日光御成道(岩槻宿→大門宿)
2009年12月2日
岩槻駅(東武野田線)・・・岩槻宿・裏小路木戸跡あたり・・・遷喬館・・・芳林寺・・・国道122号・・・高札場跡あたり・郷土資料館・・・八雲神社・・・人形歴史館・・・洞雲寺・・・久伊豆神社・・・金毘羅坂・・・「わらべ人形」の交差点・旧道・・・琴平神社・馬坂跡・・・(東武野田線)・(東北自動車道)・・・(東武野田線)・・・県道2号・・・大橋(綾瀬川)・・・新簀子橋・・・古簀子橋・・・県道64号・・・県道105号・・・六天神社・・・満蔵寺・・・膝子八幡神社・・・膝子の一里塚跡・・・光徳寺・・・天神宮・・・浦和競馬トレーニングセンター・・・さぎ山記念公園・・・天久保坂・・・照光寺・・・氷川神社・・・正八幡神社・・・(国道463号)・・・(東北自動車道)・・・大興寺・・・赤門稲荷神社・・・大門宿脇本陣跡・本陣跡・大門神社・・・貝殻坂上・・・一本木坂・・・東川口駅(JR武蔵野線)
小春日和で南に歩いていると暑いくらいだ。日光御成道は岩槻宿の西の「わらべ人形」の立つ辻から大きく逆U字形に北へ迂回する。これが馬坂の跡だが、なぜ迂回するのか、今の道を歩いただけでは分からないだろう。車の多い県道2号から大橋、新簀子橋、古簀子橋と渡り県道64号から105号へと入る。この道もあまり面白味はないが、西側には見沼代用水東縁が流れ、東側も田舎っぽい風景が広がっていてほっとする。
膝子の一里塚跡からさぎ山公園の前を通り、東北自動車道を越えると大門宿で、脇本陣、本陣の門が宿場風情を感じさせてくれる。一本木坂上で御成道から離れ、坂を下って東川口駅に向った。
【ルート地図】
*『日光御成道』
写真をクリックすると拡大します。
江戸時代、岩槻藩士の居住地は小路(こうじ)と呼ばれ、警護のための木戸(門)が設けられていた。広小路をはじめ、諏訪、渋江、浄安寺、天神、裏、新、江戸などの小路があった。
遷喬館 《地図》
「岩槻に過ぎたるものが二つある 児玉南柯(なんか)と時の鐘」とうたわれた、児玉南柯の開いた藩校。
山門の前には狛獅子が鎮座している。境内に太田道灌の墓がある。越生町の龍穏寺、神奈川県伊勢原市の『大山街道』沿いの洞昌院にもある。
ここあたりで開かれた市の神。神社前のバス停は「市宿」
太田道灌の墓がある越生町の龍穏寺の末寺。
岩槻にいくつもある久伊豆神社の一つ。
右は元禄15年(1702)の建立の「岩槻型青面金剛像」
青面金剛像は、その彫刻デザイン上、「剣人六手」と「合掌六手」との二種類に大別されるが、岩槻型と呼ばれるものは、「合掌」でありながら「人身」(ショケラ)を持つ像が特徴となっている。制作されたのは元禄から享保時代がほとんどとのこと。(中山正義氏の『岩槻型青面金剛像について』より)
旧道は右へ曲がってすぐ左に曲がる。金毘羅坂は左へ、直進は国道122号
金毘羅坂 「わらべ人形」の立つ交差点から東北自動車道へ下るゆるやかな坂。【ルート地図】の15
今はこの坂と琴平神社の間を国道122号が通っている。
旧道は左へ曲がる。(写真の正面方向)
表参道は国道122号から。
琴平神社 《地図》
小社だった。
馬坂跡 東北自動車道に沿って、東武野田線を越え、自動車道をくぐり、再び野田線を渡る。 【ルート地図】の14
逆U字形に大きく迂回する道筋が馬蹄形なので、この坂名がついたようだ。なぜ迂回したのかは、①地形状の理由、②岩槻城下の防衛上から ①と②の両方からの説がある。今は東北自動車道や東武野田線の線路で昔の坂の面影はない。
嘉暦4年(1329)の銘がある。
秘仏とか何十年に一度の開帳なんかにするより、はるかにましだ。もっともこの阿弥陀像は本尊ではないが。
樹齢300年という、どっしりとした大ケヤキが参道にそびえ、いかにも村社といった感じの寺だ。
膝子の一里塚跡(東塚) 膝子公民館の前 【ルート地図】の13
設置台からはずれて(はずされて)後ろに立て掛けられている。
天保13年(1843)の12代将軍家慶の日光社参の際には休憩所となった。これが最後(19回目)の日光社参となり、明治維新を迎えた。
だいぶ風化しているが上部に阿弥陀像が見える。寺の境内、門前ではなく、一般道の道端に立っているのは珍しいのでは。満蔵寺の塔婆より古い。
天満宮 《地図》
競走馬は1頭も見当たらず。調教、トレーニングは早朝か。浦和競馬もつぶれそうで、なかなかつぶれない。まあこの先そう長いこともないだろうが。
天久保坂 《地図》
「さぎやま記念公園」東側の坂。
手入れの行き届いた植え込みの参道が気持ちいい。
いくつもある氷川神社の一つ。
「浦和大学入口」バス停手前の左側(大門宿に向って)
「浦和大学」があるなんて知らんかった。
小柄ながら顔は怖く、迫力満点、「山椒は小粒でひりりと辛い」か。天明4年(1784)の銘がある。
「支所入口」バス停先の交差点の右側。享保5年(1720)の造立だが、路傍のわりには風化も少なくしっかりとした像だ。
徳本上人念仏供養塔
文政4年(1821)の建立。
由緒書はややこしいが、茶吉尼天と大黒天が一緒になったのが、赤門陀枳尼稲荷ということか。参道の赤い幟旗は、飯能市の清水坂の坂下近くの「豊川陀枳尼天真社」にあったものと同じだ。
赤門稲荷神社の前から撮った門の裏側の写真。茅葺きの屋根が保護シートで覆われている。前面にはシートは掛かっていない。前面から撮った写真はピンボケになっていた。
旧大門村、下野田村の鎮守。
参道の一部分を車が通り、「歩行者注意」の看板が立っている「こわい、こわい」参道。これも苦業の一つか。
伝左甚五郎作とか。これが・・・・。
左が御成道の岩槻方向。貝殻坂は御成道の坂ではなく、御成道から北方向に曲がって下る坂。
この付近から貝殻が出てくるところから、この名が付けられたと思われる。『わがまち浦和』
一画を掘り返している。お堂はどうなるのか。
「岩槻・川口散歩」
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