中央上部に梵字でキリーク(阿弥陀種子)を印刻。それ以外の刻銘などは見えないが、当初から無かったのか、風化、摩滅で消えてしまったかは不明という。以前は閘門橋付近の堤上の「勢至のマキ」と呼ばれる大木の下に立っていたそうだ。

Img_2597 説明板

Img_2602閘門(こうもん)橋 【ルート地図】の⑤

荒れ狂う風雨と必死に闘いながら閘門の堰板を差し込んでいる姿のブロンズ像が2体。

Img_2599 説明板

Img_2606 閘門橋から大場川(昔は小合川)

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2009年12月 6日 (日)

日光御成道(岩槻宿→大門宿)

2009年12月2日

岩槻駅(東武野田線)・・・岩槻宿・裏小路木戸跡あたり・・・遷喬館・・・芳林寺・・・国道122号・・・高札場跡あたり・郷土資料館・・・八雲神社・・・人形歴史館・・・洞雲寺・・・久伊豆神社・・・金毘羅坂・・・「わらべ人形」の交差点・旧道・・・琴平神社・馬坂跡・・・(東武野田線)・(東北自動車道)・・・(東武野田線)・・・県道2号・・・大橋(綾瀬川)・・・新簀子橋・・・古簀子橋・・・県道64号・・・県道105号・・・六天神社・・・満蔵寺・・・膝子八幡神社・・・膝子の一里塚跡・・・光徳寺・・・天神宮・・・浦和競馬トレーニングセンター・・・さぎ山記念公園・・・天久保坂・・・照光寺・・・氷川神社・・・正八幡神社・・・(国道463号)・・・(東北自動車道)・・・大興寺・・・赤門稲荷神社・・・大門宿脇本陣跡・本陣跡・大門神社・・・貝殻坂上・・・一本木坂・・・東川口駅(JR武蔵野線)

 小春日和で南に歩いていると暑いくらいだ。日光御成道は岩槻宿の西の「わらべ人形」の立つ辻から大きく逆U字形に北へ迂回する。これが馬坂の跡だが、なぜ迂回するのか、今の道を歩いただけでは分からないだろう。車の多い県道2号から大橋、新簀子橋、古簀子橋と渡り県道64号から105号へと入る。この道もあまり面白味はないが、西側には見沼代用水東縁が流れ、東側も田舎っぽい風景が広がっていてほっとする。

 膝子の一里塚跡からさぎ山公園の前を通り、東北自動車道を越えると大門宿で、脇本陣、本陣の門が宿場風情を感じさせてくれる。一本木坂上で御成道から離れ、坂を下って東川口駅に向った。 

  【ルート地図

  日光御成道

  写真をクリックすると拡大します。

Img_2294 裏小路木戸跡あたりの旧家(遷喬館前の通り)

江戸時代、岩槻藩士の居住地は小路(こうじ)と呼ばれ、警護のための木戸(門)が設けられていた。広小路をはじめ、諏訪、渋江、浄安寺、天神、裏、新、江戸などの小路があった。

Img_2301 遷喬館 《地図

「岩槻に過ぎたるものが二つある 児玉南柯(なんか)と時の鐘」とうたわれた、児玉南柯の開いた藩校。

Img_2298 説明板

Img_2307 芳林寺

山門の前には狛獅子が鎮座している。境内に太田道灌の墓がある。越生町の龍穏寺、神奈川県伊勢原市の『大山街道』沿いの洞昌院にもある。

Img_2308 説明板

Img_2312_2 六地蔵と道標の後ろに太田道灌像

Img_2313 八雲神社

ここあたりで開かれた市の神。神社前のバス停は「市宿」

Img_2314 由緒

Img_2315 郷土資料館(旧岩槻警察署の建物)

Img_2317 人形歴史館

Img_2318 洞雲寺

太田道灌の墓がある越生町の龍穏寺の末寺。

Img_2319 説明板

Img_2322 久伊豆神社

岩槻にいくつもある久伊豆神社の一つ。

Img_2330 庚申塔

右は元禄15年(1702)の建立の「岩槻型青面金剛像」

青面金剛像は、その彫刻デザイン上、「剣人六手」と「合掌六手」との二種類に大別されるが、岩槻型と呼ばれるものは、「合掌」でありながら「人身」(ショケラ)を持つ像が特徴となっている。制作されたのは元禄から享保時代がほとんどとのこと。(中山正義氏の『岩槻型青面金剛像について』より)

Img_2325 旧道は右へ曲がってすぐ左に曲がる。金毘羅坂は左へ、直進は国道122号

Img_2327 金毘羅坂 「わらべ人形」の立つ交差点から東北自動車道へ下るゆるやかな坂。【ルート地図】の①

今はこの坂と琴平神社の間を国道122号が通っている。

Img_2333 旧道の入口のわらべ人形。

旧道は左へ曲がる。(写真の正面方向)

Img_2335 琴平神社の裏参道

表参道は国道122号から。

Img_2336 琴平神社 《地図

小社だった。

Img_2339 馬坂跡 東北自動車道に沿って、東武野田線を越え、自動車道をくぐり、再び野田線を渡る。 【ルート地図】の②

逆U字形に大きく迂回する道筋が馬蹄形なので、この坂名がついたようだ。なぜ迂回したのかは、①地形状の理由、②岩槻城下の防衛上から ①と②の両方からの説がある。今は東北自動車道や東武野田線の線路で昔の坂の面影はない。

Img_2340 東北自動車道をくぐる。

Img_2345 新簀子橋から綾瀬川

Img_2357 満蔵寺

Img_2358 説明板

Img_2361 板石塔婆

嘉暦4年(1329)の銘がある。

Img_2359 説明板

Img_2360 円空仏は県立博物館に寄託。

秘仏とか何十年に一度の開帳なんかにするより、はるかにましだ。もっともこの阿弥陀像は本尊ではないが。

Img_2363 第六天神社

Img_2364 膝子八幡神社 《地図

樹齢300年という、どっしりとした大ケヤキが参道にそびえ、いかにも村社といった感じの寺だ。

Img_2375膝子の一里塚跡(東塚) 膝子公民館の前 【ルート地図】の③

Img_2374 説明板

設置台からはずれて(はずされて)後ろに立て掛けられている。

Img_2371 塚の斜面に立つ六地蔵石塔(正徳?年の銘がある)と回国供養塔

Img_2380 光徳寺

天保13年(1843)の12代将軍家慶の日光社参の際には休憩所となった。これが最後(19回目)の日光社参となり、明治維新を迎えた。

Img_2378 説明板

Img_2379 説明板

Img_2390 天満宮への道の庚申塔

Img_2383 板石塔婆(延慶3年(1310)の銘)

だいぶ風化しているが上部に阿弥陀像が見える。寺の境内、門前ではなく、一般道の道端に立っているのは珍しいのでは。満蔵寺の塔婆より古い。

Img_2382 説明板

Img_2384 天満宮 《地図

Img_2385 浦和競馬トレーニングセンター

競走馬は1頭も見当たらず。調教、トレーニングは早朝か。浦和競馬もつぶれそうで、なかなかつぶれない。まあこの先そう長いこともないだろうが。

Img_2392 天久保坂 《地図

「さぎやま記念公園」東側の坂。

Img_2395 照光寺

手入れの行き届いた植え込みの参道が気持ちいい。

Img_2396 氷川神社

いくつもある氷川神社の一つ。

Img_2399 正八幡宮

Img_2400 庚申塔(右と中)・馬頭観音(左下)

「浦和大学入口」バス停手前の左側(大門宿に向って)

「浦和大学」があるなんて知らんかった。

Img_2401 左下の馬頭観音

小柄ながら顔は怖く、迫力満点、「山椒は小粒でひりりと辛い」か。天明4年(1784)の銘がある。

Img_2403 庚申塔

「支所入口」バス停先の交差点の右側。享保5年(1720)の造立だが、路傍のわりには風化も少なくしっかりとした像だ。

Img_2407 大興寺

Img_2409 徳本上人念仏供養塔

文政4年(1821)の建立。

Img_2408 説明板

Img_2416 赤門稲荷神社(脇本陣の裏)

由緒書はややこしいが、茶吉尼天と大黒天が一緒になったのが、赤門陀枳尼稲荷ということか。参道の赤い幟旗は、飯能市の清水坂の坂下近くの「豊川陀枳尼天真社」にあったものと同じだ。

Img_2412 由緒

Img_2417 大門宿脇本陣表門 【ルート地図】の④

赤門稲荷神社の前から撮った門の裏側の写真。茅葺きの屋根が保護シートで覆われている。前面にはシートは掛かっていない。前面から撮った写真はピンボケになっていた。

Img_2418 説明板

Img_2424 本陣表門

Img_2422 説明板

Img_2429 大門神社

旧大門村、下野田村の鎮守。

参道の一部分を車が通り、「歩行者注意」の看板が立っている「こわい、こわい」参道。これも苦業の一つか。

Img_2431 由緒

Img_2436 境内摂社の愛宕神社

Img_2435 愛宕神社の向拝の龍

伝左甚五郎作とか。これが・・・・。

Img_2440 貝殻坂(右) 【ルート地図】の⑤

左が御成道の岩槻方向。貝殻坂は御成道の坂ではなく、御成道から北方向に曲がって下る坂。

この付近から貝殻が出てくるところから、この名が付けられたと思われる。『わがまち浦和』

Dsc08710【坂標】

Img_2441 坂上の小堂

一画を掘り返している。お堂はどうなるのか。

Img_2443 一本木坂を下って東川口駅へ向った。

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2009年12月 5日 (土)

日光御成道(幸手宿→岩槻宿)

2009年11月30日

Img_2206 幸手駅(東武日光線)・・・陣屋稲荷・・・県道65号(岩槻幸手線)・・・志手橋(倉松川)・・・(東武日光線)・・・追分(日光街道・日光御成道)・・・琵琶溜井(葛西用水)・・・馬頭観音道標・・・天神社・・・下高野の一里塚跡・・・和戸橋(大落古利根川)・・・和戸交差点・庚申塔・・・(東武伊勢崎線)・・・国納橋(備前堀川)・・・西粂原鷲宮神社・・・上野田交差点・庚申塔・供養塔・・・下野田の一里塚跡・・・野田橋(姫宮落川)・・・往還橋(隼人堀川)・・・庚申堂(お玉さま)・・・宝国寺・・・日枝神社・杉並木・相野原の一里塚跡あたり・・・観音入口交差点・・・天満宮・・・毘沙門堂・・・慈恩寺・・・新井薬師堂・・・地蔵・・・石仏群(慈恩寺公民館)・・・表慈恩寺交差点・・・慈恩寺橋(元荒川)・・・(南辻の)地蔵・・・龍門寺(上の写真)・・・田中口跡(槍返しの門跡)・・・(東武野田線)・・・浄安寺・・・時の鐘・・・岩槻城址公園・・・岩槻宿の一里塚跡碑(岩槻区役所前)・・・大龍寺・・・愛宕神社・・・願生寺・・・岩槻宿本陣跡あたり・・・岩槻駅(東武野田線)

 日光街道との合流点の幸手宿から江戸に向って岩槻宿まで日光御成道を歩く。車の多い県道65号で街道風情は松、杉並木の名残りと一里塚跡ぐらいだが、ちょうど銀杏の黄葉がピークで目を楽しませてくれた。雲っていて寒い日だったそうだが、南方向に向っているせいか風も弱く、坂道散歩には手頃な日だった。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_2068 陣屋稲荷(一色稲荷) 幸手駅から南東へ、日光街道へ向う陣屋道の右側。 《地図》 

古河公方足利氏の家臣、一色氏の館跡の南東に祀られた一色氏の守り神で、鎌倉の一色稲荷神社を分祀したものという。幸手駅あたりが一色氏の館、幸手城だったという。

Img_2069 説明板

Img_2079日光街道(左)との追分 スーパー「ベルグ」の前の三叉路。《地図

Img_2080 琵琶溜井前の庚申塔と説明板

Img_2082 琵琶溜井(葛西用水

Img_2081説明板

Img_2085 馬頭観音道標(右)

直進が日光御成街道岩槻方向。

Img_2086 馬頭観音道標

Img_2090 松並木跡の2本の松

昭和30年頃までは松並木が残っていたという。

Img_2091 説明板

Img_2092 天神社 《地図

幸手の一色氏の家臣の相良氏が幸手城下の裏町天神神社を分祀したものという。一色氏は源頼朝が鎌倉の二階堂に祀った荏柄天神社を崇敬し、領内各所に天神様を祀り、「一色五天神」(幸手宿・平須賀村・神扇村・天神島村と、ここの上高野村)とも称された。

Img_2099 八幡神社

江戸時代の下野村の鎮守の一つ。

Img_2097 由緒

Img_2100 下高野の一里塚跡(東塚) 【ルート地図】の①

ここは西側を流れる古利根川の自然堤防の上。

Img_2102 説明板

Img_2109 和戸橋(大落古利根川)

橋の手前を左に入った永福寺の門前手前に「西行見返りの松」がある。

Img_2112 庚申塔(和戸交差点を渡った所の右側)

ブロック塀をへこませて作り、しっかりと保護している。

Img_2115 僊元宮?

分からず。

Img_2116 西粂原鷲宮神社(社務所?・社殿の写真は失敗) 

将軍家の日光社参は、二代秀忠を初めとして、全19回行われた。天保14年(1843)の12代将軍家慶の社参では、家慶は宝国寺から歩いてこの社で休憩し、軽食をとったとの記録があるそうだ。

Img_2118 説明板

Img_2124 庚申塔(上野田交差点先)

2m以上の高さがあるか。左は「東日本廻国供養塔」

Img_2130 下野田の一里塚跡(右が東塚) 【ルート地図】の②

日本橋から11番目の一里塚。(写真は通り過ぎた所から)

Img_2129 説明板

Img_2136 往還橋から隼人堀川 《地図

これでも「一級河川」だ。昔、岩槻の村人はこの橋まで来て日光社参の将軍一行を見送ったという。この橋で義理を果たしたので、地元ではひそかに「義理橋」と呼んだという。義理とはいえ、忙しい中をわざわざここまで出向いて見送るのだから村人もご苦労さん、迷惑な話だ。

Img_2142 庚申塔(お玉さま) 鹿室交差点の右側 【ルート地図】の③

Img_2140 お玉が奉納されている。

子どもが病気になると、村人はここからお玉を借り、治ると借りたお玉と新しいお玉を奉納する習わしだった。お玉は汁の実(身)を掬う(救う)から。

Img_2145 宝国寺

永正9年(1512)に没した熊山和尚が開山という。山門の西側には将軍の日光社参の折、新茶屋が設けられ、小休止所とされた。ここからは富士山がよく見えて富士見台と呼ばれていた。

Img_2147 杉並木の名残り(日枝人のそば)

Img_2149 日枝神社 《地図

Img_2150 相野原の一里塚跡あたり

日枝神社先の「相の原」バス停前の坂の坂下あたりか?

Img_2158 天満宮

観音入口交差点から左に入り、慈恩寺へ向う道の右側。もっと大きな社と思っていた。

Img_2162 毘沙門天堂 《地図

運慶作と伝える毘沙門天像が祀られているというが・・・。

Img_2167 慈恩寺山門

坂東三十三ヵ所観音霊場12番札所。『岩槻慈恩寺道

Img_2168 慈恩寺文書説明板

Img_2169 慈恩寺

天長年間(824~833)の創建。かつては66もの堂塔を誇ったという古刹で境内は広いが、樹木が少なく殺風景な感じがする。

Img_2174 新井薬師堂?

Img_2175 地蔵さんが見守るのどかな道。なだらかに下っているから「地蔵坂」と呼ぼうか。

Img_2178 石仏群(公民館前)

庚申塔・廻国供養塔・千手観音(馬頭観音かも)などが集められている。《地図

右へ御成道へ戻る。

Img_2192 旧家

塀の前に馬頭観音

Img_2195 (南辻の)地蔵 《地図

左が御成道

Img_2201 龍門寺山門

慈覚大師の作という、「手なし不動」が安置されている。岩槻藩主大岡忠光の墓もある。大岡忠光は名奉行大岡越前守忠相の一族で、前藩主の永井直陳(なおのぶ)が「槍返しの門」の一件で、美濃加納城に国替えになった後を継いだ。

「手なし不動」の伝説:「この不動はたいそういたずら好きで、毎夜大入道に化け、御成道に出て通行人を驚かした。この話を耳にした武士が待ち伏せし、現れた大入道に切りつけた。すると大入道は大きな音を立てて崩れ、黒雲が天地を覆ってしまった。翌朝、寺僧が見に行くと不動の片腕が落ちていた。これ以後、何度腕をつけても落ちてしまうので、「手なし不動」と呼ばれるようになった。」 この不動は今は本堂内に安置されているという。

Img_2202 説明板

Img_2219 田中口木戸門跡 《地図

ここに番所、高札場があった。

八代将軍吉宗の日光社参道の折、ここの木戸門の屋根が低く、行列が槍を立てたまま通ることができなかった。屋根を壊すよう命令が出たが、時の岩槻城主永井直陳(なおのぶ)は、「槍を倒してお通りください」といって通させた。これが幕府の怒りにふれ、美濃加納に国替えされてしまったという。それ以来、この門は「槍返しの門」と呼ばれるようになった。現在は浄安寺の山門になっている。

 岩槻藩主は目まぐるしく、入れ替わっている。永井直陳の頃の岩槻藩は3万3千石で、美濃加納藩には3万2千石で入っている。「槍返しの門」事件の幕府の怒りが国替えの原因だったとも思われない。中山道沿いの加納藩(岐阜駅の近く)の方が、岩槻城下よりも発展していて賑やかだったのではないか。左遷ではなくむしろ栄転だろうか。

Img_2220 格子戸の旧家

Img_2228 浄安寺山門

田中口から移された「槍返しの門」

Img_2227 浄安寺

Img_2238 時の鐘 【ルート地図】の④

江戸後期には、1日12回撞かれ、城内、城下に時を知らせていたという。

「岩槻に過ぎたるものが二つある 児玉南柯(なんか)と時の鐘」とうたわれていた。さほど著名人でも名所でもないと思うが、岩槻の人たちは謙譲の美徳を心得ているのだろう。

Img_2239 説明板

Img_2229岩槻城下説明板

Img_2244岩槻城址公園案内図

Img_2245 説明板

Img_2247 黒門

もとは城内のどこにあった門なのかは不明。明治維新後に埼玉県庁の正門となり、後に知事公舎の正門となり、昭和29年、岩槻市に払い下げられ、昭和45年、現在の岩槻城址公園内に移築された。

Img_2246 説明板

Img_2252 城を守っていた沼と八つ橋

Img_2258 裏門

これもここに移築されたもので、かつての位置は不明。

Img_2257 説明板

Img_2262 (岩槻の)一里塚跡碑 【ルート地図】の⑤

後ろは岩槻区役所

Img_2261 説明板

Img_2263 大龍寺

岩槻城主青山伯耆守忠俊の開基で元和6年(1620)の創建。

Img_2268 愛宕神社

城下を囲む外堀と土塁の「大構」(おおがまえ)の上に社殿がある。

Img_2273 説明板

Img_2271 説明板

Img_2276 右が土塁跡で、下に堀が廻り、野田線の線路を越えて田中口まで続いていた。《地図

正面は東武野田線の踏切

Img_2287 願生寺

どっしりとした茅葺き屋根で落ち着いた雰囲気の寺。

Img_2288 阿弥陀三尊月待供養板碑

Img_2282 説明板

Img_2290 本陣跡あたり

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2009年12月 4日 (金)

日光街道(徳次郎宿→大沢宿→今市宿)

2009年11月28日

Img_1919 JR宇都宮駅 バス→文星大学前・・・釜川・・・光明寺・・・(宇都宮北道路)・・・高谷林の一里塚跡・・・(東北自動車道)・・・薬師堂・・・(国道293号)・・・徳次郎宿・智賀都神社・・・宝木用水・二宮堰・・・大網下橋?(田川)・・・国道119号・・・石那田(六本木)の一里塚跡・・・田川大橋(田川)・・・石那田八坂神社・・・お願い地蔵・・・新渡神社・・・上小池の一里塚跡あたり・・・日光杉並木寄進碑・・・大沢宿・・・王子神社・・・龍蔵寺・・・八坂神社・・・水無の一里塚跡・・・来迎寺・・・さくらすぎ(桜杉)・・・七本桜の一里塚跡・・・(国道461号)・・・(東武日光線)・・・追分地蔵(日光西街道(壬生道)・日光例幣使街道合流点)・・・下今市駅(東武日光線)

 宇都宮の朝は冷えるかと思っていたが、そうでもない。今日は車がひっきりなしに行き交う国道119号歩きで見るべき所も少ない。徳次郎宿、大沢宿には宿場の面影は感じられず、一里塚跡を目標に歩く、一人オリエンテーリングみたいだ。

 飽きてきてつい足早になる。そうすると疲れが増す。徳次郎宿の智賀都神社から街道を離れ、宝木用水、二宮堰の方へ入る。のどかで静かで、用水の流れのある道で生き返る。(上の写真 二宮金次郎の事蹟を見るには初めてのような気がする。どうも彼には薪を背負いながら苦労して勉強したお兄さんのイメージしか湧いてこない。気分のいい道歩きは長くは続かず、再び酷道に戻りひたすら歩く。それほどの悲壮感はないけど。

 日光杉並木に入れば往時の街道風情を楽しめるかと期待したが、杉並木の間は車中心の通りとなっていて、あてが外れた。遊歩道の部分もあるが、それは杉並木の外についている所が多い。一度歩けば日光(杉並木)は、もうけっこうだ。杉並木を抜けると、日光例幣使街道との合流点で、地蔵堂に大きな追分地蔵が祀られている。ここを今回の日光街道歩きの終点とした。この先、東照宮へは倉賀野から日光例幣使街道を歩いて来てからのこととしよう。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_1875光明寺関東八十八カ所霊場第23番札所

寺の前には立場があったといい、徳川将軍の日光社参の時には休憩所にもなった。山門は四国八十八カ所のいくつかの寺にもある竜宮門。

Img_1879 並木道を行く。

Img_1881 高谷林(こうやばやし)の一里塚跡(東塚) 【ルート地図】の①

江戸から29番目

Img_1882 西塚

Img_1889 薬師堂(徳次郎交差点の手前左) 《地図

右の覆屋に馬頭観音などが並ぶ。

Img_1894 馬頭観音道標(右)・十九夜塔(中)・六面地蔵石憧(左)

馬頭観音の台石側面には側面には「右 山道 左 氏家 白沢道」と刻まれている。

Img_1897田中道道標(徳次郎交差点のすぐ南の左側)

「神社入口道五丁 田中道」と刻む。「神社」は国道293号を西に進んだ日光宇都宮道路近くの「神明宮」だそうだ。

徳次郎交差点から西50mに「痣地蔵堂」がある。

Img_1901 智賀都(ちかつ)神社の大ケヤキ

「とちぎ名木百選」の樹齢700年の「徳次郎のけやき」

徳次郎(とくじら)宿は、本陣3軒、脇本陣4軒、旅籠72軒 で、日光側から上徳次郎、中徳次郎、下徳次郎の3宿からなり、一月の上10日を中徳次郎、中10日を上徳次郎、下10日を下徳次郎に割り当て、交代で継立を行っていた。日光に大きな勢力を持っていた久次郎(くじら)氏の一族が、日光の宗家・久次郎氏に対して外久次郎氏を称したことに由来するといわれる。もともとは上徳次郎だけが人馬の継ぎ立てを行っていたが、中・下の願いにより享保9年(1724)からは中徳次郎と下徳次郎にも宿場が置かれた。

街道沿いに宿場の面影を残すものは見あたらず。 

Img_1904 説明板

Img_1907 智賀都神社 《地図

徳次郎宿の総鎮守

Img_1922 二宮堰・宝木用水 【ルート地図】の②

田川の水位が低いので堰により水を溜めて取水し、灌漑用水とした。正面の堰は二宮金次郎の設計によって造られた当時のものではないようだ。

このあたりは親水公園となっている。

Img_1915_2説明板

Img_1926 金精さまの男根(二宮堰から国道119号へ戻る途中)

元気で何よりだ。

Img_1937 石那田(六本木)の一里塚跡(東塚) 【ルート地図】の③ 

船生街道入口交差点の「一里塚バス停」の所。江戸から30番目。

Img_1936 西塚の名残りか

Img_1939 十九夜塔(一里塚のすぐ先の左側)

Img_1952 石那田八坂神社(田川大橋を渡った左側)

Img_1957 馬頭観音か?

Img_1960 馬頭観音か庚申塔?(中)・左右は?

Img_1963 つぶれたラブホテル

「兵どもの夢の跡」?か。街道沿いの廃墟で寒々しい。

Img_1964 大谷石の農家の蔵か。(松本バス停の所)

Img_1965 お願い地蔵堂(松本バス停の少し先の左側)

Img_1967 由来

Img_1966 お願い地蔵尊

身体の悪い所に赤い布を付けて願うと、全快治癒のご利益あり。享保15年(1730)の建立。「うらない仏」はこの地蔵のことのようだ。

Img_1971 新渡(にわたり)神社

神体は石の不動尊

Img_1972 寅巳山(445m)

来年は寅年の人が多く登るかも。

Img_1974 上小池の一里塚跡あたり(新渡神社の先、日光市との境近く)

南塚跡が残っているというが、探しても分からず。江戸から31番目。

Img_1994 日光杉並木

Img_1992 杉並木寄進碑(説明板の左の石碑)

日光神領の境界に4箇所立てられていて、境石と呼ばれている。

Img_1993 説明板

Img_1997 王子神社 《地図

大沢宿の鎮守。樹齢200年の大イチョウというが、一本だけなので目立つようだ。もっと大きなイチョウはあちこちで見かける。

大沢宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠41軒。ここも宿場の面影はない。

Img_1998 説明板

Img_1999 龍蔵寺

Img_2000 西郷隆盛のような顔立ちの地蔵さん。

Img_2002 六尺藤(龍蔵寺境内)

太い台木に2カ所の接木をして、現在は4本の太い枝が伸びている。見頃は5月半ば。

Img_2001 説明板

Img_2007 八坂神社

鳥居の右前が2本の杉の根元が癒着した二又杉の「枝喰い杉」か? うっかりしてよく見なかった。

Img_2008 杉並木が続く。

杉並木の間は一方通行の車がスピードを上げて通る。歩道が分離していなく、歩きづらいので杉並木の外側を歩いてみた。

Img_2010 うっすら雪化粧の山

昔は今頃は真っ白だったのだろう。

Img_2012 水無しの(大沢)一里塚跡(東塚) 下水無バス停手前

江戸から32番目

Img_2013 西塚

Img_2015 延命地蔵堂の所で杉並木の間に戻る。

Img_2018 延命地蔵

ここもさっきの「お願い地蔵」同様、赤い布を着せられている。

Img_2022 堂の前には六面地蔵石憧などの石仏が並ぶ。

Img_2032 来迎寺

Img_2039 さくらすぎ

杉の割れ目に桜の種が落ち、杉の体内を通って根をおろしたもの。一本の木のようになっている

Img_2043 七本桜の一里塚跡(東塚) 七本桜交差点の手前 【ルート地図】の④

江戸から33番目

Img_2049 説明板

Img_2046塚上の杉の根元が大きな空洞になっている。4人くらいはここで泊まれそうなので、「並木ホテル」と呼ばれている。3方向に口が開き、中から1本の竹が外へ伸びている。

Img_2056日光西街道(壬生道)・日光例幣使街道(右)との追分 【ルート地図】の⑤

正面に追分地蔵堂

Img_2063 追分地蔵

追分の分岐点に立つ、露座の小さな石地蔵さんと思っていたが、堂の中の巨大な坐像だ。八代将軍吉宗の時にはすでに現在地にあったという。この前には「くさ地蔵尊」、「二十三夜尊」、子育地蔵、安産地蔵などが控えている。

この地蔵尊は弘法大師が日光含満ヶ淵に建てたものだが洪水で流され、大谷川の砂原に埋まっていたのを、近くの人が大石と思い楔を打ち込んだところ赤い血が出た。という逸話があるそうだ。

Img_2062 説明板

Img_2060 くさ地蔵

追分地蔵の脇仏のようで、悟りきったような顔をしている。

Img_2065 下今市駅 

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2009年12月 3日 (木)

日光街道(小金井宿→石橋宿→雀宮宿→宇都宮宿)

2009年11月27日

Img_1866 小金井駅(JR宇都宮線)・・・小金井の一里塚跡・・・慈眼寺・・・金井神社・・・小金井宿本陣跡・・・蓮行寺・・・薬師堂・・・旧道・・・国道4号・・・旧道・下石橋の一里塚跡あたり・・国道4号・・・夕顔橋の石仏群・・・(国道352号)・・・愛宕神社・・・石橋宿脇本陣跡・・本陣跡・・・開雲寺・・・下古山の一里塚跡あたり・・・鞘堂地蔵尊・・・星宮神社・・・(北関東自動車道)・・・茂原観音道標・・・雀宮の一里塚跡あたり・・・雀宮宿本陣跡碑・脇本陣跡・・・雀宮神社・・・(国道121号)・・・寿鶴薬師堂・・・菅原神社・・・江曽嶋の一里塚跡あたり(一里バス停)・・・国道4号・・・(JR日光線)・・・不動堂(不動前交差点)・・・(東武宇都宮線)・・・蒲生君平勅旌碑・・・台陽寺・・・熱木不動尊・・・一向寺・・・天満宮・・・報恩寺・・・戊辰の役戦士の墓・・・六道の辻閻魔堂・・・光琳寺・・・材木町木戸跡あたり・・・宇都宮宿本陣・問屋場跡あたり・・・朝日坂・・高札場跡・・・追分(奥州街道)・清住通り・・・三峰神社・・・亀の甲坂・・・延命院・・・宇都宮の一里塚跡あたり・桂林寺・琴平神社・・・国道119号・・・薬師堂・・・高尾神社・・・上戸祭の一里塚跡・文星大学前バス停→JR宇都宮駅・・・ホテルサンルート宇都宮

 今日の予定は宇都宮宿までで、かなり距離もある。早起きしてラッシュ前の電車に乗る。朝霧で宇都宮線は5分ほど遅れたが、小金井駅には7時半前に着いた。駅のすぐ近くに小金井の一里塚跡が2基しかっりと残っている。塚の間を日光街道が通っていたというが、随分と狭い感じだ。ここを日光社参の行列が通ったのだろうか。

 東京から88kmの標柱の立つパチンコ店(パーラークイーン)の駐車場から旧道に入る。下石橋の一里塚跡まで続いていると思いきや行き止りとなり、国道へ旭自動車の前から再び旧道に入るのだが、すぐにこの道も石橋消防署の裏手で行き止まりで一里塚跡ははっきり確認できず。石橋消防署の正面へ回って一里塚へ行こうとしたが、道もないようであまりウロウロしていると消防署へ放火でもするのではと怪しまれそうなので、すごすごと退散する。

 石橋宿、雀宮宿にも昔の面影は残らず、この間、3つある一里塚も跡形、痕跡、説明板もなし。単調な国道歩きが続きいい加減に飽きと疲れが来た頃、やっと不動前交差点から国道4号とおさらばし、左に旧道に入ると宇都宮宿はもうすぐだ。もう国道4号と出会うこともなし、お互いせいせいしたか。出会えて嬉しいのは坂だ。日光街道を歩いて初めての坂、朝日坂(奥州街道の坂だが)を下って戻り、奥州街道との追分から日光街道を北に向う。街道から右へ下る亀の甲坂もあってまあまあ少しは疲れはとれたか。

 その先で国道119号と合流する。4号とやっと別れたとほっとしていたら今度は119号と離れず日光までの道中だ。彼女(彼?)には歩道がしっかりとついているのと、車が少ないのを望むだけだが、どっちも無理な注文というものだろう。上戸祭交差点を過ぎると様々な木の並木道が始まる。今はちょうど紅葉が見頃だ。(上の写真) 日もだいぶ傾いてきたので、文星大学前の上戸祭の一里塚跡(ここは2基ともしっかりと残っている。)で打ち止めとして、バスで宇都宮駅に向った。けっこう疲れた。宇都宮泊りにしなければここまでは歩かなかっただろう。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_1589 小金井の一里塚跡 【ルート地図】の①

塚の間が旧日光街道なのだが、やけに狭い感じがする。江戸から22番目の一里塚。

Img_1588 説明板

Img_1598 慈眼寺入口の番人か

Img_1600 慈眼寺

八代将軍吉宗が日光社参の時に休憩所とした寺。

関東八十八カ所霊場第20番札所。

Img_1603 慈眼寺観音堂

弘法大師の作と伝える千住観音像ほか、延命地蔵菩薩・毘沙門天が安置されている。

Img_1604 鐘楼

Img_1606 金井神社

小金井宿の鎮守

Img_1607 説明板

Img_1609 小金井宿本陣跡(大越家)

門だけが残る。小金宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠43軒だった。

Img_1610 本陣の向いの蔵造りの旧家

もとは呉服屋だったとか。

Img_1613 蓮行寺

将軍の日光社参の際には宇都宮城主がこの寺で出迎えた。

Img_1616薬師堂(上町公民館のところ)

本尊は行基の作との説もある。

Img_1619 少し先のパチンコ店の駐車場から左に旧道に入る。

Img_1624旧道

ずっと延びていて、下石橋の一里塚跡まで通じていると期待したが・・・。

Img_1633 石橋消防署の手前で行き止り。

正面の雑木林が江戸から23番目の「下石橋の一里塚跡」だろう。《地図

Img_1639 立派な長屋門

「豚カツ」の店?

Img_1641 夕顔橋の石仏群 《地図

国道に背を向けて立つ、地蔵・庚申塔・十九夜塔・観音像など10体の石仏。かつては街道沿いにあったのをここに集めたのだろう。夕顔橋とはロマンを感じさせる名だが、ここに橋があったのだろうか。今は夕顔、朝顔はもちろん何の風情、情緒もない所だが。

Img_1650 愛宕神社

社殿の下は愛宕山古墳というが、それほどの高さはない。

Img_1649 二十三夜塔

弘化4年(1847)の建立

Img_1654 石橋宿脇本陣跡 《地図

右の伊沢写真館。

石橋宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠30軒

Img_1659 本陣跡

伊沢茶舗

Img_1661 開雲寺

将軍の休憩所とされた寺。将軍家から下賜されたとされる葵の門入りの湯釜が伝わる。境内左手に「三体地蔵尊堂」がある。

Img_1665 三体地蔵尊堂

毎年9月23日に「三体地蔵尊大縁日」が開かれる。

Img_1666 街道沿いに一部が欠けたり磨り減った石仏たちが虎ポールでガードされている。

Img_1674 下古山の一里塚跡(24番目)あたり

下古山交差点の南側

Img_1679 ラーメン屋らしい。

暗く、暑苦しそうで入る気がしないが、中はそうでないのだろう。

Img_1681 鞘堂地蔵尊 【ルート地図】の②

室町時代の天授6年(1380)、下野の両雄宇都宮基綱と小山義政の「小山・宇都宮合戦」で、宇都宮軍が敗れて300人以上が全滅した。村民が戦死者の刀の鞘を集めて堂を作り、供養のための地蔵を安置したという。

鞘堂はこのあたりの地名にもなっている。

Img_1682 由来

Img_1685 鞘堂地蔵尊

今は頭のみが安置されている。胴体はどこかへ持ち去られたのか、壊れてしまったのだろうか?

Img_1689 星宮神社

鞘堂の鎮守

Img_1694 茂原観音道標

下野三十三観音霊場第20番札所の茂原観音(普門寺)へはここから東方向へ1.5㎞もないか。

Img_1695 街道の左側は陸上自衛隊北宇都宮駐屯地

Img_1699 雀宮宿本陣跡

「大和田内科胃腸科」の看板下に、「雀宮本陣跡」の石柱だけが立っている。

雀宮宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠38軒。「雀宮一里塚」(25番目)は雀宮5丁目付近にあったらしいいが痕跡をとどめず。

Img_1702 脇本陣跡

こちらは立派な黒門と白壁の家。

Img_1708 馬頭観音

下には小さな「馬力神」と「生駒神」が立つ。生駒神も馬の神のようだ。

Img_1709 雀宮神社 《地図

宿の名前の由来になった神社で、「雀」の由来は  ①長徳元年(995)に陸奥守に任ぜられた藤原実方のあとを追った妻の綾女がこの地で病没し、綾女の持っていた宝珠を埋め社殿を建てた。その2年後、陸奥の地で死んだ実方の霊魂が雀となって飛来し、数々の奇瑞を生じたので二人を合わせて祀り、雀宮と称した。②雀が村人を救ったという伝説。③道鏡が納涼のため造った亭を「すゞみの宮」と称したのが転訛したという説。などがあるそうだ。②は具体的な内容に乏しく、③も道鏡がこの地で相変わらず納涼の館を建てるほどの権勢を保っていたとも思えない。一番伝説的な①としておくのが由来話としてはよろしかろう。

小倉百人一首の藤原実方の歌 「かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを」

徳川将軍の日光社参でこの神社に参詣するのが例になっていたという。

Img_1714 寿鶴(すず)薬師堂(バス停寿鶴薬師堂前) 《地図

寿鶴とは何か、人の名か? 由来が分からず。

堂の回りをダンプの工事人が掘り起こしていた。堂はなくならないと思うが。

Img_1716 菅原神社

Img_1722 江曽島の一里塚跡(26番目)あたり

「一里交差点」・「一里」バス停・ラーメン屋「一里」に名をとどめているが、塚は跡形も無く、説明板もない。

Img_1729 不動前交差点 《地図

正面に小さな不動堂が立つ。左が日光街道、奥州街道で、直進が国道4号

Img_1731 説明板

Img_1734 不動明王

Img_1737 蒲生君平勅旌(ちょくせい)碑 (東武宇都宮線を渡ってすぐ右側)

居酒屋「君ちゃん」は、「君平」にちなんでつけた名か?

「勅旌」なんてわけの分からん言葉だが、ざっくばらんにいうと「天皇から褒められた」碑か。宇都宮は蒲生君平の故里であちこちにゆかりの所がある。
台東区上野の臨江寺には墓がある。『六阿弥陀道②

Img_1738 説明板

Img_1749 台陽(たいよう)寺

右が子安地蔵尊堂

Img_1746 子安地蔵尊の由来

Img_1747 子安地蔵

宇都宮城主戸田氏の守り地蔵尊だったとか。

Img_1750 熱木(ねぎ)不動尊 《地図

宇都宮氏の祖の藤原(宇都宮)宗円が奥州征討の際に、城山村多気山山頂にて戦勝を祈願して造った3体の不動明王像のうちの一体だそうだ。公民館になっていて堂内に不動尊の姿は見当たらなかったが。

Img_1752由来

Img_1759 天満宮(一向寺の前)

金ちゃんはここでもお勉強だ。

Img_1762 一向寺

世に異変が起こる前には、汗をかくという、「汗かき阿弥陀」(国重文)が安置されている寺。日曜日には開帳しているそうだ。

Img_1760 由来

Img_1766 報恩寺

本堂は戊辰戦争で焼失したが、茅葺きの山門は寛永年間(1624~43)の創建時のままという。戊辰戦争で戦死した薩摩藩など官軍の墓がある。

境内を熱心に見ている女子中学生?がいた。何に興味があるのか話を聞いてみたかったが、挨拶だけにしておいた。

Img_1774

Img_1779 戊辰の役戦士の墓

ここ六道の辻で戊辰戦争の大激戦があった。旧宇都宮藩士の士族や、地元の人たちによって建てられた旧幕府軍の戦死者の墓。

Img_1775 六道の辻から六道閻魔堂 【ルート地図】の③

Img_1780 説明板

Img_1790 大谷石の蔵造りの商家

Img_1798 宇都宮宿問屋場、本陣跡あたり(伝場町交差点に東) 《地図

伝馬町本陣青木家(上野家?)は200坪近い建物だった。屋敷の庭にあった大イチョウだけが往時の面影を偲ばせる

宇都宮宿は本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠42軒で、池上町のみずほ銀行あたりに本陣石塚家があった。

Img_1800 説明板

Img_1803 朝日坂 池上町交差点あたりから東へ下る国道119号(奥州街道)。【ルート地図】の④

Img_1805 高札場跡あたり

Img_1804 説明板

Img_1812 蒲生君平生誕地

日光街道と奥州街道との追分の小幡郵便局の所。

Img_1811 説明板

Img_1807 追分

Img_1821 上野商会

大谷石の塀と蔵と格子窓。追分の本陣ともいう上野家とつながる家だろう。

Img_1824 亀の甲坂(坂下方向) 日光街道から東に下る坂。【ルート地図】の⑤

Img_1838「亀の甲」はこの六角形の滑り止めの模様のことだろう。

Img_1835 延命院地蔵堂(宇都宮市の有形文化財)

鎌倉時代の作という、延命地蔵さん(栃木県の有形文化財)の顔は堂内で拝めず。

延命院は蒲生君平が幼少のころ学問を学んだ所で「蒲生君平修学の寺碑」がある。

Img_1834 地蔵堂説明板

Img_1832 延命地蔵菩薩説明板

Img_1841 桂林寺・琴平神社

桂林寺には蒲生君平の墓がある。

門前の交差点あたりに、「宇都宮の一里塚」(27番目)があったようだが痕跡、説明板なし。

Img_1848 「四季の器」たまき

「最中」とあるから菓子屋と思ったが。

Img_1849 勝善神(国道119号との合流点)

これも牛馬の守り神。

Img_1854 薬師堂(長岡街道入口バス停先の左)

Img_1861 高尾神社 《地図

境内左に地蔵堂がある。江戸時代までは神と仏は一緒に祀られていた名残りだろう。

Img_1858 高地蔵尊

「妙吉安産子育高地蔵尊」の額が架っている。昔、村の大男が自分の背丈を記念に残すために、自分の座高の五尺の石塔を建てたという。石塔は地蔵の後ろのものか?座高五尺とは大巨人だが。

Img_1859妙吉塚(高地蔵堂の後ろ)

塚の上には宝篋印塔が立つ。円墳だったのか?

Img_1865上戸祭町交差点を越えると、さまざまな木の混ざる並木道が始まる。桜が一番多いようだ。

Img_1868 上戸祭の一里塚跡(東塚) 文星大学バス停の手前 《地図

江戸から28番目

Img_1870 説明板

Img_1869 西塚

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